学位論文要旨



No 126303
著者(漢字) 伊藤,綾
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,アヤ
標題(和) ボードレール 十九世紀の原史 : ボードレールから見たベンヤミン
標題(洋)
報告番号 126303
報告番号 甲26303
学位授与日 2010.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1004号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 教授 鍛治,哲郎
 東京大学 教授 鈴木,啓二
 帝京大学 教授 臼井,隆一郎
 一橋大学 名誉教授 横張,誠
内容要旨 要旨を表示する

「ボードレール十九世紀の原史」 ―この表題は、二十世紀ドイツの思想家W・ベンヤミンに着想を受けたものであり、本論は、1980年代以降のボードレール研究において欠くことのできない参照項となったベンヤミンのボードレール論をいかに理解するかということをひとつの課題とするものであった。

第一章「詩人ボードレールという神話 ―ボードレール受容の系譜」は、ボードレール作品の検討ではなくこれまで蓄積されてきた数々のボードレール論の検討から出発した。十九世紀末から二十世紀前半までのボードレール論の系譜をたどることで、彼が生きた時代において積極的なものとはいえなかった評価が、なぜ、また、いかに肯定的なものへと変化してきたのかを詳らかにした。1870年代以降、政治的・社会的解放による個人と社会の団結が自明なものではなくなり、十九世紀の主潮流であった啓蒙主義的普遍史の展望が決定的に効力を失った時代において、ボードレールは積極的評価を受けることになったが、それは、詩人の実存に失われた精神的・道徳的基盤を回復する社会的機能が割り当てられたからであった。

また、ボードレール受容をフランスおよびドイツの思想交流の視点から考える作業を通して、ベンヤミンがボードレールとともに始まりゲオルゲにおいて完成されると述べた「精神運動」の潮流のなかに、ベンヤミン自身のボードレールへの関心も由来していることが明らかにされた。その「精神運動」は「頽廃」の超克をめざすものでありながら結果として「頽廃」の完成として定義されうる。この矛盾の認識ゆえに、ベンヤミンのボードレール論は、同時代(1930年代)のフランスにおけるロマン主義の精神史における詩人理解およびその一環としてのボードレール理解(ブランによる「自由の主体」としてのボードレール等)とは一線を画す。ベンヤミンは、ボードレールを擁護しつつもそこに主体的能動性ではなく、ただ「歴史的に条件付けられた空虚な場」や「社会的刻印」を見出すに至る。そして、ボードレールという詩人の「生」ではなく、それが存在するための歴史的条件 ―ベンヤミンの言葉でいえば「十九世紀の原史」に着目したのだった。

第二章「「原史」と起源 ―ベンヤミンのボードレール論」においては、ベンヤミンのボードレールへの一貫した関心がいかなるものであったかを、前期・後期に分けて論じた。前期において、秘教的言語論の位相にあったボードレールへの関心は、後期においては「歴史的」な位相に移行する。ここでは、『パサージュ論』全体の構成の要とされた「原史」概念について論じることで、先に提示されたボードレールが存在するための歴史的条件について考察した。「原史」は、あらゆる歴史的事象を超え、むしろ歴史の外へ、すなわち「根源」へ向かうためのひとつの方法として考えられている。その着想は「生の哲学」に発するものだが、「生の哲学」は文芸を介して「真の経験」へと遡行することで結果として歴史的時間を否定するのに対し、「原史」は、歴史認識の方途である限りにおいて、自然概念をモデルとした際限なき自己展開(生成や持続)とは同一視されえない。そもそも、「原史」は、あらゆるものに先立ち、時間の推移によっても移り変わることのなく、そこから全てのものが流れ出てくるような、また全てのものがそれへと還元されるような「起源」として理解されかねない危険をはらんでいる。たしかに、ベンヤミンがボードレールとともに注目したユゴーの詩作品における「古代が浸透した近代」は、「起源」と峻別されることが困難であるような「原史」の問題含みのあり方を呈していた。

ベンヤミンはこのような「原史」の弱点を自覚しており、ユゴーとボードレールの詩的経験の差異を強調することで、後者を介した「原史」の光景を一回的で進展のないものと定義する。ボードレールにおける「原史」は、アウラの凋落という危機的現実を隠蔽することはない。この意味で、ベンヤミンがボードレールを通して描きだそうとした「原史」とは、進歩史観を批判するものでありながら、「生の哲学」のごとく歴史そのものを否定するものではなく、「起源」に還元されるものでもなく、ひとつの歴史認識 ―「近代(Moderne)」という時代の認識 ―に結び付けられた概念であった。

