学位論文要旨



No 126264
著者(漢字) 大森,晋輔
著者(英字)
著者(カナ) オオモリ,シンスケ
標題(和) ピエール・クロソウスキーの作品における伝達の概念と方法としてのドラマトゥルギー
標題(洋)
報告番号 126264
報告番号 甲26264
学位授与日 2010.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第991号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 湯浅,博雄
 東京大学 教授 宮下,志朗
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 准教授 星埜,守之
 早稲田大学 教授 千葉,文夫
内容要旨 要旨を表示する

ピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski, 1905-2001)はその著作の多くで「伝達不可能なもの」への問いを提示している。具体的には、たとえば小説『歓待の掟』(1965)や哲学的エッセイ『ニーチェと悪循環』(1969)などで見られる、「言語化不可能な体験を前にして言語がどのような役割を果たし得るのか」という問いである。古代ローマの模像(simulacrum)に想を得た「シミュラークル」というクロソウスキー独自の概念は、そのような問いから導き出される。これは、神々が人間とコミュニケートするために、「ダイモーン」という中間的存在を像に封じ込め、その像に神々のメッセージを仲介させたという新プラトン主義的な考え方に由来する。この模像は神的本質とは言えず、その限りでは「まがいもの」であるが、しかしその神的本質を模擬した「まがいもの」を介してこそ、人間は神々とのコミュニケーションを図れるようになった。クロソウスキーはこれを人間同士でのコミュニケーションにおいても有効な図式として取り入れ、言語化不可能な体験を伝達する際に、当の言語そのものがその体験を模擬する「シミュラークル」の役割を果たし得ると考える。言語はあくまで共約可能な制度である以上、個人間で完全な伝達行為が成立することは不可能であるが、クロソウスキーは「まがいもの」としての言語を過剰なまでに駆使することにより、作品の中に一種の劇的な緊張を発生させている。しかし、彼は70年代以降、執筆を放棄し、絵画へとその活動の主軸を移す。それ以降になされた対談や絵画論で、彼はみずからの絵画の実践がそれまでの執筆活動と完全に断絶していることを強調する。しかし一方で、彼の絵画実践の背景にある方法論は、「伝達不可能なもの」といかに向き合うことができるかという点において、思考の枠組としてはそれまでの著作と連続性を保っている。「伝達不可能なもの」に直面した時の緊張や葛藤を描くための方法論は、その絵画においても変化していないばかりか、むしろ新たな発展を見せているのである。本論文は、クロソウスキーがしばしば用いる「ドラマトゥルギー」という言葉を考慮しながら、上述したような彼の創作上の方法論を具体的に探るものである。

第一部で、筆者は主にクロソウスキーの伝達概念を考える上で重要な「パトファニー」という概念を検討した。アウグスティヌスらに批判された古代ローマの「演劇的神学」に対する考察や、カルメロ・ベーネの演劇に対する論評は、クロソウスキーの考える伝達のありかたを典型的な形で示している。それが、その全作品を貫く「パトファニー」(パトスの顕現pathophanie)という考え方である。クロソウスキーの造語であるこの概念は、「神(々)の顕現」を意味する「テオファニー」を下地としながら、舞台上の伝達行為における送り手(俳優/神々)と受け手(観客/人間)との関係の中で生じる「パトスの顕われ」として発想されている。神(々)と人間との間にいかにして伝達が可能になるのかという問いに基づいた神学的な「テオファニー」の問題は、クロソウスキーにおいては、人間同士の伝達の欲望(パトス)が交差する磁場としての「パトファニー」につながっているのである。

以上のような考察をもとに、筆者は第二部でクロソウスキーのニーチェ論に見られる伝達の問題を探った。言語をその限界に至るまで試練にかけようと企てたニーチェを、クロソウスキーは他者との伝達の問題を思考し抜いた人間であると見ている。ここではその前提として、身体の問題が考察される。私見によれば、クロソウスキーの50年代のニーチェ論の中に見られる俳優という存在への関心は、60年代末の『ニーチェと悪循環』の白眉とも言える「衝動の記号論」というテーマへと発展をみせる。カルメロ・ベーネの芝居における俳優に関するテクストにも見られたように、クロソウスキーにとって人間はつねに外的な諸力=衝動に住まわれ翻弄される存在であり、身体とはそれら衝動同士の遭遇の場であった。持病の頭痛に悩まされたニーチェは、その身体の中の「強度の波動」に耳を傾け、伝達においてはつねに不十分であることを承知の上で、みずからの用いる言語記号を衝動の動きに近づけるために膨大なアフォリズムを書き始める。クロソウスキーは、これこそがみずからのエクリチュールを「シミュラークルとしての言語」の作用に特化させたニーチェの試みの端緒であるとしている。そこから筆者は、ニーチェの〈永遠回帰〉が、クロソウスキーにとってはたんに教理の装いをまとった「まがいもの」という意味での「教理のシミュラークル」であるにとどまらず、「シミュラークルの教理」、つまりシミュラークルとして作動し得る言語の役割を示す「教え」でもあったという見解を呈示した。これは、伝達不可能な経験を前にしてニーチェが選び取った「書く行為」が、クロソウスキーにとってもきわめて重い伝達への問いを含んでいたことを示している。

