学位論文要旨



No 125937
著者(漢字) 木納,賢
著者(英字)
著者(カナ) キノウ,マサル
標題(和) 近赤外線スペクトロスコピーによる統合失調症とうつ病における前頭前野の機能異常の検討
標題(洋)
報告番号 125937
報告番号 甲25937
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3416号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 准教授 島津,明人
 東京大学 准教授 吉内,一浩
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景と目的

精神疾患は早期に的確な診断を行い治療へと導入することが、疾患の重症化や、患者の不快症状の短縮化など利益が大きい。しかし、精神疾患の診断、鑑別には客観的な生物学的な指標が存在せず、医師の経験により行われている。特に統合失調症とうつ病はその初期症状が似ているため、診断の遅れや診断の見極めが困難な症例への治療の遅れなど、治療の進展の妨げになっていた。そのため、簡便に施行でき、より感度、特異度に優れた客観的な検査手法の開発が、的確な診断・治療の導入のために必要とされている

Functional MRI、positron emission tomography (PET)といった脳機能画像の手法を用いて精神疾患ごとの異常が明らかにされており、これらを臨床の診断補助に利用することも考えられるが、実施時間、手順の複雑さ、装置の設置の問題、患者への侵襲、負担など解決するべき問題が大きく、実際の臨床利用にはつながっていなかった。

これらの脳機能画像の検査手法とは別に、近年近赤外線スペクトスコピー(NIRS)を利用した脳機能画像検査手法が開発、発展してきている。NIRSは人体への侵襲が無く、装置の設置も容易なため、通常の臨床環境にて容易に設置、計測が可能である。これまでの研究により、精神疾患ごとの前頭葉機能異常をNIRSにて計測、比較可能なことが示されている。このNIRSを使用し、精神疾患ごとの前頭葉機能の特徴を同定することにより、生体指標として精神疾患の診断補助に利用できる可能性が考えられる。

これらの先行研究による知見、課題をふまえ、今回統合失調症、大うつ病性障害、対象健常者の3群に対し52チャンネルNIRSを使用し、語流暢性課題中の前頭葉における血流変化を計測することにより、各精神疾患の前頭葉機能異常について検討することとした。

2.研究対象と方法

年齢、男女比、教育年数、課題回答数において一致した、32人の統合失調症患者、32人の大うつ病性患者、32人の対照健常者を研究対象とした。男15人 女17人であり、アルコール・薬物依存症、神経変性疾患、器質性精神疾患の合併したものは除外された。本研究は東京大学医学部の研究倫理審査委員会、JR東京総合病院の研究倫理審査委員会において承認され(受付番号630-5)、すべての研究参加者に対し十分な説明がなされ、書面による同意書を得た

被験者は前頭前野6cm×30cmの領域を覆う部位に、52チャンネルNIRS装置(HITACHI ETG-4000)のプローブを装着し、賦活課題中の脳皮質ヘモグロビン濃度([oxy-Hb] [deoxy-Hb])を測定した。

賦活課題には語流暢性課題を使用した。語流暢性課題とは、「あ」「と」「は」など、提示されたある一文字から始まる単語を被験者が一定時間内にできるだけ多く答える内容である。

計測時間は全体を160秒間とし、その間を課題前30秒、課題施行60秒、課題後70秒間の3区間に分割した。課題前後の30秒、70秒の区間は、ベースライン課題(あ、い、う、え、お、を繰り返して述べる)を行い、間の60秒間に20秒ずつ3文字の提示することにより、語流暢性課題が行われた。

統合失調症患者に対しては、Positive and Negative Syndrome Scale (PANSS) 日本語版、Global Assesment of Functioning (GAF) (Goldman, 1992) (Hilsenroth, 2000)、罹患期間、内服中の抗精神病薬量を、大うつ病性障害患者に対しては、the Hamilton Rating Scale for Depression (17-item version) (HRS-D)日本語版、Global Assesment of Functioning (GAF)、罹患期間、内服中の抗うつ薬量を、臨床指標として取得、記録をした。