ベンヤミンによって提示されたボードレール像は、「近代」という時代認識にもとづいて、連続的な歴史を批判する主体に重ね合わされる。ベンヤミンのボードレール論は歴史の連続性や均質性を直接的に批判した『歴史の概念について』(1940年)と時代的に並行した仕事であった。しかしながら、ベンヤミンの読解の難点は、「近代」をボードレールの「現代性(modernite)」概念と同一視するような読解を行っている点にあり、その点は、ベンヤミンのボードレール読解の恣意性として、これまでボードレール学の側から批判されてきた。

このボードレールの「現代性」とベンヤミンの「近代」の間の齟齬から、第三章「現代性の歴史的位相 ―「折衷主義」と「哲学的芸術」批判」は出発した。「折衷主義」および「哲学的芸術」をアンチテーゼとする「現代性」の意義を再定義することによって、至極消極的なかたちではあるが、審美的な次元を超えたひとつの時代認識に通じる「現代性」の理解を確保するに到った。ここで、本論は、ベンヤミンのボードレール読解の難点がボードレール研究との間に生じさせたひとつの読解の通約不可能を解きほぐすに至った。

続く第四章「ボードレールの歴史観 ―ジュゼッペ・フェッラーリの「宿命論」からの影響」では、ボードレールの歴史認識を知る上で最も大きな参照項であるジュゼッペ・フェッラーリの歴史哲学を精査した。フェッラーリの歴史哲学は、十九世紀における「宿命論」の一例である。フェッラーリは政治参加への幻滅を経て歴史周期の実証的根拠の探索に向かったのであり、その歴史認識は政治解放に関する言説と深く結びついていた。それに対して、ボードレールの「諦念」は政治的行動を経由してあらわれるものではない。詩人は、本質的には、歴史哲学のような疑似科学的言説には無関心であり、歴史の法則性、もしくはそのような法則性の前提となる歴史の連続性そのものに懐疑的であった。

ここで再び、ベンヤミンのボードレール論が提起した歴史観に立ち戻り、それとボードレール自身の歴史認識を比較するとき、両者の間には明らかに差異があるといわなければならない。ベンヤミンにとっては、フェッラーリが依拠しているような「宿命論」は進歩主義の否定であるものの、結局進歩主義と表裏一体をなすものであった。すなわち、進歩主義を批判するだけでは不十分であり、その批判過程で生じる「頽廃」をも乗り越えなくてはならない、ということである。

第一章で確認したように、ボードレールに「頽廃」の預言者もしくは超克者として可能性を託されたのは第一次大戦後のことであった。詩人が極めて消極的なかたちで表明したにすぎなかった「宿命論」という歴史的法則性への違和感を、あらためて積極的に読みかえる契機が訪れるとき、そこにはじめてボードレールの詩人としての可能性があらわれてくる。すなわち、ボードレールの詩人としてのある種の評価そのものが、詩人「の」宿命論が明らかにされるにすぎない十九世紀的文脈ではなく、宿命論と対峙する詩人を論じるという―ボードレール自身を離れた―極めて二十世紀的な要請から生じたということである。

最終章である第五章「詩的散文の言語態 ―「後期ボードレールの相貌」」では、ボードレールの後期の詩作品の検討を行った。後期ボードレールの受動的な「態度」はイロニーとは異なるものであり、それは、散文詩における語りの持続の中で生じてくるものである。詩的散文の言説は、美術文芸批評やジャーナリズム、現代性の「生」の諸相の多彩さ・多方向的な充溢を才能ある詩人として思うままに表象しようとした試みと同一視されるものではなく、結局、現実へと送り返される回路を断たれた虚構に留まるものである。それは「歴史的に条件付けられた空虚な場」としての詩人の「孤独」を、読む者に絶えず確認させるような言語空間を打ち開く。本論ではそのような言語のあり方を「詩的散文」の言語態と呼び、それを詩が自らを自らに対する「熟慮」によって超えてゆく運動と理解することで、「芸術の終焉」の徴のもとに位置づけた。

ここで、本論は、冒頭において、ベンヤミンのボードレール論の検討を通して提示された問いに立ち返った。それは、詩人は宿命論によって自己規定されるにすぎない存在なのか、それとも、行動によってそれを克服しえたのか、もしくは少なくともそれに抵抗しえたのかという問いである。自らの空虚さを甘受する詩人は、予言者でも救済者でもなく、詩人の言葉は、何らかの社会的機能を担うことはない。そのあり方は、自身の神話化・超越性・全能に対する懐疑を、あらゆる外在的批判に先立って含み持つ。

以上、全五章を通して、ベンヤミンのボードレール論が、それが生成するまでのボードレール論の系譜において占める位置およびその特徴を明らかにするとともに、ボードレールから発して、ベンヤミンが自らのボードレール論に「十九世紀の原史」という着想を重ねるまでを、十九-二十世紀の思想史的背景の検討を通して論じることで、ベンヤミンのボードレール論を数多のボードレール研究の二次文献として分類し、その真偽をはかろうとするのではなく、ボードレール作品からベンヤミンの企図を逆照射しようと努めた。

