学位論文要旨



No 125912
著者(漢字) 生島,弘彬
著者(英字)
著者(カナ) イクシマ,ヒロアキ
標題(和) 協働発現遺伝子群特異的なTGF-βシグナル経路の制御
標題(洋) Synexpression group-restricted regulation of TGF-β signaling
報告番号 125912
報告番号 甲25912
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3391号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村上,善則
 東京大学 教授 山梨,裕司
 東京大学 特任准教授 後藤,典子
 東京大学 教授 岡部,繁男
 東京大学 教授 岩坪,威
内容要旨 要旨を表示する

増殖因子は細胞の増殖・分化を制御し、細胞間のコミュニケーションを担うことで、多細胞生物の恒常性の維持に必須のネットワークを形成している。そのため、そのネットワークの破綻は種々の疾患につながり、その中でも特に、細胞増殖シグナルの異常な亢進は悪性腫瘍の発生に大きく寄与している。この考えに基づき、これまでに、細胞増殖シグナルの抑制を目的として、様々な増殖因子シグナル経路を標的とした抗腫瘍薬の開発が進められてきた。

しかしながら、それら多くの増殖因子群の中でtransforming growth factor(TGF)-βシグナルは、悪性腫瘍の発生という観点から見ると、他の増殖因子とは大きくことなった性質をもっている。TGF-βシグナルは上皮系の多くの正常細胞や上皮系由来の悪性腫瘍細胞に対しては増殖抑制作用をもつが、線維芽細胞や骨肉腫細胞、神経膠腫細胞に対しては増殖促進の作用を示す。また、TGF一βシグナルは多くの細胞に対してアポトーシス誘導作用を持つが、特定の環境下ではアポトーシス抑制的に働くことも知られている。さらに、TGF-βシグナルは上皮間葉転換の誘導、細胞運動能の元進、細胞外マトリックスの産生制御等を通じて、悪性腫瘍細胞の転移を促進する作用も持ち合わせている。ゆえに、悪性腫瘍発生・進展におけるTGF-βシグナルの作用は、腫瘍促進的な側面と腫瘍抑制的な側面とがあり、それは細胞の起源、組織型、周囲微小環境等の無数のパラメーターによって決定されることになる。そのため、TGF-βシグナルが悪性腫瘍の発生・進展に大きな作用を持つことがこれまでに知られていながら、抗腫瘍薬の標的因子としてTGF-βシグナルをとらえた際に、シグナルを増強すべき対象であるのか、抑制すべき対象であるのかの判断がつかず、例えば、TGF-βシグナルの阻害剤を用いた動物腫瘍モデルの治療実験においても、モデル次第で腫瘍増大の効果も腫瘍縮小の効果も報告されてきていた。さらには、いかにしてTGF-βシグナルが細胞の状況によって異なった作用をもたらしているのかというメカニズムについてもこれまで全く解明されてはこなかった。

本研究においてはまず、新規Id様タンパク質HHM(Human Homolog of Maternal Id-likemolecule)がTGF-βシグナルの新規抑制因子であることを見出した。しかしながら、HHMはTGF-βシグナル依存的なSmadタンパク質の核移行には影響を及ぼさず、核内での転写レベルによるTGF-βシグナルへの作用が示唆された。さらに、HHMはTGF-βシグナルによって引き起こされる細胞応答のうち、細胞増殖抑制作用、細胞運動能亢進作用には抑制的に働くが、上皮間葉転換に対しては抑制的な作用を示さず、HHMが細胞応答特異的なTGF-βシグナル抑制作用をもつことを見出した。また同時に、HHMは、TGF-β刺激によって誘導される下流遺伝子のうち、一部の遺伝子の発現のみを抑制することを見出した。定量的RT-PCRの結果から、HHMはPAI-1(Serpinel),Smad7,p21W(AF1),p15(INK4b)などのTGF-β下流遺伝子の発現に対しては抑制的に作用するが、Snail,LIFなどのTGF-β下流遺伝子の発現に対しては有意な発現調節を及ぼさないことが確認された。