以上のような「伝達への問い」を、クロソウスキー自身の創作物の中にも探ろうとするのが第三部である。ここでは、その代表的な小説『歓待の掟』を取り上げた。ここでも、特に言語と身体の問題が、彼の考える「パトファニー」的な伝達のありかたと関わっている。クロソウスキーの言う「身体の特殊言語」が、この小説では主人公ロベルト(およびこの小説の「あとがき」の書き手)の経験、およびそれを「記述する行為」に結びつけて示されているが、これは第二部でクロソウスキーのニーチェ論における「書く行為」について考察した点ときわめて多くの共通項を持っている。この両者に共通するのは、書く行為が、言語に還元不可能なファンタスムを模擬する行為になり得るという考え――書く行為それ自体が一種の「パトスの顕われ」となる可能性の追求――である。筆者はまず、こうした伝達の欲望が交錯するエクリチュールのドラマと言える『歓待の掟』の「あとがき」について触れたのち、三作からなるこの小説を構成する作品の一つ『ナントの勅令破棄』(1959)を分析した。クロソウスキーのバタイユ論(1963)なども適宜参照しながら、最終的にはクロソウスキーの伝達の思考における「シミュラークルとしての言語」の機能役割がさらに詳細に考察される。

第四部では、クロソウスキーが手がけたウェルギリウス『アエネイス』の仏訳のはらむ問題を検討した。この翻訳は、これまで見てきたような彼の言語観を如実に反映したものである。というのも、クロソウスキーはこの翻訳によって、どこまで言語を身体的・物理的なものに近づけることができるのか、つまり、どのようにすれば言語はシミュラークルとして効果的に機能し得るのかという「伝達の問い」を最もラディカルな形で実践しているからだ。ここでも彼は、フランス語を可能な限り原文のラテン語に近づけつつ、言語をファンタスムの模擬物として、すなわち「シミュラークルとしての言語」として扱おうとしている。換言すれば、彼がここで行ったのは、ウェルギリウスの変事詩の翻訳という形を借りた、みずからの言語実践に他ならない。

以上の第四部までが、主に1970年代以前のクロソウスキーの著作に見られる伝達の問題について扱うものである。つまり、彼が執筆活動に携わっていた頃のさまざまなテクストから伺えるドラマトゥルギーの内実が、ここまでで明らかにされる。

以上の議論を踏まえた上で、最後の第五部では、主に1970年代以降のクロソウスキーの絵画論において、その伝達の思考がどのように位置づけられ得るのかを探った。はじめに述べたように、1970年代以降、彼は執筆活動を放棄し、絵画という手段で、言語によらない伝達の方法を求める。ただし、より効果的な伝達のありかたを追求するのに採用された方法の枠組そのものは基本的に変わっていない。人口に膾炙した制度的なステレオタイプ(紋切り型)を誇張して用いること、またかつて彼が言語に対して行ったように絵画をシミュラークルとして扱うことなどはその例である。しかし、彼の考える伝達は言語によるものと絵画によるものとでははっきりとそのありかたが異なるのもまた事実である。ここで注目したいのが、クロソウスキーが絵画による伝達の方法を語る時、言語による伝達を探っていた時期以上にスペクタクル的な発想が見られるという点である。枠組としては同じでも、そのドラマトゥルギーの内実はここで大きな展開を見せるのだ。クロソウスキーの考えるパトファニーという伝達の方式は、その著作においても、つねに送り手と受け手のパトスの「やり取り」の問題にかかわってきたが、今度はその多くの絵画を生むに至って、彼はみずからのファンタスムを伝達するために、その著作でも試みてきた「身体の特殊言語」への探究をさらに先鋭化させ、絵画を介した鑑賞者との「やり取り」を果たそうとする。彼はもはや言語にシミュラークルの機能を持たせるのではなく、イマージュにその機能を担わせる。それは「言語を身体的なものへと近づける試み」から「イマージュを新たな記号のコードへと編成し直す試み」への移行であり、それこそが、クロソウスキーが探究し続けた伝達の方法論―ドラマトゥルギー―の帰結であった。

