学位論文要旨



No 125994
著者(漢字) 八塚,麻紀
著者(英字)
著者(カナ) ハチヅカ,マキ
標題(和) 携帯型コンピュータを用いた在宅ホスピスケアにおける疼痛と心理社会的因子の評価
標題(洋)
報告番号 125994
報告番号 甲25994
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3473号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 笠井,清登
 東京大学 講師 大石,展也
 東京大学 講師 下澤,達雄
 東京大学 講師 原,一雄
 東京大学 講師 折井,亮
内容要旨 要旨を表示する

がん対策の一層の充実を図るため、平成18年6月、がん対策基本法が成立し、平成19年4月、施行された。その基本的施策のなかで、がん患者の早期からの適切な症状緩和および在宅医療の必要性が謳われており、医療を受ける患者側からも自宅で最期を迎えたいとの要望が増している。このような在宅ホスピスケアに対するのニーズの高まりを受け、在宅での適切な評価に基づく症状緩和がますます必要とされている。

がん患者はさまざまな煩わしい症状を体験しており、その症状はQOLの低下の原因となりうる。その中でも疼痛が最も多く、80%以上の患者が経験している。

世界保健機関(WHO)はWHO 3ステップ疼痛緩和ラダーと称されるがん性疼痛コントロールのためのガイドラインを作成し、その有用性が保証されているにもかかわらず、がん性疼痛は依然として十分には評価・管理されておらず、多くの患者が十分な緩和を得られていない、との報告が少なくない。

その原因としては、コントロールが困難な疼痛が存在すること、疼痛評価の方法とタイミングの問題、が挙げられる。コントロール困難な疼痛に対しては、性状や動態の異なる鎮痛薬の開発や、鎮痛補助薬の併用、投与経路の工夫などでコントロールの改善が図られている。一方、疼痛評価に関しては、通常患者―医師面接の場で行われるが、この方法は時間がかかる上、患者側と医師側の疼痛評価が異なり治療が不十分となる、疼痛経験を後ろ向きに思い出すことによるバイアスが生ずる、などの問題があり、不適切な疼痛コントロールの原因となりうる。

また、疼痛評価法の問題のみならず、不安・抑うつを有することによって疼痛を含む身体症状の管理が困難になりうることも指摘されており、疼痛と併存する心理的因子の評価の重要性が知られている。身体症状としては、疼痛に次いでがん患者の多くが経験する倦怠感や、オピオイドの副作用として発生率が高く、患者にとって苦痛の大きい症状である嘔気と疼痛との関連も報告されている。また、疼痛との関連は直接は示されていないが、眠気も疼痛緩和を継続する際の障害となり、QOLの低下を招くことが指摘されている。しかしこれらの報告はほとんどが思い出しの症状報告に基づくものであり、信頼性が損なわれる危険性がある。

以上のような症状評価に関する問題点を克服し、信頼性を改善するための手法として、 ecological momentary assessment (EMA)という、日常生活下で現象が起こったその瞬間に評価するサンプリング方法が開発されてきた。 EMAの手段としては紙の日記が使われることが多いが、まとめ書きによる信頼性低下の問題があった。そこで、より妥当性の高い症状評価のために、computerized EMA (cEMA)と呼ばれる電子日記を用いた情報収集の方法が開発されている。先行研究でも、がん患者において、cEMAの手法を用いて疼痛および併存する症状の評価を行っているものがあり、疼痛と倦怠感との正の相関、倦怠感と気分(happy, active, peppy)との負の相関、嘔気と負の気分との正の相関、倦怠感の日内変動(徐々に増強する)が認められている。しかし先行研究の対象は、治療中や治療後の全身状態が比較的良い患者である。また、症状増悪時や頓用薬使用時に症状を記録したものは見受けられず、症状を過小評価しうる。さらに身体症状の変化と気分の変化との時間的前後関係も不明である。

以上を背景として、日常生活下におけるがん患者の自覚症状を記録する電子日記としてpersonal digital assistant (PDA) systemを用いた症状記録システムの開発を行った。本研究の目的は、日常生活下の末期がん患者において、1日の症状の変化をPDA systemを用いて7日間記録した際の実施可能性を調べること、記録から得られた症状間の相互関係を評価し、さらに心理的因子と身体症状の前後関係に関して、「先行する不安・抑うつと疼痛・倦怠感が関連する」という仮説を検証することである。