細胞表面の受容体にTGF-βリガンドが結合すると、それは、受容体のリン酸化、Smadタンパクのリン酸化へと情報形態を変え、最終的にはリン酸化したSmadタンパクが核内でTGF-βの標的遺伝子のプロモーター領域に結合することで、下流遺伝子の発現を制御している。しかし、Smadタンパク(Figure1、青四角)のみでは、DNAへの結合能は弱く、プロモーター領域へ結合するためには、他のDNA結合性転写因子(cofactor:Figure1、赤・黄・緑ダイヤモンド)と結合し協調的に作用する必要がある。この際、このDNA結合性転写因子の発現プロファイルの違い、及びそのDNA結合配列の有無により、転写が誘導される遺伝子に違いが生じてくる。このように特定の"Smad-cofactor"複合体によって誘導される遺伝子群は"synexpressiongroup"(協働発現遺伝子群)と呼ばれ、特定のsynexpression groupにより一つの細胞応答が引き起こされるというモデルが提唱されている。

前述の通り、HHMは細胞応答特異的にTGF-βシグナルを抑制することが分かったが、HHMの一次構造が転写抑制因子として知られているIdタンパクと類似していることから、このHHMが特定のsynexpression groupにのみ作用し、その結果特定の細胞応答のみを抑制しているという作業仮説を立て、プロテオミクス解析によりその標的因子の探索を行った。その結果、Olig1(oligodendrocyte transcription factor 1)と呼ばれるDNA結合性転写因子が新規HHM結合タンパク質として同定された。Olig1はこれまでにその中央部分にbasic helix-loop-helix領域と呼ばれるDNA結合性領域を持つことが分かっているが、その他の機能的な解析やTGF-βシグナルとの関与については報告がない。

O1ig1についてさらなる解析を進めた結果、Olig1がSmad2,Smad3とTGF-βシグナル依存的に複合体を形成し、さらにSmad結合配列及びOlig1結合配列を含むDNA配列にTGF-βシグナル依存的に結合することを見出した。加えて、Olig1の発現をノックダウンした状況下では、TGF-βシグナル下流遺伝子のうち一部の遺伝子のみについてTGF-β刺激による誘導が減弱するが、同一条件下でもTGF-β刺激による誘導に有意な変化が認められない下流遺伝子も存在することが分かった。また、TGF-β刺激によって形成されたOlig1。Smad複合体が、TGF-βシグナル下流遺伝子のうち一部の遺伝子のプロモーター領域にのみに作用し、転写を活性化していることも明らかにした。これらの結果から、

1.Olig1はSmadタンパク質とTGF-βシグナル依存的に複合体を形成する

2.O1ig1-Smad複合体はTGF-βシグナル下流遺伝子のうち、そのプロモーター領域にOlig1結合配列とSmad結合配列とを近接して持つ遺伝子の発現のみを制御し得る

3.その結果、Olig1はTGF-βシグナル下流遺伝子のうち一部の遺伝子のみの発現を制御し、"Oligl-Smad synexpression group"を形成している

ということが示された。

加えて、HHMがOlig1に結合することで、内在性のOlig1-Smad複合体の形成を阻害していることを、タンパク免疫沈降法を用いて示し、さらにHHMによってOlig1-Smad複合体が標的遺伝子のプロモーター上から解離することを、DNAP(DNA-aMnityprecipitation)法、ChIP(chromatinimmunoprecipitation)法を用いて見出した。このことにより、HHMはOlig1に結合することでOlig1。Smad複合体の形成を阻害し、その結果Olig1だけでなく、単独ではDNA結合能が弱いSmadタンパク質が標的遺伝子のプロモーター上から遊離することをも促していることが明らかとなった。定量的RT-PCRの結果から、このようにOlig1-Smad複合体によって発現が制御されている"Olig1-Smad synexpression group"には、PAI-1,Smad7などのTGF-β下流遺伝子が含まれ、また、p21W(AF1),p15(INK4b),Snail,LIFなどが含まれないことが確認された。このことから、HHMは、少なくとも"Oligl-Smad synexpressiongroup"を含む複数かつ一部のsynexpression groupのみに作用することで、細胞応答特異的にTGF-βシグナルに対して抑制作用を発揮していることが示された。

