学位論文要旨



No 126191
著者(漢字) 高松,香奈
著者(英字)
著者(カナ) タカマツ,カナ
標題(和) 人間の安全保障に向けた政府開発援助政策 : ミャンマーからの強制された移動をてがかりに
標題(洋)
報告番号 126191
報告番号 甲26191
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 博創域第608号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 国際協力学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大沢,真理
 東京大学 名誉教授 廣渡,清吾
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 柳田,辰雄
 東京大学 教授 山路,永司
内容要旨 要旨を表示する

日本は、性的搾取を目的とする女性・女児の人身取引の最大受入国の1つであり、近年ではアメリカ合衆国国務省等から、政府の対策が不十分であると批判されている。日本政府は「人身取引と闘う国連グローバル・イニシアティブ」ウィーン・フォーラム(2008年)において、人身取引の防止や被害者の保護は、日本政府が外交の柱として掲げる「人間の安全保障」の観点から重要であること、人身取引の根本的原因が国家間の経済格差にあることに鑑みODAにより「人身取引の被害者の送り出し諸国の経済社会の底上げという根本的解決」に取り組んできたこと、そして今後も取り組み続けることを強調した。「人間の安全保障」は、2003年のODA大綱改定により基本方針として掲げられるに至り、また人身取引対策行動計画でも国際的支援としてODAの活用が盛り込まれており、人身取引問題への方策としてODAの積極的活用が示された。では日本のODAは果たして、人身取引問題のように、個々人の尊厳が著しく侵害されるグローバル課題に対して、個人を守るような援助になっているのか。一般に、人間の安全保障を実現するためのODAとはどういう援助なのか。

本研究は、「人間の安全保障」実現のためのODAとは何かを探るべく、「脆弱国家」であるミャンマーを起点(source country)とする女性・女児の強制された移動を対象とし、その根絶を実践的目標としつつ、ジェンダーの視角から、1)ミャンマーを起点とする女性・女児の強制された移動のプッシュ要因、2)その強制された移動を根絶するうえで、「人間の安全保障」を基本方針に掲げる日本のODAが果たしうる役割、3)日本のODAと国内施策との政策的一貫性(policy coherence)という3つの諸点を明らかにしたものである。

論文の構成は、序章で課題と問題の概況を整理し、第2章・第3章で主題に関わる枠組みの整理をした。つぎに第4章と第5章ではミャンマーを取り上げ人身取引の送出国の状況と国際社会の対応について、第6章と第7章では人身取引の受け入れ国である日本の状況について考察・分析した。そして終章として人間の安全保障実現のためのODA政策についての結論につなげた。研究方法としては、ODAに関する政策文書・諸資料、現地で発掘した文献などの文書資料。ミャンマーとタイで実施した聞き取り調査記録、日本国内で実施したアンケート調査結果など、第一次的な収集データを複眼的に分析した。

主題に関わる枠組みの整理として、まず第2章では人間の安全保障の概念を中心に考察を行った。日本のODAの特徴と課題は、第一に依然として経済インフラ整備などの比重が高く大綱改定後もODAに特に転換が見られていないこと。第二に人間の安全保障の概念が政府内で共有されていないことがあげられる。つぎに第3章では人身取引問題のような国境横断的な問題に対策を講じていく上で不可欠となる、「開発のための政策一貫性(PCD)」の観点を整理した。これまでのPCD議論から示される課題としては、経済開発に焦点が当てられて、開発援助の持つ福祉の向上の役割が考慮されてこなかった。PCDに関する議論の中で、日本政府はこれまで実施してきた経済成長に主眼を置くODAが途上国の人々の生活改善に貢献してきたと強調している。しかし実際には経済成長を遂げても人間開発が進み、人権が確保されるような公正な社会が構築されるとは限らず、これまでの援助傾向を見直すこと、そして開発援助には公正な社会の実現を可能にし、支える役割と援助国側の社会政策との一貫性が求められる。

このような点を踏まえ、第4章から第7章の考察を通し、結論を終章で展開した。上記3 つの諸点に即し、つぎのようにまとめられる。

第一に、第4章で考察したように、ミャンマーを起点とする女性・女児の強制された移動のプッシュ要因について、これまでは主に軍事政権による少数民族弾圧を背景に、国境付近で起こる少数民族を中心とした人身取引問題に焦点が当てられてきた。しかし聞き取り調査の結果、ミャンマーからの人の移動は国境付近に限らず、ミャンマー全土から大規模に起こっていることがわかった。そして移動者の語りからは移動の要因としての貧困と生活の破綻の深刻さを印象付けられた。ミャンマーでの生活は、選択肢の有無という点において、特に女性に窮迫を強いるものである。さらには、若年女子には、異なる渡航方法、異なる仕事がアレンジされる傾向にあり、特に女子は人身取引の被害者になりやすいということがうかがえた。そして男女ともに、移動の決定には、本人の意思以外/以上に、家族や親族の期待があり、移動は家族全員が生き延びるために唯一残された選択であった。その意味で、本人の意思がある程度含まれたとしても、強制されたという面が強いと見るべきである。このように移動者は、移動前、移動中、移動先において、常に不安全な状況におかれ、自分で自分の人生を決定するという選択肢と希望が失われているといえる。そして、移動労働者の状況が脆弱な立場の悪用という面で人身取引のケースに該当している実態が明らかとなった。

