学位論文要旨



No 126265
著者(漢字) フェルトカンプ,エルメル
著者(英字) Veldkamp,Elmer
著者(カナ) フェルトカンプ,エルメル
標題(和) 当たり前のように感じること : 韓国と日本における人と動物の関わりに関する変容するリアリティ
標題(洋) What feels natural : the changing reality of human-animal relations in Korea and Japan
報告番号 126265
報告番号 甲26265
学位授与日 2010.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第992号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩本,通弥
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 菅,豊
 東京大学 准教授 箭内,匡
 早稲田大学 教授 伊藤,亜人
内容要旨 要旨を表示する

1. 本研究の目的

本研究の目的は、韓国と日本における人と動物の関わりの現代的な変容過程を検討し、両国の動物観の形成のあり方を解明するとともに、その形成に伴う文化の伝達のプロセスを明らかにすることである。韓国と日本の現代社会では、人と動物の関わりに関していえば、一見類似した現象が起こっているように見える。しかし、それぞれの地域におけるこれらの現象の歴史的背景の相違から、その形成過程の構造が異なることを明らかにする。

2. 本研究の方法論

人と動物の関わりに関する先行研究では、本質主義的な傾向(その地域その人々の「固有のもの」だとする見方)と歴史還元主義的な傾向(昔から伝わってきた、あるいはその意味が過去に求められるとする見方)が多い。本研究では、現代社会の文化現象を検討するに当たって、上記のような傾向に対してバウジンガーが提唱した「第三の輪郭」、すなわち現代文化の総体における複数の現代的な文化要素を、あくまで現在という立場から、外部社会をも含めた全体的文化層と関連付けながら、「その全体〔を〕歴史的生成体として…成長し来たったものとして理解」するアプローチ(バウジンガー1988)を使用することにした。

また、現代の文化的関係における文化(要素および価値)の伝達のプロセスについては、Gerndtの文化伝達のモデル(Gerndt 1997)を手がかりにして研究を進めた。このモデルは、ある出来事が契機となって、その出来事に対する自然な帰結現象が人々の観察・選択・意味づけと絡み合うことで「第1の文化的帰結現象」、すなわち直接的な文化的反応が見られるが、次の段階では、その観察・選択・意味づけが第1の帰結現象と絡み合うことで、さらに人々の意識に変化(意味づけの基準等)を引き起こし、第3の段階では、この意識の変化が働くことで、新しい(自然の帰結現象と直接つながらない)「第2の文化的帰結現象」が生成されるというモデルであり、それは文化変容に関するモデルともなっている。このように文化の伝達というのは、過去から地域社会内で世代的に(タテに)伝承されてくるのでなく、人々の能動的な働きによって、様々な要素を地域外部から重層的に組み込んで更新されるとするこのモデルは、文化要素のヨコの広がり(人・場・情報を介しての要素の摂取)を重視したオープンエンドのモデルであり、現代社会における文化認識の研究に有用な枠組みであると考えて使用した。

3. 事例研究(記述と分析)

本論文で扱う事例は、韓国と日本の現代社会における人と動物に関連する文化要素の変容過程を、4つの脈絡(部)に分けて考察した。(1)動物供養・動物慰霊祭(第I部1・2章)、(2)ペット及びペットの葬儀(第II部3・4章)、(3)保護する動物(第III部5・6章)、(4)「科学技術的な動物」との関わり(第IV部7・8章)である。

第I部に関しては、動物供養や慰霊祭が日本と韓国では、どのように意味づけられているかを検討した。日本では千匹祝い等の歴史的な先例があり、現在もあらゆる動物・植物・器物を対象とした供養・慰霊儀式を行っている。ただしその意味づけについては、20世紀前半の軍用動物慰霊というナショナリスティックな構造のもとで、「祟りへの恐怖」から「死者(動物)に対する顕彰」へと変容しながら、各文化要素が受け継がれている。韓国では動物慰霊祭の伝統がなかったにもかかわらず、現在は多くの動物実験室や大学の獣医学科等で、それらが挙行されている。植民地時代に日本人が建立して現在まで保存されていた動物供養塔に対し、その新たな解釈や意味づけ等が契機となって、その後韓国内でも動物への関心が高まるにつれ、それらが拡大していく。そのプロセスのなかで、「韓国文化に沿った習慣である」という言説も生成されていき、新たな文化要素や価値観が、さらに受容可能なものに変容している。

