学位論文要旨



No 126316
著者(漢字) 宮崎,隆明
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,タカアキ
標題(和) エンハンサートラップシステムによって可視化されたキイロショウジョウバエの味覚一次中枢の神経構造
標題(洋) Neural Architecture of the Primary Gustatory Center Visualized with the Enhancer-trap Systems in Drosophila melanogaster
報告番号 126316
報告番号 甲26316
学位授与日 2010.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第618号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 情報生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森下,真一
 東京大学 教授 伊藤,隆司
 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 准教授 伊藤,啓
内容要旨 要旨を表示する

味覚は、動物にとって食物を認識し毒物を避けるために欠かせない重要な感覚である。昆虫では、味覚は摂食行動に関与するだけでなく、個体間のコミュニケーションの手段や、連合学習の枠組みの中での報酬・罰刺戟としての役割をも持っている。哺乳類では、味蕾にある異なる種類の味に対応する味細胞が検知した情報は、味覚神経を介して間接的に脳へと送られる。これに対し、昆虫では末梢に存在する味覚感覚神経(gustatory receptor neuron; GRN)が直接、軸索を中枢まで伸ばしているため、脊椎動物では未だ難しい味覚一次中枢の構造の解析が比較的容易である。

キイロショウジョウバエでは、主なGRNは口器の先端の唇弁に存在し、その軸索は下唇神経を経て脳の食道下神経節にある味覚一次中枢まで達している。ゲノム情報に基づき7回膜貫通型の味覚受容体遺伝子のファミリーが同定され、これらの遺伝子のプロモーターを使って緑色蛍光タンパクGFPなどを発現させてGRNを標識することにより、甘味と苦味に対応したGRNが、それぞれ別の味覚受容体を発現し、味覚一次中枢の異なる領域に軸索を投射していることが分かっている。しかし、既知の遺伝子以外にも未知の味覚受容体が存在することが示唆されており、明らかにされた味覚神経回路は未だ一部分に過ぎないと考えられる。そこで私は受容体遺伝子に着目したリバース・ジェネティクス的なアプローチではなく、GAL4エンハンサートラップ系統のコレクションの中から味覚神経を標識するものを捜すフォワード・ジェネティクス的なアプローチを採ることにした。

ハエにおいて味覚と並んぶ化学感覚である嗅覚系では、一次中枢である触角葉にグリアで仕切られた糸球体構造が存在し、個々の投射領域を容易に区画同定できる。一方、味覚一次中枢がある食道下神経節内にはそのような容易に可視化される明瞭な区画構造は存在せず、標識された味覚神経がどこに投射するかの精密な解析を困難にしている。この課題を克服するため、私はGAL4/UASシステムと同時に細胞を二重染色することが可能な、LexA転写系を用いたエンハンサートラップシステムを新たに利用した。

味覚神経を標識するGAL4エンハンサートラップ系統のスクリーニングのため、私はまず約4000系統のコレクションから下唇神経を標識するものを100系統選んだ。下唇神経には小腮鬚に存在する嗅覚神経等の軸索も合流しているため、これらの系統の唇弁と小腮鬚でのGFP発現を解析し、唇弁では発現があるが小腮鬚では発現がほとんど観察されない系統を選択した。その結果6系統を得て、それぞれLB1~6と名付けた。

唇弁は、約30本の味覚感覚毛と2本の機械感覚毛が生えた外側の面と、約30本の味覚ペグと呼ばれる感覚突起が存在する内側の面からなる。1本の味覚感覚毛の根本には2ないし4個の味覚神経と1個の機械感覚神経があり、機械感覚毛には1個の機械感覚神経が存在する。味覚ペグには味覚神経と機械感覚神経が一つずつ備わっている。得られた6系統のうち、LB1は外側の機械感覚毛と内側の味覚ペグの神経を、LB2は内側の味覚ペグのみを標識し、LB3とLB4は外側の味覚感覚毛と内側の味覚ペグの両方を、LB5, 6は外側の味覚感覚毛のみを標識した。GAL4エンハンサートラップ系統E409は内側のペグにおいて炭酸を受容するGRNを標識することが報告されている。それぞれLexA::VP16エンハンサートラップ系統NV4(後述)と二重染色を行うことにより、E409とLB1は唇弁の内側で別々の細胞群を標識することが判明した。これに基づき私は、LB1は唇弁の外側の機械感覚毛の神経と、内側の味覚ペグの機械感覚神経を標識すると結論づけた。

