学位論文要旨



No 126285
著者(漢字) 大原,宣久
著者(英字)
著者(カナ) オオハラ,ノリヒサ
標題(和) 交流のための自伝 : ミシェル・レリス『ゲームの規則』読解
標題(洋)
報告番号 126285
報告番号 甲26285
学位授与日 2010.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第999号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 野崎,歓
 東京大学 教授 湯浅,博雄
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 准教授 星埜,守之
 早稲田大学 教授 千葉,文夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は20世紀フランスの作家ミシェル・レリスの代表作といえる自伝的作品『ゲームの規則』La Regle du jeu 全4巻を論じたものである。全4巻の内容を丹念にたどり、作者レリスがなにを求め、いかに書き、どこにたどり着いたのか考察している。

シュルレアリスム運動の挫折や、ジョルジュ・バタイユらとの『ドキュマン』グループおよび「社会学研究会」での活動、民族誌家としてのキャリア、『レ・タン・モデルヌ』誌への協力等を経験したレリスは、1940年代に入るといわゆる詩作よりも現実への接近を望むようになる。「驚異」のありかを実生活のなかに探り、とりわけ個人的な言語事象のうちにみずからの成り立ちをあかす鍵を見ようと、実存的な目論見をもはらんだ自伝的作品にとりかかった。

こうした動機を持ちつつ、独自の息の長い文体によって書かれた『ゲームの規則』第1巻『ビフュール』(1948)であったが、その探求の対象は作者レリスの個人的な言語、すなわち言語の「社会化」という問題(幼児的、個人的な、社会化される以前の「言葉」ならざる言語をすくいあげること)から、次第に、もっと現実的な体験、それも日常にあってその日常性を揺るがせるような「聖なる」体験へと広がっていく。

だが、かくある主に幼時のみずみずしい記憶(サーカスを見た鮮烈な思い出など)を掘りおこすたびに、レリスは実際の出来事と再現された文章との隔絶に悩まされている。それは表象の限界をめぐる真摯な問いであり、書くことで現実のもつ迫真性、真実性に迫りたい、過去と現在の時間の乗り越えがたい隔壁を霧消させ、両者を交流させたいという意志のあらわれである。文学と現実、過去と現在の間に相互的な交流をレリスは望むのだ。

『ビフュール』最終章では、みずからのこれまでの方法――さまざまな事象をつなぎ合わせて、長大な連鎖を作りあげていく手法――をあかしつつ、その手法が自己満足に陥っていることを指摘し、なかば絶望して作品は閉じられている。文学による現実への作用を、いうなれば「交流」を求めるレリスであれば、そうした望みが絶たれた状況にあっては筆を置くしかなかったのである。

だが、執筆はまもなく再開される。つづく第2巻『フルビ』(1955)でレリスは、迫りつつある、最大のオブセッションである死の恐怖と向き合おうと努めている。だが、死の世界を意識させられた体験としてレリスが引き出すのは、幼時に夜間耳にした奇妙な物音の記憶などだ。それはいわゆる「原光景」のような精神分析的な無意識の領域として考えられるが、レリスはこうした体験を語り、当時感じた恐怖(そしてその回帰)を強調するだけで、結局のところ死を語ることには成功しえない。ここには、語りえぬもの=欠如としての死の表象がある。死に近づきつつ、そこに完全に到達することはできないと自覚しながらも、その周囲をめぐり、語りつづける――それこそが自伝作家としてのレリスの矜持なのである。

ついで本書では、友愛、そして恋愛のありかたと、さらにはその表象をめぐってレリスは試行錯誤している。前者においては、みずからの「弱さ」を徹底的にさらすことで、読者とのあいだで大事な秘密を共有するかのごとく、濃密なコミュニケーションが成立することをレリスは願っているかのようだ。後者においては、愛する対象を描写することよりも、オペラ(とりわけ『アイーダ』)のなかの恋人たちの劇的な運命を引き合いに出すことで高揚感を伝えようとしている。

『フルビ』をつうじて明確に存在するのは、死を把握し、生の彼岸にコミュニケートしたいという意志だ。と同時に、自伝的文学がなしえる、死の世界にかぎらない外部=読者との交流の可能性もレリスは求めつづけている。本書は、文学による死への接近と、コミュニケーションの願望をめざした書物として読み解くことができる。

第3巻『フィブリユ』(1966)では、自殺未遂により生死の境をさまよった体験が描きだされている。睡眠薬を大量に摂取したレリスは、一命を取りとめたことによって、この冥府降りの体験自体が作品内に取り込まれている。