第II部に関しては、近代以降、ペット人気が上昇し、飼い主との関係が親しさを増すとともに「ペットの死」の意味づけが変容する過程を論述した。日本におけるペット供養の発生は、上記の第I部と無関係ではない動物の霊魂に対する前近代的なとらえ方が底流にあったが、次第に動物への愛着や「死んでかわいそうだ」という方向に意味を変化させていった。一方、韓国のペット葬儀は極めて新しく、せいぜい十年の歴史しかない。元々存在しなかったものが、海外の諸事情を見習い、それらの形式やシンボル等を借用して作り上げられていく。しかし、外的なものを摂り入れているとは認めつつも、「韓国固有の」ペット葬儀だと、その独自性が強く意識されている。

第III部に関しては、日韓両国が特定動物の保護を強いられ、国内の事情にグローバルな思想の圧力がかかる状況を扱い、それに関わる変容のプロセスを論述した。日本ではクジラが政治・経済また文化にまたがる葛藤の種となっているが、鯨漁の展開はほかの近代捕鯨国家と歩みを共にしていた。しかし、クジラ保護という世界的な風潮が勃興するなかで、一般の人々が「クジラ離れ」を起こしているにもかかわらず、「調査捕鯨」を行う日本政府と支持者は「捕鯨大国」としての自己認識を維持・拡張し続けている。韓国における犬食も似たような構造に見えるが、世界的な「資源・関心ごと」であるクジラと違って、食用の犬は国内で生産され消費される。外国からの批判に始まった動物保護運動の国内的な展開と近年のペット人気の影響で、犬食の需要は周辺化されつつあるが、その一方で「伝統的な食文化」としての主張が根強く続くなかで、現在の韓国政府は犬食の合法化も働きかけている。

第IV部に関しては、「バーチャルな」動物との関わりを考える試論である。上記の(1)から(3)までの内容は、人々が実際の動物とどのような関わりを持ち、その関わりがどのように広がりながら変容してきたかを考察したが、ここでは、実際には存在しないが存在するかのように創造された「動物」にまつわる文化的対応を論述した。800年余り前に主人を火事から救ったという伝説で讃えられた韓国の「〓樹(オス)の忠犬」は、文字にしか現れていないため、その姿を知りようがないにもかかわらず、近年、この忠犬が観光資源として見立てられ、遺伝子的に再構築されながら「本物のように」語られるようになった状況を詳述した。また日本で発祥した「たまごっち」という電子ペットは、技術的にいえば、ただのコンピューターゲームであるが、しかし、人々の文化的反応はペット等との関わりと多くの類似点を持つことから、バウジンガーのいう「科学技術」的世界と「自然」や「当たり前」の生活世界との不可分性を示す現象であることを指摘した。

4. 結論

以上、本論文では上記の4つの脈絡において、韓国と日本の現代社会における人と動物の関わりの変容のプロセスを考察してきた。これらの脈絡およびその相互関係の検討に基づいて、韓国と日本における人と動物の関わりのあり方とその変容過程に関して、次のようなことが明らかになった。

第一に、現代的な人と動物の関わりに限っていえば、韓国と日本とでは外見的には類似した現象が起こっているが、その発生過程や発達・展開というプロセスには相当の相違が認められる。これらの相違のひとつの原因は、各国における人と動物との関わりに関する文化要素の「伝統」の有無、すなわち過去の先例を引き合いに出すような、文化的関心の示し方という傾向の違いに求めることができる。つまり、現代社会において文化要素の歴史的次元としてとらえる関心のあり方は、韓国に比べて日本のほうが、人と動物の関わりを示す先例が豊富で、資源化されやすく、それが近年の変容方向に合わせやすかったのだといえる。換言すれば、従来の関わり方を少しずつ変化させつつ、多様な文化要素を操作しながら対応できたのだといえる。それに対して韓国では、近年の「動物=親しい存在」という展開は、従来の関わり方と隔たりがあり、急激なグローバルスタンダードが受容されることで、劇的な変化を見せざるを得ない。

