学位論文要旨



No 126055
著者(漢字) 後藤,美穂
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,ミホ
標題(和) 寄生性線虫Ascaris suumにおける代謝変換調節機構に関する研究
標題(洋) Study on the regulation of the metabolic transition in the parasitic nematode Ascaris suum
報告番号 126055
報告番号 甲26055
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3534号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,知保
 東京大学 特任教授 野本,明男
 東京大学 准教授 田中,輝幸
 東京大学 教授 甲斐,知恵子
 東京大学 教授 岩坪,威
内容要旨 要旨を表示する

寄生性線虫である回虫(Ascaris suum)は虫体が大きく、また入手が比較的容易であることから代謝や生理の生化学的解析に適したモデルとして古くから用いられてきた。私達の研究グループは特に、回虫に見られる独特な代謝変換を寄生における適応戦略の一側面と捉え、その生化学的解析を進めてきた。

回虫の受精卵は脊椎動物宿主の糞便とともに外界に排出され、通常酸素分圧下、約3週間で感染性の第三期幼虫(L3)となる。この幼虫期には哺乳類と同様に酸素を最終電子受容体として酸化的リン酸化によりATPを合成する。一方、成虫が生息する宿主小腸は酸素分圧が5%以下という低酸素環境であり、この成虫期には酸素を利用しない独特な糖分解経路であるPEPCK(ホスホエノールピルビン酸カルボキシキナーゼ)-コハク酸経路が誘導され、低酸素環境下でもATPを合成することができる。この経路の最終反応段階であるコハク酸の生成には成虫ミトコンドリアに特有な嫌気的電子伝達系であるNADH-フマル酸還元系が関与している。さらに、この系の構成要素である呼吸鎖複合体IIにはコハク酸‐ユビキノン還元酵素として機能する幼虫型とその逆反応を触媒するキノール‐フマル酸還元酵素として機能する成虫型が存在する。これらの呼吸鎖複合体IIサブユニット遺伝子の発現は生育段階特異的に転写レベルで制御されていることが明らかとなっている。しかしながら、その発現を制御する因子や調節機構に関しては研究がなく、未だ解明されていない。

哺乳類をはじめとした脊椎動物では低酸素誘導転写因子hypoxia-inducible factor-1 (HIF-1) が低酸素応答の中心的な役割を担うことが知られている。HIF-1はHIF-1αおよびHIF-1βサブユニットからなるヘテロ二量体を形成し機能するが、通常酸素分圧下では細胞質に存在するHIF-1α中の特定のプロリン残基がプロリン水酸化酵素PHDにより水酸化され、von Hippel-Lindau tumor suppressor protein (pVHL) によりポリユビキチン化された後、プロテアソームによる分解を受ける。一方、低酸素分圧下ではHIF-1αのプロリン残基の水酸化とそれに伴う分解は阻害され、核内に移行したHIF-1αはHIF-1βと二量体を形成する。これがDNAに結合し、哺乳類などでは血管内皮増殖因子や造血因子、解糖系諸酵素など低酸素適応に関与する標的遺伝子の発現を活性化することが知られている。

一方、無脊椎動物におけるHIF-1の研究から、線形動物からヒトにいたるまで多細胞生物に広く保存されているHIF-1経路の普遍性と同時にその標的遺伝子の多様性が明らかとなってきた。哺乳類と昆虫などの無脊椎動物では呼吸系や循環系が形態学的に大きく異なるのに対し、HIF-1という共通の分子を用いて類似の低酸素応答を誘導しているという点は興味深い。さらに、HIF-1とミトコンドリア呼吸鎖の機能的な相互作用に関する報告も増えてきている。このような背景から、回虫のHIF-1と代謝変換との間に何らかの関連があるのではないかと考え、その解明のための第一歩として回虫HIF-1のクローニングとその解析を行った。

