学位論文要旨



No 126269
著者(漢字) 苅谷,康太
著者(英字)
著者(カナ) カリヤ,コウタ
標題(和) アラビア語著作から見る西アフリカ・イスラームの宗教的・知的連関網 : アフマド・バンバに至る水脈を中心に
標題(洋)
報告番号 126269
報告番号 甲26269
学位授与日 2010.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第996号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉田,英明
 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 教授 長澤,榮治
 東京大学 教授 鎌田,繁
 熊本県立大学 教授 砂野,幸稔
内容要旨 要旨を表示する

本論は、西アフリカのアラビア語写本・刊本の分析を礎に、直接的関係(師弟関係・面会・書簡の遣り取りなどによって構築される、何らかの情報伝達を伴った同時代の宗教知識人間の繋がり)、および間接的関係(特定の著作の学習・注釈書の執筆・韻文化・引用などといった知的営為を介した著者と読者との繋がり)によって構成される同地域の宗教的・知的連関網を描写した。またこの描写に伴って、従来の研究で注目されてきた同地域のスーフィー教団的枠組みの相対化も目的とし、その作業の過程で18世紀以降の西アフリカ・イスラームに関する基礎的な情報の整理・蓄積を行った。

本論執筆の背景となった問題意識は、まず、教団的枠組みに基づく従来の西アフリカ・イスラーム研究では見えにくかった、この枠組みを越えた宗教知識人同士の繋がりを明らかにし、同地域のより正確な宗教的・知的体系の実像に迫ること、次に、西アフリカの宗教知識人達がマシュリクやマグリブといった他地域との連関の中で自らの宗教的・知的体系を構築していた事実を明らかにし、「黒いイスラーム」論に見られるような、この地域のイスラームの特殊性を過度に強調する視点を是正すること、そして、西アフリカという地域を対象とした日本における諸研究が、現地人の書いた大量のアラビア語著作群を1 次資料とする実証的視点に立ってこなかった状況を是正すること、という3 点である。

広大な時間的・空間的領野を扱う本論では、セネガルのムリッド教団(ムリーディー教団)の祖アフマド・バンバ(Ahmad Bamba, 1927年歿)を議論の軸とすることで、論全体を秩序づけ、描写対象とする宗教的・知的連関網に一定の枠を設けた。また、第1部で西アフリカの諸教団の代表的な宗教知識人を議論の中心に据えて教団的枠組みの存在を明らかにしておき、第2部でそうした枠組みを越えて構築されていた宗教的・知的連関網を整理・提示するという構成によって、本論の目的の一つであるこの枠組みの相対化を行った。ただし、第2部での議論を見越して、第1部においても、各宗教知識人の宗教的・知的連関網に関する情報を優先的に紹介した。そして、教団的枠組みの相対化という目的、および議論の軸であるバンバの歿年から、対象とする時間的射程の中心は、18世紀前半から20世紀前半のおよそ200年間とした。

まず第1部第1章では、西アフリカにおけるカーディリー教団の中興の祖ともいえるスィーディー・アル=ムフタール・アル=クンティー(Sidi al-Mukhtar al-Kunti, 1811年歿)と彼に率いられたクンタを議論の中心に据えた。第1節では、スィーディー・アル=ムフタールの血統の提示から、15世紀のスィーディー・ムハンマド・アル=クンティーの存在、およびクンタの血統におけるベルベル性を考察し、更にアラブのウクバ・ブン・ナーフィァをクンタの始祖に位置づける主張とアラブ勢力南進以後のサハラ西部におけるクンタの活動との関係性、スィーディー・アフマド・アル=バッカーイの登場とクンタの血統の分化に関する逸話を論じた。第2節では、まずスィーディー・アル=ムフタールの誕生・修学・修行の様子を描写した後、彼のタサッウフの道統を提示し、この道統が孕む幾つかの問題点に関して、彼の伝記の記述内容の検討や、他の宗教知識人の道統との比較などに基づいて考察を行い、これらの問題点が恐らく伝記の著者の意図的な改変によるものではなかったであろうことを指摘した。第3節では、スィーディー・アル=ムフタールが学んだ著作一覧を提示し、彼が複数の師の許で多様な学問を修めていたことや、師弟関係における知識伝達が双方向的であったことに触れた後、西アフリカにおけるマーリク学派の影響力や、スィーディー・アル=ムフタールによる学問の分類、この地域における紙媒体としての著作の重要性、口承の価値の相対性、書物を介した宗教知識人同士の間接的関係の把握の必要性を検討した。第4節では、スィーディー・アル=ムフタールや息子のスィーディー・ムハンマドの著作群に影響を受けたであろう宗教知識人を具体的に列挙し、彼らの間に築かれた宗教的・知的連関網が教団的枠組みの内外に張り巡らされていたということを明らかにした。

