学位論文要旨



No 126319
著者(漢字) 西川,邦夫
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,クニオ
標題(和) 米需要構造の変化と水田農業 : 1997年以降の米穀市場の展開
標題(洋)
報告番号 126319
報告番号 甲26319
学位授与日 2010.07.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3609号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 安藤,光義
内容要旨 要旨を表示する

我が国の水田農業は、近年急激な構造変動に見舞われている。構造変動を把握する契機としては、(i)農家労働力の高齢化と脆弱化、(ii)米価下落に代表される米消費・流通の変化、(iii)転作の拡大と「本作化」、がある。本研究では(ii)の契機に特に注目しつつ、以下の課題を設定することで1997年以降の米穀市場(「米をめぐる社会的分業の全体」)の特質に迫っていきたい。

I 1997年以降(=構造的米価下落期)の米需要構造の変化を、日本経済の転換と関連づけて明らかにすること(第4章)

II 米需要構造の変化を受けた、水田農業の構造変動のメカニズムを明らかにすること(第6章、第7章)

III 米需要構造の変化に対応した大規模個別経営・JAの販売戦略の転換について、その性格を検討すること(第5章、第8章)

課題に接近するための分析視角として、以下の点を設定する。

(1)消費・流通の変化が生産構造に影響を与える経路として、(i)米価水準、(ii)ロットの大規模化、の2点を設定

(2)生産者とJA系統組織、JA系統組織内部の関係に注目

なお、本研究では主に茨城県筑西市田谷川地区、JA北つくば、全農いばらきの事例に注目して検討を行う。

第2章では、構造的米価下落期の以前と以降で消費者の購買行動、及び産地サイドの販売戦略が異なっていることを統計的に観察した。その結果、それまでは消費者の【良食味米志向=高付加価値米志向】に対応して、生産サイドは【良食味米作付拡大・高価格販売】を戦略として取っていたが、1997年以降はそのような枠組みが崩れたことを明らかにした。

第3章では、食管制度改革をめぐる2つの立場の研究者グループによって、1980年代後半から90年代前半にかけて戦わされた論争を振り返った。そこでは、過剰段階への突入に合わせて消費のあり方から生産構造の変動を分析する「需要構造視角」が有効性を発揮したことが明らかにされた。しかし、「需要構造視角」はあくまで消費者の所得が向上し、【良食味米志向=高付加価値米志向】が強まる中での議論の枠組みだったので、1997年以降の構造的米価下落期にそのまま適用することは不可能となったこと、しかしその問題意識に学びつつ新たに分析視角(ロットへの注目)を再設定する必要性が確認された。

第4章では、構造的米価下落期における米需要構造を検討した。そこでは、最終消費者、特に低所得層における【低価格志向】の強まりが明らかにされた。これは97年危機を契機とした大規模な雇用調整による所得低下、特に雇用調整の影響が集中した低所得層の購買力の減退が、米価の強い引き下げ圧力になっていることを背景としている。また、この間に見られた中食・外食消費の拡大も、低価格志向の1つの現れであった。同時に、食品小売業、中食・外食産業ともに、チェーン展開を通じた全般的な企業規模の拡大が進んだ。企業規模の拡大は、これらチェーン企業の本部一括仕入れという仕入れ手法もあって、米の取引ロットの大規模化をもたらす。取引ロットの大規模化はさらなる価格の下落を促進するとともに、産地に均質なロットの確保を要求するようになった。なお、食品小売業、中食・外食産業の大規模化は、ともに最上層全国チェーンと地場チェーンの両者の躍進、二極化という動きを取っていた。全般的なロットの拡大の中で、その具体的な大きさについては多様性を維持しているのであった。

第5章では、構造的米価下落期におけるJA共販の性格を検討した。JA系統組織は「新生全農米穀事業改革」にのっとり、ロットの確保を梃子として、米流通の入口(生産者)と出口(最終需要者)をコントロール下におくことで安定的な供給体制を構築しようと試みていた。しかし、現状の系統組織は必ずしも「新生全農米穀事業改革」が目指すような統合全農としての統一がなされているわけではなく、系統共販内のマーケティング主体は多元化している。それは単協独自販売の拡大に端的にみられるものであった。なお、入口の生産者の統制については、特に単協を中心とした販売戦略と営農指導の連動が見られた(「生産者管理))。それは単協が独自販売を拡大しつつも価格面での有利販売が困難な中で、いかに市場が求める均質なロット要求に対応していくかということが問われているためであった。

