学位論文要旨



No 126309
著者(漢字) 片山,哲夫
著者(英字)
著者(カナ) カタヤマ,テツオ
標題(和) Cu(100)表面に吸着した有機分子の構造と電子状態
標題(洋) Adsorption Structures and Electronic States of Organic Molecules on Cu(100)
報告番号 126309
報告番号 甲26309
学位授与日 2010.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第611号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 信,淳
 東京大学 教授 川合,眞紀
 東京大学 教授 佐々木,裕次
 東京大学 准教授 田島,裕之
 東京大学 准教授 高木,紀明
内容要旨 要旨を表示する

I. 序論

固体表面上の有機分子吸着系は、分子の構造や電子状態が分子結晶とは異なり表面で新たな物性が期待されることから注目されている。有機分子は官能基の置換や誘導体の合成が可能なことから、電子物性を設計できるという可能性がある。近年の研究によって、金属表面のフェルミ面や半導体表面の伝導帯下端(CBM)、価電子帯上端(VBM)に対する有機分子のエネルギー準位の位置が吸着系の電子物性に影響することが明らかになってきた[1]。特に最高被占軌道(HOMO)、最低空起動(LUMO)がどこにあるか、つまり分子が表面に対してドナーであるかアクセプターであるかが重要となる。また分子によっては吸着の際に分子構造の変化も起こり、それに伴う電子状態への影響も研究されている。このため有機分子吸着系の物性評価する上で電子状態と分子構造の両面から調べることが重要となる。

本研究ではCu(100)表面における酸素分子の吸着過程(本論文第4章)および2,3,5,6-Tetrafluoro-7,7,8,8-tetracyanoquinodimethane (F4-TCNQ)と5-Phenyl-5H-dibenzo-phosphole-5-thione (DBP-S) (Fig.1)の2つの有機分子の吸着構造と電子状態の温度依存性について高分解能電子エネルギー損失分光法(HREELS)、走査型トンネル顕微鏡(STM)、X線光電子分光法(XPS)、紫外光電子分光法(UPS)を用いて研究を行った。本論文第4章については既にJ. Phys. Chem. C 111,15059 (2007)に発表済みであるため本要旨では省略する。

F4-TCNQは非常に高い電子親和力(EA=5.24eV)を持ち、多くの表面に対してアクセプター分子として吸着する[2]。近年、この分子はCu(111)表面に吸着すると分子が歪み、表面に対して曲がった吸着構造をとることが報告されている[3]。この歪みは電子状態の安定化との兼ね合いで決定される。一般に金属表面に有機分子が吸着する際、特に1層目以下の領域では基板と直接相互作用するためmultilayerとは異なった構造、電子状態を持つことが多い。しかしF4-TCNQ/Cu(111)のように解離を伴わず大きな歪みを起こす事は珍しい。このように強いアクセプター有機分子と金属表面は興味深い現象を示す。強いアクセプター有機分子の吸着に伴う分子の歪みは他の金属表面や異なるCuの面指数でも現れるのかどうかはまだわかっていない。そこで表面の面指数を変えた(100)面でF4-TCNQ分子は歪みが出るかどうか、またそれによる電子状態、振動数変化を明らかにすることを目的とし研究を行った。一方DBP-SはPを中心として多くの誘導体が合成可能であり、共役鎖の長さ、フェニル基の置換などによって電子状態をチューニングできるのではという観点から有機発光ダイオード (OLED)の可能性があるとされ、有機合成化学の分野で主に研究されてきた分子である[4]。この分子が金属表面にコンタクトするとどのような吸着構造をとるのかを目的とし研究を行った。

II. 実験

実験は全て超高真空中(~1.0×10-8Pa)で行った。Cu(100)表面はNeイオンスパッタ、700Kでのアニールを繰り返し、清浄化を行った。

有機分子の蒸着はFig.2に示す蒸着源を自作し、通電加熱によって分子を昇華させる方法で行った。2つの有機分子の吸着系について、STM、HREELS、XPS、UPSを用いて測定した。XPS、UPSは、それぞれAl Kα(1486.6eV)、He I(21.22eV)を用いて測定した。仕事関数変化はUPSにおける2次電子のカットオフから見積もった。被覆率はCO/Cu(100)飽和吸着面のC 1sのXPSスペクトルの強度を基準として見積もった。DBP-S/Cu(100)の吸着系ではSPring8のBL17でEp=500eV、室温の条件でXPSを測定した。HREELSはEp=5.0eV、入出射角60°で測定した。STM測定は液体Heでサンプルを冷却し、6Kで行った。探針にはWワイヤーをNaOHもしくはKOHで電解研磨により先鋭化したものを用いた。探針は超高真空内に導入後、電子衝撃加熱し清浄化した。

