学位論文要旨



No 126091
著者(漢字) 高橋,健
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ケン
標題(和) 脳卒中・糖尿病領域における製薬企業の治験生産性に関する、国際共同治験との比較による日本治験の特徴解析と課題抽出
標題(洋)
報告番号 126091
報告番号 甲26091
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1356号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 木村,廣道
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 特任教授 津谷,喜一郎
 東京大学 准教授 小野,俊介
 東京大学 教授 KENELLER,Robert William
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

近年、医薬品産業では研究開発の生産性の急激な低下が問題視されている。特に、臨床試験(治験)のコストが研究開発コスト全体の約60%を占めるため、治験の生産性の向上が製薬企業経営の重要課題となっている。一方、治験の国際化が進み、国際共同治験の参加国数は、1995年から2005年にかけて倍増した。このような背景の中、国際共同治験各実施国の治験の生産性を分析、比較し、資源配分の最適化を通して治験全体の生産性を向上する事は、製薬企業にとって非常に有用と考えられる。

日本でも治験の生産性向上は重要課題である。近年問題になっている日本のドラッグ・ラグの原因は、欧米に比較して、日本での治験の着手時期に遅れが約2年あること、次いで臨床開発及び承認審査に時間を要するためと報告されている。2005年に発表された先行研究によれば、日本の一症例あたりの治験コストは米国の2.5倍、また、ある治療領域では米国の約18倍の時間を治験に要している。日本の治験の生産性を改善することはドラッグ・ラグの改善と日本に対する製薬企業の医薬品開発投資のモチベーション増加に寄与すると考えられる。

【研究の目的】

1.製薬企業の治験管理デ一タを分析し、国際共同治験と日本治験の現状を記述する

2.各治験の治験生産性を比較分析するツールとして、治験のコストを要素分解した定量分析モデルを構築する

3.上記モデルを用いて、製薬企業の治験管理データを分析し、国際共同治験と日本治験を比較することにより、日本の特徴および課題を抽出し、解決策の提言を行う

【方法】

1.分析対象

図1に示すとおり、特定製薬企業提供の治験管理データを分析対象とした。化合物AとBは糖尿病領域において、化合物Cは脳卒中領域において治験が実施されたものである。研究対象としたプロトコールはGCP(GoodClinicalPractice)に従って実施されている。これは、同じ治験プロトコールは、他のどの会社が実施しても基本的に同じく実施されることを意味する。したがって、この治験プロトコールは、実施した国や企業によって品質に差がないという前提に立って、研究対象とできると考えられた。

定量分析モデル構築の検討には、最初に選択された国際共同治験・脳卒中C10と日本治験・脳卒中C20のセットを用いた。日本治験と国際共同治験の比較には、それに加え国際共同治験・糖尿病A110と日本治験・糖尿病A240のセット、及び国際共同治験・糖尿病Al20と日本治験・糖尿病A230のセットを用いた。

2.現状分析

日本治験の国際治験の中での位置付けを検討するため、各治験、各実施国間の治験速度(施設あたり症例獲得速度)を比較検討した。また、脳卒中ClOとC20を用いて、治験間および地域間の治験コスト(施設関連症例あたりコスト)を比較検討した。さらに、化合物AとCの治験プロトコールを対象として、施設あたり症例獲得速度と各実施国の社会経済的背景因子(経済水準、医療体制等22因子)の関係を検討した。

3.計量モデル構築と実例分析

脳卒中C10と脳卒中C20の主要なコスト要因であった施設関連治験コストと外部委託モニタリングコストを詳細かつ網羅的に要素分解したモデル(実データ反映モデル/図2)を構築し、得られた指標を用いて、選択した3つの国際共同治験と日本治験のセットを分析、比較した。

【結果】

1.現状分析結果

糖尿病領域の治験の比較において、施設あたり症例獲得速度は、同じ化合物の治験であっても治験プロトコールによって大きな差異がみられ、同一国際共同治験内であっても国によって10倍以上の差があることが示された。その中で、日本治験の施設あたり症例獲得速度は、類似の国際共同治験の実施国あるいは同一化合物の治験との間で比較すると、何れも下位10%程度に位置付けられた。

