学位論文要旨



No 126172
著者(漢字) 佐々木,研
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ケン
標題(和) 伝統的自給自足社会の内発的な維持要因に関する研究 : ミャンマー連邦カレン州パアン地区東部カレン村落を事例として
標題(洋) Study on the spontaneous preservation factor in a traditional self-sufficient society : the case study of Karens in eastern Pa-an district, in Karen state, Union of Myanmar
報告番号 126172
報告番号 甲26172
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第589号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 自然環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 斎藤,馨
 東京大学 教授 山本,博一
 東京大学 教授 横張,真
 東京大学 教授 吉田,恒昭
 東京大学 教授 井上,真
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景

現在、地球上には自給を主な目的とした農耕、狩猟採集などを生業とする伝統的自給自足社会が存在している。伝統的自給自足社会は、自然環境の再生能力を損なわないしくみを発達させ社会を持続させており、自然環境に包含された一つの生態系であるといえる。ただし、他の社会から孤立してきた伝統的自給自足社会はまれであり、現在ではそのほとんどに貨幣経済が浸透している(Headland 1987, Bailey et al 1989, 孫 2002, 池谷 2007)。つまり、現在の伝統的自給自足社会は、ものの交換に通貨が介在する貨幣経済の浸透を受けながらも、生業の主な目的が自給から市場での交換に変化していないことで維持されている。

伝統的自給自足社会を維持している要因には、外発的な維持要因と内発的な維持要因の大きく二通り指摘されている。外発的な要因とは、島嶼部、山岳地帯に居住しているため自然環境が障壁となること、あるいは不安定な社会環境により市場へのアクセスが困難で市場経済化が進まないことを指している(田中 2001)。これに対して近年、市場へのアクセスが比較的容易だが、市場経済化を民族の文化が阻害している内発的な維持要因が指摘されている(市川 1997, 藤岡 2005)。

他方、わが国では、地域に賦存する生物資源を利用し生産の目的を地域内の自給に向ける、自然と共生する社会の再構築が課題とされ始めている(原科ら 2004, 上原ら 2005)。ただし、既往研究では生物資源利用に関する技術、知識、制度に議論が集中している(重松 2008)。

伝統的自給自足社会における内発的な維持要因は、貨幣経済の浸透を受けながらも生産の主な市場での交換に変化させない要因である。内発的な維持要因は、技術、知識、制度以外に地域で自然と共生する社会の再構築に必要な要素となると予測されるため、本研究の対象とした。しかし、既往研究では、民族の文化は多様であることから内発的な維持要因に関しては個別事例としての議論に留まっている。

2.定義

本研究では、伝統的自給自足社会の定義を『自然環境を基盤とした生業により自給し、産業革命以前から現在まで現存する社会』とする

3.研究の目的

本研究の目的は、自然と共生する社会の再構築に必要となる、伝統的自給自足社会の「内発的な維持要因」について、

1)技術、知識、制度以外に価値観が機能していることを明らかにする

2)内発的な維持要因として機能する価値観の存在と内容を既往文献および現地調査によって確認する

こととした。

4.第I部 方法

1)民族を研究対象としている学術論文から伝統的自給自足社会を収集した。伝統的自給自足社会の多くは80年代までに消失している(Sandford 1983, Galaty 1994, Renard 2001)。そのため文献は1980年から2008年に出版されたものを対象とした。

2)分布、分布域環境と生業を把握した 。

3)内発的な維持要因の事例を収集し、事例に対して文化生態系モデルを適用することで共通する要素を抽出した。

4)3)と同じ方法により抽出された要素の存在と内容を民族と生業ごとに把握した

5.第II部 方法

事例調査は、既往研究では未調査となっている水稲栽培による伝統的自給自足社会を対象とした。

6.第I部 結果

1)伝統的自給自足社会はアフリカと東南アジアの12カ国21民族によって営まれており生業は6類型であった。

2)内発的な維持要因の事例からは、経済と技術に対する価値観が共通する要素として抽出された。

3)技術に対する価値観がベンバ、レンディーレの2民族および焼畑雑穀、遊牧の生業2類型に存在していた。

経済に対する価値観は14民族、生業6類型すべてに存在していた。

4)価値観の内容は生業ごとに異なっていたが、経済に対する価値観が通貨の量を基準としていない点で一致していた 。

7.第II部 結果

1)パアン地区東部の社会環境は地形によって異なっていた。特に平地に位置するP村では、競合地帯という社会環境が市場経済化を阻害する外発的な維持要因になっているとは断定できない状態であった(図1)。

