学位論文要旨



No 126220
著者(漢字) 桑名,健太
著者(英字)
著者(カナ) クワナ,ケンタ
標題(和) メサ構造を持つピエゾ抵抗カンチレバーを用いた細胞膜受容体密度のラベルフリー計測法
標題(洋)
報告番号 126220
報告番号 甲26220
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第287号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 土肥,健純
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 神,亮平
 東京大学 准教授 竹内,昌治
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

細胞膜受容体は,外部刺激に対する細胞のフィードバック機能において,細胞の内外の情報伝達インターフェイスとしてはたらいている.そのため,細胞膜受容体の発現量は,細胞の状態や細胞が発現しようとしている機能を知る上で有効なパラメータである.これまでに,Atomic force microscopy (AFM) を用いて,細胞膜受容体の細胞膜での分布がラベルフリーで計測されてきた.しかし,カンチレバーの形状や信号読み取り部である光てこの複雑さから計測対象に制限がある.そこで,本研究では,生体組織などの凹凸を有する立体構造表面に存在する細胞に対し,細胞膜受容体の密度をラベルフリーで計測する方法を実現することを目的とする.計測方法として,細胞膜受容体の抗体で修飾したカンチレバー型力センサ表面と細胞表面の間にはたらく結合力から受容体密度を計測する方法を提案する.力センサとしてピエゾ抵抗素子を用いることで計測対象に対する接近性を高め,AFM では計測が困難な数百μm の凹凸をもつ構造内の細胞において,受容体密度の計測を実現する.表面間にはたらく結合力の計測方法をFig. 1に示す.表面間の結合力はFig. 2 に示すように,受容体密度に応じて変化するため,結合力から受容体密度を計測することが可能となる.

2. 受容体密度と結合力

抗体で修飾した表面と細胞表面を接触させたときに表面間にはたらく結合力F(total)を理論的に見積もる.受容体,抗体を直径dの球と考えモデル化する.Fig. 3に示すように,単位面積を受容体,抗体が1つのみ含まれるような n×n の領域に分割する.nは,受容体,抗体のサイズで決まり,n = 1/dとなる.このとき,受容体密度CRの細胞膜表面と抗体密度CAのカンチレバー表面を接触させたとき,同じ領域に受容体,抗体が存在するとき結合が起こると考えると,表面間に生じる受容体‐抗体の結合数の期待値NBは,〓

となる.このとき,受容体-抗体結合の単分子間の結合力fI,表面間にはたらく単位面積あたりの非特異的結合力FNを用いて,カンチレバー表面と細胞表面間にはたらく単位面積あたりの結合力Ftotalは,〓

で表される.受容体‐抗体結合の結合力fIは,AFMを用いて研究がなされており,様々な物質間の特異的結合力が計測されている.表面間にはたらく単位面積あたりの非特異的結合力FNは,細胞膜表面のタンパク質の電荷分布などによる静電気的な力やVan der waals力などの組み合わせで,表面の受容体密度には依存しない力である.本研究では,カンチレバーの表面を修飾しない状態で細胞膜表面との結合力を計測することで,非特異的結合力FNを見積もる.pH,温度一定の条件ではfIは一定で,FNは細胞の種類で決まるとすると,カンチレバーにより計測される力F(total)を計測することにより,受容体密度CRを見積もることが可能となる.

特異的に結合する物質としてよく知られているアビジン‐ビオチンを用い,ビオチンを受容体,アビジンをその抗体として,受容体密度計測法の原理確認を行った.力計測にはFig. 4に示すピエゾ抵抗カンチレバーをアビジンで修飾して使用した.ガラス表面は,ビオチン化したBSAと未標識のBSAを混合したものを用いて修飾した.修飾溶液のビオチン化BSAと未標識BSAの混合比を変化させることで,ガラス表面のビオチン密度を変化させた.これらのビオチン修飾した基板に対して結合力を計測したところ,3~10 pN/μm2の結合力が計測され,ビオチン密度の増加とともに直線的に増加した(Fig. 5).この結果により,提案する手法で受容体密度を計測することが可能であることが示された.

3. メサ構造を持つピエゾ抵抗カンチレバー

細胞とピエゾ抵抗カンチレバーの接触面積をコントロールするため,メサ構造をもつピエゾ抵抗カンチレバーを製作した.本研究で使用したカンチレバーの主な特徴は,1) 受容体‐抗体の結合力,数十~数百pN レベルの力分解能を持つこと.2) カンチレバー先端に,細胞膜受容体の抗体を修飾するためのパッドを持つこと.3) 細胞計測する際に,細胞との接触領域を限定するために,メサ構造を持つこと.の3点があげられる.メサ構造は細胞サイズの100分の1程度となる10 μm角とし,細胞表面における凹凸が1 μm以下であることから,メサ構造の高さは5 μmとした.SiのTMAHエッチングによりメサ構造を形成し,メサ構造の表面には,抗体を修飾するためのAuパッドをパターンした.製作したカンチレバーのSEM写真をFig. 6に示す.製作したカンチレバーの力分解能は56 pNで,受容体‐抗体1分子間の結合力を計測するのに十分であった.また,メサ構造の効果を確認するために,メサ構造を持つカンチレバーとメサ構造を持たないカンチレバーをそれぞれEGF受容体の抗体で修飾し,Polydimethylsiloxane (PDMS) 表面との非特異的な結合力を計測した.Fig. 7 に示すように,カンチレバーと計測対象との重なり領域が増加したとき,メサ構造がない場合,表面間の結合力は,接触面積に比例するため,カンチレバーと計測対象との接触面積に応じて増加する.一方で,メサ構造がある場合,接触面積は,対象との位置関係によらず一定となり,計測される結合力は一定となる( Fig. 8 ).したがって,メサ構造により,計測対象との位置によらず,再現よく結合力が計測されることが示された.

