学位論文要旨



No 126300
著者(漢字) 冨尾,淳
著者(英字)
著者(カナ) トミオ,ジュン
標題(和) レセプトデータを用いた糖尿病患者の医療の質に関する研究
標題(洋) Quality of care for diabetes patients using National Health Insurance claims data
報告番号 126300
報告番号 甲26300
学位授与日 2010.06.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3555号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 福田,敬
 東京大学 教授 門脇,孝
 東京大学 教授 大江,和彦
 東京大学 教授 赤林,朗
 東京大学 准教授 玉置,泰裕
内容要旨 要旨を表示する

【序文】 糖尿病は、脳卒中や虚血性心疾患などの心血管疾患の危険因子であるとともに、放置すると腎症・網膜症・神経障害などの合併症を引き起こし、腎不全や失明の原因となる。これらの合併症はいったん進行すると治療が困難であり患者のQOLを著しく低下させるが、早期の適切な治療により、その発症・進行が抑制されることも分かっている。しかし、いずれも自覚症状が乏しいため、定期的なスクリーニングを実施し早期発見に努めることが不可欠である。このような背景から、適切な血糖コントロールや合併症のスクリーニングをはじめとする医療の質の評価は、糖尿病診療において重要な意義を持つとみなされている。近年、米国を中心として、administrative dataを用いた医療の質の評価に関連した大規模な研究が多数実施され、糖尿病の医療の質の改善に貢献してきた。一方、わが国においても、2004年には日本糖尿病学会により「科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイドライン」が発行され、質の向上が求められているところであるが、糖尿病患者の医療の質に関する研究はほとんど実施されていない。また、診療報酬明細書(レセプト)に代表されるadministrative dataも、住民規模の大規模データであるという研究上のメリットがあるにもかかわらず、現状では紙媒体のものが主流であることなどから、十分に活用されているとはいえない状況である。本研究では、地方自治体の国民健康保険(国保)被保険者全数を対象として、1年間に発生したレセプトデータを縦覧することにより、糖尿病患者の医療の質の評価を行うとともに、医療の質に関連する要因について分析した。

【方法】 本研究では熊本県のA町(人口約12,000人)、B町(人口約17,000人)の国保被保険者全数を対象とし、2006年5月から2007年4月までの1年間に同自治体で発生した医科国保レセプトを使用した。2006年5月時点の2町の国保加入者は13,650人(A町 6,549人、B町 7,101人)であり、2町の人口の46%であった。糖尿病患者の抽出にはレセプトの傷病名分類で一般的に用いられる社会保険表章用疾病分類表による中分類(119分類)を用いた。レセプト上に記載される傷病名(レセプト病名)は一般に精度が低いことが指摘されるため、本研究では傷病名に「糖尿病」(119分類コード:402)が記載されたレセプトが2006年5月から2007年4月までの全ての月で発生していたもののみを対象とした。その上で、被保険者単位で名寄せし、連結不可能匿名化されたデータベースを入手した。

医療の質の評価指標としては、1)ヘモグロビンA1c (HbA1c)の年間測定頻度、2)眼科検診の年間実施率、3)腎症スクリーニングの年間実施率、の3項目のプロセス指標を用いた。HbA1cは年間4回以上の測定を評価基準とした。眼科検診は、レセプト上に「精密眼底検査」、「汎網膜硝子体検査」、「眼底カメラ」のいずれかの検査項目が記載されていたレセプトが年間1回以上発生していた場合に「実施」と判断した。腎症スクリーニングは、「尿中アルブミン定量」、「尿中アルブミン定性」のいずれかが記載されていたレセプトが年間1回以上発生していた場合に「実施」と判断した。なお、腎症スクリーニングについては、スクリーニングの適応外となる可能性の高い腎疾患の合併者を対象から除外した。患者属性としては、調査期間終了時の年齢、性別、居住自治体(A町、B町)を用いた。この他、医療の質に影響を及ぼす可能性のある合併症として、7つの疾患群(高血圧性疾患、脂質異常症を含む内分泌、栄養及び代謝疾患、虚血性心疾患、脳血管障害、悪性新生物、精神障害)の有無を考慮した。