III. 結果と考察

(1)F4-TCNQ/Cu(100)における電荷移動状態と再混成状態

[本論分 第5章]

Fig.3は室温蒸着面と100Kで蒸着した表面の仕事関数変化である。室温蒸着面では仕事関数変化は0.9eVで飽和するのに対して、100Kで蒸着した表面では仕事関数変化は1.5eVで飽和した。よって100Kで蒸着した表面の方が大きな表面双極子を持つことがわかる。この原因を微視的に明らかにするためにUPSとHREELSスペクトルを測定した。Fig.4は室温蒸着面と100Kで蒸着した表面のUPSスペクトルである。どちらの蒸着温度でも束縛エネルギーが1.2-1.0eVの領域に清浄表面では見られないピークが観測された。過去の研究からこのピークはF4-TCNQの占有されたLUMOに由来するピークであると帰属される[5]。よって室温蒸着でも100Kの蒸着でも表面からF4-TCNQのLUMOへの電荷移動(back-donation)が起こっていることがわかる。

次に室温蒸着と低温蒸着でのF4-TCNQの振動スペクトルをHREELSを用いて測定した。Fig.5は室温蒸着面と90Kで蒸着した表面のHREELSスペクトルである。被覆率は中性のF4-TCNQのν(C=C)に帰属される1460cm-1のピークの出現を1層目の完成とみなし見積もった。室温蒸着面では2044cm-1にν(C≡N)のb2uモードが観測された。一方、90Kで蒸着した表面では0.6MLで2124cm-1にν(C≡N)のb2uモードが観測された。このν(C≡N)のb2uモードの振動数の違いから、室温蒸着ではF4-TCNQのC≡N結合が90Kでの蒸着のそれより弱くなっていることが明らかになった。室温でのC≡N結合のソフト化は過去のF4-TCNQ/Cu(111)についての研究との比較から以下のように考えられる[3]。室温蒸着ではback-donationだけでなく、C≡N結合に局在した分子軌道(HOMO9~12)と表面の間の相互作用(donation)が起こっており、この2つの相互作用によってC≡N結合が弱められていると考えられる。一方、90Kの蒸着ではback-donationは起こっているがdonationは起こっておらず、C≡N結合のソフト化が室温蒸着のそれと比べて少ない。このため、ν(C≡N)のb2uモードの振動数に違いが出たと考えられる。低温でのback-donationのみによる吸着状態は電荷移動状態(charge-transfer state)と、室温でのback-donationとdonationの2つの相互作用による吸着状態を再混成状態(rehybridized state)と呼ぶことができる。室温吸着で起こるdonationはC≡N結合に局在した分子軌道(HOMO9~12)の占有率の低下を引き起こし、表面双極子の減少を引き起こす。よって低温と室温で観測された仕事関数変化の違いはdonationが起こっている再混成状態と起こっていない電荷移動状態の違いとして理解できる。

(2)DBP-S/Cu(100)の吸着と配向変化 [本論分 第6章]

Fig.6の白丸(○)はDBP-Sの室温蒸着での仕事関数変化をプロットしたものである。4.4×1013molecules/cm2以下の領域では仕事関数は被覆率の上昇と共に単調に減少するのに対して、4.4×1013molecules/cm2以上の領域では被覆率の上昇と共に増加することがわかった。ここから1層目の完成は4.4×1013molecules/cm2とした。Fig.3の赤印(▲、■、●、◆)は室温蒸着後(▲、■、●、◆)、120℃に加熱した表面の仕事関数である。1ML以下の表面を加熱しても仕事関数の変化は観測されなかったが、室温で~1.5ML蒸着した表面を加熱すると1MLの室温蒸着面より仕事関数が高くなることが観測された。