4. 細胞表面のEGF 受容体の密度計測

提案する手法を実際の細胞に適用し,ヒト由来フィブロブラストにおけるEGF受容体密度の計測を行った.

まず,計測される力がEGF受容体とその抗体の結合に起因する力であることを示すため,受容体と抗体の結合を阻害するブロック剤を用いた実験を行った.ブロック剤は,Fig. 9に示すように,表面間の受容体‐抗体の結合を阻害し,カンチレバー表面と細胞膜表面間に形成される結合数を減少させる.これは結合力の減少を意味する.したがって,ブロック剤を加えることで,結合力の急激な減少が観察できれば,計測される力が受容体‐抗体の結合に起因する力であることが示される.細胞は,角度を持ったPDMSブロック上に培養した.細胞との結合力を計測している様子をFig. 10に示す.Fig. 11 に,ブロック剤を添加しなかった場合の結合力の時間変化,Fig. 12 に細胞をインキュベータから取り出して30分後にブロック剤を添加した結果を示す. Fig. 11 をみると,計測時間70分間に渡り,0.49 nNで一定である.一方,Fig. 12では,ブロック剤を添加する前は,結合力が平均で0.63 nNであったのに対し,ブロック剤添加から10分後以降には,平均値が0.28 nNまで減少した.これらの結果から,計測される表面間の結合力は,受容体‐抗体の結合に起因して生じていることが確認された.

次に,式(2) を用いて,計測された結合力から受容体密度を求めるために,細胞表面と抗体未修飾のカンチレバー表面間にはたらく非特異的な結合力を計測した.4つの細胞に対し結合力を計測し,表面間の非特異的な結合力が時間変化しないとして,細胞ごとに結合力の平均値を求めた(Fig. 13).細胞1~4における非特異的な結合力はそれぞれ,14 pN/μm2,5.8 pN/μm2,4.5 pN/μm2,4.2 pN/μm2 であった.細胞1 において,細胞2~4 と比べ,3倍近くの結合力が計測され,細胞2,細胞3,細胞4と試行回数を追うごとに計測される結合力が下がっている.この原因として,計測環境を満たしている培養液中のタンパク質が,カンチレバー先端へ非特異的に吸着していることが考えられる.表面間の結合力が,計測を重ねるにしたがって,徐々に一定値に近づいていることから,細胞4の計測において,カンチレバーへの非特異的吸着が飽和しているとして,カンチレバー表面と細胞表面間の非特異的な結合力FNを4.2 pN/μm2 とした.

最後に,抗体修飾したカンチレバーにより,細胞との結合力を計測し,フィブロブラストにおけるEGF受容体密度を見積もった.抗体修飾したカンチレバーにより計測した結合力をFig. 14 に示す.計測された結合力の平均値は13.2 pN/μm2であった.一般的な抗原- 抗体1分子あたりの結合力は,AFMを用いた研究により,10 pN~100 pN 程度であることが知られている.この値と,計測によって求めた非特異的な結合力FN = 4.2 pN/μm2,計測された特異的な結合力の平均値Ftotal = 13.2 pN/μm2を式(3)に代入し,EGF 受容体密度を見積もると,1.0~10 個/μm2 であった.

5. 結論

本研究は,生体組織のような,凹凸を有する立体試料表面に存在する細胞に対し,細胞膜受容体の密度をラベルフリーで計測することを目的として行った.細胞膜密度のラベルフリー計測法として,計測対象の細胞膜受容体と特異的に結合する抗体で修飾したピエゾ抵抗カンチレバー表面と細胞表面との間にはたらく結合力から見積もる方法を提案した.ピエゾ抵抗カンチレバーは,AFMで使用されている光てこ方式に比べ,センサ周りのクリアランスを広く確保することができるため,立体的な組織の計測においては優位となる.カンチレバー表面に受容体認識物質である抗体を固定化することでラベルフリーを実現した.この方法を用いて,PDMSで製作した三次元構造上に培養したヒト由来のフィブロブラストにおいて,EGF受容体の密度が数個/μm2オーダであることを計測した.この結果は,細胞のサイズと細胞一つあたりに含まれるEGF受容体の数から,受容体が細胞膜に均一に分布しているとして見積もった密度とオーダが一致した.

