学位論文要旨



No 126228
著者(漢字) 里見,修
著者(英字)
著者(カナ) サトミ,シュウ
標題(和) 戦時期におけるメディアと国家 : 新聞統合の実証的研究
標題(洋)
報告番号 126228
報告番号 甲26228
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博学情第32号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 教授 林,香里
 東京大学 教授 野島(加藤),陽子
 東京大学 教授 姜,尚中
 早稲田大学 教授 山本,武利
内容要旨 要旨を表示する

本論は、一九三〇-四〇年代、満州事変からアジア太平洋戦争の戦時期において実施された新聞統合を実証的に検証し、メディアと国家の関係を明らかにすることを目的としている。

新聞統合は戦時の新聞体制を確立するため、全国の新聞を整理統合、再編することを目的とした「戦時の言論統制時代の象徴」(小野秀雄『新聞の歴史』)と位置付けられる言論統制である。現在、各道府県に存在する有力地方紙は新聞統合の所産であり、その意味でも新聞統合は過去だけに留まらない重さを持っている。しかし、それにもかかわらず、新聞統合の実態は未だ把握されておらず、その実態を把握する意義は大きなものがある。

国家とメディアを、弾圧する側とされる側という枠組みで捉えるのではなく、メディアを戦時の言論体制形成の「能動的参加者」と位置付けて、当初は別々に作動した国家とメディアの動きが戦時下で次第に絡み合い連繋し、ついには一体化して戦時の言論体制が完成していく過程と捉えることで、新聞統合の実態を正確に把握できると考える。

本論は第一章「新聞統合前史」、第二章「新聞統合の始動」、第三章「新聞統合の進展」、第四章「新聞統合の完成」と時系列的に四つの章で構成した。満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争の開始直前、同戦争開始後という戦時期の節目に合わせて、新聞統合も深化したことを理解するためで、それぞれの章では国家とメディアそれぞれの動きを、とくに双方の関連性に留意しながら、論を進めるように努めた。

第一章では、満州事変を契機として戦時体制への動きを開始した国家とメディアの動きを検証した。満州事変を契機として、「高度國防國家の建設」を主張する軍部は政府部内の主導権獲得に本腰を入れ、言論統制についても従来の消極的統制とは異なる積極的統制の観点に立った対外宣伝の必要性を主張し、政府部内に情報委員會が発足した。それはメディアの活用という新たな質の統制の開始を示すものであった。

一方、新聞業界の状態は、圧倒的な資本力を有した全国紙は、事変の戦況報道を販売拡張の好機と捉えて、前近代的な企業形態の地方紙を駆逐し、発行部数を伸張させた。

第二章では国家とメディアが日中戦争を受けて、それぞれ戦時への対応を深化させ、こう着状態に陥る戦時下で双方の動きが関連性を持ち始める過程を検証した。政府は三八(昭和十三)年には戦時統制の基本法規である國家総動員法を制定するなど統制を強化し、新聞用紙についても使用制限品目の中に入れて統制下に置いた。新聞用紙は当初、商工省が単なる物資として統制したが、四〇(昭和十五)年にはその権限を内閣へ移管し、言論統制という観点から新聞を押さえ込む有効な手段として活用した。

こうした流れの中で内務省は三八(昭和十三)年八月、新聞統合に着手した。末次内相の指示によるもので、戦時下の言論統制と用紙の節減を目的として最初に悪徳不良紙、次いで弱小紙の整理統合と、二段階で実施する構想を立案した。しかし新聞を強制的に整理統合させるための根拠法は存在せず、このため内務本省から実施主体の各都道府県当局への指示も口頭でなされ、新聞の廃刊も命令ではなく、特高警察が新聞側と懇談して諭す「懇諭」という言葉が使用され、あくまで新聞側の自主的意思に基づくという形式が採られた。

一方でメディアは全国紙、地方紙を問わず戦争遂行を支持し、戦況報道に力を入れた。中でも資本力に勝る全国紙は多数の記者を戦地へ派遣し、自動車、飛行機などの機動力を駆使して「素早く、きめ細かな記事や写真を掲載」(『日本新聞年鑑(昭和十五年版)』)した戦況報道で地方紙を圧倒し、発行部数を劇的に伸長させ、企業体としての力量の格差は拡大した。

