学位論文要旨



No 125988
著者(漢字) 鈴木,美穂
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ミホ
標題(和) 心筋・骨格筋におけるAkt1およびAkt2の機能の解明
標題(洋)
報告番号 125988
報告番号 甲25988
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3467号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒川,峰夫
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 小野,稔
 東京大学 特任准教授 真鍋,一郎
 東京大学 特任講師 高橋,倫子
内容要旨 要旨を表示する

糖尿病患者は心疾患を合併する確率が高く,心疾患が糖尿病患者の生命予後を決めていることも多いため,糖尿病患者にとって心疾患の発症・進展の予防は非常に重要である.糖尿病患者が持つ心疾患で,糖尿病に合併する冠動脈疾患や高血圧症などに起因する心疾患とは独立したもので,糖尿病性心筋症と呼ばれる,糖尿病の患者に特異的に見られる心疾患がある.臨床的特徴として左室の拡張能低下が存在し,病理組織所見としては心筋肥大・心筋間質の線維化,心筋内小冠動脈の肥厚などが見られる.心筋内の微小血管病変,心筋細胞でのインスリン作用の低下,心筋細胞の代謝障害,心筋の線維化の亢進,自律神経障害などが糖尿病性心筋症のメカニズムとして挙げられているが,正確な性状や原因,治療法については結論づけられていない.

インスリンは,心筋細胞の細胞膜上のインスリン受容体もしくはインスリン様成長因子1受容体(IGF-1R:insulin-like growth factor l receptor)に結合すると,受容体は自己リン酸化が生じ,IRS(insulin receptor substrate)のチロシンリン酸化,PI3キナーゼ(phosphatidylinositol 3kinase)の活性化によるPIP3(phosphatidylinositol3,4,5-triphosphate)の産生の増加を経て,Aktの細胞膜への移動が起こり,ここでPDK1(3-phosphoinositide-dependent protein kinase-1)によるAktの308番目のスレオニン残基のリン酸化,mTORC2(mammalian target of rapamycin complex2)によるAktの473番目のセリン残基のリン酸化が生じて,Aktは完全に活性化され,基質となる分子のセリン/スレオニン残基をリン酸化する活性が上昇し,グルコースの細胞内への取り込みの促進,解糖系の促進,ブドウ糖酸化の促進,グリコーゲン合成の促進,収縮能の亢進,アポトーシスの抑制などの多様な作用を起こす.

Aktは哺乳類ではAkt1,Akt2,Akt3の3種類がある.3種類のアイソフォームは異なる染色体上の異なる遺伝子にコードされているが,80%以上のアミノ酸の相同性が保たれている.Aktl欠損マウスは成長障害,Akt2欠損マウスはインスリン抵抗性,Akt3欠損マウスは脳の大きさの縮小を認めた.Akt1/Akt3ダブル欠損マウスは胎生10.5-11.5日で致死となり,Akt1/Akt2ダブル欠損マウスは出生するものの生後まもなく死亡した.各アイソフォームで異なる役割が生じる機序はまだ不明である.

心臓・骨格筋においては3種類のアイソフォームのうちAkt1とAkt2の発現が優位であり,心臓・骨格筋でAktlを欠損するマウス,Akt2を欠損するマウス,Akt1とAkt2の両者を欠損するマウスを作成し,インスリンシグナルにおいて重要な分子であるAktが心臓・骨格筋で果たしている役割について検討を行うこととした.特にAkt1とAkt2の両者が心臓・骨格筋で欠損した筋肉特異的Aktl/Akt2欠損(muscle-specific Akt1/Akt2 double knockout:M-Akt1/2DKO)マウスの心臓での表現型を中心に解析を行った.

定量的RT-PCRおよびウェスタンブロットにより,M-Akt1/2DKOマウスの心筋・骨格筋ではAkt1とAkt2の発現が有意に抑制されていることが確認された.またM-Akt1/2DKOマウスはコントロールマウスに比べて,心筋・骨格筋において,インスリン刺激によるインスリン受容体のリン酸化,IRS1のリン酸化,p85のIRSIへの結合はコントロールマウスと同様に上昇していたが,Aktのリン酸化やGSK3βのリン酸化はコントロールマウスと比べて有意に低下しており,インスリンシグナルがAktのレベルで遮断されていると考えられた.

