学位論文要旨



No 126059
著者(漢字) トリン ズィ クアン
著者(英字) Trinh Duy Quang
著者(カナ) トリン ズィ クアン
標題(和) ヒト初期絨毛細胞株を用いたインフルエンザウイルスA(H3N2)の胎盤感染の研究
標題(洋) Study on placental infection of influenza virus A(H3N2) using immortalized human first trimester trophoblast cell lines
報告番号 126059
報告番号 甲26059
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3538号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 教授 渡辺,知保
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 講師 春名,めぐみ
 東京大学 講師 百枝,幹雄
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

季節性インフルエンザの主要標的臓器は上気道であるが、脳症を含め生命予後に影響を与える合併症を起こすことがある。周産期領域では妊娠中にインフルエンザウイルスに感染した場合、過去に起きたパンデミックでは妊婦の死亡率は高率であった。軽症であっても、流・早産や子宮内胎児死亡が増加すること、児が思春期以降に統合失調症を発症するリスクが4~7倍に増加することが知られている。実験的にも妊娠マウスにインフルエンザを接種することで仔マウスの行動異常が誘起されることが報告されているが、病理組織学的には変化が見られた中枢神経系を含む仔マウスの臓器にインフルエンザRNAは検出されないこと、また、インフルエンザウイルスは胎盤を通過しないことから、炎症性サイトカインを介した病態が想定されるが詳細な機序は不明である。

私は胎児と母体を隔てる胎盤がインフルエンザウイルスの標的臓器になる可能性があると考え、不死化したヒト浸潤絨毛 細胞株HTR8/SVneo (H8) およびSwan71 (Sw.71)にインフルエンザウイルスをin vitroで感染させ、その複製と感染細胞の動態を検討した。併せて浸潤絨毛が母体の免疫学的攻撃を免れるうえで重要なHLA-Gの発現を検討した。

対象と方法

細胞

ヒト初期絨毛細胞株Sw.71とH8 はYale大学より分与され、各々10%FCS加DMEM (Sw.71) 、RPMI 1640 (H8)で 37oC, 5% CO2の条件で培養した。

ウイルスとその感染

季節性インフルエンザウイルスの実験に頻用されるインフルエンザA/Udorn/307/72 (H3N2) は日本大学微生物学教室において維持している株を用いた。ウイルスは有精鶏卵あるいはMDCK細胞株で増殖させ、プラーク法で定量した.

上記細胞を6穴プレートに(2×105/well)の細胞密度で培養し,ウイルスをMOI5の濃度に調整したウイルスMOI5を接種した。37 °C, 40分吸着後培養液を交換し8,24,48時間培養した。陰性対照として56 °C, 30 分処理したウイルス液を用いた。アポトーシス誘導の陽性対照はActinomycin D (1 μg/ml )を用いた.

蛍光抗体法によるウイルス感染細胞の観察

H8 あるいはSw.71細胞をガラスカバースリップ上で培養し、同様にMOI5でウイルスを感染させた. 一定時間後4% パラホルムアルデヒドで固定し、ウサギポリクローナル抗Udorn 血清(1:1000)で処理し、さらにAlexa 488をラベルした抗ウサギIgG 抗体で染色し蛍光顕微鏡で観察した。

Hemagglutination HA活性の測定

培養液をPBSで段階希釈し、通常の方法に従ってHA活性を測定した

RNAの抽出とRT-PCR

培養細胞よりTRIZOL(R) によりRNA を抽出し,逆転写の後にABI Prism(TM) 7500によりリアルタイムPCRでウイルスRNAを定量した.

アポトーシスの検出

Annexin Vのフローサイトメトリーによる染色性ならびにApoStrandTM による1本鎖DNAの検出を行った。

フローサイトメトリーによるHLA-Gの定量

FACScalibur( Becton Dickinson Biosciences, Mountain View, CA) によりHLA-G発現レベルを定量した。

統計処理

Fisher検定 P <0.05 を有意差ありとした。

結果

インフルエンザA(H3N2)はヒト不死化絨毛細胞株で複製する

H8, Sw.71 いずれの細胞株も、接種8、24時間の時点で核、細胞質にインフルエンザウイルス抗原が強く染色された。不活性化ウイルスやPBSによる陰性対照では染色は見られなかった。また、24時間の時点で培養液中にインフルエンザウイルスHA活性が観察された。ウイルスRNAの複製はリアルタイムPCRでも確認できた。蛍光顕微鏡下でヘキスト染色された核に断片化が見られたため感染により誘発されたアポトーシスが疑われた。