上記3項目の評価指標について、実施頻度および実施率を算出し、実施率と個人属性、合併症の有無との関連について多重ロジスティック回帰モデルを用いて分析した。解析にあたり、年齢は70歳未満、70-74歳、75-79歳、80歳以上の4階級に層別化した。また、HbA1cの実施頻度を糖尿病の重症度の仮指標とみなし、HbA1cの年間実施頻度を0-3回、4-7回、8回以上の3つのレベルに層別化し、眼科検診および腎症スクリーニングの実施率との関連をFisherの直接検定を用いて解析した。

【結果】 国保被保険者13,650人のうち2006年5月から2007年4月までの全ての月で傷病名に糖尿病が記載されたレセプトが発生していたのは824人(6%)であった。このうち、入院レセプトが1回以上発生していた185人、包括払いのレセプトが発生していた3人の計188人を除いた636人を解析対象とした。解析対象者の平均年齢は72.7歳で、51.4%が女性、60.7%がB町在住であった。また、高血圧性疾患(75.5%)、内分泌・代謝疾患(63.5%)の合併が多くみられた。

HbA1c測定は97%で年間1回以上実施されており、4回以上でも69.8%と高い割合で実施されていた。これに対して、眼科検診の年間実施率は20.8%、腎症スクリーニングの年間実施率は5.8%(尿中アルブミン定量測定では1.9%)といずれも低値であった。各評価指標と個人属性および合併症との関連では、70歳未満の患者に対して、75-79歳 (オッズ比[OR] 0.58、95%信頼区間 0.35-0.96)、80歳以上(OR 0.54、95%信頼区間 0.32-0.88)の患者では統計学的に有意に4回以上のHbA1c測定の実施率が低い傾向がみられた。また、精神障害の合併のある患者では、合併していない患者に比べて、4回以上のHbA1c測定の実施率が低く(OR 0.61、95%信頼区間 0.38-0.98)、また眼科検診実施率が低い(OR 0.28、95%信頼区間 0.17-0.74)傾向がみられた。性別、居住自治体およびその他の合併症については各指標との間に統計学的に有意な関連を認めなかった。

HbA1c測定頻度と眼科検診、腎症スクリーニングの年間実施率との関連では、HbA1c測定頻度レベルが0-3回、4-7回、8回以上と高くなるにつれて、眼科検診の実施率は7.8%、15.6%、39.5% (P<0.001)、腎症スクリーニングの実施率は1.2%、4.0%、12.4%(P<0.001)といずれの指標についても実施率が高くなる傾向がみられた。

【考察】 3項目のプロセス指標について糖尿病患者の医療の質の評価を行った結果、HbA1c測定は高い水準で実施されていたが、眼科検診および腎症スクリーニングの実施率は非常に低い水準にあることが明らかになった。本研究のHbA1c測定実施率は、レセプトが毎月発生した者のみを対象としたことから過大評価となることは止むを得ないが、4回以上測定された割合も約70%と先行研究の実施率と比較して高い水準であった。この理由の1つとして、わが国の診療ガイドラインにおけるHbA1cの目標値が6.5%未満と、米国や英国のガイドラインにおける目標値(7.0%あるいは7.4%未満)に比べて厳しく設定されていることが考えられる。これに対して、眼科検診の年間実施率は、欧米の先行研究と比較して低い水準であったが、わが国の先行研究の結果とは大きな乖離はみられなかった。糖尿病患者の眼科診療が専ら眼科医によって実施されているわが国現状を考えると、内科医を中心とする糖尿病診療医と眼科医との間の連携が、地域レベルで十分に機能していない可能性が指摘される。腎症スクリーニングの実施率も低い水準であった。この理由としては、尿中定量アルブミン測定の保険請求上の制限や微量アルブミン測定の意義についての医師の知識不足などが考えられる。本研究で用いた119分類では糖尿病腎症の患者を完全に除外できないために、スクリーニングの適応外となる腎症患者が分母に含まれることで過小評価となった可能性も否定できないが、糖尿病患者に占める腎症合併患者の割合が9%程度であることを考慮すると、やはり腎症スクリーニングの実施率は低いと考えられる。早期腎症は、適切な薬物治療により予後の改善が得られるため、腎症スクリーニングの実施率改善に向けた対策が望まれる。