2)水稲栽培を主な生業とする伝統的自給自足社会は維持されていた。

3)・既往研究では、技術に対する価値観(稲作を一人で実施できて結婚の対象となる)の存在が明らかにされていた。この存在と内容についてはP村村民へのインタビューによって追認された

・P村では水牛の保有が豊かさの基準となっていた。つまり経済に対する価値観は存在していた(表1)

8.結論

1)内発的な維持要因の事例では、 『技術および経済に対する』価値観が伝統的自給自足社会を維持する機能を有していた

2)・事例調査の結果を含めた場合、技術に対する価値観は、21民族中3民族、生業7類型中3類型に存在し、経済に対する価値観は、21民族中14民族、生業7類型すべてに存在していた(下線部は事例調査によって加算されている)。

・価値観の内容は民族あるいは生業ごとに異なっていたが、経済に対する価値観が通貨を基準としていない点で共通していた。

Bailey, R. C., Head, G., Jenike, M., Owen, B., Rechtman, R. and Zechenter, E. 1989. Hunting and Gathering in Tropical Forest: Is It Possible?, American Anthropologist. 91(1): 59-82..Galaty, J.G. 1994. Rangeland Tenure and Pastralism in Africa. In Fratkin, E and Galvin. K.A. and Roth. E.A. (eds). African Pastoralist Systems. Colorado. Lynne Rienner Publishers: 185-204.Headland, T. N. 1987. The Wild Yam Question: How Well Could Independent Hunter-Gatherers Live in a Tropical Rain Forest?, Human Ecology. 15(4): 463-491.市川光雄. 1997. 「環境をめぐる生業経済と市場経済」青木ら(編)『環境の人類誌』東京:岩波書店: 133-161.池谷和信. 2007. 「カラハリ狩猟採集民における生業と分配-危機に対する戦略としてのモラル・エコノミー」『アフリカ研究』70: 91-101.Renard, Ronald D. 2001. Opium Reduction in Thailand, 1970-2000: A Thirty Year Journey. Chiang Mai: Silkworm Books.Sandford, Stephen. 1983. Management of Pastoral Development in the Third World. Chichester. New York; Wiley.孫暁剛. 2002. 「北ケニアのレンディーレ社会における遊牧の持続と新たな社会環境への対応」『アフリカ研究』61: 39-60.田中求. 2001. 「ラカイン山脈におけるサラインチン人集落の再建と焼畑によるコメ自給システム」『東南アジア』39(2): 235-257.上原三知、重松敏則、朝野景. 2005. 「都市近郊里地・里山林の保全・活用による潜在的生産力とその循環型地域モデル」『ランドスケープ研究』68(5): 545-550.

図1 調査対象地:ミャンマー連邦カレン州パアン地区東部

表2 P村におけるウェルスランキングの結果と各層サンプル世帯の種籾投入量、水牛、牛、耕運機の保有数

(第3次調査: 聞き取りおよび参与観察による、e,f両氏の種籾量は不明、労働人数は12歳以上の男女)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は10章、二部構成からなり、序章では背景と目的および方法を述べている。第1部を構成する1,2,3章は、伝統的自給社会の内発的な維持要因に関する理論構築編として纏められている。すなわち現存する伝統的自給自足社会に関する既往文献を収集し、内発的な維持要因の事例を抜粋し、文化生態系モデル(川喜多1989)を応用した新たな要因分類手法を構築し、事例に関する既往文献の記述内容を通文化的に再分類し、内発的な維持要因として価値観が機能する要素であることを明らかにした。さらに構築した手法を、再度事例以外の民族文化に関する既往文献に当てはめて検証を行った。第皿部を構成する4、5,6,7,8章は、現地調査を含む実証的事例研究編として纏められている。すなわち具体的な事例として、ミャンマーとタイに居住するカレン民族をとりあげ、既往文献に対して第1部で構築した手法を用いてパイロット調査を行い、さらに既往文献では不明な価値観を、これまで現地調査事例の存在していない、ミャンマー連邦カレン州パアン地区東部で水稲栽培による伝統的自給自足社会を営むカレン民族社会において明らかにしている。9章では結論を取りまとめている。その内容は以下のようになる。