HHMはTGF-β下流遺伝子のうち、PAI-1,Smad7,p21W(AF1),p15(INK4b)の発現に対しては抑制的に作用し、また、そのうちPAI-1,Smad7はOlig1によって発現が誘導され、"Olig1-Smad synexpres-sion group"に含まれることが明らかとなったが、定量的RT-PCRの結果から、p21W(AF1),p15(INK4b)についてはこのsynexpression groupには含まれないことが分かった。つまり、"Olig1-Smadsynexpression group"以外にもHHMの標的となるsynexpression groupが存在するということになる。以上の知見に加えて、microarrayの結果(Figure2)をもとに、TGF-β下流遺伝子は以下の3群に分類されることが、本研究により明らかとなった(Figure3)。

(i)"Oligl-Smadsynexpressiongroup"

PAI-1(Serpinel),Smad7を含み、HHMによって発現が抑制される遺伝子群30遺伝子

(ii)"HHM-targeted non-Olig1-Smad synexpression group"

p21W(AF1),p15(INK4b)を含み、HHMによって発現が抑制されるが、0lig1による制御は受けない遺伝子群19遺伝子

(iii)"not-HHM-targeted synexpression group"

Snail,LIFを含み、HHMによる発現制御を受けない遺伝子群269遺伝子

また、"Olig1-Smad synexpression group"に属する一因子であるPDGF-Bが膠芽腫細胞内でその増殖に大きく寄与していることから、Olig1,HHMそれぞれをmicroRNAによってノックダウンした膠芽腫細胞をマウスに移植し、その生体内での増殖を検討した。その結果、Olig1をノックダウンした細胞では陰性対象に比較して増殖が抑制されること、及び、HHMをノックダウンした細胞では増殖が大きく亢進することが明らかとなった。

本研究の結果、TGF-β下流遺伝子を、包括的にではなく、個別の細胞応答単位で制御する可能性が初めて開かれた。前述の通り、TGF-βは腫瘍発生・進展に大きく関わることが知られていながら、腫瘍促進的な作用と腫瘍抑制的な作用とを同時に併せ持ち、抗腫瘍薬の標的候補としては多くの難しい側面を抱えていた。しかしながら、本研究成果を基にして個別の細胞応答単位でTGF-βシグナルを制御することが可能となれば、腫瘍促進的作用と腫瘍抑制的作用とを独立して制御することが可能となり、転写制御を中心とした新規パラダイムに基づく抗腫瘍薬の開発を行うことができると考えられる。

Figure1.

Figure2.

Figure3.

審査要旨 要旨を表示する

本研究はtransforming growth factor(TGF)-βシグナルによって引き起こされる種々の細胞応答の選択的な制御を目的としたものであり、TGF-βシグナルによる各種細胞応答のうち特定の一部の細胞応答のみを選択的に抑制する新規因子Human Homolog of Maternal Id-likemolecule(HHM)の発見及びin vitro,in vivoでの解析を通じて、下記の結果を得ている。

1.HHMは、TGF-βシグナルによって活性化されるプロモーターの活性を負に制御した。その一方で、TGF-βシグナルの細胞質から核内への伝達因子であるSmad2/3の核内移行には影響を及ぼさなかった。このことから、HHMは新規TGF-βシグナル抑制因子であり、かつ核内の転写レベルでTGF-β-Smadシグナルを制御していることが示唆された。