計測されたデーターはベースライン補正と、プログラムによるアーチファクト除去を行った後、各群ごとに相加平均を求め、1.各群において、認知課題前と認知課題中の[oxy-Hb] [deoxy-Hb]平均変化量を比較 2.各群間において、認知課題中の[oxy-Hb] [deoxy-Hb]平均変化量を比較 3.各群間において、認知課題中[oxy-Hb] [deoxy-Hb]経時変化を比較 4.統合失調症群、大うつ病性障害群において、認知課題中の[oxy-Hb] [deoxy-Hb]平均変化量と臨床指標との相関を解析 の4点について解析を行った。t検定における多重比較にはfalse discovery rate(FDR)(q=.05)を採用した。

3.結果

各群において、認知課題前と認知課題中の[oxy-Hb]平均変化量を比較したところ、対照健常者群は52チャンネルすべてで、統合失調症群では、主に前頭葉腹外側部、背外側部において、大うつ病性障害患者群においては、主に前頭葉腹外側部、背外側部、前頭極の一部にて課題施行中の[oxy-Hb]平均変化量が有意に大きかった。

次に、認知課題前10秒間の[deoxy-Hb]平均変化量と、語流暢性課題中60秒間の[deoxy-Hb]平均変化量との比較を行った。対照健常者群は前頭前野の広範囲に及ぶ33チャンネルで、統合失調症群では3チャンネルにて、大うつ病性障害患者群においては、主に前頭葉腹外側部、背外側部、前頭極の一部にて、課題施行中の[deoxy-Hb]平均変化量が有意に大きかった。

各2群間において、語流暢性課題中における60秒間の[oxy-Hb]平均変化量を比較したところ、対照健常者と比較し、統合失調症・大うつ病性障害群にて、前頭前野の広範囲において有意な変化量の低下が見られたが、統合失調症群と大うつ病性障害患者群の比較においては、両者において有意差は観察されなかった。同様の群間の解析を[deoxy-Hb]平均変化量について行ったところ、[oxy-Hb]平均変化量の結果と同様の傾向が見られたが、有意なチャンネルは少なかった。

各2群間において、語流暢性課題開始直後5秒間における[oxy-Hb]変化量グラフ傾き(変化量 / 5秒)を比較したところ、対照健常者群と大うつ病性障害群との比較においては有意差が見られなかった一方、統合失調症群は、対照健常者群、大うつ病性障害両群との比較において、傾きの有意な低下が観察された。同様のグラフ傾きの解析を[deoxy-Hb] 変化量グラフにて行ったが、すべての群間比較にて有意差は見られなかった。

各臨床指標と課題施行中60秒間の[oxy-Hb]平均変化量の相関解析において、Global Assesment of Functioning (GAF)の得点と、統合失調症群・大うつ病性障害群それぞれの[oxy-Hb]平均変化量との間に正の相関が見られた。この相関は統合失調症群においては前頭葉前頭極を中心とする7チャンネル、大うつ病性障害群においては前頭葉腹外側部・背外側部を中心とする23チャンネルであった。

次に、各臨床指標と課題施行中60秒間の[deoxy-Hb]平均変化量の相関解析を行ったところ、[oxy-Hb]平均変化量の相関解析と同様に、Global Assesment of Functioning (GAF)の得点と、統合失調症群・大うつ病性障害群それぞれの[deoxy-Hb]平均変化量との間に正の相関が見られた。この相関は統合失調症群においては前頭葉前頭極を中心とする5チャンネル、大うつ病性障害群においては前頭前野に散在する8チャンネルであった。また、大うつ病性障害群において、左の前頭葉外側部、右の前頭葉背外側部の一部における9チャンネルにて、内服抗うつ薬のイミプラミン等価換算量と、[oxy-Hb]平均変化量との間に正の相関が見られた。その他の臨床指標・症状評価と課題施行中60秒間の[oxy-Hb] [deoxy-Hb]平均変化量の相関は観察されなかった。