次に第1部第2章では、西アフリカにティジャーニー教団の道統をもたらしたムハンマド・アル=ハーフィズ(Muhammad al-Hafiz, 1830/1/2?年歿)を中心に議論を展開した。第1節では、ハーフィズの帰属するイダウ・アリという部族の起源からモーリタニア南部への定着までの歴史を纏めた。第2節では、ハーフィズの若年期の特異な修学状況を描写し、複数の師との関係を論じると同時に、ハーフィズが学んだ著作一覧の提示から、第1章での議論を受けて、西アフリカで学ばれた著作の中に普遍性の高いものが存在していたことや、マーリク学派の影響力に再考の余地があることなどを指摘した。更に、ハーフィズの聖地巡礼とティジャーニー教団加入の過程や、彼が教団の祖から受けたイジャーザ、西アフリカにおける布教開始の契機などを検討した。第3節は、自教団と他教団との並存を容認するハーフィズの思想から議論を開始した。そして彼の道統に繋がるスーダーン西部の有力な宗教知識人を具体的に列挙し、その道統に関する考察を行った後、ハーフィズおよび彼の道統に属するティジャーニー信徒が、教団的枠組みを越えた直接的・間接的関係の中に存在していたという事実を明らかにした。

そして第1部第3章では、モーリタニア南東部のハウドを活動の拠点として独自の教団論を構築したムハンマド・アル=ファーディルMuhammad al-Fadil, 1869年歿)を中心に議論を進めた。第1節では、ファーディルの血統の提示から、ファーディルの帰属する部族に関する情報および疑問点に言及し、更にファーディル自身と彼の一族に帰される宗教的卓越性の逸話を紹介した。第2節では、ファーディルのタサッウフの道統に触れた後、彼の若年期の修学過程を追っていき、その中で、彼が故郷を離れることなく特別な宗教的地位に至ったという主張を支える「知識の鍵」や「獲得の知」といった概念、そして神からの直接的な知識の開示に関する言説を詳らかにした。第3節では、ファーディルの奨励する宗教儀礼との関係から、ムハンマド・アル=アグザフと彼を名祖とするグズフィー教団に関する概説を行った後、クンタとグズフィー教団との関係、およびクンタとファーディルとの関係を複数の著作の分析によって考察し、クンタとの関係においてファーディルらが展開した現実的な戦略の様相を明らかにした。更にそこから議論を展開し、ファーディルらの主張を支える根本的な「論理」が、歴史上の全てのシャイフに優越するファーディルの特別な宗教的地位に基づいていることを明らかにした。第4節では、諸教団が本質的に単一であるという、ファーディルの唱えた「教団単一論」の内容を、1 次資料の分析や、前章で言及したハーフィズの見解との比較から詳らかにすることで、ファーディルの道統を安易にカーディリー教団の分派に分類すべきではないこと、そしてこの「教団単一論」が前節で明らかにした特別な宗教的地位の「論理」を背景にしていることを明らかにし、最後に彼の思想が故郷を離れた子孫や弟子によってマグリブやスーダーン西部にも広まっていった点を指摘した。