この仕事関数変化の起源を調べるため、LEEDおよびXPSの測定を行った。Fig.4は1ML蒸着後、120℃に加熱した表面のLEEDである。観測されたスポットは(√17×√17)R14°再構成表面に対応する。過去の研究からS/Cu(100)の系でこの再構成が報告されているので、120℃加熱後の表面では局所的なS/Cu(100)-(√17×√17)R14°再構成が起こっていると考えられる。室温蒸着面や、0.5ML蒸着後、120℃に加熱した表面ではこのスポットが観測されないことから、この再構成は高被覆率の表面を加熱することによってのみ起こることがわかった。よって、~1.5MLの表面を120℃に加熱した時に観測される仕事関数の上昇は局所的なS/Cu(100)-(√17×√17)R14°再構成によるものと考えられる。Fig.5は室温蒸着面と1.2ML蒸着後の加熱変化についてのS 2pのXPSスペクトルである。Fig.5(a)では161.3~161.4eVと161.7eVに2つのピークが観測された。過去の研究ではCu(100)表面での原子状Sは161.1~161.5eVに現れることから、これらのピークはP=S二重結合が解離し、表面に吸着したS原子に由来する[6]。被覆率が上昇するにつれ、161.7eVのピークが増えてくることから、このピークはPを含む分子フラグメントの周辺にあるS原子であると考えられる。また、分子由来のSは1.2MLで162.3eVに観測された。Fig.5(b)では加熱していくにつれ161.3eVのピークが消失し、新たに162.5eVと163.6eVにピークが現れた。161.3eVのピークの消失は拡散により孤立S原子が無くなったことに対応する。新たな2つのピークはLEEDとの対比から局所的な(√17×√17)R14°再構成内のS原子と帰属された。過去に報告されたS/Cu(100)-p(2×2)再構成表面との比較から162.5eVと163.6eVのピークは表面のfour-fold hollow siteに吸着したS原子と最表面のCu原子の位置に押し込まれたS原子にそれぞれ帰属される[7]。次にXPSと相補的なHREELSスペクトルとの比較を行った。Fig.6は室温蒸着面及び120℃に加熱後の表面のHREELSスペクトルである。1.0ML蒸着後、3031cm-1にC-H伸縮振動が観測される。加熱した表面ではそのピークは強度が弱くなり、739cm-1のC-H面外変角振動強度が増加していることがわかる。

以上のことから、120℃に加熱するとPを含む分子フラグメント内部でフェニル基の表面垂直から表面並行方向への配向変化が起こっていると考えられる。

IV. まとめ

本研究ではHREELS、STM、XPS、UPSという表面解析手法を用い、Cu(100)表面におけるF4-TCNQとDBP-Sの吸着構造と電子状態を研究した。F4-TCNQ/Cu(100)では、仕事関数変化から低温蒸着では室温蒸着より大きな表面双極子を持つ。UPSからどちらの蒸着温度でもback-donationは起こっており、占有されたLUMOのエネルギーレベルは蒸着温度に依存しないことがわかった。一方、HREELSでは室温蒸着と低温蒸着でν(C≡N)のb2uモードはそれぞれ2044cm-1と2124cm-1に観測された。室温ではC≡NとCuが相互作用し局所的に再混成が起きる。つまり、donationの有無によってC≡N結合のソフト化に差が出るためである。これらの実験結果から低温および室温での吸着状態はそれぞれ電荷移動状態、再混成状態であることを明らかにした。DBP-S/Cu(100)では、仕事関数が1層目では単調減少し、2層目では上昇することがわかった。また、多層膜の表面を加熱すると1MLの室温蒸着面より仕事関数が増加することがわかった。これは局所的なS/Cu(100)-(√17×√17)R14°再構成表面が形成されるためである。

[1] W. Chen et al., Prog. Surf. Sci. 84, 279 (2009).[2] S. Braun et al., Adv. Mater. 21, 1450 (2009).[3] L. Romaner et al.,Phys. Rev. Lett. 99, 256801 (2007).[4] H. C. Su et al., J. Am. Chem. Soc. 128, 983 (2006).[5] G. M. Rangger et al., Phys. Rev. B 79, 165306 (2009).[6] Y. -H. Lai et al., J. Phys. Chem. B 106, 5438 (2002).[7] M. L. Colaianni et al., Phys. Rev. B 50, 8798 (1994).

