学位論文要旨



No 126144
著者(漢字) 樋渡,智秀
著者(英字)
著者(カナ) ヒワタシ,トモヒデ
標題(和) L-Mオプシン塩基配列情報を用いた霊長類における色覚多様性の探索と集団遺伝学的解析
標題(洋)
報告番号 126144
報告番号 甲26144
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第561号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 河村,正二
 東京大学 教授 田嶋,文生
 東京大学 准教授 鈴木,匡
 東京大学 准教授 米田,穣
 東京大学 講師 尾田,正二
内容要旨 要旨を表示する

霊長類の赤-緑(L-M)オプシン遺伝子はX染色体上に存在する。狭鼻猿類(ヒト、類人猿、旧世界ザル)ではこのL-Mオプシンが遺伝子重複し、LオプシンとMオプシンに分化しており、常染色体性の青(S)オプシンとあわせて恒常的3色型色覚を有している。また、原猿と多くの哺乳類ではSオプシンとLまたはMのオプシン遺伝子しか存在しないため、基本的に2色型色覚である。一方、新世界ザルでは、Sオプシンに加え、X染色体上の一座位にL-Mオプシン遺伝子が対立遺伝子多型として存在するため、個体によって2色型、3色型色覚が存在する。新世界ザルにおいてX染色体を一本しか持たないオスでは常染色体上のSオプシンを加え、常に2色型となる。また、X染色体を二本持つメスで、対立遺伝子をホモ接合で持つ場合は、オスと同様に二色型であり、また、その中でもヘテロ接合で持つ場合は3色型色覚となる。このように新世界ザルは同一集団内に異なる色覚を持つ個体が混在するというユニークかつ多型的な色覚を持っている。

新世界ザルの色覚は著しい種内多型を示し、ヒトの色覚多型の生物学的意義を検証する上で優れたモデルとなる。この色覚多型は約2500万年以上も持続してきたと考えられ、それゆえこの多型持続をヘテロ超優性選択等の平衡選択による積極的維持により説明する研究者が多い。しかし、フィールドワークの行動観察からは、新世界ザル3色型色覚の適応的意義は明確ではない。また、遺伝的浮動における中立突然変異の集団中での持続時間の期待値の決定要因である有効集団サイズも未解明である。さらに、集団サイズの変動や集団の融合、分集団を無視したサンプリングといった効果も多型性を生み出す原因となる。そこで、このような可能性まで考慮に入れて、野生の新世界ザルの集団に対してL-Mオプシンの平衡選択の検証を行う必要がある。

一方、狭鼻猿類の中でヒトだけは、LあるいはMオプシン遺伝子が欠失した2色型色覚であるいわゆる、赤緑色盲や、LとMオプシン遺伝子がキメラになった異常3色型色覚であるいわゆる赤緑色弱といった色覚多型がヒト、特に男性で約3~8%と高頻度で観察される。これはLオプシン遺伝子とMオプシン遺伝子の塩基配列類似性は約96%と非常に高く、そのためLオプシン遺伝子とMオプシン遺伝子間で非相同組換えを起こしやすいためと考えられている。それに対して、ヒト以外の狭鼻猿類で実際に数字で見てみると、このような赤緑色盲および赤緑色弱の頻度はカニクイザルでは3153頭のうち3頭(Onishi et al., 1999)、頻度にして0.1%以下であり、チンパンジーでは146頭のうち1頭(Saito et al., 2005; Terao et al., 2005; Verrelli et al., 2008)と頻度にして1%以下しかキメラが検出されておらず、極めて低い。しかし、カニクイザルを含むマカク類とチンパンジー以外ではL-Mオプシン遺伝子の集団調査行われておらず、狭鼻猿類全体での色覚多様性は明らかではない。さらに塩基配列の多型性についての解析は、ヒトとチンパンジーにおいてLオプシン遺伝子のみしか行われておらず、Mオプシン遺伝子についても集団の塩基配列を収集し、解析を行った例は存在しない。さらにマカク類に関しては遺伝子型のみで、そもそも塩基配列レベルでの解析ができないという問題点も存在する。ここで、Lオプシン遺伝子のみでは何が問題になってくるのかというと、それはLとMオプシン遺伝子間での塩基配列のシャッフリング現象、すなわち遺伝子変換(gene conversion)の影響を評価できないことである。

