学位論文要旨



No 126166
著者(漢字) 田崎,真哉
著者(英字)
著者(カナ) タサキ,シンヤ
標題(和) EGFRシグナル伝達ネットワークに関するシステム的動態解析
標題(洋) System-Level Analysis of EGFR Signaling Networks Based on Time-Resolved Description of Tyrosine-Phosphoproteome Dynamics
報告番号 126166
報告番号 甲26166
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第583号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 メディカルゲノム専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,純夫
 東京大学 教授 甲斐,知惠子
 東京大学 教授 中井,謙太
 東京大学 教授 村上,善則
 東京大学 准教授 樋口,理
内容要旨 要旨を表示する

序論

Epidermal growth factor receptor(EGFR)は細胞外シグナルを細胞内に伝達し、細胞の増殖や分化、生存など様々な生命活動を司るレセプター型チロシンキナーゼである。EGFRは種々のシグナル伝達経路の活性化を統合的に制御し、細胞の正常な表現系を保障している。その為、EGFRの変異や過剰発現はシグナル伝達異常を引き起こし、癌化等の疾患の原因となる。従って、EGFRシグナル伝達機構に対する深い洞察を得ることは、理学的のみならず医科学的にも重要な課題である。

EGFRによる細胞内シグナル伝達の複雑な制御はEGFRのC末端に存在する複数の自己リン酸化部位に種々のシグナル分子が相互作用することによって達成される。これまでEGFR自己リン酸化部位の機能を明らかにするために、EGFR変異体を用いた生化学的な解析が行われてきた。しかしながら、EGFR自己リン酸化部位のシグナル伝達制御機構に関するネットワークレベルの定量的かつ動的な理解は未だ進んでいないのが現状である。その主な原因は、自己リン酸化部位の一残基変異はシグナル伝達に対してわずかな影響しか与えないこと、及び、自己リン酸化部位は複数のシグナル分子と結合するために、その変異によりネットワーク全体に影響が及ぶことにある。そこで私は高精度かつ包括的にシグナル伝達動態を定量可能な最先端のプロテオミクス技術、及び、生命情報科学技術を用いてこれらの問題を解決し、細胞レベルにおけるEGFRシグナル伝達動態をネットワークレベルで解析する統合的なプラットフォームの開発を目指した。

本研究ではEGFR自己リン酸化部位解析のモデル系として992番目のチロシン残基(Y992)に着目した。Y992はEGF刺激依存的に自己リン酸化するチロシン残基の一つである。プロテインチップによる包括的な結合分子探索の結果、Y992はEGFRの自己リン酸化部位の中で最も多種類のタンパク質と結合しうる、多機能結合部位、であることが示唆されている。細胞レベルにおいてはPlcγ1、Shc、Vav2、RasGAPなどがY992の相互作用分子として報告されている。これらのうちPlcγ1、Shc、Vav2は増殖や生存に重要な転写調節因子であるERK1/2を正に制御する因子であり、一方RasGAPはERK1/2を負に制御する因子である。Y992の変異は下流のシグナル伝達経路に複雑な正負の効果をもたらすことが考えられ、我々のシステムワイドな解析手法の有効性を評価する上で非常に有用なモデル系である。

結果と考察

チロシンリン酸化依存的タンパク質の時系列定量解析

EGFRシグナル伝達は主にタンパク質のチロシンリン酸化修飾を介して伝達されることが知られている。従って、細胞内のチロシンリン酸化状態はEGFRシグナル伝達の動態を規定する重要な変数となることが期待できる。近年、質量分析計技術の革新的な向上によりタンパク質の包括的な定量解析が可能となってきた。そこで本研究では質量分析計を用いEGF刺激存的な細胞内のチロシンリン酸化関連タンパク質量の時系列変化を包括的に計測した。