この研究は二段階から成る。第一段階は入院患者を対象としてパイロットスタディを行った。ここではプロトコールの実施可能性を評価することと、装置の使用感に関してフィードバックを得ることを目的とした。第二段階は在宅緩和ケアを受けている末期がん患者において、第一段階でフィードバックを受けたプロトコールの実施可能性と装置の使用感の評価をし、第二段階で得られた症状記録を解析に用いた。

第一段階では東京大学医学部附属病院にて緩和ケアチームによる診療を受けている患者を、第二段階では、クリニック川越にて在宅緩和ケアを受けている末期がん患者を対象とした。対象患者の組み込み基準は緩和ケアを受けているがん患者であること、がん性疼痛があること、鎮痛薬を使用していること、20歳以上であること、全身状態が研究参加に耐えうること、認知障害や精神障害の合併や既往がないこと、とした。

第一段階は2006年12月から2007年4月まで、第二段階は2007年4月から2009年7月まで募集を行った。

参加者は携帯型コンピュータを貸し出され、装置付属のスタイラスペンの代わりに指を用いて、症状(疼痛・倦怠感・嘔気・不安・抑うつ・眠気)の強さの入力を画面上のvisual analogue scale (VAS)で行った。記録期間は1週間、1日複数回、回答のタイミングは、定時の鎮痛薬使用時およびアラームの鳴った時刻、加えて頓用薬使用時とその30, 45, 60, 90分後である。1週間の回答後、最後に参加者から装置の使いやすさ・内容のわかりやすさに関してnumerical rating scale (NRS)を用いて0(最も悪い)から10(最も良い)で回答を得た。

コンプライアンスはそれぞれの患者の回答率の平均から全体の回答率を算出して評価した。

また、個人内の症状間の関係を評価するため、マルチレベル解析を行った。今回の解析では、疼痛の強さに対する心理的因子の影響を調べるために、疼痛の強さを従属変数、心理的因子を独立変数として扱った。

なおこの研究は東京大学倫理委員会の承認を得て行われ(承認番号1543)、全ての参加者から文書による同意を得た。

第一段階において、4名の参加者がこの研究に参加し、不都合を指摘されなかったため、プロトコールの変更は行わず、次の段階へ進んだ。第二段階では20名の参加者を導入したが、そのうち3名は途中で脱落し、最終的には17名が全行程を終え、データ解析された。 コンピュータやPDAの使用歴のある者はおらず、参加者の年齢は66.4±8.9(55-91)歳、17名のうち15名は研究参加以降死去しており、参加後の生存期間は 6-154日、中央値は28日であった

予定されていた記録回数は一人あたり30.5回、アラーム作動時(頓用薬使用後のアラーム作動時を含まず)の全回答率は90.2 ± 9.9%であった。8名の参加者が頓用薬を使用し、その記録回数は一人あたり15.9回であった。残りの9名は期間中、頓用薬を使用しなかった。頓用薬使用時の回答率は82.5 ± 15.1%であった。装置の使いやすさと内容の分かり易さはいずれもNRSで8を超えていた。

一方、症状間の関連に関しては、不安、嘔気、倦怠感、抑うつ、眠気のいずれもが、疼痛と有意に正の相関を示した。また、頓用薬使用が疼痛の増強と有意に関連し、不安の増強とも関連する傾向が示された。日内変動に関しては、倦怠感および眠気で認められた。先行する心理的因子と疼痛および倦怠感との関連の検証では、先行する抑うつとその後の疼痛の強さに有意な相関を認めなかったが、先行する不安の強さが、3-6時間後の疼痛の強さと正の相関を持つこと、先行する不安・抑うつが0-3時間後の倦怠感の強さと正の相関を持つことが示された。

この研究では、在宅緩和ケアを受けている末期がん患者において症状を抽出し記録するためにcEMAの手法を用いてPDAシステムを開発したが、高いコンプライアンスと高い使用感が得られた。加えて頓用薬を使用した際の症状の強さも回答しているが、コンプライアンスは82.5%であり、使用感も良好であったことから、この手法は末期がん患者にも実施可能であることが期待される。

