学位論文要旨



No 126287
著者(漢字) 上野,雅由樹
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,マサユキ
標題(和) タンズィマート期オスマン帝国における非ムスリムの「宗教的特権」と「政治的権利」 : アルメニア共同体の事例から
標題(洋)
報告番号 126287
報告番号 甲26287
学位授与日 2010.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1001号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 羽田,正
 東京外国語大学 教授 新井,政美
 東京外国語大学 教授 林,佳世子
内容要旨 要旨を表示する

タンズィマート期のオスマン帝国は、一方でムスリムと非ムスリムを「平等」な国民として統合することを掲げ、他方では非ムスリム宗派共同体の長である総主教座に「宗教的特権」を付与し、その権限を保障していった。このような2つの側面は、後者を軽視しながら、あるいは矛盾したという形容のもとに語られてきた。しかし、近世の多元的共存社会が近代国家にどのように受け継がれたのかを理解するためには、両側面の関係をとらえることこそ必要であるように思われる。これを受けて本稿では、アルメニア共同体の事例に焦点をあて、オスマン帝国において平等な国民形成へと統合様式が転換したタンズィマート期に、宗派共同体という枠組みがどのように機能したのかを検討した。そしてこの時代に、アルメニア共同体の中心にあったイスタンブル総主教座が、アルメニア共同体に生じた変化に対応するなかで共同体に対する統制を強化したこと、それと並行してオスマン帝国の制度的枠組みに取り込まれていったことを明らかにした。

第1章では、19世紀初頭までのオスマン帝国のアルメニア人と、アルメニア教会イスタンブル総主教座を取り巻く歴史的経緯を確認した。そのなかで、19世紀初頭にいたるまでのあいだに、列強諸国を背後に持つカトリック、プロテスタントの宣教師とアルメニア教会全体の首長であるエチミアズィン・カトリコス座の介入が強まったこと、イスタンブル総主教座はこれらオスマン帝国外からの介入に対抗する必要があったことを指摘した。

つづく第2章では、19世紀前半のアルメニア共同体に生じた変化とイスタンブル総主教座の対応を検討した。19世紀前半にオスマン帝国のアルメニア人は、新式の学校教育と定期刊行物の普及といった変化を経験した。これら新たな媒体は、当初カトリックやプロテスタントの宣教師が布教に用いることでもたらされた。これに対抗することを迫られたのが、オスマン政府に対してアルメニア人の動向に責任を持つイスタンブル総主教と、総主教と結びつくことで共同体に影響力を行使していた俗人有力者たちである。彼ら聖俗の共同体上層部は、自ら学校教育の普及を後押しし、新聞を発行して、他宗派の活動に対抗していった。

こうした対抗策は当初、政府から勅許状を授与された総主教を中心にした、イスタンブル総主教座という一種の権利主体を通じて、従来の宗教的自治の枠内で施されていた。しかし学校数が増大し、カトリックへの対抗から新たな病院が設立されると、総主教座が抱える職務の分量は増大し、職務自体の性格も次第に変化していく。その結果総主教は、職務と金銭的負担を受け持つ俗人に譲歩することで、制度的に彼らを総主教座内に取り込むことになった。こうして総主教座内には、委員会や評議会といった合議機関が設置され、共同体運営のための制度が次第に整備されていった。そのなかで総主教座内では、聖職者が自らの領分を守るべく、聖職者と俗人の領分を分ける傾向が見られるようになった。こうして元来名目的には聖職者の組織だった総主教座に俗人が制度的に内包されることとなった。それとともにイスタンブル総主教座は、学校教育、出版、そして合議機関を通じた政治参加といった面で、共同体の統合を支える手段を獲得していった。

第3章では、1860年前後を対象に、ミッレト憲法という制度的枠組みの形成と、その過程での総主教座の共同体に対する関与を扱う。共同体運営へのさらなる俗人参加と、オスマン政府の非ムスリム共同体改革の意図が相まって、1860年前後にイスタンブル総主教座では、ミッレト憲法という枠組みによって共同体運営機構が制度化されていった。その結果、総主教座は、従来の教会組織のなかでの地位に加えて、学校や病院の監督・運営主体としての、そして共同体全体を代表する議会を有する組織としての性格を強めていった。これと時期を同じくして、オスマン政府が平等原則のもとでの国民統合を掲げる一方で、その原則から除外された領域は、「宗教的特権」の名のもとで、総主教座に委ねられた。このように内実と名目にずれが生じるなかで、アルメニア共同体上層部は、総主教座を通じて、「宗教的特権」という名目のもとに、独自の活動を展開していくことになる。

総主教座が新たな性格を獲得していった結果、一方では新たな財源が必要とされ、他方ではアルメニア人社会における総主教座に対する関心と批判が高まっていた。これを受けて総主教座の共同体上層部は、共同体税の導入と定期刊行物の統制へと動き出していった。これは、総主教座とイスタンブルのアルメニア共同体との関係強化をもたらした。加えて共同体上層部は、地方のアルメニア共同体に対しても関与を強めていった。その過程では、彼らが関与する対象が、従来の教会組織内においてイスタンブル総主教座が管轄していた範囲から、オスマン帝国全土へと拡大していった。

