学位論文要旨



No 126314
著者(漢字) 王,智弘
著者(英字)
著者(カナ) オウ,トモヒロ
標題(和) 離島開発と資源の階層性 : 屋久島の森と海と節
標題(洋) A Historical Analysis on the Multi-layered Resources System of Yaku Island : A Prospect for Sustainable Development through Dried Fish Production
報告番号 126314
報告番号 甲26314
学位授与日 2010.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 博創域第616号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 国際協力学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 佐藤,仁
 東京大学 教授 柳田,辰雄
 東京大学 教授 菅,豊
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 准教授 湊,隆幸
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、資源の宝庫と称されてきた屋久島における人口の減少、特に高度経済成長期後半に始まる急激な減少を、天然資源と人的資源との結合と乖離から生じる現象として実証的に説明することである。分析の中心概念は「資源の階層性」である。これは、天然資源の利用において生じる社会階層の影響を表す包括的概念である。多くの既存研究は、離島の経済的・地理的側面に注目することで屋久島の人口減少を説明しようとするが、本研究は資源の階層性という概念を用いることでより統合的で歴史的な説明を試みている。

屋久島は日本国内の有人離島の中でも、開発に対する政府の関心を集めてきた島であり、既に明治時代から天然資源に恵まれた島として注目されていた。大正時代と戦前の昭和時代にかけてもその傾向は変わらず、戦後には「資源の宝庫」と評され、資源を利用した地域開発(例えば、水力電気開発、電気化学工業の起業、土地改良、観光促進等)の可能性が指摘されてきた。しかし、離島の開発モデルとして期待された屋久島の人口数は、1960年に最大で2万4千人まで増加した後、1992年に最小の1万3千人を記録するまで減少を続けた。従来の説明によれば、屋久島での人口減少もまた高度経済成長期において多くの地方や離島が直面した問題に因るものだと考えられた。日本は1960年代から工業化社会へと転換し、都市部に人口が集中する傍ら、地方や離島の人口は減少していくことになった。特に離島では、急激な人口移動が生じていた。その主な要因とされたのは産業や雇用機会の欠乏であった。屋久島もこの例外に漏れず人口減少が進むことになったと理解された。

しかし本研究による詳細な調査によれば、このような理解は十分ではない。屋久島には、明治以降から戦後に至るまで、カツオをはじめとする多くの伝統産業が存在し、かつ林業や漁業も盛んであった。産業と雇用機会の欠乏は、屋久島においては顕著ではなかったのである。

では、何が屋久島における人口減少をもたらしたのだろうか。本稿は資源の階層性という概念を用いてより説得的な説明を試みている。資源の階層性とは、社会の多様な構成単位による自然とのかかわりと能力の差を読み解くのに有用である。本稿では、特に離島と本土の間に現れる利用可能な天然資源の資源化と、資源開発において担う離島と本土の役割の違いに注目している。屋久島の自然をめぐって資源の階層性が顕在化した結果、島民の生計基盤は脆弱になり、地域社会の持続可能性は弱められた。ゆえに島外への人口流出が屋久島でも起こったのだと、本稿は論じている。

以下、議論の全体像と問いや仮説等について述べた序章、第1章を除く各章の内容について簡単に述べていきたい。第2章では、まず民主化の要請と国内資源開発が重要な国家的課題となっていた時代で展開された資源論を検討し、問題の所在や接近方法を概観した。数量的な資源の見方に異議を唱えたのが経済学者のジンマーマンである。ジンマーマンは、「人間の自由になる資源は、自然的、人間的、および文化的諸要素のうちの実際に役立つ組み合わせから生ずるもの」であり、資源はそこにあるものではなく「生まれるもの」であると指摘した。戦後復興期においては、この資源の捉え方が日本の資源論に浸透し、天然資源の不足が憂慮される一方で、資源が生み出される社会的仕組みに議論が向けられていった。日本の資源論において次に提起された概念は「資源の階級性」である。人と自然との関係から捉える資源問題は一つの側面でしかなく、人と人との関係に問題の核心がある。人と自然との関係に目を向けるだけでは、資源問題が「平板な経済地理的な感覚」に陥る危険性がある。他方、資源を通して人と人との関係性に目を向けると、「社会性」あるいは「階級性」の存在が見出される。

第2章ではまた、本研究が着目する森林資源と水産資源とをつなぐカツオ節産業に関する既存研究を整理し、経営学的枠組みから節産地という社会を対象とした分析枠組みを設定した。「山に十日、海に十日、野に十日」と形容される島民たちの生活を把握するには、個別の天然資源に限定しない観察が必要となる。森から海、または海から森に、社会的影響の伝搬が想定される場合には、ある特定の局面で生じた出来事の因果関係に加え、その歴史的過程も理解しなければならない。なぜなら、ある出来事の因果関係は次の局面で生じる出来事の初期条件になるためである。そこで、図1で示した分析モデルに時間的変化を加え、各時代の資源利用と産地消長について分析していく必要性を提示した。

