学位論文要旨



No 125948
著者(漢字) 吉田,瑞
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ミズホ
標題(和) 右側頭葉損傷例における視覚性対連合記憶課題の障害および右下縦束の役割について
標題(洋)
報告番号 125948
報告番号 甲25948
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3427号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 笠井,清登
 東京大学 教授 齊藤,延人
 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 准教授 小西,清貴
 東京大学 講師 湯本,真人
内容要旨 要旨を表示する

要旨

目的:右側頭葉が視覚性記憶に重要な役割を果たしていることは,右側頭葉損傷例における病変部位の解析や賦活研究により広く知られている.ヒトにおける視覚性記憶障害について古くはMilnerが癲癇における右側頭葉切除例で,幾何図形,無意味な図形などの把持の障害があったことを示している.また,視覚性記憶が下側頭葉連合野のTE野に関係していることがサルの研究でも分かっている.Mishkinらは,両側下側頭葉に手術を受けたサルに,対になっている物体の弁別学習の課題を行わせた.この課題では,物体の12の対が用いられ正解を選ばせている.下側頭葉皮質を切除されているサルにおいて成績低下を認めたことより,下側頭葉皮質が視覚性記憶に深く関係していることを示している.また,記憶課題として図形の対連合記憶課題を行い,サルの下部側頭葉でニューロンの活動記録を行った研究がある.この研究は,下側頭葉が視覚性記憶の符号化と想起に関係の深いことを示している(Sakai, Miyashita, et al.,1991).一方で,ヒトの右側頭葉切除例に,術後の視覚性記憶障害が必ずしも出現しないことが示されている.この研究では,ヒトの側頭葉癲癇に対する手術症例の中で視覚性記憶について術前後の成績変化を比較している.しかし,これらの報告では単一図形の記憶や視覚性指標による比較のみがされており,視覚性対連合記憶に着目し検討したものはない.

右側頭葉皮質損傷のみでなく,右下縦束が損傷を受けた際に視覚性記憶障害の起こる可能性が過去の症例報告により示されている.右側頭葉と後頭葉白質を含む損傷例において視覚性記憶障害を認めたことより,解剖学的知見から右下縦束が視覚性記憶に関係する可能性が述べられている(Ross,1980).しかし,以前はヒトの神経線維が病変により,どのような影響を受けるかを評価する客観的手法がなかったため,右下縦束の機能は分かっていない.

近年,神経の白質線維を描出するために用いられる画像解析の手法として,拡散テンソルトラクトグラフィーがある.本研究で着目している右下縦束も,この画像解析法を用いて描出することが可能である.拡散テンソルトラクトグラフィーは方向性のある構造を持つ神経線維を評価するために,水分子の拡散異方性を利用し画像化したものである.この手法は,特定の白質路が確実に通る部位にシードとターゲットを設定し経路を追跡するものである.病変などにより連続性の欠けた神経線維は描出されず,連続性のある神経線維のみが描出されると考えられている.

共同研究者の一人は,この拡散テンソルトラクトグラフィーを用い,視覚性記憶障害の認められた右側頭葉脳腫瘍患者において右下縦束が描出不良であったことを報告した(Shinoura et al.,2007).この報告では患者にWechsler Memory Scale-Revised (WMS-R)を行い,患者の視覚性記憶指標の成績低下を根拠に視覚性記憶障害が認められたことを示している.また,拡散テンソルトラクトグラフィーを行い,病変部に圧排を受けた右下縦束が描出されていない点を指摘し,視覚性記憶に右下縦束が関連のあることを示している.この腫瘍は増大を認めなかったため,病変に対する手術を施行していない.このため,術前と比べた術後変化の有無について,神経心理学的評価および拡散テンソルトラクトグラフィーによる検討はされていない.また,WMS-Rの下位項目である視覚性対連合記憶に着目はしていない.

本研究では,右側頭葉・後頭葉脳腫瘍患者を対象にWMS-Rを用い評価を行った.中でも特に視覚性対連合記憶に着目して,5例の右側頭葉・後頭葉の脳腫瘍患者における術前後の成績変化の有無を検討した.また,神経線維を描出する拡散テンソルトラクトグラフィーを用い,右下縦束について連続性の評価を行った.このことにより,右下縦束の走行経路に位置する病変による下縦束の連続性の欠如が,視覚性記憶の中でも特に対連合記憶に関係があるかを検討した.