各系統がラベルする神経の食道下神経節での投射パターンを解析したところ、従来知られていた最前部と前部へ向かう2つの枝に加え、中部に伸びる第三の枝が存在することが判明した。私は、最近提案された体系的な脳領域の名称に基づき、これらの3本の枝を前からAMS枝,(最前部)、PMS枝(前部)、LS枝(中部)と命名した。LB1が標識する細胞はAMSとLSの枝に投射し、LB2はAMS・PMS・LSの3つの枝すべて、LB3はAMSとPMS、LB4~6はPMSの枝のみを標識していた。

次に、味覚神経の投射領域を精密に同定する目印となる構造を得るため、約320系統のLexA::VP16エンハンサートラップ系統の中から上記の味覚一次中枢の3本枝構造を可視化するものを探索した。その結果、この条件を満たすものを1系統得た。このNV4と名付けられた系統は、LB1~6より特異性は低く、唇弁内のGRNの他に小腮鬚の嗅覚神経なども標識していたが、標識された嗅覚神経はすべて味覚一次中枢の脇を通過して嗅覚中枢に直接投射していることが確かめられた。そこで、この系統と、LB1~6及び既知の味覚神経を標識する系統群を用いて二重染色を行うことで、AMS・PMS・LSのそれぞれの枝の中の投射位置を精密に解析した。

AMS枝では、味覚神経と考えられるLB2とLB3の投射領域はNV4の投射領域と一致した一方、機械感覚神経を標識するLB1の投射領域はNV4のそれとは重なりがなく、より腹側で、外側と内側の両方に広がっていた。これに基づいてAMS枝の投射領域を、NV4の投射領域である背側のAMS1、LB1の投射領域の外側・内側部分であるAMS2、AMS3の3領域に区分けした。AMS枝に投射する既知のGRNとしては2つのGAL4エンハンサートラップ系統、NP1017とE409によって標識されるものがあり、炭酸水の受容に関与している。これらの系統の投射先はAMS1と一致した。

PMS枝では、LB4とLB5の投射先はNV4の投射領域のうち外側の部分に限局していた。LB6の投射領域はこれに加えて内側にも広がっていたが、内側部についてはNV4の投射領域の背側のみに限局していた。そして、LB2、LB3の投射はNV4の投射領域全体に広がっていた。これらの結果に基づき、PMS枝の投射先を外側のPMS1、内側の背側のPMS2、内側の腹側のPMS3の3領域に分けた。既知の味覚神経でPMS枝に投射するものには、苦味を受容する神経で発現するGr32a、Gr47a、Gr66aの各味覚受容体遺伝子で標識されるものがあるが、Gr32a, 66aの投射先はPMS1~PMS3の全体をカバーしていたのに対しGr47aの投射先はPMS2、PMS3のみであった。また、甘味を受容する神経を標識するGr5a遺伝子や、水の受容に関与する神経を可視化するNP1017もPMS枝に投射するが、これらの投射領域はNV4で標識される領域とは重なりがなく、もっと腹側であった。この投射領域は外側の部分と内側の部分に広がっていたので、それぞれPMS4、PMS5と名付けた。

LS枝では、LB1の投射先はNV4の投射領域とは重ならず、その前側かつ内側の領域になっていた。NV4の投射領域には腹側に飛び出した部分があり、LB2の投射領域はNV4の投射領域全体に広がっていた。そこでLS枝の投射先を、NV4の投射領域の背側にあたるLS1、腹側の突起であるLS2と、LB1のみが投射するLS3の3領域に分けた。

