学位論文要旨



No 126249
著者(漢字) 中塚,温
著者(英字)
著者(カナ) ナカツカ,ユタカ
標題(和) 多様な分子系に対する高精度な量子化学理論の開発と応用
標題(洋) Development and application of accurate quantum chemical theory for the various molecular systems
報告番号 126249
報告番号 甲26249
学位授与日 2010.04.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7323号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 准教授 組頭,広志
 東京大学 准教授 牛山,浩
内容要旨 要旨を表示する

近年の量子化学は、計算機の性能向上と相まって、多くの実験結果の定性的、定量的な再現・解析が可能な手法に発展してきた。しかし全ての手法は、それぞれに適用範囲の限界があり、新規現象を取り扱うためにどの手法を用いるべきか、という問題は自明ではない。現在、生体内反応や自己組織化のような、多種の相互作用が共同的に働き、興味深い現象が実験的に盛んに研究されており、これらの問題に対する有効な理論化学的取り扱いを提言することが、量子化学に求められている。

本博士研究では、これに対し、実験へのフィードバックを与える物理的直感と、十分な理論的背景を前提としたうえで、現状の実用性、将来の発展性という二つの視点から、有効な理論的アプローチ法を検討する。

実際的な手法として、比較的低い計算負荷で、多くの現象を精度良く記述する密度汎関数法を取り上げ、物理的な根拠を持ち、可能な限り経験的なパラメータを含まない手法を組み合わせることで、現在の密度汎関数法の枠内でどのような現象が記述可能か、どのような物理的描像を考慮する必要があるか、改善が必要な点は何か、といった点について検討する。

更なる汎関数の改善には、真の波動関数の持つ性質の多面的な理解が必須である。柔軟な関数系を用いることが可能で、明確な理論的背景を持つ波動関数理論である量子モンテカルロ法は、厳密な波動関数に対する、分子軌道法とは異なる視点からの直感的な洞察を与え、密度汎関数法の発展に寄与してきた。本研究では、量子モンテカルロ法を相対論的に拡張し、適用原子の範囲を広げ、より深い波動関数の理解、密度汎関数の改善の理論的基礎を構築する。

金属-共役電子間d-π結合の密度汎関数法による記述可能性検証:

金属のd軌道と共役系のπ電子の相互作用は、多くの自己集合現象において本質的な役割を果たす。このd-π結合の記述可能性を、(動的)電子相関、長距離交換、多配置性という要素に着目し、典型的な系である遷移金属カチオン-ベンゼン半サンドイッチ錯体及びサンドイッチ錯体を例にとって、いくつかの密度汎関数法と単配置波動関数理論によって検証した。結合距離の記述には電子相関の有無が大きく影響し、解離エネルギーの記述は、加えて多配置の影響を部分的に取り込めるか、長距離交換を十分に取り込めるかが重要であった。結果として、長距離交換を十分に考慮することで密度汎関数法がd-π結合を精度良く記述可能であることが明らかになった。

分子性結晶TTF-CAの光誘起相転移に関する研究:

tetrathiafulvalene分子(TTF)とp-chloranil分子(CA)が交互に積層した構造を持つ分子性結晶TTF-CAは、分子が等間隔に整列した中性状態と、二量体化が起こり対称性の崩れたイオン状態を持ち、温度による相転移を起こすことが知られてきた。近年の実験により、この相転移が光照射によるTTFからCAへの電荷移動励起により誘起されることが明らかになり、光で物性を制御する方法として注目されている。このような系の励起の初期過程に対する詳細な量子化学計算は、従来の密度汎関数では電荷移動励起の記述が悪いこともあり、殆どなされていない。これに対し、本研究では、電荷移動励起に影響を与える長距離交換の効果を、長距離補正(LC)法で取り込み、van der Waals (vdW)力の補正を考慮することで、光励起初期過程の記述の可能性を検証した。特に、これまで相転移を取り扱うために用いられてきたHubbard模型などの物理モデルではパラメータの実験結果とのフィッティングで扱われていた、TTF-CAペアの構造変化に伴うエネルギー状態の変化に着目し、経験的パラメータを用いない密度汎関数法計算を行った。結晶中で観測される構造付近でのエネルギー曲面計算により、中性状態の基底状態構造を記述するにはvdW力の効果を考えることが必須であることが明らかになった。また、励起状態に対するTD-DFT計算により、vdW力に加え、長距離交換を十分に取り込むことで、励起によって結晶構造が微小な変化を起こす可能性を示唆するエネルギー曲面が得られた。長距離交換を一部取り込んだB3LYP汎関数では、定性的にも異なる描像を与え、十分な長距離交換の考慮が必須であることが明らかになった。