そこで、本研究において、もう一つのテーマとしてヒト、チンパンジー、マカク類以外での色覚多型の知見のない狭鼻猿類についてLとMオプシン遺伝子の両方について、エクソンだけではなくイントロンについても塩基配列を調べ、多型性を評価し、さらにLとMオプシン遺伝子の遺伝子変換が狭鼻猿類の色覚進化に及ぼす影響について解析を行いたいと考えた。

上述のように、霊長類の中でヒトと新世界ザルにおいては色覚多型性が報告されているが、これまで、それらも含めて霊長類についてL-Mオプシン遺伝子の塩基配列レベルでの多型性に着目した研究はほとんどなく、色覚多型性に対する自然選択について、集団遺伝学的なアプローチはこれまでほとんど行われてこなかった。そこで、霊長類全体における色覚多型性の解明並びに、その適応的意義の理解を行うことを目的とした。

以上の理由から、私は行動観察から3色型色覚の有利性が明確でなく、生態及び色覚の点で異なるノドジロオマキザル (Cebus capuchin)とチュウベイクモザル(Ateles geoffroyi)の野生の一集団を対象に、L-Mオプシン遺伝子の多型性の評価を行い、その色覚多様性進化機構について明らかにすることにした。そして、狭鼻猿類では、色覚多型性が未知であり、多様な生態を示すテナガザルを対象として、L-Mオプシン遺伝子の多型性の評価を行い、その色覚多様性進化機構について明らかにすることにした。

結果と考察

1.塩基多様度π(新世界ザル)

クモザルにおいてはL-Mオプシン遺伝子exon1~exon6を中心としたintronを含む領域約1kbpずつ、合計6041bpと、オマキザルにおいてはexon1, exon3,exon5,exon6の合計3958bpと中立対象領域として選んだpseudogeneや他の遺伝子のintron領域約0.5kbpずつの塩基配列決定を行った。その結果、L-Mオプシン遺伝子は中立と比較して5~10倍程度の高い塩基多様度を示した。(Table.1)

2.コアレッセンスシュミレーション(新世界ザル)

中立遺伝子のπの平均値を求め、シミュレーションにより集団突然変異率θの分布を求めた。そのθを用いてさらにシミュレーションによって中立仮定下で期待されるπの分布を求めた。尚、中立遺伝子は常染色体性であるため、分布の各値を3/4倍し、用いた。その結果、L-Mオプシン遺伝子のπは中立仮定の場合より有意に大きいことがわかった。(Figure.1)

3.Tajima's D検定(新世界ザル)

L-Mオプシン遺伝子の各exon領域と中立遺伝子に対しTajima's D検定を行った(Table.1)。中立遺伝子のDの値は、L-Mオプシン遺伝子のDに比べ0に近く、これらの領域が中立であることに矛盾しない。また、この集団の有効集団サイズに大きな変動が無かったこと、分集団の混合がないこと、分集団からのサインプリングが無いことも支持している。これに対し、L-Mオプシン遺伝子の中央領域におけるD は正の値を示した。 中立遺伝子のπの平均値を用いてシミュレーションにより求めた集団突然変異率θを用い、中立状態で期待されるDの分布を求め、その分布からのL-Mオプシン遺伝子の各領域の実測値Dのずれを検定した。その結果、各exonは中立仮定の場合から有意に逸脱していることが明らかになった(Table.1)。このことはM/LWSオプシンの多型性が平衡選択によるものであることを示している。

4.遺伝子型解析(テナガザル)

L-Mオプシン遺伝子の最大吸収波長λmaxはexon3とexon5中の3つのアミノ酸サイト(3サイトルール)から推定できる。そこで、解析対象としたテナガザル3属8種158個体について3つのアミノ酸サイトの構成を調べた。その結果、L-Mオプシン遺伝子に失欠型、キメラ型は存在せず、全て正常型個体であることがわかった.

