学位論文要旨



No 126311
著者(漢字) 伊藤,佳絵
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヨシエ
標題(和) アセチルコリンによる老齢マウス海馬神経幹細胞の増殖制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 126311
報告番号 甲26311
学位授与日 2010.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第613号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 久恒,辰博
 東京大学 准教授 小嶋,徹也
 東京大学 講師 尾田,正二
 東京大学 准教授 眞溪,歩
 東京大学 准教授 大武,美保子
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

高齢動物の認知機能を向上させる要因の一つとして、海馬ニューロン新生の促進が注目されている。哺乳類脳の海馬歯状回では成熟後もニューロンが新生する(Erikssonら、1998;van Praagら、2002年)。この新生されたニューロンは既存のニューロンに比べて高い可塑性を持ち、認知機能に貢献すると考えられている。実際に、げっ歯類においてニューロン新生を増強すると海馬依存的学習の成績が向上し、反対にニューロン新生を遺伝子操作やX線などにより減衰させると海馬依存的学習能力が低下すると報告されている。しかし、老齢動物では成体動物と比較して新生ニューロン数が減少することが分かっている(Drapeauら、2003年;Abrousら、2005年)。この原因の一つとしてニューロン新生過程の出発点に位置する神経幹細胞の増殖低下が挙げる。そのため、特に老齢動物において神経幹細胞の増殖能制御に関わる因子の特定が望まれている。

成体マウスにおいてニューロン新生を増強する事として、運動と学習行動が知られている。これらの行動中には、海馬においてアセチルコリンという神経伝達物質が放出される。中隔野に存在するコリン性のニューロンからの投射線維が海馬へアセチルコリンを放出し、運動や学習に関わりが深い海馬シータ波の制御に関わっていると言われている。しかし、海馬におけるアセチルコリン分泌量は加齢に伴い低下することが微小透析研究などから指摘されている(Ikegami、1994年)。そこで、「神経幹細胞の増殖能制御をアセチルコリンが行っており、老齢動物における神経新生の低下はアセチルコリンの分泌量低下によるものではないか」と考えた。本研究では、特に老齢マウスの海馬神経幹細胞がアセチルコリンに対して応答性を有するか、また有するならば増殖能の制御に関わっているのか調べることを目的とした。

【結果と考察】

1.老齢マウス海馬神経幹細胞のアセチルコリンに対する応答性を調べるための細胞標識法開発

老齢マウスでアセチルコリンに対するカルシウム応答性を調べるにあたり、老齢マウスの幹細胞は膜の特性が変化しており、パッチクランプ法を応用したシングルセル・カルシウムイメージング法が非常に困難という問題点があった。他のカルシウム・イメージング手法として膜貫通性のカルシウム蛍光指示薬を用いて細胞外から組織全体に蛍光指示薬を入れる手法がある。しかし、これらの色素もほぼ緑蛍光で、神経幹細胞の判別にNestin-GFPマウス(NestinプロモータによりGFPを発現するマウス)を用いる従来の方法では色が被ってしまうため、適応できない。そこで、赤などの別色の色素によって海馬神経幹細胞を標識する手法が開発できないか考えた。海馬の神経幹細胞がグリア様の性質を持つことに注目し、大脳皮質などでグリアの標識に使用されている赤い蛍光色素Sulforhodamine101(SR101;Nimmerjahnら、2004年)を幹細胞の標識に使用できないかと考え、検証した。

色素の浸透性の高さを利用し海馬に隣接する側脳室へ色素を打ち込むことで、幹細胞を標識できないか試みた。Nestin-GFPマウス側脳室へ色素を注入した結果、SR101・GFPが共局在することを老齢および成体マウスで確認した(n=726細胞; 99.4%)。さらにSR101陽性細胞が神経幹細胞を特異的に標識しているかを詳細に調べるため、成体マウスを用いて電気生理学的(ホールセルクランプ法)および免疫組織学的(免疫染色)見地から調べた。