第4章では、1863年にオスマン政府がミッレト憲法を承認して以降のイスタンブル総主教座の活動を扱う。ミッレト憲法制定過程を通じてアルメニア共同体の主導権を握ったのは、オスマン政府高官と結びついた官僚や医師だった。彼らは、ミッレト憲法承認以降、その背後にオスマン政府を持つことで、アルメニア教会の他の首長たち、すなわちエルサレム総主教座やスィス・カトリコス座への関与を強めることができた。その一方で、定期刊行物の統制を目的とした出版法の制定に失敗し、ミッレト憲法停止処分を受けるなかで、総主教座内では、オスマン政府高官とのつながりを通じて定期刊行物を統制し、また政府に共同体税の徴収を委託しようとする声も高まっていった。こうして1860年代後半に総主教座の共同体上層部は、オスマン政府への依存度を増し、政府の統制下に置かれることとなった。このような展開を受けて、この時代には共同体税徴収方法との関連で、総主教座が強制力を持たないことも議論されている。

最後に第5章では、1870年代の総主教座の動向を、東部アナトリア改革論議を中心に検討する。地方共同体への関与が進むなかで、1870年代には総主教座内の共同体議会で、東部アナトリアのアルメニア人をめぐる改革が議論されるという新たな展開が生じた。このような議論は、オスマン政府に対する改革の要求へ、そしてアルメニア人の兵役参加による、ムスリムとアルメニア人の平等実現の要求へと発展していった。ただし、共同体議会の議員たちは、東部アナトリアの改革を論じ、それをオスマン政府に要求する上で、オスマン政府の政策の枠組みに沿う必要があった。つまり、アルメニア人の状況改善を要求するという個別の利益の追求であっても、オスマン国家の枠組みと独立して語られたわけではなかった。タンズィマート期のオスマン帝国において、一見相容れないようにも思われる「平等」と「特権」が併存するなかで、「特権」の担い手である総主教座の内部では、市民としての権利と義務の「平等」が積極的に取り上げられたのである。このように、後の「アルメニア問題」につながる改革論議をめぐっても、アルメニア教会イスタンブル総主教座の活動は、平等な国民という理念を掲げるタンズィマート期オスマン帝国の枠組みのなかで展開されていたと言えるだろう。

要するに、タンズィマート期において、総主教座の共同体上層部は、19世紀前半からの社会変化に対応することで、共同体に対する統制を強化するとともに、地方へも影響力を拡大していた。その過程でイスタンブル座の性格としては、教会組織のなかでの総主教座という側面に加え、共同体を代表する議会を持つ共同体運営機構としての側面が強まっていった。その結果、タンズィマート期において、イスタンブル総主教座は、オスマン帝国全土に広がるアルメニア共同体の中心として凝集力を高めつつあったと言えるだろう。その一方で、総主教座の共同体に対する権限は、オスマン政府の承認に依存していた。さらにオスマン政府は、共同体を主導するその上層部を、内部に取り込んでいた。このような構造と回路を通じて、オスマン政府は、ある程度は総主教座を統制することができた。

タンズィマート期にオスマン政府は、直接関与することが反発を呼びうる各共同体の個別の領域を「宗教的特権」の名のもとに総主教座に委ね、それ以外の法制度の領域で「政治的権利」の付与を通じて平等な国民としての統合を打ち出していった。アルメニア共同体の事例から見た場合、この2つの側面は、総主教座が政府の権威に依拠しながら共同体の中核として凝集力を高めていく、そしてオスマン政府が総主教座を統制下に置きながら共同体の個別の領域の監督を総主教座に委ねるという、歴史的展開において形成された相互依存の関係性のなかでこそ、機能していたと言えるだろう。こうして、従来、その存在を容認されてきた多様な宗派共同体は、近代国家形成過程のなかで、総主教座を媒介したオスマン政府の統制下において、新たな多宗教の編成に組み込まれていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀オスマン帝国における西洋化による近代化の試みとしてのタンズィマート期における、非ムスリム共同体の変容過程を実証的に解明することを目指した論文である。その際、多元的イスラーム国家であるオスマン帝国における非ムスリムの諸共同体のうち、変容が最も急速に進んだアルメニア共同体の事例を対象として取り上げている。

本論文の序論においては、問題設定とともに、従来の研究史を批判的に総括し、新たな視角とその視角に立つ分析を支える、従来十分に利用されてこなかった史料群を提示する。第一章においては、タンズィマート期のアルメニア共同体分析の前提として、オスマン帝国内の非ムスリム共同体のあり方に関する通説を批判的に検討する。特にアルメニア共同体につき分析し、従来の通説ではより集権的に描かれてきた前近代のアルメニア共同体には、現実には地方分権的傾向が強く、漸く18世紀頃よりイスタンブル総主教座による集権化が進行し始め、19世紀初頭にかなり集権的となっていたことを明らかにした。

