学位論文要旨



No 126306
著者(漢字) 金,泰
著者(英字)
著者(カナ) キム,テギョン
標題(和) 一九二〇-四〇、モダニズム、ナショナリズム : 横光利一文学論
標題(洋)
報告番号 126306
報告番号 甲26306
学位授与日 2010.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1007号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 エリス,俊子
 東京大学 准教授 田尻,芳樹
 立正大学 教授 藤井,貞和
 早稲田大学 教授 十重田,裕一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦間期日本のモダニズムがどのようにしてナショナリズムに回収されていったのかを、戦前の昭和日本を象徴する作家・横光利一(一八九八‐一九四七)の「経済」を見る眼が奪われ、「建築」に象徴させた精神主義的な「文化」論に転換していった過程から考察したものである。

第一部 横光前期――「経済」を見る眼では、初期作「蠅」「頭ならびに腹」の予備的考察から始め、形式主義文学論争における諸評論や「寝園」「機械」「紋章」のような前期横光のテクスト分析を行なった。横光利一によって書かれた作品における意味生産の仕組みは、一九二〇・三〇年代にみられた日本資本主義の転換における価値生産の仕組みと解きほぐせないほど絡み合っている。

第一章 「経済」への目覚め――「蠅」「頭ならびに腹」

「仲買」という行為(「蠅」一九二三年)、「時間と金銭との目算の上」行われる人々の判断(「頭ならびに腹」一九二四年)に着目する横光の眼を「経済」への目覚めとみなして、初期作を読みなおした。

第二章 形式と内容――形式主義文学論争

日本資本主義をいかに規定しどう対処するかを主題に、講座派と労農派との対立によって展開した日本資本主義論争における最大の焦点は「経済外的強制」という問題であった。上部構造の相対的自律性に重点を置く講座派に対して、労農派は資本主義一般の論理は日本資本主義にも貫徹されているはずだと主張した。それはプロレタリア文学と横光利一の、形式主義文学論争における対立と同型のものであったと言える。つまり、「経済外的強制」ならぬ〈形式外的強制〉、すなわち内容の存在を一義的なものとするプロレタリア文学に対して、「先ず第一に」形式を徹底しなければならないと横光は主張したのである。

第三章 労農派的な恐慌論――「寝園」

新聞連載小説「寝園」(一九三〇年)では現在進行形の昭和恐慌が問題にされている。第一次大戦後の不良債権処理問題(「不良借」)に加え、最も遅れた金本位制復帰(「金融逼迫」)が世界恐慌(「恐慌」)に巻き込まれることによってより深刻化したプロセスが順次に語られ、作中人物である梶が行う株の取引きの問題に集約される。その「恐慌」に対する認識は、生産資本の利得能力喪失と擬制資本の膨脹との間の矛盾、つまり金融資本が実物経済とかけ離れていることが「恐慌」を引き起こす原因になっていることを明かしていた。それは、労農派・猪俣津南雄の「恐慌論」と符合するものでもあった。

第四章 支配する機械、支配する資本――「機械」・その一

「機械」(一九三〇年)は同時代に流通していた支配する機械像を採用しているが、それは支配する資本をも意味した。そもそも主人が金を落とすという、もとより生産過程の始めと終わりが欠落している「機械」の構造は、資本制生産において剰余価値が付与される過程、あるいは産業資本主義時代における技術革新の問題をより明確にするための設定にほかならない。労働力が価値生産の唯一の源泉ではない。当時のマルクス主義者に向かって横光はそう宣言し、理論闘争をしているように見える。

第五章 奇怪なる資本――「機械」・その二

そうするとやはり「機械」において、「主人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権」こそが、主人と主婦との緊張や葛藤が最も尖鋭に作動している場であることは重要である。本章では、二つの〈主〉――知的資本を代表する主人、生産手段を代表する主婦――の、それぞれ全権行使のための交渉が動き出す物語として「機械」を読みなおした。このような分析から、いわゆる新心理主義を決定付けたとされる「機械」においてさえ、実は、「経済」的な事象が最重要な意味作用をなしていることが判明したわけである。

第六章 「自由に判決を与える」――「紋章」

「紋章」(一九三四年)では「機械」に引き続き「特許」をめぐる思考が展開された。ただし「紋章」では、作中人物の雁金によって遂行される特許の「解放」行為に焦点が絞られている。つまり、横光の「自由に判決を与える」という構想が、「自由」主義市場経済の否認はともかく、戦時下の統制経済の承認、ひいては、現に戦時経済統制を行っている日本国家、あるいはそれが遂行している戦争肯定の論理に繋がる可能性がここには生じていたのである。彼が書くものから、作中人物の「経済」をめぐる活動が消えていくのはこの後のことで、それは国家権力による経済の統制が強化していった時期でもあった。