私が見つけた6系統のうち、LB1を除く5系統はすべてPMS1~PMS3の領域への投射を持っていた。これらの投射を持つ神経が既知の神経と同じか否かを解析するため、PMS1~PMS3に投射する既知の神経の中で最も多くの細胞を標識するGr66aと二重染色を行った。その結果、唇弁の外側の面において、LB3、LB6はGr66aで標識される細胞を標識したのに対し、LB5で標識された細胞はGr66aで標識されないにもかかわらず、すべてGr66aと重なる領域に投射していた。

さらに、感覚神経が一次中枢のどこに出力シナプスを作って二次神経への情報伝達を行っているかを調べるため、プレシナプスマーカーとしてシナプス小胞に局在する神経性シナプトブレビンとGFPの融合タンパクを発現させて解析したところ、下唇神経が3つに分岐して3つの枝へと向かう軸部分にはシナプスは観察されず、それぞれの枝の先のゾーンを定義した領域にのみシナプスが局在すること、それぞれのゾーン内ではすべての領域にシナプスがあることが確認された。

ハエは、唇弁の他に、口器内部の食道に面した部分と、足の先端の〓節にもGRNを持つ。前者の軸索は咽頭神経を経て食道下神経節まで伸び、後者はまず胸部神経節に投射して一部はさらに食道下神経節まで到達している。私は、これらのGRNの投射先が、上記の研究で明らかにした唇弁のGRNの投射先とどのような関係になっているかを調べるため、口器内部と足のGRNを標識することが既に報告されているGr2a, 66aとNV4との二重染色を行った。その結果、口器内部のGRNは、これらに特有の2つのゾーン(VPS1, 2)とPMS1に投射していること、および、〓節のGRNは頸を経てPMS枝の後側に隣り合った領域(aCCF-G1)に投射していることが判明した。

以上の結果に基づき、私は、食道下神経節内の味覚一次中枢をAMS3つ、PMS5つ、LS3つの合計11個のゾーンに区画する投射地図を構築した。本研究で解析した神経細胞は、新たに同定したGAL4系統で標識されるものと既知のものを併せて、唇弁の全ての味覚神経細胞の大変を占め、残りは約5個に過ぎず、さらに機械感覚神経をも含んでいる。また、この成果からは以下のことが判る。まず、唇弁での神経細胞の位置と投射領域の関係について、既に記載されていた唇弁の内側と外側からそれぞれ一次中枢のAMSとPMSの枝に伸びる神経に加えて、唇弁の内側からAMS、PMS、LSの3本の枝に投射するものがあると考えられる。次に、Gr66a発現細胞が投射する、苦味の受容に関与すると考えられていた領域はPMS1~PMS3の細かい領域に分けられ、別々の役割を持っている可能性があること、またGr66aを発現しない神経も同じ領域に投射していて、異なる種類の味覚情報が一次中枢で統合されている可能性があることを示した。同様の統合の可能性は、甘味と水分受容についても示された。また、LB1が標識する味覚感覚器の機械感覚神経は、他の系統が標識する味覚神経の投射先とは異なる場所に投射しており、味覚感覚器からの二種の情報は一次中枢への最初の投射の段階では統合されていないことを示唆した。さらに、唇弁、口器内部、〓節の異なる感覚器からの味覚投射について、口器内部からと唇弁からは一部重なり合うがある一方、〓節からと唇弁からは別の領域になっていることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

