学位論文要旨



No 126305
著者(漢字) 尹,盛煕
著者(英字)
著者(カナ) ユン,ソンヒ
標題(和) 韓国語の動詞性名詞に関する考察 : 動詞性名詞の意味と形式動詞の選択を中心に
標題(洋)
報告番号 126305
報告番号 甲26305
学位授与日 2010.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1006号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生越,直樹
 東京大学 准教授 大堀,壽夫
 東京大学 准教授 福井,玲
 東京大学 教授 伊藤,たかね
 東京外国語大学 教授 早津,恵美子
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は,韓国語の動詞性名詞(動名詞=Verbal Noun, VN)及び関連する形式を記述し,日本語の場合と比較・対照する作業を進めつつ,両言語の示す違いを観察及び説明することである.

韓国語の動名詞とは,典型的には「tochak(到着)」「selmyeng(説明)」などのように,「hata(する)」という形式動詞と結合して「tochak-hata」「selmyeng-hata」といった動詞形を形成することができる名詞をいう.日本語においては,「する」と結合して動詞形を成す「到着」「説明」などを指し,「サ変動詞の語幹」と称されることもある.このような名詞類の特徴は,形態的には名詞でありながら,意味的には何らかの動作及び行為,出来事などを表し,文の構造を決めるという述語としての役割をすることができるというものである.多様な側面において類似性が指摘されている韓国語と日本語,両言語においては,特に漢字由来の漢語動名詞が数多く共有されており,形態論や意味論,統語論など様々な分野において関連現象に対する分析が盛んに行われてきた.両言語におけるこれまでの動名詞関連の分析を通して,それぞれの言語において極めて重要な指摘がなされてきているが,その大よその流れを観察すると,両言語における分析の傾向は多少異なる様相を呈していると言える.

日本語においては,動名詞は独立した個別のカテゴリーとして位置づけられ,動名詞群全般の形態的・統語的な振る舞いを分析するという作業が行われてきたが,その一方,韓国語の場合,動名詞という名詞群は,個別のカテゴリーとして扱われるよりは,動名詞と結合する「hata(する)」という形式動詞に関する議論において付随的に扱われるか,名詞・体言を分析対象とする研究の中で,その下位範疇として分類されることが多かった.あるいは,動詞カテゴリーに関する研究で,「○○hata」の形をとるという共通した形態的特徴を持つ「動詞類」として扱われている程度であり,この場合はあくまでも動詞としての位置づけになるため,名詞として示す振る舞いについてはさほど触れられていない.即ち韓国語においては,最初から名詞あるいは動詞,どちらかのカテゴリーに属することを前提とした形での議論が中心であったため,双方の特徴を帯びるという特殊性が相対的に看過されてきた傾向があると言える.

そこで本稿ではこれまでの研究の視点から離れ,韓国語の動名詞群を議論の中心に据えることにより,関連する現象を動名詞側から読み解くというアプローチを試みた.議論の出発点となったII章では,まず,韓国語の動名詞関連の研究が「hata(する)」という形式動詞側に偏った視点からのものが多かったことや,動名詞は独立したカテゴリーとして認められるよりは,名詞の下位範疇として位置づけられ,分析されてきた傾向を,先行研究を紹介する中で述べた.そのため,「hata(する)」との結合形になった際,形態的に異なる振る舞いを示すものが一括りにされていたという傾向があったが,本稿ではまず動名詞というカテゴリーを規定する作業から始め,形態的条件と意味的条件という基準から,「「hata」との結合形が動詞としての形態的な特徴を示すもので,かつ独立した名詞として振舞うこともできる,行為や出来事を意味する名詞」という風に動名詞群の外延を明確にし,次章以降の議論の土台とした.

これを受けてIII章では,韓国語の動名詞における受動の形式動詞「toyta(される・なる)」が結合価の変化なしに「hata(する)」と交替する現象や,一部の動名詞が「hata」とは結合せず「toyta」とのみ結合するといった現象を取り上げ,それに対する先行研究の分析を概観し,「hata」と「toyta」の交替現象を誘発する要因として指摘されてきた内容を確認した上,その内容をさらに裏付ける証拠となる動名詞を提示した.韓国語では,ある種の状態変化を示す動名詞の場合,動名詞の主語名詞句が事態を引き起こしているかどうか,即ち主語名詞句のコントロール可能性という意味要素が形式動詞の選択に影響しているという傾向が指摘されてきたが,その内容を受けて,本稿では交替現象に関わる動名詞類及び「toyta」とのみ結合する動名詞類と意味的な特徴を共有する動名詞として,「phi(被)」という漢字を含む動名詞を紹介・検証し,これが「toyta」とのみ結合する動名詞類と同じ振る舞いを示していることを論じた.検証の対象とした動名詞は,漢字「phi(被)」と何らかの動作を示す漢字一文字で構成される二字漢語動名詞であり,「何らかの動作をされる」という意味をもつ.検証の過程で,この動名詞は,語彙の意味を「~される」という受身的なものに限定させる漢語要素「phi(被)」によって,形式動詞の選択が「toyta」に固定されるため,「hata」とは結合せず,交替現象にも参加しないことが明確になった.このような動名詞の例は日本語にはあまり見られず,語形成における韓国語との違いを示すものであることも,併せて指摘した.