【結論】 2つの地方自治体で1年間に発生した国保レセプトデータ全例を縦覧し、被保険者単位で名寄せしたデータベースを用いて、糖尿病患者における医療の質の評価を行った。HbA1c測定は高い水準で実施されていたものの、眼科検診および腎症スクリーニングの実施率は非常に低い水準であり、実施率改善に向けた対策が望まれる。わが国における医療の質に関する研究は質・量ともに十分とはいえない状況にある。自治体あるいは国家レベルのデータを用いて医療の質を評価し、質の改善に繋げていくという一連の流れを確立するためにも、レセプトの電子化をはじめとする情報基盤の整備が急務である。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、地方自治体の国民健康保険(国保)被保険者全数を対象として、1年間に発生したレセプトデータを縦覧することにより、糖尿病患者の医療の質の評価を行うとともに、医療の質に関連する要因について分析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. 熊本県の2町の国保被保険者13,650人のうち、2006年5月から2007年4月までの12ヵ月間すべての月で糖尿病の傷病名が記載された医科レセプト計824人分を被保険者単位で名寄せ・連結不可能匿名化されたデータベースを作成した。これをもとに、入院レセプトが発生した患者を除く636人を解析対象として、1)ヘモグロビンA1c(HbA1c)測定、2)眼科検診、3)腎症スクリーニングの3項目のプロセス指標について年間実施頻度および年間実施率を算出した。HbA1c測定は97%で年1回以上実施されており、4回以上でも69.8%と高い割合で実施されていたのに対して、眼科検診の年間実施率は20.8%、腎症スクリーニングの年間実施率は5.8%(尿中アルブミン定量測定では1.9%)といずれも非常に低い水準であることが示された。

2. 上記の各プロセス指標と個人属性との関連について、多重ロジスティック回帰モデルを用いて分析した。70歳未満の患者に対して、75-79歳 (オッズ比[OR] 0.58、95%信頼区間[CI] 0.35-0.96)、80歳以上(OR 0.54、95% CI 0.32-0.88)の患者では統計学的に有意に4回以上のHbA1c測定の実施率が低いことが示された。

3. 同様に、各プロセス指標と主要合併症との関連について、多重ロジスティック回帰モデルを用いて分析した。精神障害の合併のある患者では、合併していない患者に比べて、4回以上のHbA1c測定の実施率が低く(OR 0.61、95% CI 0.38-0.98)、眼科検診実施率が低い(OR 0.28、95% CI 0.17-0.74)ことが示された。

4. HbA1c測定頻度と眼科検診、腎症スクリーニングの年間実施率との関連について解析した結果、HbA1c測定頻度レベルが0-3回、4-7回、8回以上と高くなるにつれて、眼科検診の実施率は7.8%、15.6%、39.5% (P<0.001)、腎症スクリーニングの実施率は1.2%、4.0%、12.4%(P<0.001)といずれの指標についても実施率が高くなる傾向が示された。

以上、本論文は地方自治体の国保被保険者を対象に糖尿病患者における医療の質の評価を行ったものであり、HbA1c測定は高い水準で実施されていたが、眼科検診および腎症スクリーニングの実施率は非常に低い水準にあることを明らかにした。糖尿病患者の医療の質の評価は米国を中心に実施されており、医療の質の改善に貢献しているが、我が国においては十分に実施されておらず、特に住民規模のデータである国保レセプトを用いた研究は過去に例がない。本研究は地域住民における糖尿病患者の医療の現状を明らかにしたとともに、レセプトを用いた医療の質の評価の方法論の確立に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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