方法:右側頭葉・後頭葉病変の,手術適応になった脳腫瘍患者5例を対象として,神経心理学的評価および拡散テンソルトラクトグラフィーによる検討を行った.術前後の神経心理学的評価としては,記憶に対する評価としてWMS-Rを施行した.WMS-Rについては,視覚性記憶指標および下位項目である視覚性対連合と視覚性再生,図形の記憶の成績における術前・術後の変化に有意差が認められるかを検討した.有意差の評価は,対応のあるt検定を用い行った.知的機能は,レーヴン色彩マトリシス検査を行い評価した.視覚構成能力については,Reyの複雑図形の模写および立方体の模写を行い,また症例2,3,4,5については,標準高次視知覚検査を追加し評価した.画像評価としては,術前,全5例に拡散テンソルトラクトグラフィーを施行した.画像解析には1.5 TeslaのMRI,GE製Signa Horizon Lx Ver9.0及びバードケイジ型頭部用コイルを使用した.データはSingle-shot EPI法を基本としたDual Spin Echo Diffusion Weighted Imageのパルスシーケンスを使用して撮像した.DTI解析ソフトはIDL ver 6.0 Research System(ITTvis社製)を用いて作成した.側頭葉前部をシード,後頭葉後部をターゲットに設定し,描出された右下縦束の連続性や偏倚の有無について検討を行った.また,下縦束におけるfractional anisotropy(FA)の値を測定し,健側と患側に有意差が認められるかを対応のあるt検定を用い検討した.術後は拡散テンソルトラクトグラフィーを行うことのできた2例について,右下縦束の術前後の画像における変化を検討した.

結果:神経心理学的評価については記憶に関して行ったWMS-Rにおいて,視覚性記憶指標は全例で術後に術前と比べ成績の改善が有意に認められた.これに対し,言語性記憶についての術前後の変化は認められなかった.視覚性記憶の下位項目において,視覚性対連合記憶の成績は全5症例で他の指標と比して,術前に低下しており術後は著明に改善していた.図形の記憶について術前後の変化に有意差はなく,視覚性再生においても術前後の変化に有意差は認めなかった.言語性記憶における下位項目については論理的記憶に術前後の成績変化を認めず,言語性対連合記憶に関しても術前後の変化を認めなかった.知的機能の評価であるレーヴン色彩マトリシス検査では,全例において術前後の変化はなかった.視覚構成能力の評価として施行したReyの複雑図形の模写および立方体の模写,また症例2,3,4,5について行った標準高次視知覚検査についても,術前・術後の明らかな変化はなかった.

画像においては,術前に行った拡散テンソルトラクトグラフィーで全5例とも右下縦束の描出不良や偏倚を認めていた.このうち,右下縦束が健側に比して内側に偏倚していたのは上・中側頭回病変症例1,5の2例であった.後頭葉に病変のあった症例4では右下縦束が外・下方へ偏倚しており,後頭葉病変の症例3および,中・下側頭回病変を認めた症例2で右下縦束は描出不良だった.定量化したFA値については,のう腫のため紡錘状回後部と側頭葉後部にROIを置くことができなかった症例4以外の症例1,2,3,5において,健側と比較し患側で有意に低下していた.術後は拡散テンソルトラクトグラフィーを施行することのできた2例について,描出不良または偏倚を認めた右下縦束の位置の改善が認めらてれていた.

考察:視覚性記憶の符号化,貯蔵,想起には,主に下側頭葉を含んだ高次のネットワークが深く関係すると言われている.視覚性対連合記憶課題を用い,視覚性記憶が下側頭葉に関係していることがサルの研究でも示されている.今まで視覚性対連合に着目し,ヒトの右側頭葉損傷例において術前後の成績を比較したものはない.本研究では,右側頭葉・後頭葉に腫瘍のあった全5例に記憶検査としてWMS-Rを施行し,この下位項目の視覚性対連合記憶に着目し評価した.この結果,全5例で視覚性対連合記憶に関し,術前後に著明な成績の改善を認めていた.これに対し,視覚性再生や図形の記憶においては術前後の変化が認められなかった.