宮崎君の博士学位申請論文は、ショウジョウバエの脳をモデルとして一次味覚中枢の構造と、感覚情報ごとの投射部位を明らかにした研究に関するものである。哺乳類の味覚系では、口にある味覚感覚細胞は脳に直接軸索を投射するのではなく、別の神経細胞を介して間接的に脳の一次味覚中枢に情報を送るため、甘み/苦みなどの異なる感覚が一次中枢でどのように異なる(あるいは重複した)領域に投射して感覚マップを作っているかを調べることが困難である。昆虫の味覚系では、口の味覚感覚細胞が脳に直接軸索を投射するため、感覚マップの作成が原理的には容易である。これまで、いくつかの味覚受容体遺伝子のプロモーター領域を利用してGFP(クラゲ緑色蛍光タンパク)などのマーカー遺伝子を特異的に発現させ、感覚マップが調べられてきた。しかし、一次中枢の全構造を体系的に明らかにし、その中に各感覚種の投射位置を精密にマップするような研究は、これまで行われていなかった。

宮崎君は、神経細胞の一部を特異的にラベルする数千種類のショウジョウバエ遺伝子発現誘導系統をスクリーニングし、口の味覚細胞を特異的にラベルする系統を選び出して一次中枢における投射を解析した。この結果、以下のような重要な成果を達成した。

これまで詳しく調べられてきた視覚/嗅覚/聴覚の一次中枢と異なり、味覚一次中枢の形状は複雑で、その中の位置を精密に同定するのに便利な、明確なランドマーク構造が存在しない。そこで宮崎君は、酵母由来の発現誘導因子GAL4を用いた従来の手法に加え、大腸菌由来の発現誘導因子LexAを用いた新しい細胞ラベル法を組み合わせることで、味覚感覚細胞の大多数をラベルするLexA系統と、一部の味覚感覚細胞のみをラベルするGAL4系統を組み合わせて神経を二重ラベルし、投射の位置を精密に同定することを可能にした。この結果、味覚一次中枢が3つの枝の11個の領域からなることを明らかにした。

これまでに知られている甘み/苦み/水分/炭酸の受容細胞の投射パターンを上記のマップの中で精密に同定しなおし、それぞれの感覚情報が送られる領域を確定した。この結果、甘みと水分は同じ領域に投射する一方、<甘み+水分>/苦み/炭酸の3つは異なる領域に投射することを明確に示した。

味覚受容体遺伝子に限定せずに幅広い発現パターンを解析したことにより、これまでまったく知見がなかった、味覚感覚器の中に味覚神経とともに存在する触覚神経の投射様式も解析することに成功した。味覚においては、味覚受容器が対象物に接している場合にのみ受容細胞からの信号を味覚として認識することが必要であるため、触覚神経と味覚神経の情報がどのように統合されるのかが重要な課題となっていた。宮崎君の研究により、触覚神経と味覚神経は一次中枢の中で、隣接しているが明確に異なる領域に投射することが明らかになり、両情報の統合は一次中枢のレベルではなく、これら隣接する領域からの情報を受ける高次神経によって行われることが分かった。

昆虫には口以外に、食道の内部や脚の先端にも味覚神経が存在する。宮崎君はこれらの神経の投射パターンも解析し、食道からの情報は口からの情報と一部重複する領域に送られること、脚からの情報は口からの情報とは異なる領域に送られることを示した。

・宮崎君の研究により、約130個あると推定されている口の味覚神経のうちの120個の投射パターンが明らかになり、脊椎/無脊椎動物を含めた全生物種の中で初めて、味覚神経の大多数をカバーした一次中枢の網羅的な感覚マップが得られた。

研究成果は査読/リバイスを経て、Journal of Comparative Neurology 誌に16,900ワード、カラー図版15枚の長大な論文として掲載されることになった。

以上より、各種の味覚が一次中枢のどこでどのように処理されるかの基礎情報が明らかになるとともに、今後二次以上の高次神経を同定/解析するのに不可欠な、一次中枢の全構造が明らかになった。これによって、生物が「味」というものをどのように認識するかを情報科学的に解明するのに不可欠な、今後の味覚研究の基盤となる重要な情報を得ることができた。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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