自由生活性線虫Caenorhabditis elegansの配列をqueryとしたBLAST検索の結果得られた、線形動物 (Brugia malayi、Strongyloides ratti、Ancylostoma caninum) のhif-1のアミノ酸配列と塩基配列をもとに縮重プライマーを設計し、RT-PCR法により回虫hif-1αおよびhif-1β cDNAを得た。これは寄生性生物において初めての全長hif-1 cDNAのクローニングの報告である。得られた回虫HIF-1αとHIF-1βのアミノ酸配列は、N末端側のDNAへの結合に必要なbHLHドメインおよび二量体形成に必要なPASドメインにおいて他生物種との高い相同性を示したが、いずれもPASドメインよりもC末端側の配列は他生物種とは異なる特徴を有していた。HIF-1βではC末端の配列が他生物種のものよりも250アミノ酸程度短く、転写活性化ドメインを欠くことがわかった。また、HIF-1αのPASドメイン以降の配列では他生物種との相同性がほとんど見られず、哺乳類においてその活性化に必須とされている転写活性化ドメインは見出されなかった。このようなC末端の特徴的な配列はHIF-1の転写活性化機構や標的遺伝子との相互作用が他生物種とは異なる可能性を示唆している。一方、酸素濃度依存的にプロリン水酸化酵素により修飾を受ける際に必要なLXXLAPモチーフはHIF-1α中に保存されていた。さらに、組み換えHIF-1αおよびHIF-1βの発現系を構築し、酵母ツーハイブリッド法および免疫沈降法により回虫のHIF-1αとHIF-1βが相互作用することを確認した。これらのことから、回虫においてもHIF-1の基本的な機能は保存されていることが示された。また、受精卵および通常酸素条件下で発生した感染幼虫包蔵卵中のL3、低酸素条件下に生息する成虫の各段階におけるhif-1 mRNAの発現量を解析した結果、大きな発現量の変動を示した。hif-1αおよびhif-1βはいずれもL3において最も発現量が多く、その値はそれぞれ成虫の8倍と6倍程度であった。一般にHIF-1の安定性および活性は翻訳後修飾により制御されていると考えられており、回虫に見られるような生活環におけるhif-1 mRNA発現量の変動は自由生活性の他生物種においては例がない。回虫では通常酸素環境下に生息するL3の時期に発現量を多く保つことにより寄生生活へと移行した際に直面する低酸素環境への効率的な適応を可能としていると考えられる。

さらに、呼吸鎖複合体IIの各サブユニット遺伝子がHIF-1の直接的な標的であるかどうかを検討するために、各遺伝子の転写開始点の上流領域の塩基配列を解析した。その結果、全ての遺伝子の上流にHIF-1の結合配列の候補が存在した。今後、ゲルシフトアッセイによりHIF-1とこれらの候補配列との結合を確認する予定である。

以上、回虫の代謝変換機構について低酸素適応という側面から解析を試みてきたが、実際には酸素濃度変化が代謝変換の直接的な原因であるかどうかは未だ明らかではない。in vitro培養の観察から、回虫の成虫は低酸素環境に適応するばかりでなく通常酸素環境下においても酸素による重大な障害を示すことなく数週間以上生存することが可能である。この際には成虫は代謝経路を好気的なものに変化させているのだろうか?もし成虫が外部酸素環境に応じて代謝変換を行うのであれば、これは幼虫と成虫の代謝変換を理解する上で、酸素の直接的な影響をより単純化してとらえるためのモデルとなることが期待される。そこで、本研究ではin vitro培養系を用いて成虫を通常酸素あるいは低酸素に16時間または5日間曝露し、代謝変換が起こるかどうかをcomplex IIサブユニット遺伝子の発現およびミトコンドリア呼吸酵素の活性により評価した。さらに幼虫と成虫の間に発現量の差が見られたhif-1遺伝子についても比較を行った。通常酸素曝露群、低酸素曝露群において計8種類の遺伝子の発現量を比較したが、いずれにおいても顕著な変化は見られなかった。また、酵素活性の点からも両者に有意な差は見られず、嫌気的な活性を示した。この結果から、成虫は外部酸素環境の変化に依らず嫌気的な代謝経路であるNADH-フマル酸還元系を維持していると考えられる。幼虫から成虫への移行の際に見られる代謝変換を伴う低酸素適応と成虫の外部酸素環境への適応とは異なった機構により制御されていることが示唆された。