三九(昭和十四)年十月には鳥取県の普通日刊紙が一紙に統合し、新たに日本海新聞を創刊するという一県一紙の動きが出現した。これは全国紙の激しい販売攻勢により淘汰されてしまうという危機感を募らせた同県内の地方紙が統合によって資本力を拡充し、同時に県当局の新聞用紙の安定供給などの庇護を得て企業の生き残りを図ろうという意図が大きく働いていた。

第三章では、アジア太平洋戦争開戦必至の状況下で、言論統制体制の確立を急ぐ国家と、これにメディアが能動的に参加し、一体化した関係が築かれる過程を検証した。政府は情報部を発展拡充させ、四〇(昭和十五)年に情報局を設立した。これに伴い新聞統合は、内務省から新設の情報局に所管が移された。情報局では軍人が主導権を確保し、中でも新聞の統制を任務とした第二部の部長吉積正雄陸軍少将はその中心に位置した。次長には電力統合を立案した革新官僚、奥村喜和男が就任し、さらに同盟社長の古野伊之助らメディア側の協力者も存在した。

情報局の意向を受けた古野の提唱で四一(昭和十六)年五月には、全国の新聞社で構成する自主的統制団体、日本新聞聯盟が結成された。新聞聯盟は発行部数の公開、新聞の共同販売(共販制)の実施、記者倶楽部の改編などの統制を、自身の手で次々に実施した。

開戦準備の方針が御前会議で決定された同年九月、情報局は新聞統合に関する「審議事項」を聯盟に諮問し、直ちに審議を開始するよう促した。同盟の古野、聯盟理事長の田中および奥村、吉積ら政府系理事で構成する小委員會が約一ヶ月かけて、案文を作成した。一県一紙を新聞統合の原則とすることや、全国の新聞社を新聞共同會社に一元化することを内容としていた。新聞共同會社を設立する急進的な案は、電力統合を立案した実績を有した奥村が「民有國営」「資本と経営の分離」という考えを新聞統合へ投影させたことや、満州での言論統制に影響力を有した古野が満州弘報協會をモデルとして提示して考案されたと推測される。

同案について、地方紙は賛成したものの、全国紙は強く反発して理事會は紛糾、結局、田中聯盟理事長の権限で統裁文が示され、事態は収拾された。統裁文は、焦点の新聞共同會社の設立は見送る考えを示したが一方で、それに代わる統制の具体案を内容としており、これを踏まえて政府は同年十一月に「新聞ノ戦時體制ニ関スル件」と題する戦時の言論統制の基本方針を閣議決定、さらに新聞事業令を制定した。

一連の動きは、戦争遂行を志向する国家が言論統制を図ったのは事実であるものの、被統制者であるメディアが参加者として統制の具体案作成や実施に深く関わったという事実を示している。新聞の自由な販売を制限する共販制の実施や、記者倶楽部の自治権の剥奪、さらには戦時の言論統制の基本法令新聞事業令までもが、メディア側の提案に基づき制定された。満州事変で開始された国家の上からの統制と下からのメディアの能動的参加が、この時期に結合一体化し、戦時期の体制が形成されたといえる。

第四章では、一体化した関係を結んだ国家とメディアがアジア太平洋戦争下、戦時の言論統制を実施する動きを検証した。政府は四一(昭和十六)十二月に新聞統合に法的根拠を与える新聞事業令を制定した。また同法令ではメディアで構成する統制団体日本新聞會の設立も明記され、設立された統制団体、日本新聞會は統制規程を定めて「國家の公器としての新聞の斯くあらねばならぬという具体的規範を示し、全てこれに準拠して更生することを強制し、興へられた権力を、軍が行ったやうな勢を以て實行した」(伊藤正徳『新聞五十年史』)。こうした新聞會の活動は、一体化した国家とメディアの関係を示している。

新聞統合は、整理統合の命令権を盛り込んだ新聞事業令を根拠法として、四二(昭和十七)年十一月までに、四十七都道府県の全てで一県一紙が完成した。東京都五紙、大阪府四紙、広島県二紙、それ以外の道府県は一紙で、この結果、普通日刊紙は五十五紙となり、戦時の新聞体制が確立された。