病変部位については5例のうち2例が上・中側頭回,1例が中・下側頭回,2例が後頭葉病変であり,局在が一致していなかった.右後頭葉から側頭葉の皮質下に腫瘍の存在した5例において解剖学的知見から,病変部位についての共通点は全てが皮質下病変を含んでおり,右下縦束の走行経路に位置していたことだった. 5例全てに後頭葉と側頭葉前部に連絡のある右下縦束の関与が考えられた.

拡散テンソルトラクトグラフィーでは,術前に5例で右下縦束の描出不良または偏倚が認められた.術前に見られたWMS-Rの視覚性対連合記憶の成績低下とトラクトグラフィーにおける右下縦束の描出不良や偏倚の所見は,術後,両者ともに改善を認めていた.トラクトグラフィーは,後頭葉と側頭葉前部を連絡する右下縦束を描出している(Catani et al., 2003).ヒトの右下縦束の機能はまだ分かっていない.下縦束は,後頭葉から側頭葉前部へ連絡し海馬へと至る.

本研究では右下縦束の走行路と病変の位置より,右下縦束の機能的離断や偏倚が,視覚性記憶の中でも特に視覚性対連合記憶の障害と深く関係することを示した.

結論:本研究により,右下縦束の機能的離断によって視覚性記の中でも特に視覚性対連合が障害されるという仮説がより強固なものとなった.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,右側頭葉・後頭葉に病変があり,手術適応になった脳腫瘍患者5例を対象として,神経心理学的評価および,拡散テンソルトラクトグラフィーによる検討を行った.右側頭葉が視覚性記憶に重要な役割を果たしていることは,右側頭葉損傷例における病変部位の解析や賦活研究により,広く知られている.また,右下縦束が視覚性記憶に関係する可能性を示唆した先行研究がある.術前後の神経心理学的評価としては,記憶に対する評価としてWMS-Rを施行した.WMS-Rについては,視覚性記憶指標,および下位項目である視覚性対連合と視覚性再生,図形の記憶の成績における術前・術後の変化に有意差が認められるかを検討した.また,拡散テンソルトラクトグラフィーを用い,術前,全例における右下縦束の連続性や偏倚の有無についての検討を行い,下記の結果を得ている.

1.神経心理学的評価については,記憶に関し,行ったWMS-Rにおいて,視覚性記憶の中でも特に,視覚性対連合記憶課題で,全5症例において,他の指標に比して,術前に低下していた成績が術後は著明に改善していた.これに対し,視覚性記憶の図形の記憶や,視覚性再生においては,術前後の変化に有意差を認めなかった.図形の記憶や視覚性再生と比較した時の課題自体の難易度は,標準化された検査であることや,標準値と比較していることから,大きく変わらないと思われた.色と形の視覚情報処理の経路および課題の相違点から,WMS-Rにおける視覚性対連合課題で成績低下が目立った理由として,色と形という2つの異なるモダリティのものを同時に視覚情報処理し,対にして記憶しなくてはならないからであった可能性を考えた.

2.本5例の病変部位の共通点は,右後頭葉から側頭葉の皮質下に腫瘍の存在したこと,解剖学的知見から,全てが皮質下病変を含んでおり,右下縦束の走行経路に位置していたことだった.このため,本5例に,右下縦束の連続性の評価を目的として,拡散テンソルトラクトグラフィーを行った.拡散テンソルトラクトグラフィーの所見では,術前,全5例で右下縦束の描出不可または偏倚が認められていた.術前の右下縦束について測定したFA値は,健側に比較し患側で有意に低下を示していた.また,術後にトラクトグラフィーを行うことのできた2例では,右下縦束の偏倚および描出の改善という所見が認められた.

3.本5症例で,術前,解剖学的知見と拡散テンソル画像において,右後頭葉から側頭葉の皮質下に存在する腫瘍により,右後頭葉から側頭葉を走る長い白質線維である右下縦束の機能的離断または偏倚によって,視覚性記憶の中でも特に視覚性対連合が障害される可能性が示唆された.

本論文は,WMS-Rを用いた記憶検査の下位項目についての詳細な検討および,拡散テンソルトラクトグラフィーを用い,視覚性記憶の中でも特に視覚性対連合記憶の障害が,右下縦束の機能的離断により出現した可能性を示唆した.以上から本論文は,視覚性対連合記憶に対し,未知とされているヒトの右下縦束が何らかの機能をもつ可能性の解明において,重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

以上

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