脳卒中領域の治験の比較においては、糖尿病領域とは異なった結果が得られた。国際共同治験C10と日本治験C20において、施設あたり症例獲得速度と施設関連症例あたりコストを比較した結果を図3、4に示す。日本治験C20の施設あたり症例獲得速度は、世界の他地域と同等以上であり、日本治験で症例獲得速度の速い施設の上位10%(トップ10%)を集めると、その速度はClO全体の約3.8倍と国際競争力があった。施設関連症例あたりコストの比較においては、日本は世界のどの地域よりも高く、C10全体の約2倍であった。C20の症例獲得速度の速いトップ10%施設では、C20全体よりコストが約30%低く、症例獲得速度の速い施設では治験コストが低いことが示唆された。

各国の治験速度の違いに影響する要因を検討するために、各実施国の社会経済的背景因子と国際共同治験・糖尿病A110,糖尿病A120および脳卒中C10の施設あたり症例獲得速度について相関解析を行った。国民1人あたりの政府の健康関連支出、人口における60歳以上の比率、医師密度、国民1人あたりのGDP等の背景因子において3治験共通に統計的に有意な負の相関が認められた。Ward法による要因分析を行うと、国民1人あたりの政府の健康関連支出と人口における60歳の比率が主要な要因との示唆が得られた。

2.実データ反映モデルからの指標による実例分析結果

日本治験・脳卒中C20の治験コスト要因のうち、国際共同治験C10に対して有意な乖離が認められた主なものとしては、CRA(クリニカルリサ一チアソシエート)の施設あたり訪問日数が約5.6倍、症例あたり担当医師数および症例あたり担当非医師スタッフ数が共に約2.5倍であり、週あたり獲得可能時間比率はC10に対して約3分の1、また、IRB審査期間が0.47倍、IRB承認一獲得準備完了期間0.59倍であった。図2のモデルが示すように、施設あたり症例獲得速度は週あたり獲得可能時間比率を構成要素として持つ。日本での対象症例の発症率が米国などより高いと報告されており、施設での患者集積が高いために、C20における施設あたり症例獲得速度は国際共同治験と同等レベル以上となったと考えられた。

糖尿病A110と糖尿病A240および糖尿病A120と糖尿病A230の2つの治験のセットについても、国際共同治験と日本治験の比較分析をそれぞれ行った。但し、糖尿病治験においては、治験コスト、施設訪問数、症例あたり担当非医師スタッフ数のデータが欠失していたために比較から除外した。日本治験の治験コスト要因のうち、国際共同治験に対して有意な乖離が認められた主なものとしては、症例あたり担当医師数が2.3-3.9倍、IRB審査期間が0.18-O.22倍、IRB承認一獲得準備完了期間が0.19-0.24倍、また、獲得準備完了一FSFV期間が共に4倍であった。すなわち、症例あたり担当医師数、IRB審査期間、IRB承認一獲得準備完了期間については脳卒中の治験の比較と類似の結果が得られた。

【考察とまとめ、提言】

糖尿病薬の治験管理データ(化合物A,B)を分析すると、日本治験は、国際的に症例獲得速度が遅く、脳卒中薬の治験管理データ(化合物C)の施設関連症例コストの比較では、世界で最も高いコスト水準にあった。一方、構築したモデルを用いて、脳卒中C10とC20を分析比較すると、日本の治験生産性の改善に繋がる切り口が複数示された。主なものは次の通りである。(1)日本の施設訪問日数を治験の質を落とすことなく、国際共同治験レベル並みに削減できれば、C20のように外部委託モニタリングコストが約6割のコストを占めるような治験では、治験全体のコストを半減できる。(2)C20の症例獲得速度の速いトップ10%の施設の治験の仕組みを他の施設に移植できれば、その施設において施設関連症例あたりコストを約30%低減できる。(3>日本の治験施設に症例集積が多くUnmetMedicalNeedsの強い疾患の治験を促進することが有益である。

加えて、脳卒中領域と糖尿病領域の国際共同治験と日本治験の比較分析より共通して、次の点が示唆された。(1)症例あたり担当医師数が日本においては2倍以上多く、治験施設のリソースの適正化が必要である。(2)IRB審査期間およびIRB承認一獲得準備完了期間が日本治験において有意に短くに日本の強みとして維持すべきである。

本研究で分析対象とした治験管理データの比較において、日本治験特有の問題点を浮き彫りにすることができた。今回構築したモデルは、他の製薬企業の治験管理データにおける比較分析にも応用可能であると考えられる。さらにモデルを精査、発展させ、製薬企業の臨床開発の生産性向上に役立てていきたい。

1.Takahashi K, Sengoku S, Kimura H. Analysis on productivity of clinical studies across Asian countries-a case comparison. Drug Discov. Ther. 2007;1:4-82.Takahashi K, Sengoku S, Kimura H. Driving clinical study efficiencies by using a productivity breakdown model : Comparative evaluation of aglobal clinical study and a similar Japanese study. J. Clin. Pharm. Ther. 2010(in press)