2.TGF-βシグナルによって引き起こされる各種細胞応答のうち、細胞増殖抑制等の細胞応答はHHMによって抑制されるが、同一細胞・同一タイムコースであっても、上皮間葉転換等の細胞応答はHHMによって抑制されなかった。このことから、HHMはTGF-βシグナルによって引き起こされる種々の細胞応答のうち特定の一部の細胞応答のみを選択的に抑制することが見出された。

3.さらに、HHMはTGF-βシグナルの標的遺伝子のうち、一部の遺伝子の発現のみを抑制することを見出した。定量的RT-PCRの結果から、HHMはPAI-1(Serpinel),Smad7,p21W(AF1),p15(INK4b)などのTGF-β下流遺伝子の発現に対しては抑制的に作用するが、Snait,LIFなどのTGF-β下流遺伝子の発現に対しては有意な発現調節を及ぼさないことが確認された。

4.HHMによるTGF-βシグナルの細胞応答特異的・標的遺伝子特異的な抑制作用のメカニズムを探る目的で、Mass Spectrometryを用いて、HHM結合タンパク質を網羅的に探索したところ、DNA結合性転写因子であるoligodendrocyte transcription factor 1(Olig1)が同定された。

5.DNA-affnity purification(DNAP)法及びchromatin immunoprecipitation(ChIP)法により、Olig1がSmad複合体と協調的にTGF-β標的遺伝子のプロモーター上に作用し、その発現を誘導していること、並びに、その協調的な発現誘導がTGF-β標的遺伝子のうち、そのプロモーター領域にOlig1結合配列とSmad結合配列とを近接して持つ遺伝子においてのみ見られることを見出した。このことから、Olig1-Smad複合体はTGF-βシグナル下流遺伝子のうち一部の遺伝子のみの発現を制御し、"Olig1-Smad synexpression group"を形成していることが明らかとなった。

6.さらに、タンパク免疫沈降法を用いて、HHMがO1ig1に結合することで内在性のOlig1-Smad複合体の形成を阻害していることを示すと同時に、HHMによってO1ig1-Smad複合体が標的遺伝子のプロモーター上から解離することを、DNAP法・ChIP法を用いて見出した。このことにより、HHMは0lig1に結合することでOlig1-Smad複合体の形成を阻害し、その結果Olig1だけでなく、単独ではDNA結合能が弱いSmadタンパク質が標的遺伝子のプロモーター上から遊離することをも促していることが明らかとなった。このことから、HHMは、少なくとも"Oligl-Smad synexpression group"を含む複数かつ一部のsynexpression groupのみに作用することで、細胞応答特異的・下流遺伝子特異的にTGF-βシグナルに対して抑制作用を発揮していることが示された。また、マイクロアレイによる発現プロファイルを用いて、以上の現象が一般化されることを確認した。

7."Olig1-Smad synexpression group"に属する一因子であるPDCF-Bが膠芽腫細胞内でその増殖に大きく寄与していることから、本研究にて新規同定したHHM及び"Oligl-Smad synexpression group"の生体内での作用を検討する目的で、O1ig1,HHMそれぞれをmicroRNAによってノックダウンした膠芽腫細胞をマウスに移植し、その生体内での増殖を検討した。その結果、Olig1をノックダウンした細胞では陰性対象に比較して増殖が抑制されること、及び、HHMをノックダウンした細胞では増殖が大きく亢進することが明らかとなった。

以上、本論文は新規にTGF-βシグナルに対する抑制因子としてHHMを同定し、その抑制作用が細胞応答特異的・標的遺伝子特異的であることを見出し、さらにその作用機序として、synexpression group特異的な制御機構という新規の機序を明らかにした。本研究は、TGF-βシグナルによるcellular context特異的な細胞応答の誘導機構の解明、及びTGF-βシグナルに対する転写制御を中心とした新規パラダイムに基づく抗腫瘍薬の研究開発に重要な貢献をなすと評価でき、学位の授与に値するものと考えられる。

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