実験の材料として野生型EGFR(WT)および992番目のチロシン残基をフェニルアラニンに置換したEGFR変異体(Y992F)を安定発現したNIH3T3細胞を用いた。安定同位体標識法(SILAC)によりタンパク質ラベリングした細胞をEGF 刺激し、抗チロシンリン酸化抗体を用いて濃縮したタンパク質混合物をnano-LC-Q-TOF型質量分析計により解析した(Figure 1)。その結果、383種類のペプチドを同定し(p<0.05)、最終的に147種のタンパク質に帰属することができた。同定されたタンパク質の相対定量はAYUMSアルゴリズム及びMSQUANTソフトウェアを用いて行った。定量解析可能であった同定タンパク質のうちEGF刺激依存的に1.5倍以上の変動を示したものをEGF刺激依存的なシグナルタンパク質とした。結果としてWT及びY992F両細胞において41種のEGF依存的なチロシンリン酸化シグナルタンパク質を同定し、株間で定量することができた。

パスウェイマッピングによる変動シグナル伝達経路の同定

同定、定量されたタンパク質間の文献報告に基づく相互作用情報をIngenuity Pathway Knowledge Baseを用いて抽出し、古典的MAPKカスケードの情報と統合した上で活性化チロシンリン酸化ネットワークを構築した。構築したパスウェイネットワークに株間での各タンパク質のリン酸化量の差、リン酸化量の時系列変動パターンの変化の差をマッピングすることで、WT細胞とY992F細胞で制御が異なるパスウェイを解析した。その結果、EGFRのリン酸化レベル、つまり活性化レベルがY992F細胞において低下しているにも関わらず、Y992F細胞におけるチロシンリン酸化がネットワーク全体として亢進していることが明らかとなった。一方、時系列パターンはリン酸化の亢進の有無に関らずほぼ変化はみられなかったが、一部のタンパク質群、特にEGFRの分解に関るタンパク質、及び、ERK1に活性化パターンの変化が起こっていた。以上のことよりEGFR自己リン酸化部位Y992はチロシンリン酸化シグナル伝達の活性化レベルと活性化パターン双方を制御している可能性が示唆された。

EGFRシグナル伝達計算機モデルの構築

変異によって引き起こされるチロシンリン酸化シグナルの量的および動的な差異を結び付け、それら変化を引き起こすメカニズムを推定するために生化学シミュレーションを用いた解析を行った。まず、文献情報に基づき、EGFRシグナル伝達の計算機モデルをhybrid functional Petri net with extension (HFPNe)を用いて構築した(Entity: 290, Reaction: 244, Connector: 607, Parameter: 131)。本モデルはEGFRの活性化からERK1活性化までの一連の生化学反応を含んでおり、特にEGFR分解系のパスウェイに関して詳細にモデル化されている。次に、サブペタスケールコンピュータを用い粒子数10万のモンテカルロ粒子フィルタを再帰的に適用することにより、EGFRシグナル伝達計算機モデルのパラメーター(生化学反応の係数、及び、タンパク質の発現量)の推定を行った。その結果、質量分析計で計測されたチロシンリン酸化シグナルの時系列情報を計算機上で再現するWTモデル及びY992Fモデルを構築することに成功した(Figure 2)。

モデルパラメーター比較によるシグナル伝達制御メカニズムの推定

推定された計算機モデルを用いて、細胞株間のチロシンリン酸化シグナルの差異がどのようなメカニズムで引き起こされるか解析した。Y992FモデルはWTモデルと値が異なる54のパラメーターを含んでおり、それらが自己リン酸化部位Y992の変異によって制御機構に変化が起こる反応の候補となる。しかしながら、これらのパラメーター変化がY992Fモデルにおけるシグナル伝達挙動に寄与する程度はそれぞれ異なるため、54のパラメーターから本質的に重要なパラメーター変化を抽出する必要がある。そこで、Y992Fモデルに含まれる54のパラメーターの値をWTモデルのそれに置き換えた時に生じるシミュレーション挙動の変化の度合いをパラメーター毎に見積もった。その結果、Y992Fモデルのシグナル伝達挙動を主に規定する12のパラメーターを抽出することができた。12のパラメーターのうち6つは未刺激状態のタンパク質の発現量を、4つはタンパク質のリン酸化速度を、2つはEGFRとGrb2の結合速度、及び、EGFRのユビキチン化速度をそれぞれ規定するものであった。株間のタンパク質の発現量違いがチロシンリン酸化シグナルの変化を引き起こす大きな要因の一つであることが推定されたが、タンパク質の発現量の変化それのみでは全ての違いを説明することはできなかった。従って、転写誘導過程を含まない短時間のEGFRシグナル伝達においてY992はその他6つの生化学反応速度定数の制御に関連していることが示唆された。4つのタンパク質リン酸化速度は全てY992Fモデルで上昇しており、これに起因するリン酸化シグナルレベルの亢進がY992F 細胞におけるERK1の持続的な活性化を引き起こしていることが推定された。また、Y992FモデルにおけるEGFRのユビキチン化速度の上昇はEGFR分解系パスウェイの活性化パターン変化の原因となっていることが示された。

