学位論文要旨



No 126295
著者(漢字) 伊藤,友計
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,トモカズ
標題(和) 革命と詩人 : 帝政末期からソヴェト初期の文芸論争とB.パステルナーク
標題(洋)
報告番号 126295
報告番号 甲26295
学位授与日 2010.06.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第765号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金沢,美知子
 東京大学 教授 安岡,治子
 東京外国語大学 准教授 前田,和泉
内容要旨 要旨を表示する

本論文は大きく分けて、詩人パステルナークの創作の初期(1910年代から1920年代)と20世紀初頭のロシアにおける文芸論争の一局面の二つをあつかう。

ボリス・パステルナーク(1890―1960)は主に抒情詩の分野で活躍したロシアの文学者である。父が画家、母がピアニストという芸術一家に長男として生を受けた彼は当初音楽の道を志し、青年期にはドイツのマールブルグで新カント学派のコーエン教授に哲学の薫陶を受けた。詩人として活躍を始めたのはその後、1908-1909年ごろとされている。未来派の詩人として活動を開始し、詩集『わが妹人生』(1917年執筆、1922年発表)で詩人としての立場を確固としたものにした。1920年代、パステルナークはマヤコフスキー主宰の雑誌『レフ(芸術左翼戦線)』に数作(『崇高な病』(1924)など)を発表するなど、一時期このグループに身を置くが、最後には公式の脱退を雑誌に明記するよう編集部に迫るなどしており、微妙な関係にあった。1932年に詩集『第二の誕生』を出版するが、その後はしばらく翻訳(シェークスピア、リルケ、ゲーテ、グルジア現代詩)に専念することになる。しかし何よりも彼の名は晩年の長編小説『ドクトル・ジバゴ』(1956年完成、1957年出版)によって広く世界に知られ、これがいわゆる「ノーベル賞受賞事件」を引き起こし、その後に詩集『晴れようとき』(1958)を残して生涯を終えた。

パステルナークについての回想録や研究論文は数多くあり、質・量ともにすでにかなりものがある。しかし筆者は現在までのパステルナーク研究のある種の傾向として以下の二つの点を問題視している。

一つは、特にパステルナークの創作前半期における作品の難解さをいわば理解不能のものとして片付けてしまう傾向である。この際しばしば援用されるのが、パステルナーク自身が晩年の自伝に記した「私は1940年以前の自分のスタイルが好きではない」という一文である。つまり、30年代までのパステルナーク作品の難解さはいわば「若気の至り」に由来するものであり、そのことは詩人自身すら後に後悔している通りである、とする見方である。しかし上記の一文は、パステルナークが1940年を境とした作風の変化を認識していたことは示すが、しかし1940年以前の作品研究の意義を低める根拠とはなりえない。

いま一つの問題は以下の点である。つまり、特に20-30年代のパステルナークの諸作品を取り上げる際に、それらの登場人物や個々の場面を、『ドクトル・ジバゴ』の前史とするような指摘の仕方である。それは例えば、『リュベルスの少女時代』(1922)の同名の少女を『ドクトル・ジバゴ』のヒロインであるラーラの、そして『スペクトルスキー』(1931)に登場する同名の主人公をユーリー・ジバゴ医師の原型とみなす論法である。『ドクトル・ジバゴ』がパステルナークを語る際きわめて重要な作品の一つであることは疑いなく、比較や参照のためにこの長編小説を引き合いに出すこと自体は有益でさえある。しかしそれ以前に書かれた諸作品が『ドクトル・ジバゴ』に至る布石または前段階にすぎないかのような扱いは不当である。20-30年代のパステルナークの諸作品には、ロシアで全体主義体制が確立される過程にある歴史の中での一人の芸術家の姿が如実に刻印されている。その姿もまた当時の文学、歴史、政治的文脈で語られるべきものである。

以上のような問題を意識しながら本論では、ボリス・パステルナークという詩人を当時のロシアの具体的な歴史・政治・文学界の中に置きなおし、再照射することを一つの目的としている。

