学位論文要旨



No 126278
著者(漢字) 黒江,美紗子
著者(英字)
著者(カナ) クロエ,ミサコ
標題(和) 農地景観におけるカヤネズミ・メタ個体群サイズの決定機構
標題(洋)
報告番号 126278
報告番号 甲26278
学位授与日 2010.05.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3605号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 宮下,直
 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 准教授 石田,健
 東京大学 准教授 加藤,和弘
 新潟大学 准教授 関島,恒夫
内容要旨 要旨を表示する

野生生物の生息地の消失や分断化は、生物多様性の低下を引き起こす主要因の一つである。中でも農地景観では、集約化を目的とした耕作地の拡大あるいは耕作放棄による土地利用変化によって、生物多様性の低下が近年著しく進行している。古くから農地景観が成立してきた日本では、伝統的な土地利用のもとで溜め池や採草地、二次林が維持され、野生生物に生息場所を提供してきた。しかしこれらの生息場所は、農業の集約化および集約化に伴う土地利用管理形態の変化により消失・分断されつつある。また、中山間地における耕作放棄も、遷移の進行を促しこれらの生息環境の消失を引き起こす要因となっている。このような農地景観における土地利用形態の変化は、植物、昆虫、鳥類、哺乳類と多岐にわたり野生生物の種数の低下や個体群サイズの縮小を引き起こしている。このような状況下で生物多様性を維持するには、農地景観に依存している生物種の個体群の存続を図ることが重要である。

本研究は、農地景観に含まれる放棄水田や採草地に生息するカヤネズミを対象として、メタ個体群アプローチを取り入れた個体群サイズ予測モデルにより、農地景観における土地利用改変が個体群サイズに及ぼす影響を明らかにすることを目的とした。分断化された景観では、生物の生息地はパッチ状になり複数のパッチ間を個体が行き来することで一つの個体群を形成するようになる。このような個体群のサイズを予測するには、メタ個体群アプローチで用いられるパッチ連結性が有効である。パッチ連結性は、周辺パッチからの個体の移入ポテンシャルを指標しており、複数の周辺パッチに対し、パッチごとの潜在的な個体数とそのパッチとの距離に依存して減衰する移動成功率を掛け合わせたものとして定義される。しかし、これまで個体群サイズ予測モデルに用いられてきたパッチ連結性は、生物にとっての移動分散の場となるマトリクス(生息パッチ以外の景観構造)を均質とみなしており、農地景観における予測性が低いことが報告されている。一方、実際の陸上景観の多くはマトリクスに様々な種類の土地利用を含む。そのため、このようなマトリクス異質性が個体の移動に影響する場合には、個体群サイズに予測誤差をもたらす可能性が高い。そこで本研究では、各マトリクス要素が生物の移動分散に対し異なる抵抗性をもつことを考慮することで、マトリクスの異質性が個体の移動を介して、個体群サイズに影響を及ぼすことを明らかにする。

本研究は、農地景観に依存し、集約化による個体群サイズ縮小が報告されているカヤネズミを対象とした。カヤネズミはハビタットスペシャリストであることに加え、体サイズが小さい、個体群成長率が大きいといった特性から、メタ個体群構造を持つ可能性が高い。さらに地表徘徊性であることから、マトリクス構造の影響を受けやすいだろう。本研究では個体群サイズ予測モデルの推定に、個体群の空間パターンを用いるパターン志向のモデリングを用いた。このモデリングは、対象とする種が景観改変を受け、採取できるデータが少ない場合に、不確実性の小さいモデルを推定することができるアプローチである。本研究の調査地である千葉県九十九里平野では、放棄水田や二次草地がカヤネズミの生息パッチにあたる。マトリクスには水田、畑、樹林、市街地、道路、水路など多様な景観要素を含んでおり、抵抗性に異質性があることが予想される。本種は繁殖期に草本群落に巣を作ることから、生息数の空間パターンを容易に調査することができる。景観マトリクスの異質性が移動分散を介して、カヤネズミの個体群サイズに影響していることを明らかにするため、以下の研究に取り組んだ。

第2章では、マトリクスの異質性が移動分散を介してカヤネズミの個体群サイズに影響するという一連のプロセスを検証するため、野外操作実験、観察された個体群分布パターンを用いた予測モデルの構築および他のプロセスを仮定したモデルとの比較を行った。土地利用改変というイベントを利用した野外操作実験では、カヤネズミが多数生息するソースパッチの消失によって、周辺パッチの個体数の減少が観察されたことから、移動分散が本種の個体数決定における重要な要因の一つであることを明らかになった。さらに、マトリクス要素ごとの抵抗性を考慮してパッチ生息数を説明する統計モデルを構築し、ベイズ推定を行った結果、マトリクスの抵抗性は要素間で大きく異なり、水田や耕作地は抵抗性が低く、市街地、道路、水路、林では抵抗性が高いことが明らかとなった。また、周辺景観からの捕食者の侵入や隣接マトリクスの質の影響により移出率が低下するなど他のプロセスを仮定したモデルとの比較からも、マトリクスの要素ごとの抵抗性の違いが本種の個体群サイズ決定プロセスとして重要であることが支持された。

第3章では、推定された抵抗性およびモデルの汎用性を検証するため、構造の大きく異なる5箇所の景観で個体群サイズの予測を行った。従来のマトリクスを均質とみなした連結性を使用したモデルとマトリクスの異質性を考慮した連結性を含むモデルを外挿した結果、連結性異質モデルではもっとも改変された景観を除くすべての景観で、実測個体群サイズに近い値を算出することができた。一方、連結性均質モデルは個体群サイズを過大評価する傾向があり、パッチの消失や分断を引き起こす人為改変は、同時にマトリクスの抵抗性を高くする可能性があることが示唆された。

