学位論文要旨



No 126274
著者(漢字) 竹内,春樹
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,ハルキ
標題(和) マウス嗅覚系における神経地図形成の分子機構
標題(洋) Molecular Mechanisms of Neural Map Formation in the Mouse Olfactory System
報告番号 126274
報告番号 甲26274
学位授与日 2010.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5565号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京大学 教授 森,憲作
 理化学研究所 チームリーダー 吉原,良浩
内容要旨 要旨を表示する

我々の脳は、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、体性感覚といった様々な感覚器官から入力される情報を、神経地図として脳内における二次元上の位置情報へと変換する。この神経地図形成のために、個々の神経細胞は発生の過程で自らのアイデンティティを獲得し、決められた投射先へと軸索を伸長させる。嗅覚系は、神経細胞における投射のアイデンティティが"発現する嗅覚受容体(olfactory receptor: OR)"という明確な形で定義され、その軸索の投射先が糸球体と呼ばれる明瞭な構造体として観察できることから、神経回路形成の分子メカニズムを研究する上で他に類をみない有用な系であると考えられる。

マウスの嗅覚系では、匂い分子を検知するためのORは約1000種類存在する。個々の嗅神経細胞は、多数あるOR遺伝子の中からたった一種類のみをランダムに選択し、相互排他的かつmono-allelicに発現する(1神経-1受容体ルール)。また同一のORを発現している嗅神経細胞の細胞体は、鼻腔の奥に存在する嗅上皮上においてモザイク状に分布しているものの、その軸索は大脳前部に位置する嗅球に存在する特定の箇所に糸球構造を形成して投射する (1受容体-1糸球ルール)。従って、嗅球上では、ORの数に相当する1000個の素子からなる神経地図が形成される。個々の匂い分子は、複数の種類のOR分子と異なる親和性でもって認識されるため、匂いの情報は嗅球上において約一千個ある糸球を素子とした二次元上の発火パターンとして展開される。

この嗅覚の神経地図の形成は、発現するORに依存的な軸策投射と非依存的な軸策投射の二つのメカニズムによって形成される。嗅球の前後軸方向の軸索投射及び軸索の収斂に関しては、発現するOR分子が複数の軸索投射及び選別分子の種類と発現量を制御することによって達成されるが明らかとなっている。一方、背腹軸方向の投射に関しては、嗅上皮と投射先である嗅球との間に空間的な対応関係が存在し、嗅神経細胞の嗅上皮における細胞体の位置が重要なパラメーターになっている。嗅上皮の背内側に位置する嗅神経細胞は嗅球の背側方向に、腹外側に位置する嗅神経細胞は嗅球の腹側方向に軸索を伸長させる。個々のOR遺伝子は、嗅上皮上の限られた領域で発現し、その発現領域はORごとに固有であり、かつ互いに重なり合って連続的に分布している。これまで嗅球の背腹軸方向の軸策投射に関しては、嗅上皮と嗅球間の膨大な組織学的な知見は蓄積されてきたものの、それを保障する分子メカニズムについてはほとんど明らかとされてこなかった。そこで本研究では、この嗅上皮と嗅球との間に存在する空間的な対応関係を保障する分子メカニズムを解明することを目的として、Neuropilin-2(Nrp2)という軸索ガイダンス分子に着目して解析を行った。Nrp2は嗅上皮上において腹外側に位置する嗅神経細胞において強く、背内側に向かうにつれて弱くなるという位置特異的な発現パターンを示す。Nrp2の抗体を用いて、Nrp2の発現量と軸索の投射位置との関係を詳細に調べた結果、Nrp2を強く発現する嗅神経細胞の軸索は、嗅球の腹側に、Nrp2を弱く発現する嗅神経細胞の軸索は、背側に投射することがわかった。実際にNrp2が軸策投射に影響を与えるかどうかを検証するために、遺伝学的手法を用いて一部の嗅神経細胞においてNrp2の発現量を変化させる実験を行なった。その結果、Nrp2の発現量を低くするとより背側に、逆に発現量を高くするとより腹側に糸球が観察されるようになり、実際にNrp2の発現量によって背腹軸方向における糸球の位置が決定されるということが明らかとなった。