一県一紙は国家による強制ばかりでなく、メディア側の参加という能動的意思も作動し、実現した。進んで國策順應を標榜した有力地方紙は少なくなく、そこには統合により資本拡大が図れることや新聞用紙の安定供給など国家の庇護を享受できるという意図が存在した。国家側も統合した地方紙を当局の機関紙「縣紙」として戦争遂行の世論形成に活用した。つまり新聞統合は、戦時の国家とメディアの一体化の象徴的存在と評すことが出来るのである。

また満州では日本に先駆けて言論統制が次々に実施されており、言論統制においても満州が「実験場」としての役割を果たしたと推測される。

審査要旨 要旨を表示する

里見修氏の博士学位申請論文「戦時期におけるメディアと国家――新聞統合の実証的研究」は、戦時期日本の新聞統合というきわめて重要なテーマに、里見氏自身の発掘したものも含めた新資料に新しい視点からの分析を加えて新しい研究展開を示した労作である。学説史的にこのテーマは、内川芳美教授ら東京大学旧新聞研究所による研究が1960年代になされて以来、テーマに重要性に比べ、研究の深まりが必ずしも十分ではなかった。しかし、内川氏らの研究からすでにほぼ半世紀を経て、多くの新資料が発掘され、戦時期についての研究視座も変化をみせた。里見氏は、こうした新資料や変化を踏まえ、弱小新聞の整理統合から一県一紙体制の確立にいたるプロセスが、一方では満州での言論統制の経験を経てきた革新官僚たちの動きによって先導されつつも、他方では経営上の安定化を目指した新聞社自体の自発的な動きに支えられていたことを明らかにした。

本研究の意義は何よりも、そうした新聞統合が、単に上からの国家による暴力的な介入や統制によるものだけでなく、むしろ企業体としての新聞社の側の積極的な関与を通じて実現されていったことを、地方紙の統合を広く検討して明らかにした点にある。著者は言論統制を、その手段や発想の違いに基づいて「消極的」統制と「積極的」統制の2つの範疇に分け、とりわけ後者の諸相を、新聞統合の過程を通じて浮かび上がらせている。すなわち、各新聞社が、権力の抑制や規制、介入や誘導の力学と一面で共鳴しながら、いかにして同調造出のプロパガンダ装置として総力戦体制に組み込まれていったのかを、貴重な資料の渉猟を通じて実証的に分析しているのである。

具体的には、本論文は、新聞統合のプロセスを、統合に向かう背景条件が整う満州事変前後の1930年代前半、統合が始まる日中戦争勃発前後の1930年代後半、統合が進展するアジア・太平洋戦争開始直前の1940年代、統合が完成されるアジア・太平洋戦争開始後の諸段階に分け、それぞれの段階に特徴的な諸相を明らかにしつつ、新聞統合がいかに構想され、完成されていったのか、そのプロセスの総体を描いている。本論文の最大の意義は、何よりもこれまで実証的に全体像が描かれてきたとは言い難い、総力戦期の新聞統合の具体的な展開を、詳細な資料の発掘を通じて実証的かつ歴史的に明らかにした点にある。この点で、本論文は、これまでの戦時期のメディア史研究や戦時期研究に裨益する学術的研究として高く評価される。

ただ、全体として新聞統合の過程を歴史的な順序に従って論述しているため、統合の諸段階のダイナミックな力学を、ヴィヴィッドに描き出せてはいない点は惜しまれる。また、資料が主として生き残った地方紙の側のものを中心にしているため、淘汰された側の視点や新聞社ごとの多様性についての分析やや弱くなっている印象もある。新聞統合が著者のいうように利益の保全という経営的な観点に促されていたとしても、結果的にこの統合が政党政治に終焉と並行して起きたことのイデオロギー的な意味についてはなお洞察を深めていく必要があろう。

だが、このことによって、本論文の学術的意義が揺らぐものではない。これまで十分な研究がなされてこなかった重要なテーマである新聞統合について、その全体像を詳細な資料調査を通じて明らかにした価値は大きく、本論文は、博士論文に相応しい水準に達しており、博士号を授与するに十分に値するものであるとの認識で審査委員全員が一致した。以上より、本審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位に相当するものと判断する。

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