学位論文要旨



No 126258
著者(漢字) 早川,雅也
著者(英字)
著者(カナ) ハヤカワ,マサヤ
標題(和) Assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)に着目した小精神療法の自傷行為への効果 : 境界性人格障害のリストカットを中心として
標題(洋)
報告番号 126258
報告番号 甲26258
学位授与日 2010.04.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3549号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,司
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 准教授 上別府,圭子
 東京大学 准教授 吉内,一浩
 東京大学 講師 荒木,剛
内容要旨 要旨を表示する

序文:

自殺とは直結せずに、自分の手首を表面的に繰り返し傷つけるという自傷行為を繰り返すリストカット症候群は、1960年代に、はじめ米国で次に欧州で広まり、1970年代には日本でも広く見られるようになった。思春期、青年期女性を中心に起こってきて、リストカットのほかに多種多様な精神症状、問題行動を示した。基底感情はアンヘドニアと言われている。単なる衝動コントロール機能不全では解釈できなくなっていた。

この研究の目的は、リストカット症候群の人々、その中でも特に境界性人格障害の人々に対する、時間的経済的等の制約のある現状で可能な治療方法を検証することに置かれている。神経症圏、統合失調症圏、うつ病等でもリストカットは見られるが、特に後二者では、若干色彩が異なっている。日本の現在の健康保険制度下では、外来精神科患者に対する精神療法にはあまり時間をかけられない実状にあり、医師自身が一回、30分以上かけていると、基本的に採算が合わない。それだけでなく、診療を必要とする患者数と医師数との比率からいっても通常不可能である。臨床心理士によるカウンセリングを組み合わせれば、通常自費扱いとなるため、当然費用がかさむ。大学病院でも精神科外来は一枠8分、多くてせいぜい二枠15分程度が限度である。この制限内でできることとして、assertiveness (本人が静かに自分を主張すること)に着目した。

2週に一度の外来通院において、せいぜい15分程度までの時間内で assertivenessに重点を置いた小精神療法によりリストカットにどの程度歯止めがかかるか検討した。文献検索をしても時間的その他の制約下での治療を意識したものはほとんどなく、また境界性人格障害に対するJ. F. Mastersonのリミットセッティング、M. M. Linehanの弁証法的行動療法等の確立された治療法も、このような短時間の状況は想定していない。Assertivenessに関しては、A. Dickson が1982年に出版した A Woman in Your Own Rightの中でわかりやすく説明されている。その他のassertivenessの解説書を見てもアサーティブネストレーニングは日常生活のさまざまな局面で行動パターンを改善していくことを目標にしているが、その根底には、自分自身の心の声に耳を傾けること、自分自身に対する評価を高める(自尊心を取り戻す)という考え方が流れている。リストカット症候群の人々には、強い自己否定感情(あるいは自己犠牲)のあることが多い。それゆえ、短時間の治療の手段として自己評価を改善し自尊心を取り戻すことを重視するアサーティブネストレーニングに着目した。

方法:

2004年1月から2007年1月までの間に東京大学医学部附属病院精神神経科と鹿島病院精神科(茨城県鹿嶋市)の筆者の外来を初診された(あるいは同じ病院の他の医師の外来から筆者の外来に初めて移ってきた)患者を対象とした。リストカットのある精神科外来患者(リストカット症候群とみなされる)はこの間22名おり、そのうち主病名を境界性人格障害とする者は16名、その他の診断名とする者は6名であった。主病名を境界性人格障害とする患者16名のうち3名がラポール形成までに脱落し結局13名が研究に参加した。主病名をその他の診断名とする患者6名は全員研究に参加した。時間をかけてラポールの形成に努め、ラポールができた段階で、処方をあまり変えないままでの2週に一回の15分程度の小精神療法―――assertivenessの形成に重点を置いた―――を開始した。2008年1月に最終評価をしており期間は1年から4年である。ラポール形成のステップでは、治療者側はできるだけ冷静を保ち、まきこまれないように試みたが、かなりの困難が伴った。境界性人格障害の激しい攻撃性等は、それでも次第に静まっていく場合があり、そのような患者たちが今回の研究に参加することになる。