そして、『フィブリユ』第3部では、レリスはこれまで探求してきた「ゲームの規則」、すなわち「詩法」でありながら「社交術」でもあるような黄金律たる「規則」の発見の困難さを自覚するようになる。つまり、散文――レリスいわく「論証的」な言説――によって、「詩だけがもたらしうる」絶対的な存在の発見や全体的な把握をなしとげようと、不可能を試みていたと今さらながら気づくのだ。つねに逃げ去る、アクチュアルな世界を把握するためには、時間に拘束されず瞬時に全体的な把握をもたらす「詩」に頼るしかなかったというのである。

だが、詩か散文か、芸術性か科学性か、文学か政治・現実かというレリスを悩ませる二項対立のどちらを選択すべきか、容易には結論は出ていない。論証的な言説を放棄すると述べるくだりもあって、一見すると誤読を誘うのだが、よく読めばただちにそれも打ち消されており、結局最後まで結論は出ていない。

むしろそうした矛盾を認めたうえで、レリスは結語に、今後追い求めるべきものとして「詩」(la poesie)という語を示す。ただし、ここでいう「詩」とは、これまでに定義されてきた、韻文によって書かれる一般的なイメージの詩とは異なるものだ。むしろ、対立的な二項の総合としてのあたらしい様態の「詩」が措定されているととらえられる。

『フィブリユ』は「規則」の発見がかなわなかった「失敗」の書であるのも事実だが、本書では、種々雑多な体験を冒頭から末尾までひとつにつなぎあわせて描き出すこと――レリスの生をつないだ、自殺未遂ののちに残った首の「縫合」の傷跡に象徴される行為――には間違いなく成功しており、レリス的な交流の詩学、美学のひとつの到達点となっている。

第4巻『フレール・ブリュイ』(1976)は、『フィブリユ』末尾で暗示された「詩」を体現するものとして、散文であり詩でもあるような断章形式を採用した作品となった。とはいえ、レリスは冒頭に置いたひとつの主題や細部を、作品の「導きの糸」として、いくつもの断章で繰り返し変奏することで、断章形式ではあっても、作品に全体性、統一性を付与している。レリス自身がそのような目的で冒頭に置いたことを認めている挿話とは、解放間際のパリでドイツ兵たちが襲撃される現場を目撃し、無意識的に汚れてもいないはずの手を洗ったというものだ。多義的で示唆に富むものではあるが、このエピソードから読み取れるのは、ひとつには、悪しき共同体に巻き込まれたこと、暴力的な報復を止められなかったことによる穢れの自覚という主題である。

いっぽう、『フレール・ブリュイ』の終盤には「驚異的なもの」(le merveilleux)をめぐる断章があり、ここでレリスは、円卓騎士物語やそれを援用したワーグナーオペラにおける驚異の有無等を考察したうえで、結局のところ、一般に了解されるような奇跡的な物語や出来事における驚異よりも、ありふれた現実に驚異を見いだそうとしている。そこには、人間の現実世界そのものにひそむ「死」という驚異を直視し、その恐怖を乗り越えたい、また、驚異をつうじて死を把握するためにも、驚異について言葉を並べるだけでなく、驚異を生き、さらに他者と共有したいという願望がうかがえる。

そこでレリスが引き合いに出しているのは、ワーグナーの謎めいた客死と、それにまつわる俗説(召使からフェラチオを受けながら死んだというもの)だ。神話的で、饒舌な芸術家に不釣合いなこの謎、「空白」こそが、ゴシップというかたちであれファンの夢想を誘ったのである。こうしたありかたは、死を迎える際に快楽のみを求め、「無心」だったとされるワーグナーの状態とも通じ合うだろう。芸術家がその死をファンとのあいだで共有する状態、それこそがレリスにとって至高の驚異である。一個人の死をファンが伝説化して受け入れならば、その個人は孤独な存在ではなくなり、死をも乗り越えて永続的な存在となるからだ。

かくある伝説化をもたらす「空白」、ファン=読者を誘いこむ「空白」は、レリス作品にあっては『フレール・ブリュイ』で導入された断章形式(断章間の余白)を想起させる。各断章間に隙間があればこそ、その空隙を埋めるべく、読者はそこに作者の一貫したイメージを想像し、作品に積極的に参加できるのだ。こうして形成される作者と読者との交流、共同体こそが、暴力的な共同体ではなく(「手を洗う」主題に願望として隠されていた)真に求めるべき共同体となる。