第二部 横光後期――「旅愁」論

横光後期の大作「旅愁」(一九三七‐四六)の検討を行った。まず、作中人物像をめぐる改変が露呈する改稿の方向(第一章 「旅愁」改稿の意味)や、「幣帛」の優位性の証明に動員される科学的言説(第七章 科学的言説の射程)の検討を通して、これまでの「旅愁」批判以上にそのありようを徹底して追究した。だが、それ以上に、本論文の主眼点が、未完の「旅愁」が現在のわれわれに残しているはずの可能性を探索することに置かれているのは言うまでもない。

第二章 中心問題としての建築

建設の現場と建築事務所という業務内容の違いはあれ、主要作中人物の親子が二代にわたって「建築」と切り離すことのできない生活をしているという設定は、「建築」なるものが物語全体において中心課題になっていることを意味していよう。

第三章 「近代の超克」としての建築――東野の場合

「旅愁」前半はノートルダムをめぐる思索であると言える。ゴシック建築を代表するノートルダムを取り上げ、「横」を強調した水平的なものとして捉えなおす作中人物の東野の視線、さらには、西洋文明とは違う日本文化という問題機制と同様に「相違」性を際立たせるかたちで同時代の言説が組織されていた一九三〇年代においてノートルダムと俳句の「相似」性を見出す作中人物らの議論に注目した。このような「建築」論を通して横光は、既成の西洋対東洋という二項対立的な図式に抵抗し、新たな分節化の可能性を模索していたのではないだろうか。

第四章 焦点としての「チロル」――矢代の場合・その一

「旅愁」の研究史において、イデオロギーとは無縁な純粋な文学テクスト空間として特権的に読まれてきたチロルという場の意味を問いなおした。建築家ブルーノ・タウトが「桂離宮」に「アルプス建築」を再発見したように、矢代は「アルプス」のチロルに日本建築と通じ合うものを空想し発見していたのではないか。チロルとはヨーロッパと日本の相似性を確認すると同時に、「俺はヨーロッパへ来て、初めて今日、日本人に立ち戻った」(初出)という宣言を行なう両義的なトポスとして「旅愁」の中にとどめられている。チロルは単なる「美しい」場面ではない。

第五章 変節する建築――矢代の場合・その二

日本の歴史的建築物のなか、矢代が繰り返しその名を想起するのは伊勢神宮に限られるが、それは決まって「鳥居」として思い起される。一方、昭和十七年(一九四二)一月から発表された「旅愁」第三篇において帰国直後の矢代が注目するのは「トンネル」であったのだが、その「半円」「弧形」から彼は「西洋を想い浮べては感慨に耽ける」のである。すなわち、壁の造型論理(組積式)と柱の造形論理(架構式)が「トンネル」と「鳥居」に振り分けられ、建築造型の原理を異にするものとして実体化・固定化され、両者の「相違」が本質化されているのである。

第六章 建築論の修辞学――「ノートルダム」をめぐって

「旅愁」に組み込まれた建築論の特徴とその強度を明らかにした。ノートルダムにゴシックという典型的な見方がなされながら、なおかつ「翼」(フライング・バットレス)なるものを媒介に既存の見方を覆すような観点が示されていることを明らかにしたのだが、ここで注目すべきは、いずれの見方も作中人物ら全員に共有されているということである。つまり、彼らの建築論議から推察できるのはこれらの議論が対話でなく、結局は似通った者同士のモノローグに終っているということであった。

しかし、やはり重要なのは、「旅愁」のテクストが始めからこのような単純な図式に基づく構図を念頭において書き進められたのではなかったという点である。東西の建築様式の差異を先験的に享受しそこに本質的な差異や意味を見出すことを否定する姿勢が鮮やかに提示されていた事実を改めて強調しておきたい。

もっとも戦時下の国家主義的産物として既に批判され尽くした「旅愁」だが、第八章 「旅愁」におけるナショナリズム――高有明が問いかけるものでは、その批判を全面的には受け入れず、あらためてそのナショナリズムの問題に焦点をあてた。矢代と久慈の二人の議論の前提――普遍と合理としての「愛国心」――を鋭く問う第三項として「上海」出身の高有明に注目し、その批評性が「旅愁」のナショナリズムそのものを転覆する契機をもっていることを明らかにした。