これらの研究の結果から、農地景観に生息するカヤネズミ・メタ個体群では、パッチの質や空間配置だけでなくマトリクス構造も個体群サイズ決定に大きく寄与していることが明らかとなった。分断化が進行する景観では、複数年にわたる空間パターンの採取が困難な場合が多く、単年の個体群分布データからでもマトリクス改変の影響を予測できる本研究のモデリングアプローチは、農地景観における野生生物個体群の保全を目的とした景観管理を行う上で有用なツールになると考えられる。すなわち、本アプローチによりマトリクス抵抗性の異質性を得ることができれば、野生生物個体群の保全を目的としてこれまで行われてきた生息パッチ管理やコリドー管理に加え、連結性を調節するマトリクス管理を行うことが可能になる。例えば、種ごとに異なると予想される抵抗性に着目することで、外来種には通りにくい一方で在来種には通りやすいマトリクスを創出するといったマトリクス管理が可能になることが期待される。このように生物の移動分散に対してフィルターの役割を持たせることができるマトリクス管理は、外来種の侵入が深刻な問題である一方で、多くの絶滅危惧種が生息する農地景観では特に有効であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

野生生物の生息地の消失や分断化は、生物多様性の低下を引き起こす主要因の一つである。なかでも農地景観では、集約化を目的とした耕作地の拡大や耕作放棄による土地利用の変化によって、生物多様性の低下が近年著しく進行している。農地景観において生物多様性を保全するには、景観の分断化がどのような仕組みで個体群の存続性に影響しているかを明らかにすることが重要である。

本研究では、放棄水田や採草地に生息するカヤネズミを対象に、メタ個体群アプローチを取り入れた統計モデルを構築し、農地景観における土地利用の改変が個体群サイズに与える影響を明らかにすることを目的とした。メタ個体群とは、分断化された生息パッチ間を個体が行き来することで維持されている個体群をさす。メタ個体群のサイズを予測するには、パッチの質とともに、パッチ間の連結性を生物学的に評価することが重要である。パッチ連結性は、周辺パッチからの個体の移入ポテンシャルを表しており、通常はパッチごとの潜在的な個体数とパッチ間の距離により定義される。従来のパッチ連結性では、生物の移動分散の場となるマトリクス(生息パッチ以外の景観構造)を均質とみなしてきた。しかし、実際のマトリクスは様々な種類の土地利用から構成されているため、マトリクスには異質性があり、それが個体の移動に影響する可能性が高い。そこで本研究では、マトリクスの各要素が生物の移動分散に対し異なる抵抗性をもつことを考慮し、それがカヤネズミの個体群サイズに与える影響を評価した。

野外調査は、千葉県九十九里平野の農地景観で行った。九十九里平野における本種の生息地は、放棄水田や二次草地であり、マトリクスには水田、畑、樹林、市街地、道路、水路など多様な景観要素を含む。本種は繁殖期に草本群落に巣を作るため、生息数の空間パターンを容易に調査することができる。

第2章では、マトリクスの異質性が移動分散を介してカヤネズミの個体群サイズに影響する一連のプロセスを検証するため、野外操作実験と観察された分布パターンを用いた統計モデルの構築を行った。土地利用の人為改変を利用した野外操作実験では、カヤネズミが多数生息するソースパッチの消失により、周辺パッチの個体数が距離依存的に減少することが観察された。これは移動分散が本種の個体数を決定するうえで重要な要因の一つであることを示している。次に、生息数を説明する統計モデルを構築し、ベイズ推定によりマトリクス要素ごとの抵抗性を推定した。マトリクスの抵抗性は要素ごとに大きく異なり、水田や耕作地は抵抗性が低く、市街地、道路、水路、林では抵抗性が高いことが明らかになった。これは移動分散に対するマトリクス要素の抵抗性の違いが、本種の個体群サイズの重要な決定要因となっていることを示している。

第3章では、推定されたマトリクスの抵抗性とモデル構造の妥当性を評価するため、分断化の程度が異なる5箇所の景観を対象に個体群サイズの予測を行った。その結果、マトリクスの異質性を考慮したモデルでは、もっとも分断化が進んだ景観を除くすべての景観で予測値と実測値がほぼ合致した。一方、マトリクスを均質とみなした従来のパッチ連結性を用いたモデルでは、個体群サイズを過大評価する傾向があった。これは、パッチの消失や分断化をもたらす人為改変が、マトリクスの改変も同時に引き起こすことが原因となっていた。

以上の結果から、農地景観に生息するカヤネズミ・メタ個体群においては、パッチの質や空間配置だけでなく、マトリクスの構造も個体群サイズの決定に大きく寄与していることが明らかとなった。本研究のモデリングの手法は、多数の生息パッチを対象とした分布データがあれば広く適用可能であるため、農地景観における野生生物の保全を目的とした景観管理を行ううえで有用なツールになると考えられる。具体的には、マトリクスの抵抗性を推定することにより、野生生物個体群の保全のために重要な生息パッチの選定や、生息地の連結性の向上を目指したマトリクス管理を行うことが可能になる。またこの考え方は、外来種の分布拡大を制限するためのマトリクス管理にも応用が可能である。

以上、本論文は、新しい概念や手法を用いて、分断環境下における生物の個体数を予測するモデリングを開発したものであり、学術上・応用上の貢献が大きいと考えられる。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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