まず、当研究室の先行研究から神経幹細胞は500MΩ以下の入力抵抗値を示すことが分かっている。そのため、Nestin-GFP マウスの歯状回subgranular zoneに存在するSR101 陽性細胞にホールセルクランプを行い、その入力抵抗値を計測した(図1)。その結果、全てのSR101 陽性細胞はGFP 陽性であり、かつ500 MΩ以下の入力抵抗値を有していた(n=28)。

次に、免疫組織化学的染色によってSR101によるラベルの妥当性を検証した。SR101を打ち込んだマウスから脳スライスを作成し、神経幹細胞マーカーであるGFAP およびNestin-GFPに対する抗体を用いてSR101 陽性細胞との共染を調べた。結果、SR101 陽性細胞の100%がGFAPおよびNestin-GFPの両方と共染していることを確認した。以上より、SR101は老齢マウス海馬神経幹細胞の標識として使用できると考えられる。

2.アセチルコリンに対する成体および老齢マウスの海馬神経幹細胞の応答性

急性海馬スライスにカルシウム指示薬OregonGreen 488 BAPTA-1を取り込ませ、細胞内のカルシウム濃度の変動をモニターできる系を用いて、SR101 標識された老齢マウス海馬神経幹細胞の各種薬剤への応答性を調べた。

アセチルコリン(2mM)を局所投与した結果、急性なカルシウム濃度の上昇が海馬神経幹細胞内に観測された(図2;次頁)。この応答はムスカリン性アセチルコリン受容体(mAChR)のアンタゴニストであるスコポラミン(10μM)やアトロピン(0.3μM)によって消失した。このことから、海馬神経幹細胞はmAChRを介してアセチルコリンに応答していることが示唆された。そこで、mAChRのアゴニストであるムスカリン(2mM)を局所投与したところ、海馬神経幹細胞はアセチルコリンと同様な応答性を示した。

次にmAChR サブタイプM1~M5のいずれを介してアセチルコリンに応答するのか調べた。M1・M3・M5は内在性カルシウムを動員する。そこで、小胞体からのカルシウム放出を行っているIP3 受容体に対する阻害剤2-aminoethoxydephenyl borateを細胞外液に投与したところ、ムスカリンに対するカルシウム応答が消失した。さらに、細胞外カルシウムを無くした状態でムスカリンを局所投与しても、カルシウム応答を生じた。次に、M1 受容体の阻害剤であるピレンゼピン(10μM)を外液に添加したところ、ムスカリンに対するカルシウム応答が消失した。また、免疫染色にて海馬神経幹細胞の突起や細胞体にmAChR M1 が発現していることを確認した(図3)。以上から、海馬神経幹細胞はmAChR M1を介してアセチルコリンに応答していると示唆された。

3.海馬アセチルコリン濃度の低下が老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖能に及ぼす影響

免疫毒によって海馬へのコリン性投射を破壊した上で、アセチルコリン放出を促進する随意運動をさせた場合に神経幹細胞の増殖がどのように変化するかを調べた。

最初に、マウスを活動時間(暗期)中に2時間回し車で自由に走らせた場合の走行距離を測った。これらの内、平均以上(> 363m/2hrs)のマウスを選抜し以下の実験で使用した。これは、あまり動くことのないマウスでは運動によるニューロン新生への影響が評価できないと考えたためである。中隔野に免疫毒もしくは生理食塩水を打ち込み、6日後から回し車のあるケージとないケージに分けて飼育した。飼育2日目に分裂細胞マーカーであるBrdUを腹腔内投与し、3日目に還流固定して免疫染色を行った。コリン性ニューロンの破壊は、コリンアセチルコリンアセチルトランスフェラーゼに対する免疫染色で確認した。増殖した神経幹細胞(BrdU+/GFAP+/GFP+)数および増殖した神経幹細胞の割合(BrdU+幹細胞/全幹細胞数)両方において、運動により誘導された増殖能の高まりがコリン性投射の破壊によって消失した(n=5;図4;前頁)。以上から、海馬アセチルコリン濃度の低下は運動によって誘導される海馬神経幹細胞の増殖を抑制すると示唆された。