アポトーシスの証明

アポトーシスを証明するため,細胞のAnnexin V染色と1本鎖DNAの検出を行ったところ、インフルエンザウイルス感染8時間よりアポトーシスの出現が見られた。

HLA-G発現は変化しない

多くの妊婦ウイルス感染症で、胎盤のHLA-G発現が低下するために拒絶が生じる。インフルエンザでも同様の現象が生じるや否を検討するためフローサイトメトリーを行った。その結果、いずれの細胞株でも感染によるHLA-G発現の変化は認められなかった。

考察

本研究において私は不死化ヒト初期浸潤絨毛細胞株 Sw.71とH8 がインフルエンザウイルスA H3N2 に感受性があることを明らかにした。一般には呼吸器と消化管上皮のみがインフルエンザウイルス複製の場として知られており、in vitroでの胎盤への感染,とくにextra villous trophoblast (EVT)への感染は2009年10月現在、PubMedで検索可能な医学雑誌では、初めての知見である.ヒトの胎盤は血絨毛細胞胎盤の中でもEVTが深く浸潤することが特徴である. サイトメガロウイルスやアデノウイルスでは感染した絨毛細胞が浸潤障害をきたすことが流産や早産の原因となると考えられている。私の実験結果からインフルエンザウイルス感染でも同様の機序が働いている可能性が示唆された。妊娠後半期でも母体血管壁に絨毛細胞が浸潤し続けることで局所の血流が増大し胎児胎盤への血流が担保される。このことがヒトの大脳の発達に必須と考えられている。したがって、インフルエンザウイルスがEVTの浸潤を抑制することが、中枢神経の発達に必要な時期に胎盤への母体血流を低下させることに病態形成に重要な意義がある可能性がある。

一般に季節性のインフルエンザは気道もしくは消化管に限局した感染症であり、ウイルス血症を来すことはないと考えられている。しかしながら、近年症状を発現する前に一過性にウイルス血症を来す例が少なくないこと、とくにパンデミック時には胎盤におけるウイルス感染やさらに子宮内における経胎盤感染があることが報告されている。 おそらく通常の季節性インフルエンザでは既に獲得した免疫系と交差反応によりウイルス血症が抑制されるかあるいは速やかな中和抗体誘導が生じるのに対し、パンデミック時には一定の頻度でウイルス血症と胎盤への感染が生じる可能性が示唆される。

本研究の骨子となった成果をAmerican Journal of Reproductive .Immunologyに投稿した後、新型インフルエンザ(H1N1)のパンデミックが発生した。幸いなことに、現時点での毒性は従来の季節性インフルエンザと大差ないようであるが、妊婦におけるリスクはまだ未知の点が多い。私は現在、H1N1新型ウイルスを用いた実験を継続しており、本研究における結果とほぼ同一の知見を得ている。この事実は妊婦においてもワクチン接種と抗ウイルス薬を躊躇なく使用するべきであるという日本産科婦人科学会や日本感染症学会の見解を基礎的に裏付けるものと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

抄録

背景

インフルエンザは伝染性の高い急性ウイルス性熱性呼吸器感染症で世界的な罹患死亡原因疾病となっている.疫学データはパンデミックインフルエンザによる自然流産,早産の,季節性インフルエンザによる思春期の統合失調症のリスク増加を示唆している.しかし,その病理学的機序は知られていない.

目的

ヒト初期絨毛細胞株Sw.71とH8がインフルエンザウイルスに感染するかどうかをインフルエンザウイルスA/Udorn/307/72 (H3N2)を用いて調べ,更に,感染によりアポトーシスが起こるかどうか,ヒト白血球抗原G (HLA-G) の発現が低下するかどうかを検討した.

研究方法

感染8時間後及び24時間後に,蛍光免疫法で細胞内のインフルエンザウイルス蛋白質の発現を,HA法とリアルタイムPCRで培養液中のウイルスを調べた.感染18時間後にELISA法を用いアポトーシスで生じた一本鎖DNA量を調べ,又,感染8時間後及び24時間後にフローサイトメトリーを用い細胞のHLA-G発現を検討した.

結果

ウイルス蛋白質の細胞内局在が観察された.接種24時間後には培養液中にウイルスが検出され,絨毛細胞の多くはアポトーシスを起こしていたが,HLA-Gの発現量には変化がなかった.

結論

本研究で低病原性のインフルエンザウイルスが妊娠初期絨毛細胞株で複製増殖することが示された.インフルエンザウイルスに感染した細胞ではアポトーシスが認められた.胎盤の障害はインフルエンザウイルスの絨毛細胞への直接作用とそれに続くアポトーシスにより起こり,HLA-G の発現低下で母体免疫系の拒絶反応が亢進する為ではないらしいことが分った.

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