回虫の成虫に見られる嫌気的な代謝経路は、蠕虫を含む低酸素に耐性をもつ生物の一部にも共通に見られる。しかしながら、これらの生物に関する研究はゲノム情報の不足や分子生物学的および遺伝学的な手法の困難さから遅れており、代謝変換を支える分子基盤についての知見は非常に限られたものとなっている。本研究から、自由生活性生物とは異なった回虫の酸素適応機構の存在が示されたが、今後、さらなる解析を行うことにより寄生戦略としての代謝変換における酸素適応機構の解明、また、蠕虫の代謝変換を標的とした新たな創薬の可能性などが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は寄生性線虫である回虫(Ascaris suum)に見られる代謝変換の調節機構の解明を目的として、酸素適応という観点からのアプローチを行った。まず、低酸素誘導転写因子HIF-1に注目し、回虫におけるホモログcDNAのクローニングとその機能解析を行った。また、代謝変換に対する酸素の直接的な影響を評価した。得られた結果は下記のとおりである。

1.縮重プライマーを用いたRT-PCR法により回虫hif-1αおよびhif-1β cDNAをクローニングした。得られた回虫HIF-1αとHIF-1βのアミノ酸配列は、N末端側のDNAへの結合に必要なbHLHドメインおよび二量体形成に必要なPASドメインにおいて既知の生物種との高い保存性を示した。また、HIF-1α中には酸素濃度依存的なプロリン残基の水酸化に必要なLXXLAPモチーフが保存されていた。一方、いずれもPASドメイン以降の配列は他生物種とは異なる特徴を有していた。HIF-1αのC末端には哺乳類においてその活性化に必要とされている転写活性化ドメインは見出されなかった。また、HIF-1βはC末端の配列が脊椎動物のものよりも250アミノ酸程度短く転写活性化ドメインを欠いていた。このようなC末端の特徴的な配列は回虫HIF-1の転写活性化機構や標的遺伝子との相互作用が他生物種とは異なる可能性を示している。

2.組み換えHIF-1αおよびHIF-1βの発現系を構築し、酵母ツーハイブリッド法により回虫のHIF-1αとHIF-1βが相互作用することを確認した。このことから、回虫においてもHIF-1の基本的な機能は保存されていることが示された。

3.回虫の受精卵および通常酸素条件下で発生したL3、低酸素条件下に生息する成虫の各段階におけるhif-1 mRNAの発現量をreal-time PCRにより解析した。hif-1αおよびhif-1βはいずれもL3において最も発現量が多く、それぞれ成虫の8倍と6倍程度であった。このような生活環におけるhif-1 mRNA発現量の大きな変動は自由生活性の生物種においては報告がなく、回虫では寄生に伴う低酸素環境への適応に深く関与していると考えられる。

4.呼吸鎖複合体IIの各サブユニット遺伝子の転写開始点の上流領域の塩基配列を解析したところ、全ての遺伝子の上流にHIF-1の結合配列の候補が存在した。この様に、各サブユニット遺伝子がHIF-1の直接の標的である可能性が示された。

5.in vitro培養系を用いて回虫の成虫を通常酸素あるいは低酸素に曝露し、代謝変換が起こるか否かを呼吸鎖複合体IIサブユニット遺伝子の発現量およびミトコンドリア呼吸酵素の活性により評価した。その結果、遺伝子の発現量に顕著な変化は見られなかった。酵素活性の点からも両者に有意な差は見られず、嫌気的呼吸鎖に特徴的な活性を示した。このことから、成虫は外部酸素環境の変化に依らず嫌気的な代謝経路であるNADH-フマル酸還元系を維持することが明らかとなった。

以上、本論文は自由生活性の生物種とは異なった回虫の酸素適応機構にHIF-1が関与していることを示した。回虫に見られる嫌気的な代謝経路は蠕虫を含む低酸素に耐性をもつ生物にも共通に存在するが、その制御機構は未知である。本研究はこのような生物の代謝変換における酸素適応機構の解明に重要な貢献をすると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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