4.脳内アセチルコリン濃度上昇が老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖能に及ぼす影響

アセチルコリンエステラーゼ阻害薬は神経末端におけるアセチルコリンの分解を阻害することで脳内のアセチルコリン濃度を上げる薬剤類である。本実験では、2種類のアセチルコリンエステラーゼ阻害薬、エゼリンおよびアルツハイマー病治療薬のドネペジルを用いて脳内アセチルコリン濃度の上昇が海馬神経幹細胞に与える影響を評価した。

エゼリンは老齢Nestin-GFPマウスにポンプを用いて3日間継続投与し、ドネペジルは3日間腹腔内に注射し、コントロール群は生理食塩水を投与した。投与2日目にBrdUを注射し、3日目に還流固定した。脳切片作成後、BrdU・GFAP・GFP抗体で免疫染色した。その結果、増殖神経幹細胞数がコントロール群(n=6)に比べてエゼリン・ドネペジル両群において3倍以上に増えた(それぞれn=8、n=5;図5)。さらに、増殖する神経幹細胞の割合もエゼリン・ドネペジル両群ともに顕著な増加がみられた。以上から、脳内アセチルコリン濃度の上昇は海馬神経幹細胞の増殖を促進させると示唆された。

【結論】

一連の結果から、アセチルコリンはムスカリン性アセチルコリン受容体M1を介して、老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖を制御していると示唆される。老齢動物のニューロン新生が低下する要因の一つとして、神経幹細胞がアセチルコリンへの応答性を有しているにも関わらず、周囲のアセチルコリン濃度が減るために増殖が制限されていることが考えられる。老齢動物において、運動や薬剤投与により海馬神経幹細胞の増殖を促すことで認知機能や記憶力の低下を防止できる可能性が示唆された。

図1 SR101による海馬神経幹細胞の標識

図2 アセチルコリンに対する老齢マウス海馬神経幹細胞の応答

図3 老齢マウス海馬神経幹細胞におけるM1受容体の発現

図4 海馬アセチルコリン濃度低下が神経幹細胞の増殖に与える影響

図5 薬剤による脳内アセチルコリン濃度上昇が神経幹細胞の増殖に与える影響

審査要旨 要旨を表示する

本論文は老齢マウス海馬神経幹細胞のアセチルコリンを介した増殖制御について述べられている。

本論文は、3章構成になっており、1章においては老齢マウス海馬神経幹細胞のアセチルコリンに対する応答性を調べるための細胞標識法の開発について述べられており、2章においてはアセチルコリンに対する成体および老齢マウスの海馬神経幹細胞の応答性が、そして3章においては海馬アセチルコリン濃度の低下が老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖能に及ぼす影響について調べられている。

高齢動物の認知機能低下の一つの要因として、海馬ニューロン新生の低下があげられている。そのため、高齢動物の認知機能を維持していくために、海馬のニューロン新生を増強する方法について研究が重ねられ、運動によってニューロン新生が高められることがわかってきた。運動中には、海馬において神経伝達物質のひとつであるアセチルコリンが放出されることが知られている。中隔野に存在するコリン性ニューロンが海馬に投射し、そこでアセチルコリンを放出する。しかし、海馬におけるアセチルコリン分泌量は加齢に伴い低下することがわかっている。そこで、本研究では、「神経幹細胞の増殖能制御をアセチルコリンが行っており、老齢動物における神経新生の低下はアセチルコリンの分泌量低下によるものではないか」と考えた。特に老齢マウスの海馬神経幹細胞がアセチルコリンに対して応答性を有するか、また有するならば増殖能の制御に関わっているのか調べることとした。

まず、第1章において、老齢マウスでアセチルコリンに対するカルシウム応答性を調べるにあたり、老齢マウスの幹細胞は膜の特性が変化しており、パッチクランプ法を応用したシングルセル・カルシウムイメージング法が非常に困難という問題点の解決を行った。具体的には、色素によって海馬神経幹細胞を標識する手法を開発できないかと考えた。海馬の神経幹細胞がグリア様の性質を持つことに注目し、大脳皮質などでグリアの標識に使用されている赤い蛍光色素Sulforhodamine101を神経幹細胞の標識に使用できることを見出した。そして、カルシウム指示薬Oregon Green 488 BAPTA-1(OGB-1)を取り込ませ、細胞内のカルシウム濃度の変動をモニターできる系を構築した。