5.系統ネットワーク(テナガザル)

遺伝子型解析を行った各個体について、L-Mオプシン遺伝子の3サイトを含むexon3-5領域と同遺伝子のintronを含む領域の合計3.6kbpの塩基配列を決定した。また、exonの配列情報を元に、系統ネットワークの作成を行った。その結果、テナガザルのexonでは、組み換えに対する明確な証拠は得られず、組み換え体への強い淘汰圧示唆する結果を示した。

6.塩基多様度πと塩基相違度(テナガザル)

本研究においてテナガザルのL,M両方について、Intronの集団の配列を取得し、解析を行い、多型性を評価、並びにLとM間のgene conversionの及ぼす影響の検証を行う目的でL,M両方について、これまでの3サイトを含むExon3~5 とは別に、テナガザル3属8種101個体についてIntron3, Intron4の領域の塩基配列情報の取得を行った。得られた配列を元にテナガザル3属についてL-Mオプシン遺伝子を領域ごとに分けて塩基多様度を求めた。また、Neutral,中立対照領域、こちらはテナガザルより、ηグロビンシュードジーン、とSオプシンのイントロンといった、中立と考えられる2領域についてそれぞれ配列の取得を行い、塩基多様度を求めた。 その結果中立対照領域では1.0程度を示し、Intronはそれと同程度、あるいは若干、高い値となった。一方、Exonに関しては非常に多型性が低く保存的であることがわかった。(Figure.4) LとMの配列間の違いをグラフにした結果、上述のL-Mオプシン遺伝子の領域ごとの塩基多様度(%)のグラフとは逆にExonでは違い大きく、それと比較して、Intronでは違いが小さいことがわかった。さらに、上述の塩基多様度のグラフを加えると、Intronでは同程度の高さ、Exonでは低い値をとることがわかった。これはintronにおいて塩基の違いと、塩基の多型性が同程度であることを意味しており、テナガザルのIntronではgene conversionが起こっており、Exonではgene conversionは起こっているが、排除されている現象であることがわかった。 (Figure.5)これらのパターンはpuryfing selectionを示し、選択圧の存在が示唆される結果となった。

結論

新世界ザルでは平衡選択が検出され、また、得られた配列を解析した結果、Exon, Intronを含めた領域において配列レベルでの多型性が観察された。一方、狭鼻猿類ではテナガザルには多型性がExonでは見られず、Intronではgene conversionによる多型が観察され、典型的なpurifying selectionであると解釈できる。また、新世界ザルではbalancing selection テナガザルではpurifying selectionがそれぞれ示され、対照的な選択圧がかかっていることが明瞭に示された。今回、新世界ザル、テナガザルのL-Mオプシン遺伝子の多型を解析することにより今後、ヒトとの比較における基礎データとして活用していくことができると考えられる。

Table.1 DNA多型まとめ

Figure.1 中立仮定下における塩基多様度π の理論分布と実測値 a=クモザル b=オマキザル

Figure.2 テナガザル3属8種158個体におけるL-Mオプシン遺伝子型頻度

Figure.3 系統ネットワーク

Figure.4 L-Mオプシン遺伝子の領域ごとの塩基多様度(%)

Figure.5 L-Mオプシン遺伝子におけるLとMの配列間の違い

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章から構成され、第1章は全体の序論、第4章は総合考察に充てられ、研究の核心部分は第2章と第3章になる。第2章は新世界ザルの野生集団に対して、多型的色覚L-Mオプシン遺伝子の種内及び種間の多様性を検証し、第3章は小型類人猿であるテナガザルを対象として遺伝子重複した色覚L-Mオプシン遺伝子の集団遺伝学的解析を行なっている。