とはいえ、書物から絵画への移行は、たんに「テクストからイマージュへ」という不可逆な関係においてあるのではなく、むしろ、クロソウスキーの中では言語と身体が相互に置換可能であり、絶え間ない往還運動を形成していたことの表れでもあった。クロソウスキーのドラマトゥルギーとは、われわれが「伝達不可能なもの」を前にして、いかなる伝達の「まがいもの=シミュラークル」を生み出し続けているのかという一つの状況設定であり、また同時に、われわれは制度的なもの―言語、あるいはステレオタイプ化した技法の枠組など―を駆使してどこまで意識的に「伝達不可能なもの」の模擬行為を行うことができるのかという作品構成上の企てでもあったのだ。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代フランスの作家であり、思想家でもあるクロソウスキーの作品における伝達・疎通(コミュニケーション)の概念を究明することを目指しており、そのためにクロソウスキーが演劇的な方法の持つ大きな効力を活用した面をとくに詳細に解明しようとした論文である。

第一部では、クロソウスキーにおける伝達・疎通の概念を考察するうえで重要な「パトファニー」という考え方を提示し、論究している。この概念は、「テオファニー」(神々の顕現)という神学的な概念を下地としつつ、舞台上の伝達行為における送り手(神々、およびその役を演じる俳優)と受け手(人間たち、観客)との関わりのなかで生じる「パトスの顕われ」というかたちで発想されている。眼に見えない神々と人間たちとのあいだになんらかの伝達が可能になるのは、祭礼や儀礼によって昂揚した心的状態、パッションが流動するからである。それに類比した仕方で、クロソウスキーの見方では、人間同士の伝達の欲望(パトス)が交差する磁場である「パトファニー」が起こる可能性がありうるとされる。〈神聖なるもの〉のように知的な理解を超えているようななにかは、意識的な思考活動による知的な(また合理的な)説明や解説や論述によっては十分には伝わらない。なにかしらパトス的なものの顕われを通してのみ、伝わる可能性があるだろう。

第二部では、以上の考察をもとに、クロソウスキーのニーチェ論に見られる伝達・疎通(コミュニケーション)の問題系が究明されている。ニーチェの〈永遠回帰〉の思想は、なによりもまずニーチェ自身が生きた体験であって、心的・思索的であると同時に身体的・生理的な恍惚・脱自性(エクスタシス)として経験されたなにかである。だが、こういう生きられた体験を思想・哲学的に表現するためには、人々がこれまで語ってきた言語(ランガージュ)に基づいて書き記すことに依拠するほかない。言語活動は、生きられた体験(それも、真に私へと現前するものとしては経験されなかった経験)をほんとうにリアルなものとして言い表すことができるだろうか。ニーチェは、こういう問題に突き当たるなかで、言語(記号的なものである言語)の働きに敏感になっていく。この世界は(神によって創造されたものではなく)よくわからない記号的なものとしてわれわれに読むこと、解釈することを求めている。それらの記号的なものは、実のところ流動状態にあり、けっして固定しておらず、いつも異なるものへと生成しつつある。しかし、われわれの語っている言語は、いつのまにか「日常的記号のコード」となっており、基本的に固定した意味作用を行ない、いつも同一なものを指し示す。絶えず異なるものへと生成しつつあるものを、つまり本来的には差異性の動きであって同一性の定まっていないものを、「コード」が定 めている同一性の枠のうちにはめ込んでしまう。ニーチェは、原初的な流動状態の記号を「衝動の記号論」というかたちで理解し、語りがたいもの(生きられた体験のリアルな真実)を語るためには、言語(記号的なものである言語)を、「日常的記号のコード」から外して、原初的な流 動状態の記号へと復権させていかねばならないと考える。そのために、語りえぬものを、模擬的に、虚構的に、比喩的に語るという言語活動を実践していく。こういう模擬性、虚構性、比喩性を示唆する言葉が、シミュラークルという語である。クロソウスキーは、ニーチェの思想的な言語活動(書くこと)を、シミュラークルとしての言語実践と見ている。