そのために本論ではまず、革命前後のロシアの歴史的状況とその当時戦わされた文芸論争に注目する。パステルナークも自身の創作初期にあっては自ら論争に参加し、諸文学グループ間の抗争にその身を置いていた。革命を前後する時期に交わされた文芸論争は、19世紀のロシア文学界、特にベリンスキー、チェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフ、ピーサレフらのロシア思想・社会的文芸批評の伝統を受け継ぎながら、その伝統にマルクス主義が摂取、加味されることによって、様々な主義・主張が生まれ、論争が戦わされた。ここでマルクス主義が摂取される際に大きな役割を果たしたのがプレハーノフの一連の著作であり、彼の文芸論を土台にして1910年代から1920年代ロシア・ソヴェトでの文学抗争が行われた。

また、ロシア革命から1920年代にかけての文芸状況は、プロレタリア派、レフに代表されるアヴァンギャルド派、そして同伴者作家の三つに大別し展望することができる。こうした中で本論ではレフと、同伴者作家に多大な理解を示した雑誌『赤い処女地』編集部という二つの文学グループの主張と論争に注目する。それはレフ派とプロレタリア派の批評家の理論は多くの点で本質的に一致する部分が多く、レフ派と『赤い処女地』派の間の論争点によって1920年代の文学論争の骨子を把握する目的と、この論争を踏まえたうえで詩人パステルナークの作家研究に接続する狙いからである。

それゆえ、題名にあるように、「帝政末期からソヴェト初期」までの期間を考察の対象とするが、具体的に本論で主に扱われるテクストの年代としては1895年(プレハーノフの『史的唯物論』)から1929年(ゴルボフの『ガラテヤ探求』)までを射程に収めている。

まず第一章ではロシア革命を中心にその歴史状況と文化・文芸政策をふまえる。特に注目するのはレーニン、トロツキー、ルナチャルスキーの三人であり、ソヴェト体制確立の過渡期における彼らの言説に注目する。ロシア内外で次々に生起する諸問題に新体制指導部は統一した対応をとることができず、特に1920年代のロシアの様相が混沌を極めていたことを振り返る。

第二章で注目するのはプレハーノフの一連の著作である。プレハーノフの芸術・文芸論は、彼の政治活動が収束した晩年に集中して執筆されたが、プレハーノフによるマルクス主義のロシアでの受容もその後の文化建設に少なからぬ影響を与えたことから、芸術・文芸論に限定せず広く彼の著作を扱う。具体的には、『史的一元論』(1895)、『歴史における個人の役割』(1898)、『芸術と社会生活』(1912-1913)、「論文集『二十年間』第三版序文」(1908)である。これらの著作を貫くのが「存在が意識を規定する」というマルクス主義的唯物論的一元論であり、「社会現象としての芸術」というプレハーノフの主張を確認する。

第三章では革命後ロシアの文芸論争に着目する。上述のように本論では一方にレフ派と、もう一方に『赤い処女地』と峠派をすえる形でこの論争に注目する。「社会的効用」や「合理性」を芸術に求めたレフ派に対して、峠派は個人的「創造」や「直観」を重視する姿勢を打ち出した。1920年代にパステルナークがこの両グループと関係を持っていたことを踏まえ、ここから詩人の創作につなげていく。

第四章ではパステルナークの初期の創作論と『わが妹人生』に焦点を絞る。この章の最後に峠派の論客・レジュネフのパステルナーク論を取り上げる。文学活動をはじめる前のパステルナークが哲学や音楽に専門的に従事していたこと、そしてこの時期の作品が、自然や風景、室内性の詩学を特徴としていたことなどを詳細に見る。

第五章においてはまず『わが妹人生』以降のパステルナークの歩みを振り返り、雑誌『レフ』第五号に掲載された『崇高な病』を考察の対象とする。この作品が、時代に同化できない詩人の苦悩を明瞭にとどめ、抒情詩から叙事詩への中間形態にあることを作品の具体的分析をつうじて明らかにする。