M-Akt1/2DKOマウスとその同胞仔のコントロールマウスを観察すると,M-Akt1/2DKOマウスは全てが生後25-37日で死亡した.一方コントロールマウスでは,出生後40日までのうちに死亡する個体は認めなかった.

M-Akt1/2DKOマウスの糖代謝について検討を行ったが,3週齢において随時血糖・インスリン値はコントロールマウスと有意差を認めず,またインスリン負荷試験でもM-Akt1/2DKOマウスはコントロールマウスと比べて血糖値に有意差は認めなかった.ブドウ糖負荷試験において血糖値・インスリン値は有意差を認めなかったが,M-Akt1/2DKOマウスのインスリン値はコントロールマウスに比べて高値の傾向にあり,M-Akt1/2DKOマウスでは,インスリン負荷試験では検出できない程度の軽度のインスリン抵抗性が存在し,インスリンの代償的な分泌により耐糖能が保たれている可能性が否定できなかった.

4週齢で観察した心臓の重量,体重・脛骨長で補正した心重量はM-Akt1/2DKOマウスではコントロールマウスに比べて有意に低値であり,心臓の器質的変化が原因でM-Akt1/2DKOマウスが死亡していることが考えられた.ヘマトキシリンエオジン染色では2週齢,4週齢,死後の心臓で心室壁の菲薄化が見られた.また,4週齢におけるM-Akt1/2DKOマウスのマッソントリクローム染色では間質での線維化が亢進している傾向が見られ,4週齢での心臓のTUNEL(TdT・mediated dUTP・biotin nick・end labeling)染色ではM-Akt1/2DKOマウスはコントロールマウスに比べてTUNEL陽性細胞が多く見られ,アポトーシスが亢進していることが示された.

心エコー検査では,4週齢での左室内径短絡率はコントロールマウスで43.2±5.1%,M-Akt1/2DKOマウスで8.8±2.4%であり,M-Aktl/2DKOマウスで有意に低値であった.2週齢,0週齢の心エコー検査ではM-Aktl/2DKOマウスはコントロールマウスの心機能に比べて有意な差を認めなかった.

また定量的RT-PCRにて心不全マーカーであるANP,BNPの心臓での発現量を検討した.M-Akt1/2DKOマウスのANP(atrial natriuretic peptide)の発現量は,0週齢,2週齢,4週齢でそれぞれコントロールマウスの1.0倍,5.9倍,14.1倍であり,2,4週齢で有意に上昇していた.BNP(brain natriuretic peptide)の発現量も0週齢,2週齢,4週齢でそれぞれコントロールマウスの1.2倍,25.9倍,33.3倍であり,こちらも2週齢,4週齢で有意に上昇しており,M-Akt1/2DKOマウスの2週齢の心エコーでは明らかな心機能の低下は認めないが,すでに心不全の発症の徴候は明らかにあり,4週齢において心不全が顕在化し,やがて死に至ると考えられた.

心不全の発症の機序を考えるため,ミトコンドリアの電子伝達系の酵素,脂肪酸β酸化の酵素,ミトコンドリアDNAなどの発現量を定量的RT-PCRにより検討した.

M-Akt1/2DKOマウスでは2週齢の時点から電子伝達系で重要なシトクロームc,ミトコンドリアDNAのコピー数,細胞外から取り込んだ脂肪酸をミトコンドリアへ輸送するのに関与するFABP4(Fatty Acid Binding Protein 4)の低下を認め,4週齢ではミトコンドリアでの脂肪酸β酸化の酵素であるCPTIB(carmitine palmitoyltransferase),CPT2,また脂肪酸の細胞外から細胞内への輸送体であるCD36の発現量の低下も認めた.脂肪酸輸送・β酸化・電子伝達系の酵素の発現の低下の多くが,心不全の顕在化する前段階の2週齢より観察されることから,心不全の発症の原因のひとつとして考えることができる.