ZORAハミルトニアンに基づく量子モンテカルロ法の相対論的拡張:

量子モンテカルロ法は並列化効率に優れ、電子間距離をあらわに含むような分子軌道法では取り扱いにくい波動関数を容易に取り扱える方法として、計算物理、計算化学の分野で用いられてきた。これまで量子モンテカルロ法は、主にNe程度までの軽原子に対するものが殆どであり、全電子計算の適用範囲が限られてきた。より広範な原子に対し、量子モンテカルロ法を適用することは、分子軌道法では得にくい、厳密な波動関数に対する直感的な知見を得るために重要である。本研究では、適用範囲の拡大と共に考慮が必要となってくる、相対論の効果に着目し、量子モンテカルロ法を相対論的に拡張する理論的基礎の構築を試みた。相対論的近似ハミルトニアンの構造から、量子モンテカルロ法との組み合わせに適したハミルトニアンとしてzeroth-order regular approximation (ZORA)ハミルトニアンを用い、対応する局所エネルギーを導くことで、相対論的量子モンテカルロ法を導出した。適切なハミルトニアンから局所エネルギーを導出し、相対論的な拡張を行う本研究での手法は、極めてシンプルなアプローチであるが、従来の量子モンテカルロ法では局所エネルギー自体の改良の試みは殆ど無く、新しい試みである。同時に、一つの演算子に対し、複数の方法での期待値評価を行うことで量子モンテカルロ法の積分点を評価する手法を提案した。導出された相対論的量子モンテカルロ法は、数値的な安定性の面などで課題が残るが、局所エネルギーを基準とした積分点の選択などにより、十分に安定した波動関数最適化が可能であり、非相対論と同程度の精度を与えうることが示された。

ZORA-QMC法に対する核-電子カスプ補正法の開発:

核と電子の近接極限での波動関数の適切な振る舞い(核-電子カスプ条件)は、厳密な波動関数の性質として重要であり、量子モンテカルロ法の数値的安定性にも大きな影響を与える。新規に開発された相対論的量子モンテカルロ法(ZORA-QMC法)においては、非相対論の極限で導かれた加藤のカスプ条件とは異なる波動関数の振る舞いが必要とされ、核-電子の近接領域の波動関数の改善が一層重要になる。これに対して、ZORA-QMC法における核-電子近接極限での局所エネルギーの振る舞いの解析から波動関数の満たすべき条件を導出し、弱い発散を持つ補正関数で核近傍での波動関数を置換する核-電子カスプ補正法を提案した。原子・分子に対するテスト計算から、本手法が局所エネルギーの分散を大きく減少させ、計算の数値的な安定性を向上させることが明らかになった。さらに、本研究の過程で、ZORA-QMC法での数値的な不安定化の原因になる領域が、核-電子近接領域以外にも存在することが示唆された。この領域のより詳細な検討は、厳密な波動関数の満たすべき条件に対する新たな知見を与えることが期待される。

以上の研究から、物理的根拠に基づく長距離補正密度汎関数法と適切な補正項の組み合わせが、経験的なパラメータの導入を避け、未知の新規現象を解明するために有効な手法であることが明らかになった。また、量子モンテカルロ法の拡張により、波動関数の性質に対するより広範な解析が可能になった。これによって、密度汎関数法の汎関数を改善するために必要な物理的背景、波動関数に対する直感的な知見を得るための土台が構築された。

審査要旨 要旨を表示する

近年の計算化学は、理論的発展と計算機の発展に伴い多くの実験事実に対し知見を与えてきた。その一方、特に現在多く用いられる密度汎関数理論(DFT)の分野では、実験結果への一致を重視するあまり、理論的妥当性の十分な検証を欠く風潮も強くなっている。本論文ではそのような流れに対し、DFTにおいて物理的妥当性を持つ汎関数の重要性を検討すると共に、DFTと相補的に発展することが期待される量子モンテカルロ(QMC)法を拡張し、より物理的・理論的に正当性を持った枠組みでの分子化学理論の基礎構築を試みている。