軸索ガイダンス分子が神経地図の形成にどのように作用するのかということを理解するためには、そのリガンドの発現部位とそのタンパク質の分布を明らかにすることが必要となる。Nrp2は、分泌型のリガンドであるSemaphorin-3F(Sema3F)と相互作用することで反発性の活性を示すことが明らかとなっている。そこで、マーカー遺伝子であるLacZをSema3Fの遺伝子座にノックインしたマウスを用いてSema3Fの発現解析を行った。その結果、Sema3Fはターゲットである嗅球の細胞での発現は検出されず、嗅上皮上に存在する嗅神経細胞において発現するということが判明した。しかもその発現パターンは、背内側で強く、腹外側に弱いというNrp2とは概ね相補的であることがわかった。

この発現パターンに促され、嗅神経細胞由来のSema3Fの軸索投射における役割を検証するために、嗅神経細胞特異的にSema3Fをノックアウトしたマウスを作製した。このマウスにおいては、通常に腹側に投射する嗅神経細胞の軸索投射に異常が見られ、誤ってより背側方向に投射する軸索が観察された。このことから、嗅神経細胞由来のSema3FがNrp2を発現する嗅神経細胞の軸索にcell non-autonomousに作用して背腹軸方向の軸策投射に関わると考えられた。しかしながら、Sema3Fは分泌タンパク質であり、実際の作用機序を理解するためにはSema3Fタンパク質の局在を明らかにすることが重要であると考えられる。しかしながら、Sema3Fの発現レベルは低く、また現時点で組織染色可能なよいSema3Fの抗体は存在しないことから、これまで生体内におけるSema3Fタンパク質の局在は明らかとされてこなかった。この問題に対し、我々はテトラサイクリンシステムを用いてSema3Fの発現量を上昇させたBACトランスジェニックマウスを作製して、嗅覚組織におけるSema3Fタンパク質の可視化を試みた。その結果、Sema3Fは嗅上皮において背内側に位置する嗅神経細胞によって産生されるにも関わらず、ターゲットである嗅球の背側領域にそのタンパク質が局在することがわかった。この領域は、嗅神経細胞特異的なSema3FノックアウトマウスにおいてNrp2を発現する嗅神経細胞の軸索が誤って投射する領域と一致することから、Sema3FのNrp2の反発作用は嗅球上において生じるものと考えられた。

げっ歯類の嗅覚系において、嗅球の背側方向に投射する嗅神経細胞の成熟が嗅球の腹側方向に投射する嗅神経細胞より早いということが複数の遺伝子マーカーの発現解析から示唆されている。その知見に促され、我々は発生段階を追って嗅上皮から嗅球への軸索伸長の様子を観察した。その結果、発生段階初期においては背側方向に投射する軸索のみが嗅球に到達しており、嗅球の腹側方向に投射する軸索はそれよりも遅れて嗅球に到達するということがわかった。このように嗅神経細胞の間に、時間的な成熟の違いがあるということが、Sema3FとNrp2の作用機序において、背腹軸に沿った神経地図を作るのに重要であると考えられる。これによって、発生段階初期に先に背側領域に到達した軸索が、Sema3Fをターゲット領域に分泌することで後から到達するNrp2を発現する軸索を腹側方向へと押しやることで、Nrp2の発現量に従ったトポグラフィックなオーダーを作り出すというモデルが考えられた。

これまで神経地図の形成メカニズムに関しては、主に視覚系において解析が進められてきた。視覚系では、網膜と視蓋との間に存在する空間的な対応関係を保障するために、軸索側で発現される軸索ガイダンス分子とターゲット側の細胞によって提示されるガイダンスキューとの相互作用(axon-target interaction)が重要な役割を果たすことが明らかとなっている。この知見を基に、神経地図の形成メカニズムに関しては、axon-target interactionを中心に語られることが多かった。それに対し、本研究でおいて得られた知見は、投射する軸索自身がガイダンスキューをターゲット領域に持ち込むことでトポグラフィックマップを作り出すという新しいモデルを提唱するものであり、他の中枢神経系においてこれに類似する機構が存在するかどうかを明らかとすることが今後の神経回路形成の分野における大きな課題になるものと思われる。

