学位論文要旨



No 126290
著者(漢字) 深谷,亮
著者(英字)
著者(カナ) フカヤ,リョウ
標題(和) シアノ架橋金属錯体における光誘起電荷移動過程のラマン分光法による研究
標題(洋) Photoinduced charge-transfer process in cyano-bridged metal complexes studied by Raman spectroscopy
報告番号 126290
報告番号 甲26290
学位授与日 2010.05.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5569号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 小森,文夫
 東京大学 教授 嶽山,正二郎
 東京大学 准教授 酒井,広文
内容要旨 要旨を表示する

物性物理学において,光は物質の電子状態やフォノン状態などの物性をプローブするのに有用なツールである.一方,近年では物性制御や光照射によって新たな物質相を創成するための重要な役割も担っている.光誘起相転移を示す物質の探索は,光物性分野において重要かつ注目を浴びている研究テーマである,光誘起相転移とは,光照射による局所的な状態変化が引き金となり,電子一格子相互作用などの協力現象を介して巨視的な物質相へ変化する現象である.この現象が起こりうる条件として,物質が多重安定性を持つ系であり,それぞれの物質相がポテンシャル障壁で隔てられた状態にあることが必要である.このような条件を基にして,現在までに数多くの光誘起相転移物質が発見され,幅広く研究が行われている.

シアノ架橋金属錯体は,可逆な光誘起磁性相転移を示す物質として精力的に研究が進められている.この物質群は混合原子価錯体であり,金属の価数状態によりスピンをもつ磁性相が変化するため,光による電荷移動を引き金とした磁性制御の実現に非常に適している.

可逆な光誘起磁性相転移を示すシアノ錯体の中で,RbMn[Fe(CN)6]は室温付近から200K程度まで磁化率の温度ヒステリシスを示し,およそ12Kで自発磁化を示す.この物質はFeとMnがシアノ基(CN)で架橋された3次元的なネットワークを組んだ構造であり,高温相でFe(III)CN-Mn(II)(立方晶),低温相でFe(II)-CN-Mn(III)(正方晶)の価数状態および結晶構造をもつ.温度による磁化率相転移は,Fe-Mn間の電荷移動およびMn(III)のJahn-Teller歪みによる構造変化で生じていることが知られている,一方、Rb:Mn:Feの組成比を変化させることにより,磁化誘起第2高調波発生,圧力誘起磁極反転,強誘電性と強磁性の共存など様々な現象,物性を示すため,多様な準安定状態の存在が示唆されており,光誘起相転移を研究する上では非常に興味深い物質である,

現在報告されているRbMn[Fe(CN)6]の光誘起磁性相転移は,金属間電荷移動[MM'CT=Fe(II)→Mn(III)]バンドの光励起によるFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)からFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)への価数変化が引き金となっている.また光で生成した高温相と同じ価数状態を持つ光誘起相は,配位子一金属間電荷移動[LMCT:CN-→Fe(III)]バンド励起により元の低温相に戻る.一方,この物質における高温相を基点とした光誘起相転移は報告されていない.高温相を基点とした場合では,光誘起相転移に伴い純粋な低温相が生成される,もしくは新たな物質相が発現するかもしれない.可逆な光誘起相転移のメカニズムを理解するためには,双方向の中間状態を含めた光誘起相転移過程に関する知見を得ることが重要である,

そこで,本研究では高温相を基点とした光誘起相転移の探索および高温相から光誘起相への相転移過程を明らかにし,そのメカニズムを解明することを目的としている.シアノ架橋金属錯体の光誘起相転移メカニズムを理解するためには,引き金となる金属問の電荷移動過程の知見を得ることが非常に重要である.シアノ基の伸縮振動モードは架橋した金属の価数に非常に敏感であり,ラマンや赤外吸収分光で観測可能である(図1:挿入図).このためこれらの分光は,シアノ基の伸縮振動モードから金属の価数状態が特定でき,相転移に寄与する金属間の電荷移動過程を直接観測できるという点で非常に有効な手法である.しかし赤外吸収分光と比較すると,ラマン分光による研究例は非常に少ない.金属の価数変化に伴う光誘起相転移を理解するためには,赤外吸収で得られる情報をラマンスペクトルで補完することも重要である.また共鳴ラマン分光法を用いることにより,電子とCN伸縮振動モードとのカップリングも議論することができる.そこで、本研究ではラマン分光を用いて光誘起電荷移動過程を観測し,共鳴ラマン分光によりCN伸縮振動モードの共鳴特性に関する知見を得た.