Fig.1 (a) DBP-Sと(b)F4-TCNQ分子模型図

Fig.2 蒸着源模型図

Fig.3 F4-TCNQ/Cu(100)の仕事関数変化

Fig.4 F4-TCNQ/Cu(100)のUPSスペクトル

Fig.5 F4-TCNQ/Cu(100)のHREELSスペクトル

Fig.6 DBP-S/Cu(100)の仕事関数変化

Fig.7 LEED像 (1ML室温蒸着した後、120℃に加熱)

Fig.8 (a) 室温蒸着面のS 2pのXPSスペクトル (b) 1.2ML蒸着後、加熱した表面のS 2pのXPSスペクトル

Fig.9 DBP-S/Cu(100)のHREELSスペクトル (a-c) 室温蒸着面、(d) 120℃加熱

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、Cu(100)表面における酸素分子の吸着状態、F4-TCNQ分子およびDBP-S分子の構造と電子状態について、高分解能電子エネルギー損失分光(HREELS)、仕事関数測定、低速電子回折(LEED)、紫外光電子分光(UPS)、X線光電子分光(XPS)、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いた実験的研究について述べられている。論文は7章からなり、第1章は本研究の背景と目的、第2章は実験装置と実験方法、第3章は実験の基本原理、第4章はCu(100)表面における酸素分子の吸着状態と吸着過程、第5章はCu(100)表面におけるF4-TCNQ分子の吸着構造と電子状態、第6章はCu(100)表面におけるDBP-S分子の吸着構造と電子状態、第7章は結論について記述されている。

Cu(銅)はデバイスの電極として良く利用される金属である。銅表面の酸化反応や、有機分子が吸着したときの電子状態(特に分子のエネルギー準位と金属のフェルミレベルのアラインメント)は、学問的にも応用上の観点からも重要な系である。本論文の第1章では、本研究の背景について、先行研究も含めて簡潔に記述されている。

第2章では、実験装置と実験方法について記述されている。吸着分子の構造と電子状態を解明するためには様々な表面科学的実験手法が使用された。また、真空中で固体有機分子を昇華させ基板表面に蒸着させる装置を開発したが、それについても記述されている。第3章は、第2章で述べられた実験手法の原理についてまとめられている。

第4章では、HREELSを用いた表面振動分光により、Cu(100)表面における酸素分子の低温領域(40K~200K)の吸着状態について詳細に研究を行った。その結果、40KのCu(100)清浄表面では酸素分子は解離して原子状吸着することが分かった。ひとたび原子状酸素が表面に生成されると、酸素分子は分子状で吸着する。つまり、酸素分子の解離吸着過程における活性化障壁は原子状酸素吸着種に依存することを初めて明らかにした。

第5章では、Cu(100)表面におけるF4-TCNQ分子の吸着構造と電子状態について、特に基板温度と表面被覆率を関数として、HREELS、UPS、仕事関数、STMを用いて詳細に研究した。100KのCu(100)にF4-TCNQ分子を蒸着すると仕事関数は増加し1.5eVで飽和する。一方、基板温度が300Kでは、仕事関数は増加し0.9eVで飽和する。UPSで電子状態を調べたところ、どちらの場合も基板からF4-TCNQ分子に電荷移動がおこり、F4-TCNQはアニオン的になっていることが分かった。HREELSを用いた表面振動分光により吸着状態を詳細に調べると、300KではCN基と基板が強く相互作用し再混成状態になっていることがわかった。つまり、Cu(100)表面におけるF4-TCNQの吸着状態は電荷移動によりアニオンになるだけではなく、熱活性化によりCN基とCu表面の局所的な相互作用で安定化していることが解明された。

第6章は、300KのCu(100)におけるDBP-S分子の吸着状態と電子状態について、HREELS、UPS、XPSを用いて詳細に調べた。仕事関数は、1層目では約1.2eVまで減少し、多層膜が形成されるとそこから増加しはじめる。HREELS、XPS、STMにより、DBP-S分子は1層目は分子内のPS結合が解離し、DBP分解種と原子状Sとして吸着することがわかった。

第7章では、全体のまとめと今後の展望について述べられている。

以上のように、片山哲夫氏は、Cu(100)表面における酸素分子の吸着状態、F4-TCNQ分子およびDBP-S分子の構造と電子状態について、様々な実験手段を駆使して、詳細な研究を行った。

なお、本論文の第2章の一部は、吉信淳、向井孝三、第4章は吉信淳、山下良之、向井孝三、小森文夫、関場大一郎との共同研究であるが、論文提出者が主体となって、実験の遂行、分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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