このような文学のありかたは、レリスの模索しつづけた「ゲームの規則」とは違うのか。たしかにそれは、詩と人生の双方に有効な絶対的な黄金律とはいえない。だが、本書で繰り返される「手を洗う」という主題には、汚れへの忌避といった自己批判的な意味合いに加え、悪しき共同体を拒絶するためにそのつながりを切断し、真の関係性を構築したいと望む姿勢を見て取れる。その姿勢は、レリスという人物の深層にある傾向を如実にあらわすだけでなく、作家としてのレリスがたどり着いた断章形式の自伝という書法とも響き合っている。絶対的な規則ではなくとも、「手を洗うこと」/「因習的なつながりの切断」/「切断のうえでの、外部へ開かれた真の関係性の構築」/「断章形式」はひとつの特権的な規則に達している。これこそが、長大な探求の末にレリスが見いだしたものだったのである。

審査要旨 要旨を表示する

『交流のための自伝』と題された大原宣久氏の学位請求論文は、その副題「ミシェル・レリス『ゲームの規則』読解」が示すとおり、フランスの作家ミシェル・レリス(1901~1990)が遺した『ゲームの規則』の精密な読解の試みである。

『ゲームの規則』は『ビフュール』(1948)、『フルビ』(1955)、『フィブリユ』(1966)、『フレール・ブリュイ』(1976)の全四巻からなる。完成まで三十年近くを要した、文字通り畢生の大作だが、その長大さのみならず、途切れなく続く文体や、言葉遊び、地口を発想の核心に秘めた特異な書法ゆえに、難解作として読者の前に聳え立ってきた。文学史上の重要性はつとに認められながら、本格的研究はフランスでもようやく端緒についたところであり、日本では『ビフュール』が邦訳されている程度で、全容はまったく知られていない。

大原氏の論文はそうした空白を埋めるべく、大作に正面から取り組み、テクストに即し慎重かつ着実な解読作業を貫徹して、そこに浮上する重大なテーマを捕捉、分析する。

論文の構成は、全四部からなり、「自伝的探求の始まり」と題する序、および「おわりに」と題された結語が付されている。序においては、『ゲームの規則』以前の作家の歩みが素描され、シュルレアリスム運動に加わるかたわら、言語学者としてアフリカに旅し、異文化と親しく交流したレリスが、徐々に「私」を主題に据えた作品の執筆に向かっていくさまが辿られる。

論文の構成は、全四部からなり、「自伝的探求の始まり」と題する序、および「おわりに」と題された結語が付されている。序においては、『ゲームの規則』以前の作家の歩みが素描され、シュルレアリスム運動に加わるかたわら、言語学者としてアフリカに旅し、異文化と親しく交流したレリスが、徐々に「私」を主題に据えた作品の執筆に向かっていくさまが辿られる。

すなわち第一巻『ビフュール』においては、幼児期の言い間違いの記憶を掘り起こし、未だ社会化されない言葉をなまなましく現前させようとするレリスの姿勢が、日常を揺るがす「聖なる」体験への希求と結びつくことが指摘される。その希求を、大原氏は過去と現在、文学と現実の隔壁を超えた「交流」の願望として捉える。とりわけ重要な「交流」の契機を、大原氏は第二巻『フルビ』に潜む「死」の主題のうちに見出す。生の彼岸に架橋したいという抑えがたい欲求のうちに、レリス作品の根底的なあり様が認められる。テクストは外部、他者へと開かれ、読者との交流を求めて書かれる独特な自伝となるのだ。

作家は第二巻刊行後に自殺を企て、文字どおり生死の境をさまよう。大原氏によれば、その経験が書き込まれた第三巻『フィブリユ』において、それまでの試みに対する一つの結論がもたらされる。散文による現実把握の限界を意識したレリスは、自らの望む「死と生を結びつける」如き「全体的」な作品は、詩によってこそ可能となるというヴィジョンを得た。

最終巻『フレール・ブリュイ』の、散文でも詩でもあるような断章形式はそうした認識に由来する。しかも断章形式は、それがはらむ空隙ゆえにひときわ読者の参加を促し、作家の夢見る「友愛の共同体」への誘いとなりうる。そこに大原氏は全四巻の到達点を見るのである。

「交流」や「自伝」といった鍵となる概念の定義づけに、曖昧さや踏み込み不足が感じられる面があり、またゲームの「規則」を実体的な目標として考えすぎているきらいもある。原文の理解が十分でないまま、自らの論旨に引きつけて解釈した結果、いささか牽強付会な展開を示している部分も指摘された。しかしながら、難解な大作の全体をよく咀嚼した上で、平明な日本語で論じ切ったたことは高い評価に値する。従来見過ごされがちな、作品の歴史的背景に関する考察がなされている点でも、オリジナリティを主張しうる。日本におけるレリス研究の新たな地平を切り開く、重要な成果とみなせるであろう。

従って、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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