第二に、このような展開とは逆に、従来の人と動物の関わりの文化的な束縛力がそれほど強くない韓国のほうが、新しい文化要素や文化的価値を受容しやすい傾向にあることである。日本における人と動物の関わりで、しばしば登場する「動物の供養」あるいは「動物の霊魂」に基づいた説明形式は、日本仏教と在来の世界観の混合から生まれた特有のものだが、その事象・場・主体・機能が絶えず変化しているため、現在の動物の死後儀式は昔のものと直結しているとはいえない。韓国の場合は、たとえば以前に存在しなかったペット葬儀や動物慰霊祭等は、外部から摂り入れて自身のものにしてから、「伝統」を構築しはじめる。その意味づけは、新しい文化要素を摂取する前と後の時間的なタテのつながりが見られない代わりに、人・場・情報(メディア)等を介して、同時代的なヨコのつながりをいっそう強く働かせている。

第三に、このヨコのつながりは、Gerndtのモデルに沿っていえば、論文の第I・II部で扱った身近な生活環境に実在する動物の直接的経験(人間が動物を観察し、動物と接触・交渉する経験)から獲得された意味づけを扱ったものである。このような脈絡で生じる文化的反応は、「第1の文化的帰結現象」に相当するものと考えて差し支えない。第III部で扱ったクジラと食用犬は、動物との直接的経験と、メディア等の二次的情報からの意味づけとが絡み合うため、中間的位置にある関係といえるが、しかし、第IV部におけるバーチャルの世界にしか存在しない「動物」との関わりは、第I~III部で扱った実在する動物との関わりを背景に、それを脳裏に刻んだ変化した「意識」があって初めて可能になったものである。第IV部における人と架空の動物の関わりは、生物学的な自然環境とは異なっていても、二次的情報からリアリティを獲得した生活環境認識の日常化に当たる、Gerndtのいう「第2の文化的帰結現象」の現われだとみなすことができる。

バウジンガー、ヘルマン1988 「現代民俗学の輪郭」『愛知大学一般教育論集』創刊号、pp.79-94(Bausinger,Hermann (1984). Konzepte der egenwartsvolkskunde. Osterreichische Zeitschrift fur Volkskunde. NS.38, pp.89-106)。Gerndt, Helge1997 Tschernobyl als kulturelle Tatsache. In Studienskript Volkskunde: eine Handreiching fur Studierende, pp.127-135. Munster: Waxmann Verlag GmbH.
審査要旨 要旨を表示する

フェルトカンプ氏の論文"What feels natural: the changing reality of human-animal relations in Korea and Japan(当たり前のように感じること―韓国と日本における人と動物の関わりに関する変容するリアリティ)"は、文化人類学的手法により韓国での2005年3月から2009年5月までの、ソウル等での集中的な約1ヶ月間の現地調査を6回繰り返して得られたデータと、日本各地での2001年4月から2009年5月までの持続的調査で得られたデータに基づき、韓国と日本における現代的な動物観の変容を、動物の死に対する供養儀式の実態分析を通じて解明したものである。韓国では近年ペットブームが巻き起こり、参鶏(サムゲ)湯(タン)屋の千匹供養など、従前には存在もしなかった動物慰霊祭が盛んに催されるなど、一見、日本と類似した現象が生起している。しかし、それぞれの地域におけるこれらの現象が、歴史的背景の相違から、その形成過程の構造や意味づけが異なることを明らかにするとともに、表面的に類似する行為や儀礼がどのようなメカニズムで顕在化するのか、グローバル化に伴って画一化していく変容のプロセスを明らかにしたところに、本論文の特徴がある。