第二点目として、強制された移動を根絶するうえで、「人間の安全保障」を基本方針に掲げる日本のODAが果たしうる役割について言及したい。第5章で示されたように、現状としては人間の安全保障が著しく脅かされているミャンマーに対して、国際社会は消極的な援助体制を取っている。日本はミャンマーの最大ドナーであるが、日本のODAは人権侵害国を支えているとして、非難の対象となっている。しかもそれはインフラ整備などの国の能力強化につながる援助ばかりではない。市民社会に向けての支援も、完全に政府の関与を排除することが困難なため援助の正当性が疑われている。さらには、ミャンマーという正統性を欠く国家であっても、人道的観点からの支援は排除されないという認識があるものの、実際には政府の関与を理由に人道的観点からの支援は停止され、人間の安全保障との矛盾が発生している。

人間の安全保障をODAの基本方針の一つに掲げた日本政府にとって、理念上ミャンマーの人々の状況は看過できるものではないが、ミャンマーのような脆弱国家下の人々に対しどうアプローチしていくのか、明瞭な政策手段を描けていないという問題点を持つ。また日本の対ミャンマー援助方針も、決して明確なものではなく実施のための基準も決して明らかではない。日本政府が明瞭な政策手段を描けない理由としては、日本の援助の特徴とも関連するが、主にインフラ整備などの公共財の提供を行ってきたために、そもそも市民社会に直接裨益するような手段が検討されてこなかったこと、そして人権の促進や民主化が援助の前面に押し出される中で、供与先が正統性を欠く場合、援助実施の理由を明確に示すほど議論が深められてこなかったことがあげられる。

第三に、日本のODAと国内施策との政策一貫性について考察した。第6章で示したように女性・女児の性的搾取を目的とした人身取引の有数の受入国である日本が国内施策として最も求められているのは、プル要因としての「需要」対策である。先行研究からは日本人男性の買春率は諸外国と比較しても突出して高い状況が確認できたが、性的サービスを買うことに関するアンケート調査の結果が示唆するのは、男女の差よりも個性や個人差を重視する態度をいかにして涵養するか、という課題であった。しかし、第7章で考察したように、人身取引対策行動計画での取り組みは犯罪対策という側面が強調されたものであり、入国管理の厳格化・取り締まり強化と、積極的な帰国支援という特徴をもっていた。そのためセックス産業で働く人への規制を強化しても、セックス産業を支える需要に対する対策は行われていない。加えて就労資格を持たない不法残留者が不安定な身分のまま長期間労働に従事しているという現状も示され、脆弱な立場の悪用という人身取引の形態が日本社会の中で横行していると捉えるべきである。

人間の安全保障を基本方針に掲げるもODA実施上個々人へ裨益する援助の実施に問題を抱えるODA政策、そしてプル要因としての需要対策が欠如した人身取引対策行動計画、それぞれに内在する問題が指摘された。さらに人身取引問題の解決という意味において、プッシュ要因とプル要因の双方に対策を講じる必要があるが、日本の対策ではプル要因としての需要対策が行われていない。ウィーン・フォーラムにおいて人身取引問題への対策としてODA活用をアピールしたとしても、ODA政策と国内政策の間に一貫性が保たれておらず、人身取引問題の解決としては不十分なものとなっている。

本研究の結論からは、開発課題が日本社会の在り方に深くかかわり、そして途上国の人々を脅かす影響を与えているということが強調される。すなわち、人間の安全保障実現のためのODAとは、国益主義的な発想や経済成長を主眼としたODAを見直し、真に全ての人がディーセントな生活を保障されるようなODA政策と(実施国側の)公正な社会構築が要請されるということである。そのためには、ODA政策の枠組み自体の見直しも求められるであろう。「グローバル・ソーシャル・ポリシー」という概念は、社会問題を全世界的な視座、原因、影響で捉えられるかに関心を示すものである。この概念を開発援助に適応すると、社会的事故や貧困から国境横断的に人々を保護することであり、社会的事故や貧困などの社会問題の原因と影響はグローバルなレベルで捉えることが期待される。外交手段としてのODAを超えて、社会政策の一部としての視座が今後のODA政策の重要な要素になると考える。そして、人身取引問題もその1つであるが、これまで個々人の尊厳を著しく脅かす多くの問題がジェンダー視点から提起されても、それらは長い間にわたって開発援助の主要課題として扱われてこなかった。開発援助におけるジェンダー主流化は、真に人間を中心に据えるという意味で、人間の安全保障実現を促進していくであろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「人間の安全保障」の実現に資する日本の政府開発援助(ODA)とはいかなるものかを探るべく、ミャンマーを起点とする女性・女児の強制された移動を対象として、ジェンダーの視点から以下を探る。第一に、その移動のプッシュ要因、第二に、強制された移動のなかでも人身取引を根絶するうえで、「人間の安全保障」を基本方針に掲げる日本のODAが果たしうる役割、第三に、日本のODAと国内施策との政策的一貫性、である。