計算機モデル予測の検証

計算機モデルによる細胞間のタンパク質発現量差に対する予測をウェスタンブロット法により検証した(Figure 5)。計算機モデル予測と実測値が非常によい一致をみせたことは構築したEGFRシグナル伝達計算機モデルの性能を示すと同時に、株間のシグナル伝達挙動の差異はタンパク質発現量の違いに主に起因するという予測を強く示唆する。次にY992が直接的にシグナル伝達過程の制御に関ることが予測されたEGFR分解系パスウェイに対する計算機モデル予測の検証を行った。EGFRユビキチン化反応速度はY992Fモデルで上昇しており、この上昇がユビキチン化反応の生成物であるユビキチン化EGFR量の亢進を引き起こすことが計算機モデルによって予測された。そこで、ユビキチン化EGFR量の時系列変化をウェスタンブロット法により実測した。その結果、Y992F細胞においてユビキチン化EGFRの量が大きく亢進していることが明らかとなった。EGFRのユビキチン化を触媒するタンパク質であるCblの発現量はY992F細胞においてEGFRと同程度低下していることから(Figure 3)、このユビキチン化EGFR量の亢進はタンパク質量の変化では説明できない。さらに、ユビキチン化EGFR量の亢進に伴い、EGFRの分解もY992F細胞において促進されていた。以上のことから自己リン酸化部位Y992はEGFRのユビキチン化に関るシグナル伝達経路を制御し、EGFRの分解に対し抑制的に機能することが示唆された。

結論

本研究では質量分析計に基づく包括的なタンパク質計測技術と生命情報学的手法を組み合わせることで、従来成しえなかったEGFR自己リン酸化部位のシグナル伝達制御機構に関する詳細な記述を可能にする方法論の確立を行った。質量分析計を用いて計測されたローバイアスなチロシンリン酸化シグナル伝達時系列情報はWT、Y992F細胞間のシグナル伝達過程の量的及び動的な違いを明瞭に提示した。さらにEGFRシグナル伝達の計算機モデルを用いて時系列データを解析することにより、細胞間のタンパク質発現量差を自動的に考慮した上で、直接的に自己リン酸化部位が制御しているシグナル伝達経路を推定することができた。本研究によりこれまで機能が不明瞭であった自己リン酸化部位Y992はEGFR分解に抑制的に働く一方、全体のリン酸化シグナル強度を抑えることでERK1活性化パターンの適切な制御を行っていることが示唆された。本手法を他の自己リン酸化部位変異体、さらには発癌に関連するEGFR変異体に適用することにより、より完全なEGFRシグナル伝達像が得られ、効果的な薬剤ターゲットの同定、及び、EGFRシグナル伝達異常の理論的な制御に向けた一助となると期待できる。

Figure 1 SILAC法を用いた細胞内チロシンリン酸化タンパク質の包括的同定と定量

Figure 2 計算機モデルによるシミュレーション結果と実測値

Figure 3 タンパク質発現量の予測と検証

審査要旨 要旨を表示する

序論では,EGFRの変異が引き起こすシグナル伝達異常に関する生化学的な解析の現状とその問題点について論じている.その現状を踏まえ,質量分析計を用いた包括的なリン酸化プロテオミクス技術の有用性を述べている.さらに,シグナル伝達異常のシステムレベルの理解に向けたフレームワークとしてEGFR計算機モデルを用いる事の意義およびその現状を論じている.また,EGFR変異のモデル系として自己リン酸化部位変異に着目した経緯およびその有用性とともに,本論文の目的と意義を述べている.