環境問題の顕在化を受け、自然と共生してきた伝統的な社会における生物資源利用に学ぶことが提唱されている(WCED1987)。途上国に残存する自然環境に依存する伝統的自給自足社会では、自然環境との持続的で多様な関係が維持されている。途上国では、市場経済化によって住民の価値観が変化し、自然環境と住民の関係が変化することにより自然環境の破壊を招いてきた。他方、伝統的自給自足社会を営む民族の文化における価値観は、ソフトウェアとして内発的な維持要因として市場経済化を抑制している事例が報告され始めている(市川1997,藤岡2005)。途上国では内発的な維持要因が民族と自然環境の持続的で多様な関係を維持し、地域における自然環境を保全する機能を有している。しかし既往研究では、内発的な維持要因を当該民族の文化を単位とした個別事例として論じるに留まっている。

これを踏まえ本研究では、この内発的な維持要因の事例について論じている既往文献を抜粋し、論述内容から共通する要素を抽出するために、文化生態系モデルを適用する手法を新たに構築することで事例から共通する要素を抽出し、経済に対する価値観と技術に対する価値観が内発的な維持要因に共通する要素であることを明らかにした。次に、事例以外の収集された全ての伝統的自給自足社会に関する既往文献に対し、上述の新たな手法を用いることで経済と技術に対する価値観が生業形態と民族を単位として存在していること明らかにしている。また、経済に対する価値観の内容は生業形態ごとに異なっているが通貨の量を基準としていない点で一致していることから、市場経済化を抑制する要因になりやすいことを考察している。

事例調査では、経済と技術に対する価値観の存在と内容をカレン民族に関する既往文献とミャンマー連邦カレン州パアン地区東部において実施した現地調査によって明らかにしている。パアン地区東部は1949年以降2003年の休戦協定締結までミャンマー政府と反政府カレン民族組織(KNU)の紛争地帯であり、現在でも対立する二つのカレン民族組織の混在する競合地帯のため、これまで社会環境は不明であった。本研究では二つのカレン民族組織であるKNUとDKBAの両組織に対してインタビュー調査と参与観察を実施し、両組織の変遷、組織編成、人事、活動内容の詳細と組織間の関係、また村落との関係を明らかにした。その結果、対象地では地形によって社会環境が異なっており、平地では政情が安定しているため社会環境が市場経済化を抑制する外発的な要因としてはすでに機能していないことを明らかにしている。現地調査の結果と、タイ側において実施された市場経済への移行形態にあるカレン社会の状態について論じている既往文献を比較した結果、タイのカレン村落では豊かさの基準に通貨の量が追加され村落内で生業が多様化することで経済格差が生じはじめ、換金作物の導入により村民と自然環境の関係が変化していることを把握している。

本研究で得られた知見により、途上国に残存する伝統的自給自足社会には通貨の量を豊かさの基準とはしない経済に対する価値観と現在営まれている生業の技術に対する価値観が存在していることが認識することができた。つまり、これらの価値観の存在と内容からは民族と自然環境との関係が平衡状態にあることが認識された。

途上国における自然環境保全や開発の是非を議論する際には、まずこの平衡状態について認識していることが重要であり、第三者である先進諸国関係者の価値観に基づいた市場経済化への移行は、伝統的自給自足社会における価値観を変化させ、ひいては住民と自然環境の関係を変化させるために、自然環境へのインパクトを急速に強める可能性があることを考慮するべきである。

このように申請者は、近年その現象が注目されながら個別事例ごとに論じられていた市場経済化を抑制する内発的な維持要因の事例から、新たな手法によって共通する要素を抽出し、経済と技術に対する価値観が内発的な維持要因として機能していることを明らかにした。さらに事例以外の伝統的自給自足社会において経済と技術に対する価値観の存在と内容を明らかにし、さらに実際の現場においてその存在と内容を明らかにし、途上国における自然環境と住民の持続的な関係が維持されている伝統的自給自足社会にける文化のソフトウェアとしての側面を持つ価値観の役割について論じている。途上国における自然環境と住民の持続的な関係における価値観の役割にむけた新たな視点を提示した点は、自然環境学研究の基礎的成果として評価できると共に、国際協力学との学融合への端緒研究として評価できる。

従って、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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