学位論文要旨



No 126016
著者(漢字) 石山,典幸
著者(英字)
著者(カナ) イシヤマ,ノリユキ
標題(和) 生体適合性ポリマーゲルを用いた新規組織癒着防止材の開発
標題(洋)
報告番号 126016
報告番号 甲26016
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3495号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 光嶋,勲
 東京大学 特任教授 高取,吉雄
 東京大学 准教授 清水,伸幸
 東京大学 教授 岩中,督
 東京大学 教授 上妻,志郎
内容要旨 要旨を表示する

外傷や手術後の組織癒着は、体内で分離している組織が結合してしまう複合的な炎症性障害であり、この組織癒着を防止することは、積年の臨床的課題となっている。生体組織の中で、骨・筋肉・神経・靭帯および腱などの運動・感覚器組織が損傷や手術侵襲を受けた場合、これらの組織を修復し治癒させるためには一定期間の固定・安静が必要となり、この間に組織癒着はほぼ必発となる。これらの組織癒着は運動障害や感覚障害をきたす原因となり、社会復帰や日常生活の大きな妨げになる。また、腹部の手術においては、癒着を形成する割合が腹部手術患者の75~93%にも達するとの報告もあり、組織の癒着が不妊、慢性的な腹部・骨盤痛、腸管穿孔、腸管閉塞を惹起し、再手術が必要となることも少なくない。

このように組織癒着は深刻な合併症であり、機能の回復に多大な労力と時間および費用を要することになる。そのため、癒着防止の目的で、手術手技・材料の改善に加え、薬剤投与、早期運動療法、損傷・手術部位への癒着防止材の挿入などが試みられてきた。しかしながら、手術操作のみの改善では効果は不十分であること、薬剤投与では大量の薬剤が必要となり、易感染性や肝障害などの副作用の問題が懸念されることから普及するには至っていない。また、運動器治療における早期運動療法は骨折部の再骨折や癒合不全、神経・靭帯・腱の再断裂の危険性があることや、小児や高齢者に対する適応が困難であることなどの理由で決定的な解決策とはなっていない。

これまでに研究開発された組織癒着防止材は、合成高分子材料と生体吸収性材料に大別できるが、合成高分子材料には、液性因子の透過性がないため損傷組織の治癒に悪影響を及ぼす、異物反応を惹起する、摘出のために再手術を必要とする、という問題があり、生体吸収性材料には、吸収の過程で細胞浸潤を伴いある程度の癒着は避けがたい、生体内での残存期間のコントロールが難しい、という問題がある。また、双方に共通の問題として、柔軟さに欠け取り扱いが難しい、目的とする部位へ固定し難い、という点があり、いずれも満足できるほどの癒着防止効果は得られていない。

そこで、組織損傷部を生体適合性が高くかつ粘弾性を有する材料により周囲環境からの液性因子の供給を妨げずに被覆できれば、効果的な癒着防止材となり得ると考えた。この観点から、細胞膜類似構造を有し、優れた生体適合性を発揮する高分子材料、2-methacryloyloxyethyl phosphorylcholine (MPC)ポリマーを含有するハイドロゲル(MPCゲル)を用いた新規癒着防止材を創案した。MPCゲルは、MPC、ブチルメタクリレート、ビニルフェニルボロン酸の共重合体、poly(2-methacryloyloxyethyl phosphorylcholine-co-n-butyl methacrylate-co-p-vinylphenylboronic acid)(PMBV)ポリマーの水溶液と生体適合性ポリマー、ポリビニルアルコール(PVA)の水溶液を使用する2液混合型のハイドロゲルである。これらの水溶液を混合すると直ちに両ポリマー間の共有結合が形成されることでゲル化が生じ、粘性が高まった状態となって損傷組織表面に粘着できる。また、MPCゲルは、組織修復に必要な液性因子が通過可能な小孔を有する蜂巣状の微細構造を有することが明らかになっている。したがって、MPCゲルは生体適合性に優れ、異物反応を惹起せず、術野に応じて即座に成型され、かつ組織に粘着するため固定可能で、液性因子の供給を妨げずに組織損傷部を被覆できると考えられた。

以上より、MPCゲルがこれまでの組織癒着防止材の問題点をすべて解決し得ることを期待し、MPCゲルの新規組織癒着防止材としての実用化を目指し、本研究を開始することとなった。