審査要旨 要旨を表示する

伊藤綾氏の課程博士学位請求論文『ボードレール 十九世紀の原史』は、その副題「ボードレールから見たベンヤミン」がはっきりと示しているように、二十世紀前半のドイツのもっとも重要な思想家の一人、ヴァルター・ベンヤミンのボードレール論に焦点を当てたものであり、その意義や問題点をそれがいかなる歴史的文脈のうえに成り立っているかを明らかにすることを通じて解明することを課題としている。伊藤氏の論文はこの課題を、一方で、それが十九世紀後半から二十世紀前半のフランスとドイツにおけるボードレールの受容史(詩人ボードレール像の変遷)とどのような関係をもち、他方で、ボードレール自身の思想(とくにその「現代性」の概念が明示的に提起される美術批評)や散文詩を中心とする詩的営為と比較した時にどのような交錯を見せるのかを洗い出すことで果たそうとする。

本論文は序論と結論をのぞいて五つの章からなっている。まず第一章は、「詩人ボードレールという神話」と題され、ボードレールの没後からベンヤミンにいたるまでのボードレール論の系譜がその主要な傾向を確認しつつ辿られ、その中におけるベンヤミンの位置が特定される。続いて第二章「原史と起源」では、今度はベンヤミン自身におけるボードレールへの関心あり方が前期と後期という二つの時期に分けて論じられ、前期の言語論的関心から、後期においては歴史の問題に焦点があてられるようになること、そこで出てくるのがパッサージュ論の要の一つである「十九世紀の原史」という概念であることが確認される。続く二つの章「現代性の二つの位相-「折衷主義」と「哲学的芸術」の批判」と「ボードレールの歴史観- ジョゼッペ・フェッラーリの宿命論からの影響」では、視点をボードレールに再び転じ、第2章で扱われた「十九世紀の原史」というベンヤミンの一種の歴史認識がボードレール自身のテクストから抽出することが可能な歴史観、時代認識とどのような関係を結ぶことができるのかが検討される。最終章「詩的散文の言語態-後期ボードレールの相貌」では、ボードレール晩年の重要な試みである散文詩の制作が、先行する章で扱われたボードレールの時代認識と、そしてまたベンヤミンが「十九世紀の原史」という構想の中心にボードレールを置いたことの意味とどう関わるのかが考察される。後期散文詩とは、ベンヤミンがボードレールに見た「歴史的に条件づけられた空虚な場」としての詩人という像を、それが必然的に孕む「詩人の孤独」とともに読者に強く意識させる言語空間の構築であるというのがその結論である。

本論文の学術上の貢献についてであるが、ベンヤミンがボードレールの言うモデルニテを、もっぱら(ボードレールにおいてはそうであったはずの)現代芸術の理論として解するのではなく、近代(モデルネ)全体についての理論(言い換えれば、一種の歴史認識)として読もうとしたということが、ボードレール研究の側から見た時のベンヤミンのボードレール論の難点となってきた。伊藤氏はそうした批判の正しさを認めつつも、ボードレールの内部にベンヤミン的な読み込みを許すような一つの時代意識、歴史認識があったことを示そうとし、それにある程度まで成功している。またこの問題を詩人(文学者)の社会的機能の変容という問題と結びつけて論じたことも本論文の重要な貢献である。ユゴーに代表されるような時代の先導者、予言者としての詩人像はボードレールの時代にはすでに過去のものとなりつつあったが、詩人の言説の(より広くは文学の言説の)直接的な社会的実効性の喪失が、逆説的にも詩人や文学に対する別の形での社会的政治的機能の割り当てにつながって行くという、二十世紀においてますますはっきりしてくる変容が、ベンヤミンのボードレール論のいわば前提条件ともなっていることが示された。

審査委員からは、論文全体の鍵概念となるはずの、ベンヤミンの「原史」という概念が何を意味しうるのかということの検討が不十分であること、最終章のボードレールの散文詩の意図をめぐる分析が論文全体の論旨と必ずしもうまく接合していないこと、また典拠となるボードレールのテクストの解釈にいくつか誤りが見られることなどが指摘されたが、これらの点は本論文の学術的意義を大きく損なうものではない。また、伊藤氏が本論文で試みたような研究は、従来の仏文学、独文学といった領域区分を超えたものであり、同時に、文学、歴史哲学、政治思想史などの領域を架橋することを目指すものでもあって、その野心的な試みは、そのために払われた多大な努力を考えるならば、それ自体として高く評価されるべきものである。

以上のような観点から、本審査委員会は、伊藤綾氏を博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいものと認定する。

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