背腹軸方向の軸策投射のモデル

審査要旨 要旨を表示する

我々の脳は、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、体性感覚といった様々な感覚器官から入力される情報を、神経地図として脳内における二次元上の位置情報へと変換する。この神経地図形成のために、個々の神経細胞は発生の過程で自らのアイデンティティを獲得し、決められた投射先へと軸索を伸長させる。マウスの嗅覚系では、匂い分子を検知するための嗅覚受容体遺伝子(odorant receptor: OR)は約1000種類存在し、個々の嗅神経細胞は、多数あるOR遺伝子の中からたった一種類のみをランダムに選択し、相互排他的かつmono-allelicに発現する。また同一のORを発現している嗅神経細胞の細胞体は、鼻腔の奥に存在する嗅上皮上においてモザイク状に分布しているものの、その軸索は大脳前部に位置する嗅球に存在する特定の箇所に糸球構造を形成して投射する。従って、嗅球上にORの数に相当する1000個の素子からなる神経地図が形成され、匂い分子が嗅覚受容体と結合することによって得られる匂い情報は、糸球の発火パターンとして脳内において二次元展開される。学位申請者の竹内春樹は、この匂い認識を支える神経地図形成を保障する分子機構に関する研究を行った。本論文は、大きく分けて4章からなる。第1章で、イントロダクションとしてマウス嗅覚系の概要と嗅神経細胞の軸策投射における課題について議論されている。「結果と考察」に当たる第2章と第3章においては主に嗅神経細胞の背腹軸方向にする分子機構に関する研究成果が述べられ、最後の第4章に結論が付されている。

マウス嗅覚系の神経地図は、発現するORに依存的な軸策投射と非依存的な軸策投射の二つのメカニズムによって形成され、主に嗅球の前後軸方向の軸索投射及び軸索の収斂に関しては、発現するORが神経細胞のアイデンティティを担い軸索投射を制御することが明らかとなっている。一方、背腹軸方向の投射に関しては、嗅上皮と投射先である嗅球との間に空間的な対応関係が存在し、嗅神経細胞の嗅上皮における細胞体の位置が重要なパラメーターになっている。申請者はこの空間的な対応関係を保障する分子機構を明らかにするために、Neuropilin-2(Nrp2)という軸索ガイダンス分子に着目して解析を行った。Nrp2は嗅上皮上において腹外側に位置する嗅神経細胞において強く、背内側に向かうにつれて弱くなるという位置特異的な発現パターンを示す。遺伝学的手法を用いて一部の嗅神経細胞においてNrp2の発現量を変化させる実験を行い、Nrp2の発現量が背腹軸方向における糸球の位置を規定するということを明らかにした。続いて、Nrp2の分泌型のリガンドであるSema3Fの発現解析を行い、Sema3Fはターゲットである嗅球の細胞での発現は検出されず、嗅上皮上に存在する嗅神経細胞において発現し、その発現パターンは、Nrp2とは概ね相補的であることを明らかとした。さらに分泌型タンパク質であるSema3Fの局在を明らかにするために、テトラサイクリンシステムを用いてSema3Fの発現量を上昇させたBACトランスジェニックマウスを作製して、嗅上皮に存在する嗅神経細胞由来のSema3Fタンパク質がターゲットである嗅球の背側領域に沈着するということを明らかとした。また、発生段階を追って嗅上皮から嗅球への軸索伸長の様子を観察したところ、発生段階初期においては背側方向に投射する軸索のみが嗅球に到達しており、嗅球の腹側方向に投射する軸索はそれよりも遅れて嗅球に到達するということが判明した。このような嗅神経細胞間に存在する時間的な成熟の違いが、Sema3FとNrp2の作用機序において、背腹軸に沿った神経地図を作るのに重要であると考えられる。以上の結果を踏まえ、発生段階初期に先に背側領域に到達した軸索が、Sema3Fをターゲット領域に分泌し後から到達するNrp2を発現する軸索を腹側方向へと押しやることで、Nrp2の発現量に従ったトポグラフィックなオーダーを作り出すというモデルが提唱された。

これまで神経地図の形成メカニズムに関しては、視覚系においてさかんに研究が行われ、投射する軸索とターゲットに存在する細胞との相互作用が重要な役割を果たすことが明らかとなっている。本研究の成果は、これまで考えられていた神経地図形成のモデルとは異なり、軸索間の相互作用を介して神経細胞が自立的に神経地図を形成するという新しい概念を提唱するものであり、学位申請者の業績は博士(理学)の称号を受けるにふさわしいと審査員全員が判断した。なお、本論文第2章は、井ノ口霞氏、青木真理氏、坂野仁氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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