心筋は全身への血液の供給のために,収縮と弛緩を繰り返し,恒常的に多量のエネルギー産生を必要とするため,脂肪酸β酸化や電子伝達系などのエネルギー産生に関与する分子の発現が低下すると,心臓でのエネルギー産生が障害を受け,心機能が維持できなくなることが予想される.

インスリンが電子伝達系・脂肪酸β酸化の酵素の発現量を正に制御しており,インスリンシグナルの遮断によりこれらの酵素の発現量が低下するのは,インスリン受容体,IGF-1Rのインスリンシグナルの鍵分子を心筋で欠損させたマウスにおいても報告されているものである.

STZ(streptozotocine)投与により膵β細胞でのインスリン分泌を枯渇させたマウスでは,心筋においてATP合成酵素の活性低下を認め,このマウスにフロリジン投与を行い腎臓での糖の排泄量を増やして血糖値の改善を行っても,この酵素活性は改善しないが,このマウスにインスリンの投与により血糖値改善を行ったところ,この酵素活性が改善することが最近報告されており,糖尿病において生ずるマウスの心機能低下(糖尿病性心筋症)に,高血糖よりも心筋細胞内でのインスリンシグナルの低下が重要である可能性が示唆された.

このことから,M-Akt1/2DKOマウスは,まだ機序や治療法の解明されていない糖尿病性心筋症の病態モデルとして非常に有用である,ということが言える.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は糖尿病の病態における、心臓・骨格筋におけるインスリンシグナル、特にAkt1とAkt2の役割を明らかにするため、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスを用いて解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.作成した心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスの心臓および骨格筋において、定量的RT-PCRを行うと、Akt1およびAkt2は著明に低下しており、またウェスタンブロット行うとAktの蛋白量は著明に低下していた。またインスリン刺激を行ってのウェスタンブロットを行うと、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスの心臓・骨格筋においては、Aktの下流にあるGSK3βのリン酸化が生じなかった。これらより、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスでは心筋・骨格筋においてAkt1およびAkt2の発現が低下し、インスリンシグナルがAktのレベルで遮断されていることが示された。

2. 心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスは生後25日から37日の間に全ての個体が死亡することが観察された。

3.心臓の超音波検査を行うと、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスでは2週齢より心機能低下の傾向が見られ、死亡直前では著明な心機能低下を認めていた。また、定量的RT-PCRでは、心臓における心不全マーカーの発現は2週齢より増加し、4週齢でさらに著明に増加していた。これらより、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスは心不全のために死亡したことが示された。

4. 心臓のTUNEL染色を行うと、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスではアポトーシスの亢進が認められており、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスの死因に、心臓でのAkt1およびAkt2の欠損による心筋細胞でのアポトーシスの亢進が関与している可能性が示された。

5. 心臓の定量的RT-PCRを行うと、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスでは脂肪酸β酸化・電子伝達系に関連する遺伝子の発現の多くが2週齢の時点から低下し、4週齢においてはより著明に低下していた。心臓のエネルギー需要は高く、ミトコンドリアにおける脂肪酸β酸化・電子伝達系の障害は細胞に重篤な影響を与えると考えられ、心筋・骨格筋特異的Akt1/Akt2ダブル欠損マウスの死因のメカニズムの一つに、これらの遺伝子の発現の低下が関係している可能性が示された。

以上、本論文は、心臓においてAkt1およびAkt2が非常に重要な役割を果たし、個体の生存に不可欠であること、特にAkt1およびAkt2は、細胞内でのエネルギー産生に重要な役割を果たす脂肪酸β酸化・電子伝達系に関連する遺伝子の発現の制御を行っていること、を明らかにした。本研究は、心臓におけるインスリンシグナルの低下が原因の一つと考えられている糖尿病性心筋症の病態の解明、治療薬の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考える。

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