本研究の目的は、MPCゲルを応用した理想的な組織癒着防止材を開発するため、至適な生成条件を規定すること、動物モデルにて癒着防止効果を評価すること、さらに癒着防止のメカニズムを検討することである。整形外科で関与する骨、筋肉、神経、靭帯、腱などの組織損傷の中で、腱損傷(特に手指の屈筋腱損傷)は臨床上もっとも組織癒着による障害が起きやすい外傷の一つである。手指の巧緻性運動には関節の微細な可動性を必要とするため、腱癒着は深刻な合併症となる。しかも、腱は血流に乏しく、治癒しにくい組織である。これらのことから、腱組織における条件でMPCゲルの癒着防止材としての有効性を確立できれば、他組織に対する癒着防止にも応用できる可能性が高いと考え、本研究では腱を対象組織とした動物モデルを用い、研究開発を進めることとした。

本研究では、生体内の湿潤環境を模したPBS内、ラット皮下埋植モデルにおいてMPCゲルが経時的に解離すること、安定した物理的特性を少なくとも3週間保持すること、を明らかにした。また、in vitro、in vivoでMPCゲル生成の至適条件を検索し、PMBV、PVA水溶液の至適混合濃度が、それぞれ5.0%、2.5%であることを明らかにした。さらにこの条件で生成したMPCゲルをラット、ウサギの腱損傷モデルに用い、MPCゲルが縫合した腱組織の治癒を阻害することなく、効果的に腱周囲の癒着を防止することを明らかにした。また、ウサギの腱損傷モデルではMPCゲルの局所投与効果を経時的にも検討し、術後3週まではゲルが残存し6週では消失すること、術後3、6週で腱癒着が有意に防止されること、術後1、3、6週でゲルによる腱治癒の阻害はみられず、術後6週ではむしろ腱最大破断張力の有意な増強がみられること、を明らかにした。この腱破断張力の増強は、サイトカインや成長因子がゲルに妨げられることなく持続的に損傷部に到達したことや、癒着防止により腱の可動性が改善し適度な力学的ストレスが加わったことなどに起因するものと考えられた。以上の結果から、MPCゲルは創傷治癒過程の最初の3週間術野にとどまり、治癒を妨げることなく癒着を防止すること、ゲルが解離した後も新たな癒着が形成されることなく、損傷部の治癒もはかれること、が明らかとなった。これらのことは、治療に関して理解の難しい小児や、骨や血管の損傷を伴う場合など、患部の安静期間が長期になることが予測される症例においてもMPCゲルの局所投与効果が期待できることを示しており、早期の実用化が望まれる。

MPCゲルは、ナノメーターレベル(直径およそ400-800 nm)の小孔からなる蜂巣状の微細構造を有し、組織癒着の形成に働く損傷組織外からの線維芽細胞(直径およそ8-10 μm以上)の侵入は阻止するが、組織の修復に働くサイトカインや液性因子の通過は許容する。また、PMBVとPVAの水溶液を混合し、術野にあわせた量を局所へ注入することで対象組織をしっかりと被覆することができ、臨床現場での手技が簡易となる。さらに、生体細胞膜の類似構造を有するため、生体内で異物反応を惹起しない。これらの特質を考えあわせると、MPCゲルは、これまでの研究開発が克服し得なかった、治癒の阻害、炎症反応、材料辺縁部での癒着形成、取り扱いや固定の難しさなどの諸問題を解決する画期的な新規治療法となり得ると考えられる。

さらに、MPCゲルの癒着防止メカニズムと生体内での安全性を検討するため、細胞培養を利用した新規の実験系を確立し、癒着形成に働く線維芽細胞の移動性と生存性に対するMPCゲルの影響を検討した。この結果、MPCゲルが線維芽細胞の通過を抑制すること、細胞の生存性に影響を与えないこと、が明らかとなった。このことは、MPCゲルが物理的バリアーとして細胞の侵入を阻止し、細胞を侵襲せずに癒着形成を抑制すること、MPCゲルが生体にとって安全な材料であることを示唆する結果と考えられる。