続くIV章では,III章における議論と関連性の高いものとして,動名詞と使役の形式動詞の結合に見られる「hata」と「sikhita(させる)」の交替現象を取り上げた.韓国語には,結合価を増加させないまま使役の形式動詞が用いられるという現象が存在するが,本稿はその現象に対する先行研究の分析を基に,より詳細なデータの記述を通しての検証が必要であるという問題意識からいくつかの例を検証し,受動の形式動詞の場合同様,動名詞の表す事象が持つ意味特徴が大きく影響しているという傾向があることを示した.また,その傾向を説明するために,既存の研究で提示された分析とは異なる視点から現象を説明する基準として,「結果状態の実現」という点に着目し,さらにそれがIII章で取り上げられた「hata」と「toyta」の交替現象においても有意義とされる意味要素であることから,「toyta/hata/sikhita」という形式動詞全体における選択の様相を統一的に説明できるものであることを指摘した.加えて,本稿の提案する分析の妥当性を示す証拠として,「pwul(不)」という漢字を含む動名詞の存在を指摘し,その動名詞もまた,形式動詞の選択において,「hata」と「sikhita(させる)」の交替現象の場合と同一の基準の適用を受けるものであることを示した.この動名詞は,漢字「pwul(不)」と何らかの動作を示す漢字一文字で構成される動名詞で,「何らかの動作をしない」という意味を持つものであり,意味的に結果状態の実現を表しにくいことから,「hata」と「sikhita」の交替現象には参加しないことを見た.従来の研究では,このような動名詞の存在はそれほど注目されなかったが,日本語との対照を通して初めて,この動名詞類が持つ特徴的な構造に注目することにより,両言語の語形成の違いにおける手がかりを提供することができた.

そして,韓国語の動名詞における形式動詞の選択及び交替現象を可能とするシステム上の装置として,「hata」の項構造が日本語の「する」とは異なり,空ではないため可能であることを主張するとともに,その主張を裏付ける根拠となるものを示し,「hata」の項構造として外項のみを持つ構造を提案した.また,日本語において,結合価を変えないまま使役の接辞が用いられる,「使役余剰」といわれる現象においても,韓国語の場合と類似した意味基準が影響している可能性を提示した.

V章の議論のテーマだった韓国語の動名詞句「NP-uy VN(NPのVN)」の形式においては,従来の研究を通してすでに統語構造に反映される有効な意味要素として指摘されてきたアスペクト性以外にも,主体性や働きかけ性などといった,いくつかの意味特性が同形式の形成如何に影響していることを論じた.

本稿では以上のように,韓国語の動名詞の規定と現象の記述を中心課題として作業を進め,動名詞に備わっている意味特性が動名詞形式の形成に影響を及ぼすという傾向を,様々な動名詞関連の現象から論証することに努めた.その中で,韓国語のみ,あるいは日本語のみという片方の観察からは見えてこないような特徴的な部分にも注目する形で分析を行い,各章で観察した現象の仕組みを支える言語的装置についても考察した.これらは各言語の持つ固有の特性を反映するものであると考えられ,それらの装置がどのような形で動名詞というカテゴリーと関わっているかを通して,両言語の特性を垣間見ることができたと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

尹盛煕氏の博士論文「韓国語の動詞性名詞に関する考察 ―動詞性名詞の意味と形式動詞の選択を中心に―」の審査結果について報告する。

本論文は,韓国語における動詞性名詞(動名詞)を取り上げ,動名詞に備わっている意味特性が動名詞の取る形式に影響を及ぼすことを,様々な現象を取り上げて論証しようとしたものである。韓国語の動名詞に関する従来の研究では,動名詞そのものよりも後続する形式動詞の分析に中心が置かれ,動名詞自体は名詞全般に関する議論の中でその一部類として扱われてきた。本論文では,動名詞群を議論の中心に据えることにより,関連する現象を動名詞側から読み解くというアプローチを試みている。また,同様な現象を持つ日本語の動名詞にも言及することにより,韓国語の動名詞に関して得られた分析結果がより普遍性を持つものであるかについて検証を行っている。