2章の前半部分ではEGFR変異体シグナル伝達に関するリン酸化プロテオミクス解析について述べられている.EGFRシグナル伝達は主にタンパク質のチロシンリン酸化修飾を介して伝達されることから,筆者はチロシンリン酸化タンパク質の動態に着目し包括的な定量を行った.実験の材料として野生型EGFR(WT)および992番目のチロシン残基をフェニルアラニンに置換したEGFR変異体(Y992F)を安定発現したNIH3T3細胞を用い,EGF刺激存的な細胞内のチロシンリン酸化関連タンパク質量の時系列変化を安定同位体標識法(SILAC)により計測した.その結果,383種類のペプチドを同定し,147種のタンパク質に帰属した.これらのうち 41種のEGF依存的なチロシンリン酸化シグナルタンパク質を抽出し,株間での定量に成功した.

2章の後半部分ではリン酸化プロテオームデータを基にした生物情報学的なネットワーク解析について述べられている.まず,筆者は41種のEGF依存的チロシンリン酸化タンパク質に関するパスウェイ解析を行った.タンパク質間の相互作用情報を用いて活性化チロシンリン酸化ネットワークを構築した.構築したパスウェイネットワークに株間での各タンパク質のリン酸化量の差,リン酸化量の時系列変動パターンの変化の差をマッピングすることで,WT細胞とY992F細胞で制御が異なるパスウェイを解析した.その結果,Y992F細胞おいてリン酸化レベルの亢進を示す分子が多く見られた一方,EGFRのリン酸化レベルは低下を示した.時系列パターンは一部のタンパク質群,EGFRの分解に関るタンパク質およびErk1において変化を示した.これらの結果はEGFR自己リン酸化部位Y992はチロシンリン酸化シグナル伝達の活性化レベルと活性化パターンの制御に関わる可能性を示している.

続いて筆者は変異が引き起こす動的なシグナル伝達メカニズムの変化を詳細に調べることを目的として,EGFRシグナル伝達の計算機モデルを構築した.本計算機モデルは100以上のパラメーターを含む非常に複雑なモデルであり,パラメーターの推定が困難である.そこで,筆者はスーパーコンピューターを用いた超並列計算により,6000万回以上のシミュレーションを実行し,質量分析計によって計測された時系列情報を再現するモデルの推定に成功した.推定されたパラメーターはEGFRとPlcg1間の結合親和性の低下,EGFRとRasGAP間の結合親和性の低下、およびEGFRインターナリゼーションの亢進といったY992F変異が引き起こす既知のシグナル伝達異常を再現するものであり,パラメーター推定の妥当性を支持するものであった.

筆者は構築した計算機モデルを用いて,細胞株間のチロシンリン酸化シグナルの差異を引き起こすメカニズムを推定するために局所的変数影響解析を提案した.すなわちY992Fモデルのパラメーターの値をWTモデルのそれに置き換えた時に生じるシミュレーション挙動の変化の度合いをパラメーター毎に計算した.その結果,WTモデルとY992Fモデル間シグナル伝達挙動の差異は未刺激状態のタンパク質の発現量の変化,タンパク質のリン酸化速度の亢進,EGFRとGrb2の解離定数の亢進,EGFRのユビキチン化速度の亢進によって主に規定されることが推定された.推定されたタンパク質発現量の違いは生物実験により検証され,さらに数値実験により細胞間のタンパク質発現量の効果を定量的に解析した.また,EGFRのユビキチン化速度の亢進を生物実験により傍証的に示し,Y992F細胞におけるEGFR分解の促進を見出した.加えて,タンパク質のリン酸化速度の亢進の必要性を数値実験により示し,過去の知見と合わせることでY992F細胞シグナル挙動には他のチロシンキナーゼとのクロストークが関わることを示唆した.

以上,本論文は定量プロテオミクスと計算機ネットワークモデリングの統合的フレームワークについて論じられており,EGFR自己リン酸化部位変異の影響を動的ネットワークレベルで推定したものである.これらの結果は,変異シグナル伝達のシステム的理解および制御理論の進展に寄与することが期待できる.

なお、本論文は論文提出者が主体となって遂行および解析した研究であり,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(生命科学)の学位を授与できると認める.

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