さらに第九章 社会進化論的な「競り合い」への異議申し立てを可能にしてくれる他者としての「朝鮮」では、二分法的な対立を抜け出す可能性の場として「朝鮮」を取り上げた。「マラソン」と「南」が隣接する物語時間に限って、「競争」を嫌う矢代の姿が集中的に顕れるのはなぜなのか。この素朴な疑問を解く過程で明らかになったのは、発展段階説的な「競り合い」への異議申し立てを可能にしてくれる他者として、彼ら「朝鮮」の人々が佇んでいたということであった(一九三六年八月日章旗抹消事件)。このような「旅愁」の言説は先進と後進、中心と周縁の二分法的な世界認識が支配‐被支配の関係を正当化しているのではないか、という鋭い問いを作者横光に投げ返していたのである。

審査要旨 要旨を表示する

金泰〓氏の博士学位請求論文『一九二〇─四〇、モダニズム、ナショナリズム──横光利一文学論──』は、横光利一の小説の分析をとおして、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間における日本のモダニズムが、どのようにナショナリズムに回収されていったかを明らかにしようとした。

本論文は大きく二部構成になっている。第一部では横光文学におけるモダニズムの特質を「『経済』を見る眼」として位置づけ、六章を立てて、「蠅」、「頭ならびに腹」などの初期小説から、「寝園」、「機械」、「紋章」などの主要作品を分析している。あわせて「芸術大衆化論争」や「形式主義文学論争」における、理論的探究に言及したうえで、「資本主義」という経済体制と、「国家主義」という政治制度の表現の問題性を、「新感覚」と「新心理」という方法によって、横光利一が小説として再構築していく過程を明らかにした。

なかでも二章にわたって詳細な表現分析を行ったうえでの「機械」論においては、同時代のマルクス主義文学陣営との論争的関係がとらえられている。また昭和恐慌を同時代的に問題化した「寝園」論では、金融資本主義と実体経済との乖離に、横光が意識的であり、そのことが小説の構成としてあらわれていることが証明されている。第一部では、「感覚」や「心理」を通じて現象し、かつそれらを規制する事態として、横光文学が捉えた「経済」の在り方が明らかにされている。

第二部では、九章にわたって横光利一の最後の長篇小説「旅愁」が論じられている。金氏の独自性は、「旅愁」の中で繰り返し作中人物の間で議論される「建築論」を中心にすえたところにある。ノートルダムの建築様式と俳句の相似性を主張する作中人物の議論を軸にしながら、この特異な設定を通じて、西洋対東洋、ヨーロッパ対日本という図式に抵抗しようとする横光利一の姿勢が明らかにされていく。

同時に「旅愁」における「チロル」という場の位置づけについては、一方でヨーロッパと日本の相似性を浮かびあがらせるものの、他方では作中人物が「日本人」意識を強化する場として、両義性を持っていることが指摘されている。「旅愁」の執筆過程の中で、横光の中で生じていくナショナリズムへの傾斜を、金氏は文学的表現とイデオロギー的表現が葛藤する様態を精緻に分析していくことでとらえていこうとした。

金氏の「旅愁」論の、もう一つの独自性は日本人の作中人物だけでなく、上海出身の高有明や朝鮮半島の小説内的役割を重視したところにある。金氏は日本人、作中人物のナショナリズムと、高有明のナショナリズムとを詳細に対比していくことによって、社会進化論的「競り合い」に対する、「旅愁」における批判的契機をとらえることに成功した。この分析を通じて、金氏は「神がかり的な国粋主義」と欧米列強的な「帝国主義」の反復再生産を批判的に相対化しうる「旅愁」の新しい読み方の可能性を提示している。

博士論文提出資格審査から本審査に至る過程で審査委員会委員から出された、横光利一の最初の長篇小説である「上海」についての分析が行われていないことは横光利一の文学の全体像をとらえるうえで問題があるという指摘をふまえ、金氏は終章において、第一部と第二部を連結する「上海」の分析を行った。金氏は「芸術大衆化論争」と「形式主義論争」という二つの論争とのかかわりで、「上海」を位置づけなおし、「物自体の動き」をとおして、「世界資本主義が金融資本の海外への膨張という新しい帝国主義に転換していることを正確に捉え」たことを明らかにした。

「上海」に独自な章をあてなかったことをはじめとして、審査委員からは論文全体の構成と配分に関して、いくつかの指摘があり、最終的な提出にいたるまで、書き直しが行われていった。しかし「経済」という観点から横光利一の文学の全体像を新たに捉え直す可能性を内在させており、「旅愁」についても従来の解釈を転換しえているという判断のもとに、最終的には博士論文として認められるという結論にいたった。したがって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものとして認定する。

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