本論文では,はじめにRbMn[Fe(CN)6]で観測される4つのCN伸縮振動モードを,経験則に基づき488.Onm励起と632.8nm励起ラマンスペクトルから同定した(本論文Sec.4.1).相転移が結晶中で部分的に生じて高温相と低温相が共存している場合,Fe(III)-CN-Mn(II)(高温相)とFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)の価数状態の他に,その2つの価数状態が隣接する部分で価数状態Fe(II)-CN-Mn(II)とFe(III)-CN-Mn(III)も存在する,したがってRbMn[Fe(CN)6では,相転移に伴い4つの価数状態が観測される.Fe(III)-CN-Mn(III)のピークは赤外吸収スペクトルでは観測されないCN伸縮振動モードである.488.Onm励起ラマンスペクトルで観測されたFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)とFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)の強度比を温度に対してプロットすると,磁化率の温度ヒステリシスと同様の振る舞いを示した.488.Onm励起と632.8mm励起ラマンスペクトルを比較すると,488.0nm励起でのみFe(III)-CN-Mn(III)のピークが観測された,これは共鳴効果によるものと考えられる,そこで本論文では,共鳴ラマン分光によりFe(III)-CN-Mn(III)の共鳴条件を明らかにした(本論文Sec.4.8).500nml励起ではFe(III)-CN-Mn(III)のピークは観測されないが,短波長励起に伴いFe(III)-CN-Mn(III)のピーク強度が増加し,そのピークの積分強度は400nm励起で最大となった(図1).この結果は,Fe(III)-CN-Mn(III)のCN伸縮振動モードが405nmに吸収ピークをもつLMCTバンドと強くカップルしていることを示唆している.

高温相においてLMCTバンドに共鳴した395nmの光を照射すると,ラマンスペクトルが劇的に変化することを見出した(本論文Sec.4.2).この現象を詳細に調べるため,395nm励起でラマン分光測定を行った.光照射とともにFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)のピーク強度が減少し,Fe(II)-CN-Mn(III)(低温相)のピークが現れた(図2(a)),またFe(II)-CN-Mn(II)とFe(III)-CN-Mn(III)に対応したピークも同時に現れた.観測された各価数状態に対応したラマンピークは光照射とともに周波数シフトを示した(図2(b)).これは局所的に生成されたFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)と,その周りを囲むFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)との格子不整合による歪みに起因していると考えられる.また各CN伸縮振動モードに対応したラマンピーク強度の照射時間依存性は,Mn(II)からFe(III)への電荷移動を仮定したモデルでよく再現できた(本論文Sec.4.3).したがって、LMCT励起により結果的にMn(II)からFe(III)への電荷移動が生じていると考えられる.

ヒステリシス内におけるFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)からFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)への光変換効率は温度低下とともに抑制され,相転移温度以下の210Kではほとんど変換されなかった(図3)(本論文Sec.4.4).この振る舞いは,光誘起相の生成に熱エネルギーが必要であることを明瞭に示している.光誘起電荷移動のメカニズムを理解するため,Fe-CとMn-Nの原子問距離を配位座標にとり,励起状態にエネルギー障壁が存在する断熱ポテンシャルモデルを提案した(本論文Sec,45).励起状態Fe(II)-CN0-Mn(II)は,中性のシアノ基(CN0)の位置がMn寄り(高温相寄り)またはFe寄り(低温相寄り)かによって二重井戸ポテンシャルを形成すると推測され,その2つの極小点の問にエネルギー障壁が存在すると解釈した(図4).このモデルを用いて,Fe(III)-CN-Mn(II)(高温相)からFe(II)-CN-Mn(III)(低温相)への熱活性過程を伴った光誘起電荷移動過程を理解することができた.

150K以下において,光照射によりFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)のピーク強度は減少するが,それに伴い生成されるはずのFe(III)-CN-Mn(III)は増加しなかった.これは低温相内で孤立して残存しているFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)で光誘起電荷移動が生じているためと解釈できる.さらに低温の30Kでは、Fe(III)-CN-Mn(II)(高温相)の減少とともにFe(III)-CN-Mn(III)のピークが現れ,ヒステリシス内と同様のFe(III)-CN-Mn(II)(高温相)ドメインでの光誘起電荷移動が再び開始された,しかし励起状態にエネルギー障壁が存在するため,相転移温度以下では電荷移動を示さないはずである.したがってヒステリシス内とは励起状態が異なり,エネルギー障壁が消失していると考えられる(本論文Sec.46).低温相に囲まれたFe(III)CN-Mn(II)(高温相)ドメインは,熱相転移により結晶構造が立方晶から正方晶に変形し,ab面内の原子間距離が短くなると考えられる.これに伴って,図4に示した励起状態(B)と(C)の極小値がお互い近づくことによりエネルギー障壁が消失すると解釈することで,相転移温度以下での温度領域の光誘起電荷移動過程を説明することができた(本論文Sec.4.7).

以上のように本論文では,ラマン分光法を用いてRbMn[Fe(CN)6]における高温相を基点とした光誘起電荷移動過程の動的振る舞いを価数状態変化の観点で調べた.高温相から低温相への光誘起相転移は2つの相が混在した中間状態を経て実現はするものの,ヒステリシス内では光のエネルギー以外に熱エネルギーが必要であることを本論文で明らかにした.

図1:Fe(III)-CN-Mn(III)ピーク強度の励起波長依存性.挿入図:CN伸縮振動の概念図,

図2:(a)395nm励起ラマンスペクトルと(b)Fe(II)-CN-Mn(III)(低温相)ピーク周波数の照射時間依存性.

図3:(a)Fe(III)-CN-Mn(III)と(b)Fe(II)-CN-Mn(III)の光生成過程の温度依存性.矢印は冷却過程を表している.