本論文は6章からなる。第I章では,本論文の目的とその意義について述べている。第II章では,韓国語の動名詞に関する先行研究を検証し,先行研究には「hata(する)」という形式動詞を中心に分析するものが多いこと,動名詞は独立したカテゴリーとして認められるよりは,名詞の下位範疇として位置づけられ分析されてきたことを指摘した。その上で,本論文では動名詞を中心として議論を進めるため,まず動名詞というカテゴリーを規定する作業から始め,形態的条件と意味的条件という基準から動名詞群の外延を明確にし,次章以降の議論の土台とした。

第III章では,韓国語の動名詞が受動の形式動詞「toyta(される・なる)」と結合する場合において,結合価の変化なしに別の形式動詞「hata(する)」と交替可能な場合があるという現象を取り上げた。まず,先行研究を概観することにより,ある種の状態変化を示す動名詞の場合,動名詞の主語名詞句が事態を引き起こしているかどうか,即ち主語名詞句のコントロール可能性という意味要素が形式動詞の選択に影響しているという指摘がなされていることを確認した。本論文では,その議論を深めるため,従来の研究が動名詞全体の意味を考察していたのに対し,動名詞を構成する漢語形態素にも注目した。その例として,「toyta」とのみ結合するとされている動名詞類と意味的な共通性を持つ,漢語形態素「phi(被)」を含む動名詞類(「phi+v」)を取り上げ,従来の指摘を検証している。その結果,「phi+v」類は,「V-サレル」という,語彙の意味を限定する漢語形態素「phi(被)」によって,形式動詞の選択が「toyta」に固定され,そのため「hata」とは結合せず,交替現象にも参加しないことが明らかになった。さらに,このような動名詞の例は日本語にはあまり見られず,語形成における韓国語との違いを示すものであることも,併せて指摘した。

第IV章では,動名詞と結合する「hata」と使役の形式動詞「sikhita(させる)」が結合価を変化させずに交替可能である現象を取り上げた。まずその現象に対する先行研究の分析を行い,より詳細なデータの記述を通しての検証が必要であることを指摘するとともに,様々な例の検証を行った。その結果,受動の形式動詞の場合同様,動名詞の表す意味特徴が大きく影響していることを明らかにした。さらに,「結果状態の実現」という点から,「toyta/hata/sikhita」という形式動詞全体における選択の傾向を統一的に説明できることを指摘した。加えて,本論文の提案する分析の妥当性を示す証拠として,「pwul(不)」という漢語形態素を含む動名詞を取り上げ,その動名詞もまた,形式動詞の選択において,同一の基準が働いていることを示した。また,従来日本語で論じられてきた使役余剰という現象についても触れ,その現象にも韓国語の場合と似た意味基準が影響している可能性を示した。

さらに,以上の議論をもとに,韓国語の動名詞における形式動詞の選択及び交替現象を可能とするシステム上の装置として, 「hata」の項構造が日本語の「する」とは異なり空ではないことを主張し,「hata」の項構造として外項のみを持つ構造を提案した。

第V章では,「NP-uyVN(NPのVN)」という形式を取り上げ,その形式の成立可能性と動名詞の意味の関係を分析した。動名詞がこの形式を取る条件として,従来の研究では動名詞のアスペクト性が指摘されているが,本論文では,それ以外にも,主体性や働きかけ性などといった,いくつかの意味特性が影響していることを指摘した。

第VI章では,これまでの考察を整理し,今後の課題を述べて結論とした。

本論文のもっとも大きな特徴は,韓国語の動名詞と形式動詞の関係を,動名詞の側から説明しようとした点にある。従来,動名詞に関する議論は動名詞そのものよりも形式動詞の機能に重点が置かれており,動名詞が形式動詞と結合するにおいて,どのような役割を果たしているかについては十分な検証がなされていなかった。本論文の考察によって,動名詞が持つ語彙的意味が,形式動詞との結合に大きな影響を与えていることをより明確に立証したことは大きな成果である。特に,従来の分析では,動名詞の語彙的意味だけに注目してきたが,動名詞を構成する漢語形態素が形式動詞との結合関係に影響を及ぼすことを指摘した点は,これまで十分説明できなかった問題点を解決できる可能性があり,動名詞と形式動詞の議論を大きく進めるものであると言える。また,本論文の議論から「toyta/hata/sikhita」という形式動詞全体について,統一的に説明できる選択条件を提示したことは,今後この問題の議論に新たな視点を示すことになるであろう。

このような点において,本論文は,韓国語学,韓国語教育の分野で高く評価される論文であるばかりでなく,日本語学や言語学の分野においても影響を与えうる業績であると考える。なお,審査において,形式動詞と関連する問題に限定され,動名詞全体の議論が不十分であること,漢語形態素に関する議論は,提示された例が少なく十分深められていないこと,新たな知見の提示方法が明確ではなく論旨がわかりにくいことなど,今後検討すべき課題も指摘されたが,それらが本論文の価値を損ねるほどのものではないことが確認された。

したがって,本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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