本論文は6章からなり、各章は以下のような構成をとっている。

本論文の第1章では、前述のような背景・研究目的を述べている。

第2章、第3章はDFTの適用可能性の検証、物理的妥当性を持つ長距離補正密度汎関数理論(LC-DFT)の重要性検証を行っている。現在特に注目されている化学現象として、自己組織化現象や、分子性結晶の示す多様な性質などがある。これらの現象を取り扱うには、現象の鍵となるいくつかの重要な相互作用を十分に取り扱える理論が必要であるため、その記述性の検証は現象の理解、方法論の理解に対し重要な知見を与える。

第2章では共役系の関わる自己組織化現象で重要なd-π結合について、ベンゼン-第三周期遷移金属カチオン系のDFT及び波動関数理論(WFT)による計算を行っている。最安定構造の探索から、d-π結合の結合長はMP2法のような比較的低次の電子相関法で十分記述可能であり、DFTも同等の精度で記述可能であることを明らかにした。また、解離エネルギーの検討によって、金属により重要な要素が異なっており、多配置の効果が重要な系では、単配置のWFTに比べてDFTが実験事実に近い結果を与えることを示している。これらの結果はd-π結合の性質と、DFTの特徴に対する知見を与えている。

第3章では分子性結晶tetrathiafulvalene-chloranil (TTF-CA)に対し、時間依存密度汎関数理論を用いた計算を行っている。分子性結晶は、系の大きさによる計算コストの問題と、従来のDFTでは電荷移動励起や分子間力が十分に記述できなかったために、これまで理論化学での取り扱いは不十分であった。本論文では、LC-DFTと局所応答分子間力補正を用いた計算で、安定状態の構造と、光励起による構造変化を記述することに成功している。また、系の拡大に伴う順安定構造の兆候と、従来十分に考慮されなかった励起によるスタック方向以外への構造変化を考慮する必要性に言及している。これらの結果は、本論文の手法が分子性結晶系に有用であり、従来の方法では得られなかった知見を与える可能性があることを示唆している。

第4章、第5章では、より理論的、物理的な妥当性が見えやすい手法であるQMC法の相対論的な拡張、実際的な方法論整備を行っている。QMC法は直感的な波動関数を利用でき、密度汎関数理論との親和性と理論的妥当性の明確さを併せ持つが、従来のQMC法の適用範囲は、密度汎関数理論に比べ十分なものではなかった。その一例として、重原子の取り扱いに必須となる相対論的手法は、これまで殆ど研究されてこなかった。本論文では、相対論的拡張の土台を構築している。

第4章では、相対論的な理論であるZeroth-Order Regular Approximation (ZORA)法から、QMC法で用いる局所エネルギーを導出し、基本的な相対論的QMC法の定式化を行っている。提案された手法は従来の非相対論的手法に比べ、数値的に不安定となる要素が多いと考えられるが、Xeまでの希ガスに対する計算によって、計算コストのスケーリングは非相対論の手法とほぼ変わりないことを示している。また波動関数最適化の手法に対しても改善策を提案し、従来の非相対論的手法に遜色のない精度の波動関数を得ること、電子相関を取り込んだエネルギー差を得ることに成功している。

第5章では、QMC法の実際の計算において重要な電子-核カスプ補正法の相対論的な拡張を行っている。電子と核の漸近時に波動関数の満たすべきカスプ条件は、空間上の局所的な点を利用するQMC法では他の方法以上に重要になる。近似波動関数に適切なカスプを与えるカスプ補正法は非相対論のQMC法でも重要な研究である。本論文では、カスプ条件のZORA法に対する拡張を行い、適切な補正関数を用いることで、QMC法の精度に影響する、局所エネルギー分散を凡そ10分の1に抑えている。基底関数としてGauss関数を用いた場合だけでなく、Slater関数を用いた場合にも補正の効果が出ており、非相対論の場合と異なる知見を与えている。

第6章では本研究の成果を総括している。本論文の成果は、DFTの新しい適用分野の可能性を示すと共に、相対論的QMC法という新しい枠組みを構築し、両者の共同的な発展の土台となると考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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