上記のような形で対象を選定したので、結果として、家族の引っ越しのために中断しなければならなくなった3名(引っ越し直前に最終評価を実施)を除き、治療を継続できた。通院の規則性が崩れかけた者が境界性人格障害の中から5名出たが、結果的には何とか継続できた。治療期間が1年から4年となっているのは、スタートが上記のように各自異なっているものの、最終評価のタイミングをそろえたためで、恣意性に基づいてはいない。

自傷行為の程度に対する評価は、境界性人格障害の評価に使用される、"ZAN-BPD"という評価システムのうち自傷行為に関する部分を使用した。これは診察医が過去一・二週間の間に起こった自傷行為あるいは自殺企図等につき細かく定められた形でインタビューし、それにより診察医が重篤度を5段階で評価するものである。境界性人格障害以外の診断名のケースについては適応外であるので、参考情報としてのみ取り扱った。細かく定められた形でインタビューするので、ある程度の客観性は保たれていると考えられる。Assertivenessの評価については、Gambrill and Richeyの質問票を使用した。これは40ほどの状況(質問)に対し、「いつでもそうできる」から「半分くらいはそうできる」の状態を通って、「それはまったくできない」までを5段階に分けて回答してもらうものである。状況(質問)は、例えば「人に頼みごとをする」「お金を貸してくれと言われても断る」「ほめられたら素直に受け入れる」等である。

小精神療法については、assertiveness への前段階として自己否定感情を打ち消す目的で、自分を好きになること、自分を許すこと、そして自分を受け入れることが推奨された。そして自分自身の心の声に耳を傾けるようすすめられ、assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)を理解し自分自身に対する評価を高める(自尊心を取り戻す)ことが奨励された。時間的制約から、個々の患者のリストカットに至る特別な状況についてはできる範囲で把握するにとどめ、療法の焦点とはしていない。ただ、その特別な状況が治療自体に影響を与える場合はそれを斟酌して治療法を工夫することは当然である。

統計処理は、SPSS for Windows (version 13.0, SPSS Inc., Chicago, Illinois)を使用した。

結果:

自傷行為の程度に関しては、全19名のうち14名で改善が見られ、そのうち境界性人格障害に限れば13名のうち9名で改善が見られた(Wilcoxonの符号付き順位検定で、P=0.006(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-2.739)。Assertivenessに関して、全19名で悪化したものはいず、assertivenessの程度の改善度を調べたところ、Wilcoxonの符号付き順位検定で(P=0.001(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-3.826)レベルの改善度となった。境界性人格障害の13名ではassertivenessの程度の改善度は、Wilcoxonの符号付き順位検定で、P=0.001(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-3.182、となった。Assertivenessの改善度が高い場合ほど自傷行為の程度も改善された印象のため、境界性人格障害13名において、assertivenessの改善度と自傷行為の改善度でSpearmanの順位相関係数を取ったところ、rs=0.815(1%水準で有意(両側))という高い数値が得られた。

小精神療法に関しては、前段階として自己否定感情を打ち消す目的で、自分を好きになること、自分を許すこと、そして自分を受け入れることが推奨され、そして攻撃的でなく、受身的でもなく、攻撃性を表に出さないタイプにもならず、また自分の行動、選択、人生に責任を持つことなどが説明された。また、自分の気持ちに良く耳を傾け、拒否される可能性があっても率直に自分の気持ちを伝えることなどが推奨された。その結果、一度自尊心が固まると周囲の是認を必要としなくなり、状態の改善につながっていくことが可能となった。1年あるいは2年の間表面的には何も変化がない(リストカットに何の改善もない)といったケースはしばしばあったが、何もしていなければそのままであるところが、小精神療法の後だと、例えば母親の退職であるとか、母親の毅然とした受診態度の変化などが状態改善の引き金になりえた。