第1章では問題の所在が示される。日本は、性的搾取を目的とする女性・女児の人身取引の有数の受入国であり、NGOのみならず米国政府等からも、政府の対策が不十分であると批判されてきた。これに対する日本政府の応答では、日本が外交の柱およびODAの基本方針として「人間の安全保障」を掲げており、2004年には人身取引対策行動計画を策定して防止や被害者の保護を重視していること、ODAを通じて根本的解決に取り組んできたことを、強調している。ここから導かれるのが、人身取引のように個々人の尊厳が深刻に侵害されるグローバル課題に対して、日本のODAは果たして、人間の安全保障の実現に資するものになっているのか、という検討課題である。

ミャンマーからの女性・女児の強制された移動が、本論文の検討対象となる理由は二重である。日本がミャンマーにとって最大のODA供与国であること、そして、ミャンマーが位置するメコン河流域は、世界でも最大級の人身取引の集散地であり、なかでもミャンマーからの送り出しが多いと推測されること、である。

第2章は、2003年のODA大綱の改定により、人間の安全保障の概念が基本方針として導入された過程をたどる。日本のODAでは従来、経済インフラ整備などの比重が高く、大綱改定後も転換が見られない。そもそも、人間の安全保障の概念が政府内で共有されたふしが見出せない。むしろ米国同時多発テロ以降、日本での人間の安全保障は、平和構築という題目でテロとの戦いを支える理念となっているごとくである。

第3章では、開発のための政策一貫性(PCD)の観点を整理する。人身取引のような国境横断的な問題に対策を講じていく上で、PCDの観点は不可欠である。従来のPCD論では経済開発に焦点が当てられて、開発援助を通じた個人の福祉の向上は、直接には考慮されてこなかった。経済成長を遂げても、分配や人権保障、ジェンダー平等の面で達成に遜色があることが、東アジアの事例から検討される。

第4章によれば、移動者からの聞き取りは、ミャンマーからの移動が国境付近に限らず、全土から大規模に起こっていることを示唆する。従来それは、軍事政権による弾圧を背景に国境付近で起こる少数民族の問題とみなされてきたが、事態はより全般的である。選択肢の有無という点において、女性の生活困窮は厳しい。若年女子には異なる渡航方法や異なる仕事がアレンジされる傾向にあり、特に人身取引の被害者になりやすい。男女ともに移動の決定には、本人の意思以上に家族や親族の切羽詰った期待があり、強制の要素が強いことが指摘される。

第5章でまず留意されるように、ミャンマーに対して国際社会は消極的な援助体制を取っている。最大ドナーである日本は、人権侵害国を支えているとして非難されている。ミャンマーに関しては政府の介入を理由に人道支援も停止され、人間の安全保障の観点から矛盾する状況になっている。日本政府は、ミャンマーのような脆弱国家の人々にどうアプローチしていくのか、明瞭な政策手段を描けていない。

第6章によれば、国内施策として求められるプル要因への対策が、日本では薄弱である。著者が協力者として実施した国内アンケート調査の結果から、買春を容認する態度の特徴が析出される。セックス産業への需要を抑制するうえで、男女の差よりも個性や個人差を重視する態度を涵養することが課題である、というインプリケーションが導かれる。

しかし、第7章で見るように日本の人身取引対策行動計画は、入国管理の厳格化・取締り強化と、帰国支援の偏重という特徴をもつ。セックス産業の従事者への規制を強化しても、セックス産業への需要を抑制する取組は行われていない。脆弱な立場の悪用という形態で、人身取引が日本社会の中で横行していることに、注意が喚起される。

第8章は、開発課題が途上国のみでなく、日本社会の在り方の問題でもあると強調する。開発援助においてジェンダー視点を主流化することが、人間の安全保障の実現を促進していくであろうと展望される。

本論文は、人身取引という個人の生存と尊厳を著しく脅かす開発課題に焦点を当てて、日本のODAの基本方針である人間の安全保障が、いかに貫かれているか、その実現にとっての課題は何かを探求したものであり、博士(国際協力学)の学位を授与できると認める。

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