第2章において論文提出者は次のことを明らかにした。中南米に生息する新世界ザル類は、2色型と3色型からなる高度な色覚多様性を有する点で色覚の適応的意義を研究する格好のモデル動物といえる。この多様性はX染色体性単一座位L-Mオプシン遺伝子における対立遺伝子レベルのモーダルシフト、すなわち対立遺伝子多型によりもたらされている。色覚多様性は新世界ザルのすべての科に存在することから、自然選択により維持されていると推測されてきたが、十分な証明はされていなかった。また、野生群の行動観察結果は3色型に有利とされる果実採食においてさえ色覚型間に採食効率の有意差がないことを示しており、色カモフラージュした昆虫の採食においては逆に2色型の有利性を支持している。そこで論文提出者は本当に自然選択がL-Mオプシン遺伝子の多様性維持に働いているかを検証した。そのためにコスタリカ共和国サンタロサ国立公園に生息する野生のオマキザル(Cebus capucinus)とクモザル(Ateles geoffoyi)の群れを対象とし、糞DNAを用いて、L-Mオプシン遺伝子だけでなく、中立進化をすると期待される比較対照として偽遺伝子及び既知の機能遺伝子のイントロンについて集団塩基配列を決定し、塩基配列多様性をL-Mオプシン遺伝子と比較解析した。両種ともL-Mオプシン遺伝子領域の塩基配列多様性は中立配列のそれより有意に大きく、多様性を維持する自然選択(平衡選択)がL-Mオプシン遺伝子に働いていることを初めて明瞭に示した。行動観察の結果と総合するとこの結果は、3色型色覚がすべてに有利ということはなく、多様な色覚が同一社会集団内に共存することが適応的である可能性を示唆している。

第3章において論文提出者は次のことを明らかにした。ヒトを含む狭鼻猿類はL、M、Sの3種類の錐体オプシンを持ち、3色型色覚である。LとMオプシン遺伝子はX染色体上に隣接しており、塩基配列も類似している。ヒトではLとMオプシン遺伝子間の不等交差による一方の遺伝子の失欠や両遺伝子のキメラが生じている例が多く、いわゆる色覚異常の原因となっている一方、ヒト以外の狭鼻猿類ではそれらは例がないか極めて低頻度と報告されている。しかし、ヒト以外の狭鼻猿類でL-Mオプシン遺伝子領域の多型性を塩基配列レベルで多数の個体に対して調査した例は1種のチンパンジーのLオプシンについてのみである。そこで論文提出者は、これまで色覚多型の知見がないテナガザルの3属8種(H.lar,H.agilis,H.muellen,H.klossii,H.moloeh,H.pileatus,S.syndaetylus,N.leueogenys)158個体を対象に、LとMの両方のオプシン遺伝子に対して、エクソン3~5までのゲノム領域約3.6kbを、PCR法と塩基配列決定によって解析した。その結果、遺伝子欠失やキメラは存在せず、塩基配列の多型性はエクソンがイントロンよりも低いことを明らかにした。これは両遺伝子とも、多くの遺伝子と同様に強い機能制約下にあることを示している。一方、LとMオプシン遺伝子の間の塩基配列の相違ではエクソンはイントロンより高かった。吸収波長に関わるアミノ酸サイトは少数であることから、このことは、LとMオプシン間で塩基配列を均一化させる遺伝子変換が生じており、エクソンでは各遺伝子の機能(吸収波長)の違いを保持する選択圧により、エクソンに生じた遺伝子変換が集団中に残らないことを示唆している。これらのことはヒトとヒト以外の狭鼻猿類においてはL-Mオプシン遺伝子に対する自然選択の様相が全く異なることを示している。

これらの結果は霊長類全体の色覚進化とヒトにおける色覚多様性の進化学的意味を理解する上で重要な発見である。また、これらの発見はほとんど全て論文提出者の実験とデータ解析によるものである。したがって博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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