第3章と第4章は、戦前と戦後に分けて、屋久島の歴史を振り返りながら、島民による天然資源利用を検討した。まず第3章で、資源利用秩序の再編成という観点から、郷土史ならびに民俗誌を手がかりに、藩政期から明治期にかけての屋久島の歴史を整理した。明治から戦前にかけての期間は、藩政期から続けられてきた島民の天然資源利用が大きく変化した時期である。殖産興業政策が推進された明治期に、カツオ節は商品産物としての重要性を増し、屋久島でも盛んに製造された。しかし、漁船の動力化や製氷技術の登場、そして港湾施設の整備がなされた結果、屋久島に水揚げされていた漁獲物が本土に吸収される構造が形成された。その形成過程において、屋久島の節製造は衰退し、沿岸に好漁場があった島の北部で小資本家向きのサバ節製造だけが残された。他方、屋久島の山林では営林署によって伐採事業が開始されて、島外からの林業従事者らが屋久島に参入し始めた。そのため、島民による森林資源へのアクセスは制限されることになった。屋久島における海と森の資源は、島民とは切り離された体制で開発が進められた。中央政府による制度設計と圧倒的な資本力、技術力の差は、島民と本土の人々を階層的に配置する誘因を与えた。

第4章では、戦後から現在までを大きく3つの時期に分けて分析を行った。まず戦後の国家再建期から1965年までの復興期(高度経済成長期の前半に該当する)において特徴的なことは、国有林野事業によって屋久島に対する集中的な資本と技術の投入が行われたことである。また水産資源に対しては、本土からの出漁が増加したため島民との間で漁場をめぐる競合が起き、屋久島の基幹漁業であったサバの一本釣りが衰退した。島民による森林、水産資源へのアクセスは戦前に比べてさらに狭められ、島民の多くは資源の階層性から退出するか(例えば、高級魚の一本釣りへ切り替えて対応する、島外へ移住する等)、中央政府による資源開発へ編入するか(例えば、森林資源の開発に従事する等)という選択肢に直面した。続いて本章では、高度成長期後半の1966年から1985年までを分析した。この時期の屋久島は、節産地での薪と原魚における二つの不足に見舞われた。産官民が一体となって取り組んだ森林の資源化は、島民の生活を豊かにするというよりも、本土の人々を対象としたものであった。ヤクスギ伐採問題に端を発する天然資源保全運動は、この資源化の流れを部分的に抑制するものではあったが、それは新たな資源の階層性を生むことになった。1986年以降、屋久島は環境の島として注目され世界遺産に登録されたが、その登録過程にも、資源の階層性が現れる。そして、観光資本は縄文杉という資源に多くの観光客を運び、森林環境を消費している。他方、節製造業はかつて水産資源と森林資源が一体化した産業であったが、観光業の推進によってこの一体性はさらに希薄化した。衰退の一途を辿っていた漁業は、この希薄化に拍車をかけることになった。

第5章では、これまでの議論を総括した上で、本研究の示唆と課題について整理した。本研究において明らかにされた点は大きく次の3つである。第1に、屋久島の天然資源は、日本を取り巻く天然資源の情勢変化と、それに伴って生じる中央政府による資源政策の転換等によって大きな影響を受けてきたという点である。第2に、屋久島で生じた人口減少には、本土から生じる天然資源への働きかけが影響しており、単に、離島の後進性あるいは都市部との雇用・生活面の格差だけで十分に説明できる現象ではないという点である。第3に、森林資源と水産資源を同時に視角に入れた結果、一方の資源に対する働きかけの影響が、他方の資源に対する働きかけに影響を与えるという因果関係が確認できた点である。

屋久島における人口減少は、資源の階層性によって引き起こされた。資源の階層性は、中央政府による制度設計や開発戦略、さらには本土の人々の生活に必要な原料需要や鮮魚需要等によって顕在化してきた。屋久島で人口が減少したのは、人(島民)と人(本土の人々)との関係が階層的に条件付けられたことに因っている。

図1 天然資源利用に生じる社会階層の分析モデル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、資源の宝庫と称されてきた屋久島における人口の減少、特に高度経済成長期後半に始まる急激な減少を、「資源の階層性」という観点から、天然資源と人的資源との結合と乖離を焦点に実証的に説明を試みたものである。屋久島は日本国内の有人離島の中でも、開発に対する政府の関心を集めてきた島であり、既に明治時代から天然資源に恵まれた島として注目されていた。しかし、離島の開発モデルとして期待された屋久島の人口数は、1960年に最大で2万4千人まで増加した後、1992年に最小の1万3千人まで減少を続け、その原因は産業の不在や雇用機会の欠乏であると了解されてきた。