考察:

大学病院精神神経科と地域に根ざす一般精神科病院の精神科に比較的普通に受診する患者層に見られる、リストカット症候群を呈している境界性人格障害の患者たちに対する治療の効果を測定した。現実問題として治療にそれほど時間をかけられない。その中でポイントを、自己イメージの改善、自分自身の許容、自分自身を静かに主張すること、assertivenessの理解、に絞って行なった規則的な小精神療法(患者自身の考え方の盲点に対して、気づきをもたらすというニュアンスをこめて行なう)はある程度の効果があった。本研究では9/13、約69%の有効率である。

本人の状態がかなり不安定な微妙な状況での研究であるので、研究の環境上、ラポールの形成までの脱落者のことなど問題点は残るものの、リストカット、特に境界性人格障害のリストカットの治療において、assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)に着目した小精神療法は現在の制約下で何がしかの効果のある治療法であることを示し得た。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はリストカットを含む自傷行為を繰り返す、一般的には治療困難と言われる精神科患者群、その中でも特に境界性人格障害の患者、に対する現状の外来で実施可能そして有効な治療法を探し出すことを目的とした。現行健康保険制度下では、一人一人にあまり時間をかけられないという制約のもと、assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)に着目した小精神療法がある程度有効であるという仮説を立て、それを実証しようとして、下記の結果を得ている。

1.2004年1月から2007年1月までの間に東京大学医学部附属病院精神神経科と鹿島病院精神科(茨城県鹿嶋市)の筆者の外来を初めて受診した、リストカットのある精神科外来患者(リストカット症候群とみなされる)を対象としており、3名の脱落を除き、主病名を境界性人格障害とする者13名を含む計19名が研究に参加した。

2.小精神療法において、assertiveness への前段階として、本人たちの強烈な自己否定感情を打ち消す目的で、自分を好きになること、自分を許すこと、そして自分を尊重することが推奨された。そして本人の意思に本人の感情を従わせようとするのではなく、本人自身の心の声に耳を傾けるようすすめられた。究極的には本人自身に対する評価を高め(自尊心を取り戻し)assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)を理解し、assertiveに自分を表現することを目標とした。

3.自傷行為の程度に関しては、全19名のうち14名で改善が見られ、そのうち境界性人格障害に限れば13名のうち9名で改善が見られた(Wilcoxonの符号付き順位検定で、P=0.006(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-2.739)。

4.assertivenessに関して、全19名で悪化したものはいず、assertivenessの程度の改善度を調べたところ、Wilcoxonの符号付き順位検定で(P=0.001(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-3.826)レベルの改善度となった。境界性人格障害の13名ではassertivenessの程度の改善度は、Wilcoxonの符号付き順位検定で、P=0.001(両側);同順位補正済み;順位和を正規近似して得られる統計量Z=-3.182、となった。

5.境界性人格障害13名において、assertivenessの改善度と自傷行為の改善度でSpearmanの順位相関係数を取ったところ、rs=0.815(1%水準で有意(両側))という高い数値が得られた。

以上、本論文は大学病院精神神経科と地域に根ざす一般精神科病院の精神科に比較的普通に受診する患者層に見られる、リストカット症候群を呈している境界性人格障害の患者たちに対する治療の効果を測定している。現実問題として治療にそれほど時間をかけられないため、ポイントを、自己イメージの改善、自分自身の許容、自分自身を静かに主張すること、assertivenessの理解、に絞って行なった規則的な小精神療法(患者自身の考え方の盲点に対して、気づきをもたらすというニュアンスをこめて行なう)はある程度の効果があった。本研究では、境界性人格障害で9/13、約69%の有効率である。リストカット、特に境界性人格障害のリストカットの治療において、assertiveness(本人が静かに自分を主張すること)に着目した小精神療法は現在の制約下で何がしかの効果のある治療法であることを示し得た点で、今後の治療に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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