4.考察

本研究にて、統合失調症患者、大うつ病性患者、対照健常者3群において、52チャンネルNIRS装置を使用し、語流暢性課題中の前頭前野機能を検討した。その結果、統合失調症群・大うつ病性患者群において、対照健常者群と比較して、課題最中の賦活量の有意な低下が観察された。一方課題開始直後5秒間の賦活変化量のグラフ傾きについて、統合失調症群は、大うつ病性患者群・対照健常者群と比較して、傾きの有意な低下が見られた。以上の結果を組み合わせることにより統合失調症・大うつ病性患者・健常者のNIRS計測結果を弁別できる可能性が示された。

また、統合失調症群においては前頭葉前頭極、大うつ病性患者群においては前頭葉背・腹外側部それぞれの課題中賦活量と、GAF得点と間に正の相関が観察された。この結果はNIRS計測結果の当該部位を観察することにより社会機能の程度を推測できることを示唆し、精神疾患患者の状態評価としても、個々の症状と同時に社会生活程度を観察することの意義が考察された。

一方で、本研究は対象精神疾患患者の多くが向精神薬を内服している点において、方法論的制約が存在する。向精神薬が結果に与える影響については一致した見解が得られておらず、今後のさらなる研究と議論が必要であろう。

また、大うつ病性障害群においては、治療により症状の寛解が期待されるため、一被験者の治療経過と症状の改善に併せてNIRSを複数回計測することにより、治療の効果と改善の程度を生物学的な指標から観察できることが期待される。このような精神疾患に対する縦断的なNIRS研究も、今後の課題になると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は統合失調症、大うつ病性障害両疾患において、対照健常者との比較における前頭葉活動の特徴を明らかにするために、52チャンネル近赤外線スペクトロスコピー装置を使用し、認知課題最中の前頭前野におけるヘモグロビン濃度変化の計測、比較検討を試みたものである。以下の結果を得ることができた。

1. 各群において、認知課題前と認知課題中の[oxy-Hb]平均変化量を比較したところ、対照健常者群は52チャンネルすべてで、統合失調症群では、主に前頭葉腹外側部、背外側部において、大うつ病性障害患者群においては、主に前頭葉腹外側部、背外側部、前頭極の一部にて課題施行中の[oxy-Hb]平均変化量が有意に大きかった。

2. 各2群間において、語流暢性課題中における60秒間の[oxy-Hb]平均変化量を比較したところ、対照健常者と比較し、統合失調症・大うつ病性障害群にて、前頭前野の広範囲において有意な変化量の低下が見られたが、統合失調症群と大うつ病性障害患者群の比較においては、両者において有意差は観察されなかった。

3. 各2群間において、語流暢性課題開始直後5秒間における[oxy-Hb]変化量グラフ傾き(変化量 / 5秒)を比較したところ、対照健常者群と大うつ病性障害群との比較においては有意差が見られなかった一方、統合失調症群は、対照健常者群、大うつ病性障害両群との比較において、傾きの有意な低下が観察された。傾きの解析は課題開始直後7.5秒間、10秒間それぞれにおいても行ったが、5秒間での解析が課題開始直後のHb変化を的確に捉えられることが示された。

4. 各臨床指標と課題施行中60秒間の[oxy-Hb]平均変化量の相関解析において、Global Assesment of Functioning (GAF)の得点と、統合失調症群・大うつ病性障害群それぞれの[oxy-Hb]平均変化量との間に正の相関が見られた。この相関は統合失調症群においては前頭葉前頭極を中心とする7チャンネル、大うつ病性障害群においては前頭葉腹外側部・背外側部を中心とする23チャンネルであった。

以上、本論文は精神疾患領域に置いて頻度の高い疾患である統合失調症、大うつ病性障害の前頭前野における神経活動の特徴を、条件を一致させた32名の群間において明らかにすることができた。また、近赤外線スペクトロスコピーの計測結果が患者の社会生活機能を推し量ることができる可能性を示した。これまで知られていた近赤外線スペクトロスコピーによる精神疾患の前頭前野活動の同定は、被験者の条件がコントロールされていない、少人数の被験者での限られた結果のみである。今回被験者数を増やし、条件を一致させた上で、結果を統計的に弁別したこと、また、患者の生活機能という生活の質の観点による臨床指標と近赤外線スペクトロスコピーの結果が相関する新たな結果は、近赤外線スペクトロスコピーの臨床現場における応用・活用に道を開くものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク