学位論文要旨



No 126159
著者(漢字) 網代,将彦
著者(英字)
著者(カナ) アジロ,マサヒコ
標題(和) 乳癌における新規治療標的候補分子RQCD1の同定および機能解析
標題(洋) Identification and functional analysis of RQCD1, as a novel molecular target candidate in breast cancer therapy.
報告番号 126159
報告番号 甲26159
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第576号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 メディカルゲノム専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 醍醐,弥太郎
 東京大学 教授 渡邉,俊樹
 東京大学 教授 古川,洋一
 東京大学 教授 村上,善則
 東京大学 特任教授 渡辺,すみ子
内容要旨 要旨を表示する

研究背景

2002年度の癌部位別の国際的統計では、乳癌の罹患率は全癌種を通して最も高く、死亡率は五番目に位置する。近年、乳癌の罹患率は上昇傾向にある一方で、死亡率は減少傾向にある。その主な原因としては、マンモグラフィによる乳癌の早期発見率の向上と乳癌における有効な分子標的治療薬の開発が挙げられる。乳癌に対する代表的な分子標的治療薬としては、エストロゲン受容体に対するエストロゲンの競合的阻害薬であるタモキシフェン、エストロゲン生合成に関わるアロマターゼの酵素活性を阻害するアロマターゼ阻害薬、HER2/ErbB2に対するヒト化抗体であるトラスツズマブが挙げられるが、これらの薬剤の開発により従来の化学療法主体の治療法は大きく変化した。これらの分子標的治療薬は、標的細胞の特異性が低い従来の化学療法とは異なり癌細胞の増殖に重要な機能を有する特定の分子を標的とすることにより癌細胞を効率的に障害し且つ副作用が少ないという性質を有する。しかしその一方で標的分子であるエストロゲン受容体、HER2/ErbB2の発現が確認されない症例、或いはこれらの分子標的治療薬に対して耐性を示す症例の場合は依然として従来の化学療法が唯一の治療法であることや、タモキシフェンの長期投与に起因する子宮内膜癌リスクの上昇、アロマターゼ阻害薬による骨量低下、トラスツズマブによる心毒性副作用等の有害事象が問題点となっている。このような現状から、乳癌においてより副作用のリスクが低い新規の分子標的治療薬の開発が強く求められている。本研究ではcDNAマイクロアレイによる乳癌臨床検体の遺伝子発現解析から乳癌細胞において特異的に発現が亢進する遺伝子としてRequired for cell differentiation 1 homolog (RQCD1)を同定し、新規治療標的候補分子としての可能性の検討を行った。

1.cDNAマイクロアレイ解析によるRQCD1の同定

臨床検体における乳癌細胞で特異的に発現が亢進している遺伝子を抽出するため乳癌臨床検体81症例および29種類のヒト正常臓器に対してcDNAマイクロアレイによる遺伝子発現解析を行った。乳癌組織からのサンプル調整に関しては間質細胞、炎症細胞、血管内皮細胞等のコンタミネーションを排除して遺伝子発現情報の特異性を高める目的から、レーザーマイクロビームマイクロダイセクションを施行し乳癌細胞、およびその発生母地である正常乳管上皮細胞を選択的に採取した。cDNAマイクロアレイによる発現解析において30%以上の症例で3倍以上の発現亢進が確認され、正常臓器群における発現量が低い遺伝子を標的候補遺伝子として抽出したところ、そのような基準を満たす候補遺伝子の一つとしてRQCD1が同定された。

乳癌臨床検体におけるRQCD1の発現亢進は半定量的RT-PCRによって確認を行った。乳癌細胞株および17種類のヒト正常臓器由来mRNAに対するノザンブロット解析では、いずれの乳癌細胞株においてもRQCD1の発現が確認された一方で、正常臓器群においては精巣のみで発現が確認された。このことからRQCD1は新規の癌精巣抗原であることが明らかになった。次にRQCD1全長の組み換えタンパク質を調整し、それを抗原として抗RQCD1ポリクローナル抗体を作製した。作製した抗RQCD1ポリクローナル抗体を用いてウエスタンブロットを施行しタンパク質レベルの発現量解析を行ったところノザンブロット解析の結果と同様に乳癌細胞特異的な発現が確認された。

このようにRQCD1は乳癌細胞および精巣に特異的な発現パターンを示すタンパク質であることが明らかになった。正常臓器において発現が認められないことから、RQCD1を治療標的とした場合、正常細胞に対する障害に起因する副作用のリスクが低いことが期待出来る。さらに近年開発が進みつつある癌ワクチン療法の抗原タンパク質候補としても有望であると考えられる。

2.乳癌細胞の細胞増殖におけるRQCD1の関与

RQCD1は乳癌細胞に特異的な発現を示すが、実際に治療標的分子となる為にはRQCD1の機能が乳癌細胞の細胞増殖に重要であるということが望まれる。そのため、次にRQCD1と乳癌細胞の細胞増殖との関連について検討した。乳癌細胞株においてRQCD1の発現を抑制した場合に細胞増殖がどのような影響を受けるかに関してsmall hairpin RNA (shRNA)発現ベクターの導入による発現抑制実験を施行した。RQCD1のmRNA配列に特異的な19塩基の配列2種類に対してU6 promoter 制御によるshRNA発現ベクターを作製した。これらのshRNA発現ベクターを乳癌細胞株BT-549およびHCC-1937に導入したところ、いずれのshRNAを導入した場合も、RQCD1の発現が効果的に抑制されることを半定量的RT-PCRおよびウエスタンブロットにより確認した。また、RQCD1の発現を抑制した場合、いずれの乳癌細胞株に対しても顕著な細胞増殖抑制効果を示すことが確認された。これらのことからRQCD1は乳癌細胞株の細胞増殖において必須な役割を担っていることが明らかとなった。一方、RQCD1を導入した際の細胞増殖に与える影響に関して検討するため、HEK293を用いてRQCD1安定発現株を樹立した。細胞増殖に関して検討したところ、RQCD1安定発現株群において対照群と比較して有意な細胞増殖促進効果が確認された。これらの解析からRQCD1は細胞増殖に関して重要な分子であり、その機能を阻害することにより乳癌細胞の増殖を抑制出来る可能性が示唆された。

3.RQCD1相互作用分子GIGYF1およびGIGYF2の同定

RQCD1の発現抑制および導入時の細胞増殖に関する解析からRQCD1は乳癌細胞株の細胞増殖に必須の役割を担うことが明らかになったが、一方で細胞増殖に関するRQCD1の機能は明らかではない。したがって、次にRQCD1の細胞増殖における機能に関して検討した。乳癌細胞株BT-549を用いてGST-pull down assayを施行しRQCD1の相互作用タンパク質の探索を行った。GST-pull down assay後のサンプルをSDS-PAGEにより分離、銀染色を施行した後GST単体の共沈物と比較してGST-RQCD1の共沈物において特異的に検出されたバンドを切り出し、トリプシン消化後LC-MS/MSによってそのアミノ酸配列を解析した。その結果、新規のRQCD1相互作用タンパク質の候補としてGrb10-interacting GYF protein 1 (GIGYF1)及びGrb10-interacting GYF protein 2 (GIGYF2)を同定することに成功した。GIGYF1およびGIGYF2のRQCD1に対する相互作用は免疫沈降法によって確認することが出来た。半定量的RT-PCRによる発現解析ではGIGYF1およびGIGYF2は解析を行ったいずれの乳癌細胞株においても発現が確認されたが、正常乳腺では発現は確認されなかった。免疫細胞染色により乳癌細胞株BT-549における細胞内局在を検討したところ、GIGYF1、GIGYF2は共に細胞質領域に発現していた。GIGYF1およびGIGYF2はGrowth factor receptor binding protein 10 (Grb10)と相互作用しGrb10下流のPhosphatidylinositol 3-kinase (PI3K)/Aktシグナルの活性化に関与することが報告されている。Grb10がGIGYF1、GIGYF2と同様にRQCD1と相互作用している可能性を免疫沈降により検討したところ、両者の相互作用を検出することが出来た。そのためRQCD1、GIGYF1、GIGYF2およびGrb10の複合体が乳癌細胞において下流のPI3K/Aktシグナルの制御に関与する可能性を次に検討した。

4.乳癌細胞のPI3K/Akt活性制御に関するRQCD1の機能解析

Grb10はC末端領域のSH2ドメインを介して種々の受容体チロシンキナーゼのリン酸化チロシン残基と相互作用し、さらにPI3Kの p85 regulatory subunitと相互作用することによりPI3Kを活性化する機能が知られている。GIGYF1およびGIGYF2はGrb10のこのような下流シグナル分子の活性化に促進的に関与していると考えられている。本研究でGIGYF1、GIGYF2およびGrb10がRQCD1の相互作用分子として同定されたことから、RQCD1がPI3K/Akt経路の活性制御に関わる可能性について検討した。

通常、血清・増殖因子非存在下ではAktの活性は消失するが、RQCD1高発現乳癌細胞株BT-549、HBC-5およびHCC-1937においてはいずれの場合も血清・増殖因子非存在下においてもAktは恒常的に活性化を受けていた。このようなリガンド非依存的なAktの活性化の機序としては乳癌細胞における受容体チロシンキナーゼの過剰発現、Akt上流のシグナル分子の活性型変異によって恒常的にシグナルが伝達されていることが原因と推測される。また、PI3KのATP結合部位に対する選択的阻害剤LY294002の添加によりAktの恒常的活性化が消失したことから、これらの細胞株においてAktの恒常的な活性化はPI3Kに依存したものであることが示された。また乳癌細胞株BT-549、HBC-5およびHCC-1937に対してRQCD1に対するsmall interference RNA (siRNA)を導入し、発現抑制を行ったところAktの恒常的活性化が有意に減弱することが確認された。また相互作用分子であるGIGYF1、GIGYF2またはGrb10に関してもsiRNAにより発現抑制することにより乳癌細胞株におけるリガンド非依存的なAktの活性が有意に減弱することが明らかになった。これらのことからRQCD1、GIGYF1、GIGYF2およびGrb10からなる複合体がPI3K/Aktシグナル経路の恒常的活性化に重要であることが示された。

次にRQCD1がGIGYF1、GIGYF2およびGrb10の相互作用にどのような影響を与えているかを検討するためsiRNAによりRQCD1を発現抑制した場合のGIGYF1-Grb10間相互作用、およびGIGYF2-Grb10間相互作用の変化に関して検討を行った。その結果RQCD1の発現抑制群においては対照群と比較して有意にGIGYF1、GIGYF2のGrb10に対する相互作用が減弱することが確認された。このことから、RQCD1はGIGYF1、GIGYF2のGrb10に対する相互作用の安定化に寄与し、下流のPI3K/Aktシグナル経路を活性化させることにより細胞増殖を制御している可能性が示唆された。以上の知見から、RQCD1をsiRNAにより発現抑制させる、或いはRQCD1複合体の機能阻害を標的とすることにより乳癌細胞において特異的にPI3K/Akt活性を阻害し、腫瘍の増殖を抑制させる分子標的治療薬の開発につながることが期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、乳癌の網羅的発現情報解析データを用いた新規分子標的候補Required for cell differentiation 1 homolog (RQCD1)の同定からその発癌における機能解析および分子標的としての有用性について述べられている。

本研究は、国際的に罹患率が全癌種を通して最も高い乳癌の新たな分子標的治療薬の開発基盤となる新規分子標的候補の同定と機能的検証を目的に行った。cDNAマイクロアレイによる乳癌臨床検体の遺伝子発現解析から乳癌細胞において特異的に発現が亢進する遺伝子としてRQCD1を同定し、新規治療標的候補分子としての可能性を示した。

1.RQCD1の同定

乳癌細胞で特異的に発現が亢進している遺伝子を抽出するため乳癌臨床検体81症例および29種類のヒト正常臓器に対してcDNAマイクロアレイによる遺伝子発現解析を行った。cDNAマイクロアレイによる発現解析において30%以上の症例で3倍以上の発現亢進が確認され、正常臓器群における発現量が低い候補遺伝子としてRQCD1が同定された。

乳癌臨床検体におけるRQCD1の発現亢進は半定量的RT-PCRによって確認を行った。乳癌細胞株および17種類のヒト正常臓器由来mRNAに対するノザンブロット解析では、いずれの乳癌細胞株においてもRQCD1の発現が確認された一方で、正常臓器群においては精巣のみで発現が確認された。このことからRQCD1は新規の癌精巣抗原であることが明らかになった。次にRQCD1全長の組み換えタンパク質を調製し、それを抗原として抗RQCD1ポリクローナル抗体を作製した。作製した抗RQCD1ポリクローナル抗体を用いてウエスタンブロットを施行しタンパク質レベルの発現量解析を行ったところノザンブロット解析の結果と同様に乳癌細胞特異的な発現が確認された。

2.乳癌増殖におけるRQCD1の関与

次にRQCD1と乳癌細胞増殖との関連についてsmall hairpin RNA (shRNA)発現ベクターの導入による発現抑制実験を施行した。RQCD1のmRNA配列に特異的な19塩基の配列2種類に対してU6 promoter 制御によるshRNA発現ベクターを作製して、乳癌細胞株BT-549およびHCC-1937に導入したところ、いずれのshRNAを導入した場合も、RQCD1の発現が効果的に抑制されることを半定量的RT-PCRおよびウエスタンブロットにより確認した。また、RQCD1の発現を抑制した場合、いずれの乳癌細胞株に対しても顕著な細胞増殖抑制効果を示すことが確認され、RQCD1は乳癌細胞株の細胞増殖において必須な役割を担っていることが明らかとなった。一方、HEK293を用いてRQCD1安定発現株を樹立して、RQCD1安定発現株群が対照群と比較して有意に細胞増殖能が高いことを確認した。これらの解析からRQCD1は細胞増殖に関して重要な分子であり、その機能阻害により乳癌細胞の増殖を抑制出来る可能性が示唆された。

3.RQCD1相互作用分子の同定

細胞増殖に関するRQCD1の機能の解明を目的に乳癌細胞株BT-549を用いてGST-pull down assayを施行し、RQCD1の相互作用タンパク質の探索を行った。その結果、新規のRQCD1相互作用タンパク質の候補としてGrb10-interacting GYF protein 1 (GIGYF1)及びGrb10-interacting GYF protein 2 (GIGYF2)を同定した。免疫細胞染色により乳癌細胞株BT-549における細胞内局在を検討したところ、GIGYF1、GIGYF2は共に細胞質領域に発現していた。GIGYF1およびGIGYF2はGrowth factor receptor binding protein 10 (Grb10)と相互作用しGrb10下流のPhosphatidylinositol 3-kinase (PI3K)/Aktシグナルの活性化に関与することが報告されている。Grb10がGIGYF1、GIGYF2と同様にRQCD1と相互作用していることを免疫沈降により確認した。そのためRQCD1、GIGYF1、GIGYF2およびGrb10の複合体が乳癌細胞において下流のPI3K/Aktシグナルの制御に関与する可能性を次に検討した。

4.乳癌細胞におけるRQCD1によるPI3K/Akt活性の制御

次にRQCD1がPI3K/Akt経路の活性制御に関わる可能性について検討した。通常、血清・増殖因子非存在下ではAktの活性は消失するが、RQCD1高発現乳癌細胞株BT-549、HBC-5およびHCC-1937においてはいずれの場合も血清・増殖因子非存在下においてもAktは恒常的に活性化を受けていた。また、PI3KのATP結合部位に対する選択的阻害剤LY294002の添加によりAktの恒常的活性化が消失したことから、これらの細胞株においてAktの恒常的な活性化はPI3Kに依存したものであることが示された。また乳癌細胞株BT-549、HBC-5およびHCC-1937にRQCD1に対するsmall interference RNA (siRNA)を導入し、発現抑制を行ったところAktの恒常的活性化が有意に減弱することが確認された。さらに相互作用分子であるGIGYF1、GIGYF2またはGrb10に関してもsiRNAにより発現抑制することにより乳癌細胞株におけるリガンド非依存的なAktの活性が有意に減弱することが明らかになった。これらのことからRQCD1、GIGYF1、GIGYF2およびGrb10からなる複合体がPI3K/Aktシグナル経路の恒常的活性化に重要であることが示された。

次にsiRNAによりRQCD1を発現を抑制した場合のGIGYF1-Grb10間相互作用、およびGIGYF2-Grb10間相互作用の変化に関して検討したところ、RQCD1の発現抑制群においては対照群と比較して有意にGIGYF1、GIGYF2のGrb10に対する相互作用が減弱することが確認された。このことから、RQCD1はGIGYF1、GIGYF2のGrb10に対する相互作用の安定化に寄与し、下流のPI3K/Aktシグナル経路を活性化させることにより細胞増殖を制御している可能性が示された。以上、本研究において、RQCD1をsiRNAにより発現抑制させる、或いはRQCD1複合体の機能阻害を標的とすることにより乳癌細胞において特異的にPI3K/Akt活性を阻害し、腫瘍の増殖を抑制させる分子標的治療薬の開発につながることが示唆された。

なお、本論文は、共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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