革命後から1920年代にかけてのソヴェト・ロシアは30年代後半に全体主義体制が定礎されるに至る、複雑かつ混沌とした「過渡期」であった。この過渡期においてこそ激しい文学論争や、パステルナークの「反体制的」な作品発表も可能であった。この時期はパステルナークが『わが妹人生』(1917)から『崇高な病』(1924、改作:1928)に取り組んでいた時期と重なる。『わが妹人生』で抒情詩人としての地位を確立したパステルナークは、過渡期の過酷な現実を前にして叙事詩執筆へと方向性をシフトしようとする。『崇高な病』にはその移行期で苦悩し、全体主義的な傾向を強める社会において抒情(音楽・詩)を擁護するアンビヴァレントな心情を吐露するパステルナークの姿がある。時代や社会との齟齬に悩む詩人ではあるが、個人主義を標榜し、芸術は「時代の極」であるべきというパステルナークの信条は、生産主義を標榜するレフの合理的・功利的綱領よりも、芸術家の内面を重視する峠派の芸術観に近い。こうした芸術観を保持したまま、新たな時代の新たなジャンルを模索しながら、パステルナークは叙事詩や散文、散文詩といった領域へと挑戦していくことになる。

論文末尾に『レフ』に掲載された『崇高な病』全文とその日本語訳を掲載した。

論文は序文と結論の他、全5章からなる。

第1章から第3章では19世紀末から1920年代に至るロシア・ソ連における社会思想および文芸理論の展開の中で、文学の社会的役割をめぐる議論がどのように戦わされてきたかが丹念に跡付けられている。第1章は、レーニン、トロツキー、ルナチャルスキーの文学観に即して共産党の文芸政策を分析し、政治的統制の必要性と言論の自由への配慮が複雑に対立しながらも共存していたソ連初期の「過度的」状況を論ずる。第2章は、ソ連時代の文芸論争に対して潜在的に強い影響を及ぼした思想家プレハーノフの革命前の主要著作をとりあげ、芸術が社会生活に対して持つ積極的役割を認める彼の思想的立場が明確にされる。第3章は、アヴァンギャルド系の「レフ」(芸術左翼戦線)および文芸誌『赤い処女地』に依拠した批評家ヴォロンスキーを中心とした「峠」派という、1920年代ソ連の文芸界で突出していた二つの流派を扱う。そして、芸術の社会的功利性を重視した「レフ」に対して、芸術家個人の直感を重視した「峠」派が対比され、パステルナークの創作の背景となる当時の文芸論争の模様が描きだされる。

第4章と第5章は、それまでの文芸論争史を前提としたうえで、初期パステルナークの創作がどのように展開し、同時代の文芸・政治思潮とどのように関わっているかを検討している。第4章はパステルナークの論文「ワッセルマン反応」(1914)を詳細に分析したうえで、「隣接性」「虚量」といったキーワードに即して彼の詩学が解明される。第5章は長篇詩『崇高な病』(1924、改作1928)を取り上げてその詩法や主題を分析し、「室内の詩学」から社会性へ、抒情から叙事へと向かおうとするパステルナークの新局面が分析される。なお、巻末には読解が極めて難しい『崇高な病』(本邦未訳)の原文と試訳が付録として掲載されている。

前半の第1~3章は思想史・文学史的概観の側面が強く、創見が多いとはいえない。一方後半の第4・5章は、20世紀ロシア詩史の中でも最高度に難解な作品を扱っているだけに、語学・詩学上の疑問点が散見され、さらに緻密な読解と注釈の作業が必要と思われる。また前半と後半が必ずしも有機的に噛み合っていないことも、構成上の難点と言える。

しかし、20世紀初頭のロシア・ソ連における文芸論争の展開をこのような形で独自の観点から整理し直したこと自体は重要な文学史的作業であり、さらに初期パステルナークの詩学をその中に位置づけた点はオリジナリティの高い研究成果であり、パステルナーク研究および20世紀ロシア詩学研究への貴重な貢献として評価できる。よって審査委員会は、本論文が博士号を授与されるに相応しい学術的価値を持つものであるとの結論に達した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ロシアの詩人ボリス・パステルナーク(1890-1960)の初期(1910~20年代)に焦点をあて、その詩作と文学的姿勢をロシア革命前後の文芸理論展開の文脈中に位置づけようとしたものである。

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