第2章においては、Sulforhodamine101とOGB-1で標識した老齢マウスの海馬スライスを用いてアセチルコリンに対する応答性を調べた。このスライスにアセチルコリンを投与し、カルシウムイメージングを行いアセチルコリン(2mM)を局所投与した結果、急性なカルシウム濃度の上昇が海馬神経幹細胞内に観測された。この応答はムスカリン性アセチルコリン受容体(mAChR)のアンタゴニストであるスコポラミン(10μM)やアトロピン(0.3μM)によって消失した。このことから、老齢マウスの海馬神経幹細胞はmAChRを介してアセチルコリンに応答していることが示唆された。そこで、mAChRのアゴニストであるムスカリン(2mM)を局所投与したところ、海馬神経幹細胞はアセチルコリンと同様な応答性を示した。この反応は、M1受容体の阻害剤であるピレンゼピンを外液に添加したところ、完全に消失した。また、免疫染色にて海馬神経幹細胞の突起や細胞体にmAChR M1が発現していることを確認した。以上から、海馬神経幹細胞はmAChR M1を介してアセチルコリンに応答していると示唆された。

そして、第3章において、老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖能に及ぼすアセチルコリンの影響を調べた。最初に、マウスを活動時間(暗期)中に2時間回し車で自由に走らせた場合の走行距離を測った。これらの内、平均以上(> 363 m/2 hrs)のマウスを選抜し以下の実験で使用した。これは、あまり動くことのないマウスでは運動によるニューロン新生への影響が評価できないと考えたためである。中隔野に免疫毒もしくは生理食塩水を打ち込み、6日後から回し車のあるケージとないケージに分けて飼育した。飼育2日目にBrdU(100mg/kg)を腹腔内投与し、3日目に還流固定して免疫染色を行った。コリン性ニューロンの破壊は、コリンアセチルコリンアセチルトランスフェラーゼに対する免疫染色で確認した。増殖した神経幹細胞(BrdU+/GFAP+/GFP+)数および増殖した神経幹細胞の割合(BrdU+幹細胞/全幹細胞数)両方において、運動により誘導された増殖能の高まりがコリン性投射の破壊によって消失した。以上から、海馬アセチルコリン濃度の低下は運動によって誘導される海馬神経幹細胞の増殖を抑制すると示唆された。

2種類のアセチルコリンエステラーゼ阻害薬、エゼリンおよびアルツハイマー病治療薬のドネペジルを用いて脳内アセチルコリン濃度の上昇が海馬神経幹細胞に与える影響を評価した。エゼリンは老齢Nestin-GFPマウスにポンプを用いて3日間継続投与し、ドネペジルは3日間腹腔内に注射し、コントロール群は生理食塩水を投与した。投与2日目にBrdUを注射し、3日目に還流固定した。脳切片作成後、BrdU・GFAP・GFP抗体で免疫染色した。その結果、増殖神経幹細胞数がコントロール群(78.0±24.9個;n=6)に比べてエゼリン・ドネペジル両群において3倍以上に増えた(それぞれ222±22.7個、n=8;78±23.5個、n=5)。さらに、増殖する神経幹細胞の割合もエゼリン・ドネペジル両群ともに顕著な増加がみられた。以上から、脳内アセチルコリン濃度の上昇は海馬神経幹細胞の増殖を促進させると示唆された

本研究により、アセチルコリンはムスカリン性アセチルコリン受容体M1を介して、老齢マウスの海馬神経幹細胞の増殖を制御していることが示された。そして、老齢動物において、運動や薬剤投与により海馬神経幹細胞の増殖を促すことで認知機能や記憶力の低下を防止できる可能性が示唆された。

なお、本論文は、当研究室に所属していた大学院生 能智禄弥氏、栗林寛氏、斎藤悠氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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