図1分析対象

図2実データ反映モデル

図3脳卒中C10とC20の治験速度の比較

図4脳卒中C10とC20の治験コストの比較

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、グローバル製薬企業の経営課題の一つである国際共同治験の効率化に関して、日本の現状と課題およびその解決策を考察し提言することを目的とし、デンマークに本社のあるグローバル企業の脳卒中・糖尿病領域における治験管理データを多国間比較することにより、日本治験の現状を多面的かつ詳細に分析した業績である。

本論文では、「現状分析」において、治験の生産性を構成する要素(治験速度、治験コスト等)に関し、対象とした治験管理データを分析し、異なる疾病領域、各治験、各実施国、各地域等について相互的に比較し、さらに、治験速度と各実施国の社会経済的背景因子(経済水準、医療体制等22因子)の関係を分析した。これらの分析結果を包括的に検討することにより、国際共同治験における日本治験の位置づけを明らかにした。次に、「定量分析モデルを用いた国際共同治験と日本治験の比較」等において、治験の生産性を構成する要素を詳細に分解した定量分析モデルを構築し、日本治験と国際共同治験の生産性について、要素ごとに比較分析をおこない、日本治験に関して、より具体的な課題抽出をおこなうとともに、その解決策について考察を行った。

そして、上記の検討により、日本の治験生産性の改善に繋がる切り口を次のように示した; (1)日本の施設訪問日数を治験の質を落とすことなく国際共同治験レベル並みに削減できれば、治験によっては全体のコストを半減できる。(2)日本における治験速度の速い上位10%の施設の治験の仕組みを他の施設に移植できれば、移植先の治験コストを約30%低減できる。(3)日本の治験施設に症例集積が多くUnmet Medical Needsの強い疾患の治験を促進することが有益である。(4)症例あたり担当医師数が日本においては2倍以上多く、治験施設のリソースの適正化が必要である。(5)IRB審査期間およびIRB承認-獲得準備完了期間が日本治験において有意に短く日本の強みとして維持すべきである。

本論文のオリジナリティーは以下の4点に認められる。第一は、従来研究ではなしえなかった大規模国際共同治験の治験管理データを用いて詳細な比較分析を多面的に行ったことである。従来研究では、複数企業の断片的なデータ集積をおこなうにとどまり、比較分析に値するデータはごく限られ、日本の現状を概観することはできても、国際比較や詳細な要因分析は不可能であった。第二は、精緻な「定量分析モデル」を構築することで、治験の生産性について、論理的に比較できる枠組みを提供したことである。本研究においては、日本治験と国際共同治験の比較のために当該モデルを用い、日本治験の現状と課題抽出に関し、その有用性が示されているが、今後は、実際の企業経営においても国際共同治験の効率化のための分析ツールとして用いられることが期待される。第三は、治験管理データを比較分析するに際し、随所に工夫がみられる点である。例えば、(1)世界各国の治験速度の違いに寄与する要因を検討するために、国毎の社会経済的背景因子と治験速度の関係検討を実施し、(2)治験の生産性向上の際に遭遇する可能性のあるトレード・オフについて、2つの指標間の相関関係の解析に基づいて検討を試み、(3)定量分析モデルによる比較結果の考察から、国あたりの施設数の治験速度に与える影響の解析など、治験の生産性向上に関する新規な切り口を得る、といった点があげられる。そして、第四は、本研究によって見出された日本治験の現状と課題に対し、学術的な考察だけでなく、製薬企業で実際に治験を進行監督する立場を踏まえた冷静な洞察がみられる点である。

医薬品産業では、近年、研究開発の生産性の急激な低下が問題となっている。国際共同治験において各実施国の治験の生産性を分析、比較し、資源配分の最適化を可能とする方策を示した本論文は、上述のような学術的意義はもとより、医薬品産業全体が抱える経営課題に新たなアプローチを提供した点で画期的なものであると言えよう。今後は、「定量分析モデル」を用いて、より広範な対象について、複数企業間比較、経時分析、疾病領域間比較などの分析をおこなうことで新たな学術的知見を得ること、その一方で、それらの分析を通じて、「定量分析モデル」をより実用的なツールとして発展させることが期待される。

以上のような次第で、本論文は、本研究科において博士(薬学)の学位を授与するにふさわしい業績だと評価される。

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