本研究で得られた実験結果は、MPCゲルの生体環境下での経時的変化、動物腱損傷モデルにおける優れた局所投与効果という新たな知見に加え、これまでの組織癒着防止材研究では不十分であった癒着防止メカニズムの解析も含むものであり、独自のマテリアルを基盤とした新規の癒着防止材開発を推進する研究成果と言える。MPCゲルは、これまでの癒着防止材では克服し得なかった課題の解決を期待できる性質を有しており、腱をはじめとした組織癒着形成を防止する上で、理想的な材料になり得ると考えられる。また、本研究では腱癒着防止材としての臨床応用を考え生体内の解離速度を調整したが、PMBV、PVA水溶液の混合比率によりその解離速度はある程度調節可能と考えられるため、腱とは条件が異なる残存期間を求められる臓器や手術部位においても有効な癒着防止材として期待できる。しかしながら、今後これらの基礎研究成果を臨床応用にあたっては、いくつかの課題も考えられる。まず、腱組織の生理学的および解剖学的特性は本研究で用いた齧歯類とヒトでは必ずしも一致しない部分があるため、本研究での実験成果を応用するにあたっては十分な留意が必要である。また、生体に用いるにあたっては、PMBV、PVAポリマーのラベル体を合成し、体内動態を検討するなど、厚生労働省、国際標準化機構(ISO)の指針に準じて生体内安全性の検討を行うことも求められる。さらに、前述の特性をいかし他の組織にMPCゲルを応用するためには、対象臓器にあわせた動物モデルを確立し、その有効性を確認することも課題となる可能性がある。これらの課題を克服し、MPCゲルを新規の組織癒着防止材として早期に臨床応用できるよう、今後も本研究開発を推進していきたい。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、細胞膜類似構造を有し、優れた生体適合性を発揮する高分子材料、2-methacryloyloxyethyl phosphorylcholine (MPC)ポリマーを含有するハイドロゲル(MPCゲル)を応用した理想的な組織癒着防止材を開発するため、至適な生成条件の規定、動物モデルにおいての癒着防止効果の評価、さらに癒着防止のメカニズムの検討を試みたものである。MPCゲルは、MPC、ブチルメタクリレート、ビニルフェニルボロン酸の共重合体、poly(2-methacryloyloxyethyl phosphorylcholine-co-n-butyl methacrylate-co-p-vinylphenylboronic acid)(PMBV)ポリマーの水溶液と生体適合性ポリマー、ポリビニルアルコール(PVA)の水溶液を使用する2液混合型のハイドロゲルである。本研究では、下記の結果を得ている。

1.生体内の湿潤環境を模したPBS内、ラット皮下埋植モデルにおいてMPCゲルが経時的に解離すること、安定した物理的特性を少なくとも3週間保持すること、が示された。また、in vitro、in vivoでMPCゲル生成の至適条件を検索し、PMBV、PVA水溶液の至適混合濃度が、それぞれ5.0%、2.5%であることが示された。

2.上記と同一の条件で生成したMPCゲルをラット、ウサギの腱損傷モデルに用い、MPCゲルが縫合した腱組織の治癒を阻害することなく、効果的に腱周囲の癒着を防止することが示された。また、ウサギの腱損傷モデルではMPCゲルの局所投与効果を経時的にも検討し、術後3週まではゲルが残存し6週では消失すること、術後3、6週で腱癒着が有意に防止されること、術後1、3、6週でゲルによる腱治癒の阻害はみられず、術後6週ではむしろ腱最大破断張力の有意な増強がみられること、が示された。この腱破断張力の増強は、サイトカインや成長因子がゲルに妨げられることなく持続的に損傷部に到達したことや、癒着防止により腱の可動性が改善し適度な力学的ストレスが加わったことなどに起因するものと考えられた。以上の結果から、MPCゲルは創傷治癒過程の最初の3週間術野にとどまり、治癒を妨げることなく癒着を防止すること、ゲルが解離した後も新たな癒着が形成されることなく、損傷部の治癒もはかれること、が示された。

3.MPCゲルの癒着防止メカニズムと生体内での安全性を検討するため、細胞培養を利用した新規の実験系を確立し、癒着形成に働く線維芽細胞の移動性と生存性に対するMPCゲルの影響を検討した。この結果、MPCゲルが線維芽細胞の通過を抑制すること、細胞の生存性に影響を与えないこと、が示された。このことは、MPCゲルが物理的バリアーとして細胞の侵入を阻止し、細胞を侵襲せずに癒着形成を抑制すること、MPCゲルが生体にとって安全な材料であることを示唆する結果と考えられた。

MPCゲルは、ナノメーターレベル(直径およそ400-800 nm)の小孔からなる蜂巣状の微細構造を有し、組織癒着の形成に働く損傷組織外からの線維芽細胞(直径およそ8-10 μm以上)の侵入は阻止するが、組織の修復に働くサイトカインや液性因子の通過は許容する。また、PMBVとPVAの水溶液を混合し、術野にあわせた量を局所へ注入することで対象組織をしっかりと被覆することができ、臨床現場での手技が簡易となる。さらに、生体細胞膜の類似構造を有するため、生体内で異物反応を惹起しない。これらの特質を考えあわせると、MPCゲルは、これまでの研究開発が克服し得なかった、治癒の阻害、炎症反応、材料辺縁部での癒着形成、取り扱いや固定の難しさなどの諸問題を解決する画期的な新規治療法となり得ると考えられた。

以上、本論文はMPCゲルの生体環境下での経時的変化、動物腱損傷モデルにおける優れた局所投与効果という新たな知見に加え、これまでの組織癒着防止材研究では不十分であった癒着防止メカニズムの解析も含むものであり、独自のマテリアルを基盤とした新規の癒着防止材開発を推進する研究成果と言え、学位の授与に値するものと考えられる。

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