Figure 1 細胞膜表面と抗体修飾したカンチレバー表面間にはたらく結合力計測方法.カンチレバーを細胞表面に接触させ,徐々に引き剥がすことで結合力を計測する.

Figure 2 受容体密度と結合力.受容体密度が増加すると,表面間に形成される受容体抗体の複合体数が増加し,結合力も強くなる.

Figure 3 表面間の結合のモデル化.n×nの格子内に受容体,抗体が分布しているとして,表面をモデル化.二つの表面を重ね合わせ,同じ格子内に受容体と抗体が存在するとき結合が起こるとする.

Figure 4 先端に抗体修飾部位をもつピエゾ抵抗カンチレバー.抗体修飾部位をアビジン修飾し,ビオチン修飾表面との結合力を計測した.

Figure 5 蛍光強度と結合力,蛍光強度が強くなる,つまり,ビオチン密度が高くなるほど結合力が直線的に強くなることが計測された.

Figure 6 メサ構造を持つピエゾ抵抗カンチレバーのSEM写真.(a,b)鳥瞰図.Auパッド上に抗体を修飾した.(c,d)側面図.カンチレバー先端部にメサ構造を形成した.

Figure 7 メサ構造の効果.メサ構造がない場合,計測対象とカンチレバーの重なり距離の増加に伴い,接触面積が増加する.一方で,メサ構造があると,重なり距離によらず接触面積が一定となる.

Figure 8 メサ構造の有無による表面間結合力.

Figure 9 ブロック剤の機能,細胞表面の受容体とカンチレバー表面の抗体の結合を阻害する

Figure 10 ピエゾ抵抗カンチレバーにより細胞膜との結合力を計測している様子.

Figure 11 ブロック剤未添加の場合の結合力.黒は各点で計測された結合力,赤は各点の前後100点の平均値,赤点線は結合力の平均値を示す.

Figure 12 インキュベータから取り出して30分後にブロック剤を添加した場合の結合力.黒は各点で計測された結合力,赤は各点の前後100点の平均値,赤実線はブロック剤投入点,赤点線はそれぞれ,ブロック剤投入前後の結合力の平均値を示す.

Figure 13 抗体未修飾カンチレバーによる結合力の計測.

Figure 14 37℃インキュベータから取り出してからの時間と結合力の関係.赤の点線は平均値を示す.平均値は,13.2pN/pm2であった.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「メサ構造を持つピエゾ抵抗カンチレバーを用いた細胞膜受容体密度のラベルフリー計測法」と題し、5章から構成される。

高感度なカンチレバーと測定対象の間に働く結合力が、測定対象の密度分布に依存することを利用し、EGF受容体とその抗体との結合力を計測することによって、細胞膜上のEGF受容体の密度を計測することを目的としている。

第1章「序論」では、研究の目的、背景、意義と、従来の研究について述べているとともに、カンチレバーを利用した計測法が述べられている。カンチレバーの先端を計測対象と特異的に結合する抗体で修飾し、対象に押し付けた後、ひきはがすと、カンチレバーが細胞をわずかに押す力から、細胞にひかれる力に変わり、カンチレバーは細胞表面からはがれる。本研究では、はがれる直前にカンチレバーが受けていた力、つまり、表面間の結合を切るために必要な力を結合力として計測している。結合力は、表面間の細胞膜受容体とその抗体の複合体の数に依存する。

第2章「受容体密度と結合力」では、抗体で修飾したカンチレバーと細胞表面間に働く単位面積あたりの力から受容体密度を見積もる方法を示している。また、特異的に結合する物質であるアビジン‐ビオチンを抗体‐受容体に見立て、受容体密度計測法の原理確認を行っている。

第3章「メサ構造を持つピエゾ抵抗カンチレバー」では、半導体加工をつかったメサ構造をもつカンチレバーの設計と試作が述べられている。3次元の構造をもつ細胞膜に対して一定の面積のみが接触するように、カンチレバーの先端に10μm角のメサ構造をもうけている。メサ構造を持たないカンチレバーにおいては、重なり距離が大きくなるほど結合力が大きくなり、メサ構造を持つカンチレバーにおいては、重なり距離によらず結合力が一定となることを示している。

第4章「細胞表面のEGF受容体密度の計測」では、メサ構造を持つカンチレバーでヒト由来フィブロブラストにおけるEGF受容体密度の計測を行っている。細胞表面と抗体未修飾のカンチレバー表面間にはたらく非特異的な結合力と、細胞表面と抗体修飾したカンチレバーとの結合力を計測し、その差から、フィブロブラストにおけるEGF受容体密度を見積もっている。

第5章「結論」では、本研究によって得られた成果について結論を述べている。

以上要するに、本論文ではメサ構造を持つカンチレバーのメサ部分を抗体で修飾し、細胞膜上の受容体と抗体とに働く結合力から受容体密度を計測する方法を示している。結合力は、受容体密度に依存するものであり、3次元構造をもつ細胞に対して、化学物質を添加することなく、顕微鏡下でさまざまな方向からアプローチできる点で意義のあるものである。この点から本論文は、知能機械情報学の発展に貢献したものであって、本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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