本研究は、頓用薬使用時を含めた症状評価を行った初めての研究であり、頓用薬使用歴のある患者においては、使用歴のない患者に比して初期状態の疼痛の強さが強く、また頓用薬使用時には疼痛の強さが強いことが示された。また頓用薬使用時には不安の有意な増大が示された。

また本研究では、在宅緩和ケアを受けている末期がん患者においても、共存する心理的因子(不安・抑うつ)、身体症状(嘔気、倦怠感)が疼痛の強さと有意に関連することを示し、先行研究と一致する結果を得た。さらに心理的因子と疼痛との時間的前後関係を評価した初めての研究であり、先行する心理的因子の影響が示唆された。適切な疼痛緩和のためには疼痛単独ではなく、併存する心理的因子・身体症状も評価・管理する必要があり、特に心理的因子への適切な対処により、その後の疼痛・倦怠感の増悪予防に寄与できる可能性があると考えられる。

日常生活下での症状評価法としてcEMAの手法は全身状態の悪いがん患者においても適応できる可能性があり、この手法を用いることで、在宅のがん患者において、疼痛のみならず併存する心理的因子・身体症状の評価が可能となり、適切な症状評価を元にしたより良い症状緩和が期待できると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、がん患者の日常生活下における自覚症状を記録する電子日記として携帯型コンピュータを用いた症状記録システムの開発を行い、以下の結果を得ている。

1.在宅ホスピスケアを受けている終末期がん患者を対象として、初めて症状を日常生活下で記録するためにcomputerized ecological momentary assessment (cEMA)の手法を用いた研究で、コンピュータ使用歴のない重篤な末期がん患者においても、本研究のプロトコール(6つの自覚症状を1日4回以上、1週間記録する)への高いコンプライアンス (90.2%)と良好な使用感 (0から10までの評価で8.0-8.8)が得られた。従って、終末期がん患者においても過負荷となることなく、本プロトコールが実施可能であることが示された。

2.患者の年齢やPerformance Statusはコンプライアンスと有意な相関を認めず、本手法が、末期がん患者の臨床状態によらず、実施可能であることが示唆された。

3.在宅ホスピスケアを受けている終末期がん患者を対象として、初めて疼痛とその他の心理的因子(不安・抑うつ・眠気)および身体症状(嘔気・倦怠感)との関連を、時刻・年齢・全身状態の影響をコントロールした上で、日常生活下において評価を行った。

疼痛に関しては、同時に存在する心理的因子(不安・抑うつ・眠気)および身体症状(嘔気・倦怠感)いずれも正の相関が認められた。

4.頓用薬使用後とそれ以外の時間帯を区別した解析では、頓用薬使用後の眠気の増強に対しては、頓用薬による影響が大きいことが示唆された。

期間中頓用薬使用歴のある患者においては、使用歴のない患者に比して初期状態の疼痛の強さが強く、また頓用薬使用時には疼痛の強さが強いことが示唆された。また、頓用薬使用時に不安が一時的に高まっている可能性が示唆された。

5.本研究は、先行する心理的因子と疼痛および倦怠感の強さとの関連を評価した初めての研究である。

疼痛に関しては、先行する不安の強さが、3-6時間後の疼痛の強さと正の相関を持つことが示されたが、先行する抑うつの強さと、その後の疼痛の強さとの間に有意な関連は認めなかった。

倦怠感に関しては、先行する不安、抑うつともに3時間後までの倦怠感の強さと正の相関を持つことが示された。

必ずしも因果関係が保証されないが、初めて、心理的因子と疼痛や倦怠感との間の時間的前後関係を持った関連が示された。

以上、本論文はcEMAの手法が、疼痛や気分の状態など症状評価において、コンピュータ使用歴のない重篤な終末期がん患者においても適用できる可能性があることを示し、症状間の相互関係を時間的前後関係をも含めて評価した初めての研究である。この手法を用いることで、在宅のがん患者において、疼痛単独ではなく、併存する心理的因子・身体症状の評価が可能となり、適切な症状評価を元にしたより良い症状緩和の実現に貢献できると考えられ、本研究は学位の授与に値するものと考えられる。

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