本論文は、以下のIV部10章から構成される。序章「導入」では、動物に関する人類学的研究や動物供養の民俗学的研究を概観した上で、このテーマを人類学的にどのようにアプローチするのか、先行研究をレビューしながら研究の枠組みが提示される。第I部「動物の死のイメージと記念」では(1・2章)、動物供養や慰霊祭が日本と韓国では、いかに捉えられてきたのか、その相違が検討される。千匹祝い等の歴史的先例がある日本では、20世紀前半の軍用動物慰霊というナショナリスティックな構造の下で、その意味づけを「祟りへの恐怖」から「顕彰」へと変容させつつも、各文化要素が選択的に継受されていったのに対し、その伝統のなかった韓国では、植民地時代に日本人が動物実験室や獣医学科で建立した動物供養塔が契機となり、新たな解釈が施されていったプロセスが解明される。第II部「同棲動物のインパクト」では(3・4章)、両国のペット葬儀やペット供養の展開から、人間と同棲動物との関係性の変化が追及され、特に発生の極めて新しい韓国のそれらが、海外から形式やシンボル・思想等を借用し、「伝統」として構築される過程が論述される。第III部「グローバル・スタンダードとしての動物保護主義」では(5・6章)、韓国の食用犬と日本の捕鯨に対する国際的非難がインパクトとなった動物観の変容が論述され、特に韓国の方がドラスティックな転換が起ったとする。第IV部「科学技術世界における人間‐動物関係」では(7・8章)、日本発祥の電子ペット「たまごっち」と、韓国の伝説的な忠犬が観光資源化されるばかりか、血統まで遺伝子的に創出される事例が分析され、科学技術が生活世界に浸透し、「バーチャルな」動物との関わりが何ら違和感なく、「当たり前」になっていく状況が詳述される。第9章「結論」では、これまで論じてきたことを人類学・現代民俗学的観点から総括的な分析と考察を行い、グローバル化した現代のメディア社会の中で生きる人間の生活世界における「動物」に関して、いくつかの結論が導かれている。

このような内容をもつ本論文の学術的貢献は以下の3点にまとめられる。第1に、20世紀後半以降、動物保護が世界的に重要なテーマとなっていくなかで、異なる文化伝統を有する2国の動物観が、グローバル・スタンダードという西欧基準の「普遍性」が受容される過程で、表面的には類似現象が顕在化する一方で、その意味づけには依然異なる文化伝統の下で解釈が施される、その二面性と受容の構造を明らかにしたことである。

第2に、本論文が人類学的・民俗学的な手法に基づいたフィールドワークを駆使して書かれている点である。当該研究においては文献史料に依拠した本質主義的な歴史学的研究が主流を占めるが、本研究は伝統が単純に連続・維持されていると説くような、本質主義的な動物観に対して、現在に至った複雑なプロセスを丹念に追究することで、そうした解釈に対して根本的な疑義を呈し、新たな解釈枠組みを提示したところに意義がある。

第3に、本論文では、近年の人類学・現代民俗学の成果を踏まえながら、現代に生きる人間が、グローバルな情報や在来の文化要素を組み合わせ、操作している文明社会におけるその生活世界を、また多様な切り口からそのダイナミズムを立体的に解明している点で、現代文化を対象化した人類学的研究として大きな貢献を果たしている。さらに、日本とその影響の強い韓国という文化伝統の異なる二国間の事例を、同時並行的にグローバル化のなかで扱う構成は、西欧研究者としての客観的立場からの斬新さや大胆さが認められるものの、その日韓という設定が本質主義を批判しつつも、逆に本質主義を前提にしているようにも見え、説明が不十分だという意見もあったが、その視角は独自性に溢れている。

審査委員会においては、本論文の論述のなかにはいくつかの不適切・不用意な表現がみられること、さらに先に述べたように、論証や分析の仕方には改善すべき余地があることなどが指摘された。しかしこれらは、本論文全体の価値を損なうほどの瑕疵ではないことが審査員全員によって確認された。したがって、本委員会は本論文が博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定する。

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