しかし本研究が明らかにしたのは、屋久島には、明治以降から戦後に至るまで、カツオをはじめとする多くの伝統産業が存在し、かつ林業や漁業も盛んであったこと、そして、産業と雇用機会の欠乏では屋久島の現状を説明できないということである。そこで本論文は、「資源の階層性」という概念を導入し離島と本土の間に現れる利用可能な天然資源の資源化と、資源開発において担う離島と本土の役割の違いに注目した。その結果、屋久島の自然をめぐって資源の階層性が顕在化した結果、島民の生計基盤は脆弱になり、地域社会の持続可能性は弱められたと結論した。

論文の構成としては、序章と第1章において問いと仮説、先行研究について整理を行い、第二章から資源の概念についてジンマーマンなどによりながら、一般通念の修正を行う。ジンマーマンは、「人間の自由になる資源は、自然的、人間的、および文化的諸要素のうちの実際に役立つ組み合わせから生ずるもの」であるという動的な定義を提示し、戦後の資源論に活力を注入した。こうした広義の資源観は、「山に十日、海に十日、野に十日」と形容される島民たちの生活実態に符合したものである。考察を個別の天然資源に限定せず、森から海、または海から森へと波及した因果のベクトルを島民の視点で歴史的に描きなおすのが3章以降である。

第3章と第4章は、戦前と戦後に分けて、屋久島の歴史を振り返りながら、島民による天然資源利用を検討した。まず第3章で、資源利用秩序の再編成という観点から、郷土史ならびに民俗誌を手がかりに、藩政期から明治期にかけての屋久島の歴史を整理した。明治から戦前にかけての期間は、藩政期から続けられてきた島民の天然資源利用が大きく変化した時期である。殖産興業政策が推進された明治期に、カツオ節は商品産物としての重要性を増し、屋久島でも盛んに製造された。しかし、漁船の動力化や製氷技術の登場、そして港湾施設の整備がなされた結果、屋久島に水揚げされていた漁獲物が本土に吸収される構造が形成された。その形成過程で屋久島の節製造は衰退し、沿岸に好漁場があった島の北部で小資本家向きのサバ節製造だけが残された。他方、屋久島の山林では営林署によって伐採事業が開始されて、島外からの林業従事者らが屋久島に参入し始めた。そのため、島民による森林資源へのアクセスは制限されることになった。屋久島における海と森の資源は、島民とは切り離された体制で開発が進められた。中央政府による制度設計と圧倒的な資本力、技術力の差は、島民と本土の人々を階層的に配置する誘因を与えた。

第4章では、戦後から現在までを大きく3つの時期に分けて分析を行った。まず戦後の国家再建期から1965年までの復興期において特徴的なことは、国有林野事業によって屋久島に対する集中的な資本と技術の投入が行われたことである。また水産資源に対しては、本土からの出漁が増加したため島民との間で漁場をめぐる競合が起き、屋久島の基幹漁業であったサバの一本釣りが衰退した。島民による森林、水産資源へのアクセスは戦前に比べてさらに狭められ、島民の多くは資源の階層性から退出するか、中央政府による資源開発へ編入するかという選択肢に直面した。

高度成長期後半の1966年から1985年までの屋久島は、節産地での薪と原魚における二つの不足に見舞われた。産官民が一体となって取り組んだ森林の資源化は、島民の生活よりも本土の人々を豊かにし、ヤクスギ伐採問題に端を発する天然資源保全運動は、新たな資源の階層性を生んだ。1986年以降、屋久島は環境の島として注目され世界遺産に登録されたが、観光客は森林環境を消費している。かつて水産と森林とを一体的に結びつけていた節製造業は、観光業の推進によって一体性を失い、衰退の一途を辿っていた漁業は希薄化に拍車をかけることになった。

第5章では本研究において明らかにされた点を3つに整理した。第1に、屋久島の天然資源は、日本を取り巻く天然資源の情勢変化と、それに伴って生じる中央政府による資源政策の転換等によって大きな影響を受けてきたという点。第2に、屋久島で生じた人口減少には、本土から生じる天然資源への働きかけが影響しており、単に、離島の後進性あるいは都市部との雇用・生活面の格差だけで十分に説明できる現象ではないという点。第3に、森林資源と水産資源を同時に視角に入れた結果、一方の資源に対する働きかけの影響が、他方の資源に対する働きかけに影響を与えるという因果関係である。

論文は、複数資源の関係を実証的に解明しようとする野心的なものである一方で、先行研究の押さえ方や設問の妥当性について若干の疑問が提示された。しかし、フィールドワークと文献資料とを組み合わせ、国際協力に資する視点から日本の離島問題の再解釈を試みた貢献は大きく、博士の学位にふさわしい水準にあると結論した。

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