第三部では、いま見たような「模擬的な」伝達・疎通のテーマが、クロソウスキー自身の創作においてどう扱われているのかを検討している。『歓待の掟』三部作のなかでは、身体的なもの(体験的に生きられるもの、知的理解の及ばないもの)と言語的なものとの関わり方が、「パトファニー」的な伝達・疎通をめぐって、問われている。ひとりの人間が生きる経験のうちで、身体的な衝動に根ざした独自なものを、クロソウスキーは「ファンタスム」と呼ぶが、そういうファンタスムの特異性は、知的な理解のうちに入ろうとしないものであり、通常の言語活動においては気づかれず、抜け落ちる部分であって、ひとえに言語活動を転換することを通してのみ、すなわち模擬的に、虚構的に、比喩的に語るような言語活動へと移行していくなかでのみ、かろうじて暗示される可能性を持つことが考察されている。

第四部では、クロソウスキーによるウェルギリウス『アエネイス』の翻訳の持つ意味合いを検討している。クロソウスキーは、この翻訳作業のなかで、どこまで言語の実践は身体的なものに近づくことができるのか、自らの「シミュラークル」的な運動と化すことによって、伝えがたい部分を伝えることに接近できるのかを、試みているといえる。そう本論文は考えている。

第五部では、クロソウスキーの絵画論において、その伝達・疎通の思想が、そのように変わり、また変わらないままに展開されているかを究明しようとする。絵画においては、制度化されているステレオ・タイプを逆手にとって、それを誇張したかたちで用いること、また文学表現においてよりももっと劇的なもの(スペクタクル)を活用することによって、伝達しがたい部分の伝達を試みるのが、大きな特徴となっていると、本論文は指摘している。

本論文は、クロソウスキーの作品における伝達・疎通の概念を究明しようとしているが、その際にまず第一点として、大きな時代的、思想的背景を考慮に入れていることが評価できる。現代の文脈において伝達・疎通の問題を問うことは、必然的に伝達しがたいものの伝達を問うことになる。本論文は、クロソウスキーが、ニーチェの〈永遠回帰〉の思想およびバタイユの「内的体験」(と呼ばれる「外」の経験、つまり主体=自我の「外」の経験)という思想をよく咀嚼しつつ、キリスト教的な唯一神への信仰が揺らぐようになった近・現代世界においては、〈私=主体〉の完全な同一性がもうありえず、問い直されるということ、そしてこのように〈私は考える〉の明証性を問い直すことは、身体的なもの(必ずしも意識されないままに生きられる衝動的、欲動的なもの)が黙したまま言おうとしていること、意識的な思考のうちに現れてこないものを読み取ることである点を、できる限り自らの伝達行為のうちに取り込んでいると指摘する。これは、優れた観点である。

さらに、第二点として、そのことは同時に、通念的な〈言語の体系と構造〉を疑うことにつながっている点を考えている。クロソウスキーの思想が目指すのは、「日常的記号のコード」から 外れている部分、よく意識されない心の過程として生きられている部分を、それでも日々自分たちが用いている言語(およびその活動)を通して読み解き、表出し、伝えようとすることである。このように伝達しがたいもの、語りがたいものを語ろうとするためには、言語(記号的なものである言語)の用法、語り方を、「日常的記号のコード」にそのまま即して行なうのではなく、そ ういう「コード」から外れている仕方、いわば模擬的、比喩的な仕方で実践することが求められる。身体的なもの(ほとんど意識化されないままに生きられる衝動的、欲動的なもの)が黙したまま言おうとしていることを直接的に語ることは不可能なことであるが、しかしそれを模擬するやり方、虚構的、比喩的に暗示するやり方で語ることであれば、かろうじて可能であるかもしれない。

本論文は、第三点として、クロソウスキーの文学作品、翻訳作品のうちに、以上の「シミュラークル」的な言語実践が見られることを、具体的な分析を通じて論証している。さらに、晩年のクロソウスキーの絵画作品、絵画論を検討し、その特徴を演劇的、スペクタクル的な伝達行為の探究とみなして考察している。これらの考察の基本構図は妥当である。本論文は、これまでのクロソウスキー研究の成果を着実に踏まえながら、クロソウスキーの思想・文学の最も重要な核心が「伝達しがたいものの伝達を問うことを通じて、シミュラークル的なコミュニケーションの可能性を探ること」であった点をよく解明していると言えよう。むろん不十分なところはあり、たとえば第五部における絵画表現の伝達性が文学表現の伝達性とどのように異なるかの解明などはまだ改善するべき部分が大いにあるだろう。フランス語のテクストの翻訳に関しても、難解なテクストであるとはいえ、さらに手を加えるべきであると思われる。しかし、総体として本論文は、クロソウスキー研究に大きな貢献を果たしているのみならず、現代の思想・文学の問題系の一つであるコミュニケーションしえないもののコミュニケーションというテーマにもある寄与を果たしているという点で、審査員全員の合意を得た。よって、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと認定する。

UTokyo Repositoryリンク