図4:ヒステリシスループ内における光誘起電荷移動過程の概念図.(A)Fe(III)-CN-Mn(II)(高温相),(B)高温相寄りのFe(II)-CN0-Mn(II),(C)低温.相寄りのFe(II)-CN0-Mn(II),(D)Fe(II)-CN-Mn(III)(低温相)における断熱ポテンシャル曲面.上向きの矢印はLMCT励起,下向きの点線矢印は緩和過程,破線の矢印は熱活性過程を表している.

審査要旨 要旨を表示する

近年、光による誘電性や磁性の制御を目指して、光誘起相転移を起こす物質の探索が盛んに行われてきた。光誘起相転移とは、光照射による局所的な状態変化が引き金となり、電子格子相互作用などの協力現象を介して巨視的な物質相の変化が生じる現象である。その条件として、物質が多重安定性を持つ系であり、それぞれの物質相がポテンシャル障壁を隔てられた状態にあることが必要である。このような物質群の一つとしてシアノ架橋金属錯体がある。この物質は混合原子価錯体であり金属の価数状態により磁性相が変化するため、光励起による電荷移動を介した様々な磁性制御の試みがなされてきた。本論文では、その中でもRbxMn[Fe(CN) 6]y・zH2Oをとりあげている。この物質は、高温相でFe(III)-CN-Mn(II)(立方晶)、低温相でFe(II)-CN-Mn(III)(正方晶)の価数状態および結晶構造を示す。過去の研究でこの系では、金属間電荷移動[Fe(II)→Mn(III)]バンドの光励起を引き金とする低温相から高温相への光誘起相転移が生じること、準安定な高温相では配位子-金属電荷移動[CN-→Fe(III)]バンド(以下LMCTバンド)励起により元の低温相へ戻ることが知られていた。しかし、高温相を基点とした低温相への光誘起相転移は未報告であった。本論文はこの点に着眼し、高温相を基点とした低温相への光誘起相転移の探索とその過渡変化を明らかにし、光誘起相転移の機構を明らかにすることを目指したものである。特に、シアノ(CN)基の伸縮振動モードが架橋された金属の価数に敏感であることに着目し、共鳴ラマン分光法を用いることで光励起に伴って生じる過渡的な金属価数状態を判別し、光誘起相転移の動的な振る舞いを明らかにした。本論文は全5章からなる。

第1章は序論である。

第2章では、過去の光誘起相転移の研究の背景、本論文で対象とするシアノ架橋金属錯体の構造、物性、同物質で過去に報告されている光誘起相転移について記述されている。後半では、赤外振動分光法、特にラマン分光の理論について概説されている。

第3章は実験手法に関する章であり、試料作成、磁化率温度依存性、赤外スペクトル、レーザー光源およびラマン分光の実験配置などの詳細が記述されている。

第4章には、本論文の中核をなす実験結果と考察が記述されている。まず、Fe-Mn間の金属価数4つの状態に対するCN伸縮振動モードを経験則に基づき波長632.8nm及び488.0nmの励起ラマンスペクトルから同定した。特に、Fe(III)-CN-Mn(III)でのCN伸縮振動は赤外吸収では観測されないもので本研究により初めて観測可能となった。次に、高温相においてLMCTバンド励起に共鳴する光照射下でのラマン分光から、高温相から低温相への光誘起相転移が生じていることが見出された。各金属価数に対応する4つのラマン線の時間変化を計測し、Mn(II)からFe(III)への電荷移動を仮定したモデルによる解析を行っている。光誘起相転移の初期過程では、1つの副格子での電荷移動に伴う、隣接するサイトのみの金属価数変化を考慮したモデルが実験結果をよく再現することが示された。また、温度ヒステリシス内において高温相から低温相への光誘起相転移効率が温度低下とともに抑制されることも見出された。この結果は、光誘起相転移の過程でポテンシャル障壁が存在し、熱活性的に障壁を乗り越えることで相転移が進行しているものと解釈された。この現象を説明するために、Fe-C間およびN-Mn間の距離を配位座標とする基底状態および励起状態のポテンシャルに基づくモデルが提唱された。フランク-コンドンの原理に基づく光学遷移と励起状態内緩和を考慮した結果、温度低下に伴う高温相から低温相への光誘起相転移効率の減少は、光励起状態における熱分布を反映している可能性が高いことが示唆されている。

第5章は、総括であり本論文のまとめが述べられている。

以上のように本論文は、共鳴ラマン分光法を用いてシアノ架橋金属錯体RbMn[Fe(CN) 6]の高温相を基点とした光誘起電荷移動過程の動的な振る舞いを、金属価数状態の変化の観点から明らかにしたものである。本論文は、実験手法としてのラマン分光法の有用性を示すとともに、混合原子価錯体における光学物性、光誘起磁性相変化の機構解明に資するところが大きく、物性物理学の発展に寄与すると判断される。

尚、本論文の中核をなす研究内容は指導教員らとの共同研究として学術雑誌に公表、及び公表予定であるが、論文提出者が自ら主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。またこの件に関して共同研究者の同意承諾書が提出されている。

したがって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

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