次に第2部第1章であるが、この章は、本論全体の軸となるバンバの若年期の考察にあてた。第1節は、バンバの先祖に関する情報および彼の幼少期の逸話の紹介で始め、彼の少年期の修学と、その過程に大きな影響を及ぼしたマ・バ・ジャフのジハードに纏わる情報を提示した後、マ・バ死後のバンバの修学状況へと議論を展開した。そして最後に若年期の彼の著作一覧を提示することで、彼の知的源泉が多地域・多分野の著作によって構築されていた点にも言及した。第2節では、彼の宗教的志向の深化に関して、その契機となったと考えられる出来事を紹介し、特にラト・ジョールを中心とした政治権力者およびその取り巻きであった宗教権威者とバンバとの緊張関係の推移と、その中で形成されていったバンバの思想的な立場を、具体的な複数の出来事の成り行きを追うことで明らかにした。第3節では、まず若年期のバンバが渉猟した著作一覧を提示し、その中に多地域・多教団・多分野の著作が含まれていることに言及した。更に師を求めて複数の教団のシャイフの許を渡り歩いた彼の旅の様子を描写し、最終的に預言者ムハンマドのみが自ら師であるという認識に至ったこと、そして、後のモーリタニア流刑中、預言者ムハンマドを介して神にウィルドを授かったことから、ムリッド教団をカーディリー教団の分派に位置づけることには慎重でなければならないという見解を得た。第4節では、父親の死後、今日のムリッド教団の聖都であるトゥーバの建設に至るまでのバンバの状況を最初に描写し、更に既存の集団の解体とムリッド教団の原型となる新たな集団の成立に言及した。そして、バンバの目指した教育体制に焦点を絞り、それが先達の思想に基づいていたという事実、および1890年代初めに先祖の地ジョロフへと移住したバンバの意図が、トゥーバにおいて崩壊しかかっていたこの教育体制の立て直しにあったという事実を明らかにし、それによってバンバの若年期の移住に関する先行研究の議論の是正を図った。

第2部第2章は、ここまでの議論に登場した宗教知識人達の直接的相関関係を概略図に纏め、教団的枠組みを越えた直接的関係の存在を明示した。しかし同時に、個々の宗教知識人は、直接的関係のみから自らの宗教的・知的形成を図っていたわけではないため、西アフリカの宗教的・知的体系の実像に迫るには、間接的関係の把握が不可欠であることを指摘した。

これを受けて第2部第3章では、バンバを議論の軸として、宗教知識人達の間接的関係を検討した。第1節第1項は、地域外著作(西アフリカ以外の著作)に焦点を絞り、まず西アフリカで伝統的に学ばれてきた地域外著作一覧および若年期のバンバが渉猟した地域外著作一覧を提示した。そしてバンバの著作に影響を及ぼした地域外著者・著作の概説、更にはそれらとバンバの著作との関係性を検討し、彼が多様な地域外著作の内容を自らの著作に反映させていた事実を詳らかにした。続けて第2項では、主に知識の授与と獲得を巡る宗教知識人達の意図に関して、アブー・ハーミド・ムハンマド・アル=ガザーリーの著作とバンバの著作との関係を論じ、バンバが彼の周囲に存在した時代的・地域的な問題の対処に地域外の先達の思想を援用していたという具体例を提示した。第2節第1項は、地域内著作(西アフリカの著作)を題材とし、若年期のバンバが渉猟した地域内著作一覧の提示、地域内著者・著作の概説、およびそれらとバンバの著作との関係を考察した上で、バンバの著作を含む地域内著作群の多くが、西アフリカ内外に張り巡らされた間接的な宗教的・知的連関網なしには成立し得なかったことを明らかにした。そして第2項は、まずバンバの思想に大きな影響を及ぼした地域内著者であるムハンマド・アル=ヤダーリーについての概説を行い、更に彼の著作『我が主の祝福』の内容の分析から、サハラ西部のハッサーニーヤ詩の性質や、他地域との連関の中で発展した西アフリカの知的活動に言及した。そして、ヤダーリーの著作『タサッウフの封印』とバンバの著作『楽園の道』の具体的な内容分析から、両著作の関係性や、ガザーリーからアフマド・ザッルーク、ヤダーリー、バンバへと繋がる思想的連鎖などを考察した上で、『楽園の道』の執筆時期も考慮し、ムリッド教団の「労働の教義」と『楽園の道』の内容とを結びつけようとする見解が不正確なものであることを明らかにした。加えて、バンバの著作群に体系的な「労働の教義」が見出されないということにも言及した。しかし、このようなヤダーリーとの関係とは異なり、バンバが先達の思想の「重心」を意図的にずらして自らの思想を構築していた思われる事例も存在していた。その具体例として、バンバが、スィーディー・アル=ムフタールの著作に見られる預言者・聖者・ウィルド論を、諸聖者および諸ウィルドを等価と見做す議論に応用している事例を提示し、これが複数の教団が並存するスーダーン西部の現実的な状況、およびそうした並存を認める思想の存在と軌を一にしている点を指摘した。