第二章においては、マフムト二世改革の開始前後から、タンズィマート改革の中期に至る、アルメニア共同体の変化とそれへのイスタンブル総主教座の対応が取り上げられた。そして従来の通説では、近代西欧の影響下における学校教育改革等につき、総主教座が否定的であったとされてきたのに対し、実際には総主教座も、聖職者改革の一環として、近代的学校教育制度の創出や出版活動の活性化に独自に取り組んでいたことが明らかにされた。そして共同体の運営システムにおいても、中央のみならず地方においても組織改革が進行し、恒久的に改革が推進される体制が整えられたことが明らかにされた。

第三章においては、1853年から1863年が対象とされ、アルメニア共同体の基本的な内部体制についてのミッレト憲法の起草と成立の問題が取り上げられ、憲法起草がオスマン政府の指示によっていたとの通説に対し、それ以前からアルメニア共同体内の独自の動きがあったことが明らかにされ、ミッレト憲法起草過程についても、新たに発見した第一草案も用い、詳細に検討し、そこにもられたアルメニア共同体内部組織の構成も解明した。組織整備に関わる財源としての共同体税の導入論議と、制度的形成過程が実証的に明らかにされた。新たな枠組みのもとで近代化していくなかで、活発化した言論活動への出版規制の必要性も論ぜられ、出版法起草委員会が設置されたことも明らかにされた。このようななかで、イスタンブル総主教座の空間的視野も広がり、アルメニア人が多数居住していた東アナトリアへの関与の必要も議論されるようになったことが明らかにされた。

第四章においては、1863年から1869年において、政府による統制が強化され、オスマン政府の出版法のもとで、総主教座は宗教的事項にのみ監督権が認められ、総主教とカトリコスとの関係についても、オスマン当局の総主教座を通じた、アルメニア共同体全体への統制が強化され、反面、アルメニア総主教座は政府の権威のもとで外部の総主教座やカトリコス座に対する統制を強化した経過を実証的に明らかとした。

第五章においては、アルメニア共同体中央における構造的な変化の過程を前提としながら、この状況の変化のなかでアルメニア人が多く居住してきた東部アナトリアの現状についての関心が高まり、東部アナトリアの改革議論が始まったこと、改革の要求の対価として、従来棚上げされてきたアルメニア人の兵役参加の問題もまた、アルメニア共同体内部で論ぜられ始めたことに言及し、さらに地方のアルメニア共同体と中央との関係の変化についても分析を加えている。

結論においては、各章の内容を包括的に要約したうえで、オスマン帝国のアルメニア共同体のなかにおいて、タンズィマート改革期にイスタンブル総主教座のコミュニティ全体への統制が強化されるとともに、アルメニア共同体の凝集力も強まっていったこと、それと同時に、オスマン政府が共同体の上層部を取り込むことによって、共同体への統制を強めつつ、宗教宗派をこえた平等の原則に基づく国民統合を打ち出していったことを明らかにした。

本論文においては、タンズィマート改革期のオスマン帝国における非ムスリム共同体の変容を、アルメニア共同体の事例について解明することが目指されている。その際、まず第一点として、従来の通説を批判的に再検討し、当初は著しく分権的であったアルメニア共同体がイスタンブル総主教座を原動力として19世紀初頭までに、かなりの程度に集権化されたことが明らかとされた。

第二点としては、従来の通説においては西洋化による近代化改革に消極的であったとされてきた総主教座の聖職者層が、聖職者改革とのかかわりのなかで教育改革や出版事業育成においても重要な役割を果たしてきたことを明らかとし、そのような文脈のなかで共同体の体制の再編の出発点となるミッレト憲法の形成と、それに付随し、共同体税導入を初めとするさまざまな改革にも積極的に関与したことが明らかとされた。

第三点としては、このような一連の改革の動きのなかでアルメニア人が多数居住してきた東部アナトリアの現状の改革についても議論が始まり、オスマン当局に対する東アナトリア改革の要求への対価として、従来避けられてきた兵役への参加も積極的に論ぜられ、そのうえで宗教宗派をこえたオスマン臣民としての平等も求められこと、そしてオスマン当局もまた自らの思惑のもとで各共同体の宗教的特権を認めつつ、政治的権利の付与の名の下に、国民としての統合を進めようと試みたことが明らかにされた。

本論文は、西欧諸国語はもちろん、トルコ語、オスマン語、アルメニア語の公刊、未刊の原史料を博捜し、新たな重要史料も発見しつつ、従来の通説を再検討し、タンズィマート期オスマン帝国におけるアルメニア共同体の変容過程を詳細に分析した労作であり、本邦はもとより、欧米、トルコ、アルメニア共和国における研究水準をも凌駕する独創的な学術的貢献であると言える。しかしながら、同時代的に進行したアルメニア共同体内におけるナショナリズムの展開過程との関わりについてほとんど触れられていない点、比較史的・世界史的観点から見て、用語上の不徹底が散見される点などの短所もまた見受けられる。とはいえ本論文は、全体的に見れば、オスマン帝国内における非ムスリム共同体の近代化過程における変容、とりわけアルメニア共同体のなかにおけるその実態を、国際的に見ても最も先進的な形で解明した労作であると言える。

以上、本審査委員会は、本論文は、博士(学術)の学位を授与するのに十分値するものであることを認定した。

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