最後に今後の課題として、第1に、本論第1部で行ったような西アフリカの宗教知識人に関する情報の整理・蓄積の継続を、第2に、より精緻で、より広範な宗教的・知的連関網の描写を、第3に、他地域との比較研究(宗教的・知的連関網の構造比較、および変容過程の検討を主眼とした思想比較)を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「アラビア語著作から見る西アフリカ・イスラームの宗教的・知的連関網 ―― アフマド・バンバに至る水脈を中心に」は,その標題に示されている通り,西アフリカのアラビア語写本・刊本の分析を礎に,同地域のイスラーム宗教知識人たちのあいだに張り巡らされていた壮大な知の伝達経路を復元し,その伝達の動態を素描しようとする試みである。そのさいの中心人物として選ばれたのが,今日のセネガルなどで強大な勢力を保持している神秘主義教団(ムリッド教団)の開祖アフマド・バンバ(1853年頃-1927年)である。そして,バンバの思想形成に寄与した数世代前までの知識人たちの事績をも視野に収めながら,彼ら自身の著作や伝記といったアラビア語散文および韻文の一次史料を精密に読解し,彼らの周辺に築かれていた直接的関係(面会や書簡による教義や情報の伝達過程)ならびに間接的関係(著作の学習や引用,注釈書の執筆,散文著作の韻文化などの営み)を辿ってゆく。従って,本論文で扱われる時間的・空間的な射程は,狭義には神秘主義教団が拡大・定着を始める18世紀前半から,バンバが歿する20世紀初頭までの約200年間の西アフリカであるが,広義にはその背後に広がる北アフリカ(マグリブ)やエジプト・シリア・イラク(マシュリク)の,イスラーム勃興以来の広大な領域と時代に属する知識人たちのアラビア語著作が含まれることになる。

全体は「序」と「結語」を挟む形の二部構成を取る。第1部「西アフリカ・イスラームの教団的枠組みに関する情報の整理と蓄積」全三章では,バンバに先立つ世代の三知識人の人物史がそれぞれの章において描写される。その三人とはすなわち,西アフリカにおけるカーディリー教団中興の祖スィーディー・アル= ムフタール・アル= クンティー(1811年歿),ティジャーニー教団の教えを西アフリカに初めてもたらしたムハンマド・アル= ハーフィズ(1830-32年頃歿),そして独自の教義によって教団の枠組みそのものを変革・超越しようとしたムハンマド・アル= ファーディル(1869年歿)である。

ここでは,各人物の血統や,神秘主義の教義の接受における師弟関係を示す道統,そしてより一般的な学問的系譜などが検討される。とくにクンティーとハーフィズについては,それぞれが学んだ先人の著作が学問分野別の一覧表の形で提示され,彼らが宗派や教団,地域の枠組みに捉われない膨大な領域の学問的伝統を受容していたことが指摘される。また,並存する諸教団が,神の許に至る一本の道である点において本質的差異を持たないという考え方から出発して,ハーフィズが複数教団の並存を容認する思想を展開し,ファーディルが教団間の差異自体を否定する「教団単一論」を主張したことも紹介される。これらの思想と,バンバの思想との親和性は第2部で改めて検討されることになる。

第2部「西アフリカ・イスラームの宗教的・知的連関網」全三章は,第1部の内容を受ける形で,主人公アフマド・バンバに即した知の連関の様相を具体的に描写する。第1章「アフマド・バンバの若年期」では,バンバの生涯を辿りながら,彼が若年期に渉猟した著作や彼自身が著わした作品の一覧表が提示され,第1部の三名と同様,バンバも時間・空間,あるいは教団の垣根を越えた広範な著作を吸収していたことが明らかにされる。第2章「西アフリカの宗教的・知的連関網:直接的関係」では,これまでの議論を要約する形で,クンティー,ハーフィズ,ファーディルの三者とバンバとを中心とした人物相互の相関関係が概略図によって提示される。第3章「西アフリカの宗教的・知的連関網:間接的関係」は,バンバが読んだ著作の一覧表を出発点とし,それらを西アフリカ以外の地域(マシュリクおよびマグリブ)に由来する著作群と,西アフリカ内部の著作群とに二大別した上で,彼に流れ込んだイスラームの知の伝統を具体的に跡づけてゆく。とくに,イスラーム法学と神秘主義とを融合した「知識」の重要性と,そうした「知識」の「行為」に対する優越を説くバンバの著作中の文言が,マシュリク出身の大思想家ガザーリー(1111年歿)に淵源を持ち,マグリブ出身のシャーズィリー教団のアフマド・ザッルーク(1493年歿)や,西アフリカ出身の碩学ヤダーリー(1752/3年歿)の著作を媒介としてバンバへと順次伝承されてゆく連鎖の過程を追った一節は,本論文全体の圧巻と称すべき部分である。その分析を通じ,今日一般にバンバに帰せられる「労働の教義」,すなわち働くことが祈りに通ずるといった思想が根拠のないものであることも明らかにされる。他方,バンバがハーフィズやファーディルに近い,複数教団の並存を積極的に認める思想を展開してゆくさいには,クンティーの著作の文言の意図的な読み替えがなされていることも示される。

最後の「結語」では今後の展望が述べられ,さらに「補遺」においては,バンバの創始したムリッド教団で用いられているウィルド,すなわち教団独自のアラビア語の祈祷句が,註釈付きで翻訳・紹介されている。

こうした構成を持つ本論文の貢献としては,何よりもまず,従来の「黒いイスラーム」論に対し,アラビア語一次史料に基づく根柢からの問い直しを行なった点が挙げられる。「黒いイスラーム」論とは,アラビア半島を中心とする「正統的」なイスラームに比べると,西アフリカの黒人社会で受容されたのは「歪んだ」イスラームであるとする,植民地時代以来人口に膾炙してきた見解である。これに対し本論文では,西アフリカのイスラーム知識人たちが,マシュリクやマグリブの知識人たちとの密接な連関網のなかで知的体系を構築していた事実を明らかにし,この地域のイスラームの特殊性を過度に強調する視点に是正を求めている。また,教団の枠組みを最重要視する従来の西アフリカ・イスラーム研究に対しても,その枠組みの基層部分に通底する,開放的・流動的な知の連関網の存在を示唆することで見直しを要請している。

第二の貢献は,もっぱら植民地行政当局の公文書に依拠したり,文化人類学的参与観察に基づいたりする手法が一般的であった西アフリカのイスラーム研究において,アラビア語一次史料の存在とその重要性とを初めて認識させた点であろう。本論文では,苅谷氏が膨大な時間をかけ,不屈の忍耐力を発揮して蒐集した現地の図書館・文書館所蔵の写本資料や,書店で購入した刊本資料の緻密な読解の成果が遺憾なく生かされている。韻文と散文とを問わず,論文中で引用されるアラビア語の一次史料には,すべてローマ字転写と日本語訳が付され,筆者の訓みが提示される。また,一般に馴染みのない西アフリカの著述家とその著作に,解説や解題が付されていることは言うまでもない。こうして整理・蓄積された基礎的情報自体が,文字資料に基づく今後の実証的な西アフリカ研究の出発点となるはずである。

第三の貢献は,ムリッド教団のいわゆる「労働の教義」がバンバ自身の著作には見出されず,むしろ後世の人々の意図的読み替えによって作り出された教説であることを明らかにした点である。これは従来なされていなかったまったく新しい指摘であり,この部分だけでも独立した論考の形で,世界の学界に向けて発表する価値があるとの評価が多くの審査員から与えられた。

勿論,高い完成度を示す本論文にも,問題点がないわけではない。例えば,分析の対象を「アラビア語著作」に限定したため,西アフリカに存在するさまざまな「現地語」,とくにバンバの母語であるウォロフ語を媒介とした知の伝達経路への目配りが手薄になっている印象を読者に与えかねない。また,純粋な知の連関を辿るという論文の性格上,それらの知を生み出す母胎となった激動期西アフリカの政治的・社会的状況,とくにイスラームの精神世界と政治権力との矛盾に満ちた関係への言及が十分にはなされていない憾みがある。さらに,西アフリカ研究における教団的枠組みの相対化を提唱する場合には,すでに植民地時代に同様の指摘を行なった人類学者も存在していた事実を踏まえる必要があるとの指摘や,そうした社会的柔軟性の由来に関するさらに深い考察があればよいとの要望も出された。

しかし,これらの多くは本論文が設定する枠組みをはみ出した,今後の課題とも言うべき指摘であり,研究自体の劃期的な価値を減じるものではない。よって審査委員会は,本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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