第6章では、米価下落が水田農業の構造変動に与える影響を、田谷川地区の実態をもとに検討した。そこでは、米価の下落は農地の流動化を、作業受委託形態ではなく、通年賃貸借形態で急速に推し進めていることが分かった。米価下落が世代交代期に差し掛かった小規模農家の離農を促して、農地流動化を急進展させているのである。農地の受託側である大規模個別経営にとって通年賃貸借形態での農地流動化の展開は、第農産物の出荷名義獲得によるロットの確保と生産者直販拡大の可能性が広がるという点で、望ましいものであった。田谷川地区においては、大規模個別経営が層として形成され、農地の過半が担い手である田谷川協業組合メンバーに集積されていた。一方で、田谷川協業組合メンバーの間でも、経営規模拡大速度の差によって3つの類型(【I】法人経営、【II】規模拡大家族経営、【III】現状維持・規模縮小経営)への分化が見られた。

第7章では、品目横断的経営安定対策導入を契機とした集落営農設立が田谷川地区でも進んだことを検討した。農地流動化の急進展が引き起こした圃場分散問題への対応として企図された集落営農組織化は、品目横断的経営安定対策の導入により一気に加速化し、田谷川地区でも4組合が設立された。集落営農が設立された集落は大規模個別経営の形成が遅れた所であり、「草刈場」集落への転落を懸念した集落のリーダー層が設立の原動力となった。しかし、設立された集落営農は、「貸し剥がし」を通した大規模個別経営への農地・作業集積と圃場連坦化の一定の進展があるなど構造再編機能の一定の発揮が見られるものの、政策への対応を第一とする現状維持的な「政策対応的」性格が極めて強く現れたものであった。一方で、推進サイドであるJA北つくばにとっては、集落営農設立の意義は大きい。それによって安定した農産物集荷・農業資材供給先を確保できただけでなく、マーケティングに対応した「生産者管理」を集落営農に対して可能になったからである。

第8章では、構造変動によって形成された大規模個別経営の販売戦略の違いについて、大規模個別経営の類型ごとに検討を加えた。検討結果は、以下の通りである。大規模経営は経営面積規模の拡大とともに、必ずしも直接販売を拡大していないことが分かった。その要因として、急速な経営面積規模拡大による管理労働の作業計画への集中が、直接販売の拡大を妨げていること、そのため経営規模拡大途上の経営は、手間のかからないJA出荷へと傾斜していることが分かった(【II】類型まで)。しかし、経営面積規模がある一定の面積を超えると(本研究の検討では、水稲作付面積30ha以上)機械投資の増大、規模の経済性の低下が起こり、また雇用労働力の導入もあって本格的な直接販売が必要となった。また、それくらいの経営面積規模になるとロットの確保も可能になり、安定供給を求める中小のチェーン店等を対象とした本格的な直接販売が展開するのであった。(【I】類型)「大規模経営のJA離れ」というよりは、階層・地域・事業に応じた「多様な農協利用構造」が形成されているのが実態に近いといえよう。

補論では、山形県鶴岡市における構造変動について分析した。それは、庄内農業で起こっている変化が、結局は全国的に共通な水田農業構造変動の一環であること確認し、これまでの分析結果を補強するためである。米価下落による下層農家における自作の収益性悪化は、世代交代期の各農家を離農に踏み切らせ、農地流動化を活発化させた。また、生産調整拡大を収益性向上(鶴岡市の場合は枝豆作付)に繋げることができる地域では、上層農家への農地集積、規模拡大が実現した。また、鶴岡市においては、個別上層農家の展開を中心とした構造変動が主要な流れとなっており、それに対してメンバーを限定したカントリー利用組合を中心とした生産組織、さらにはこれまで農家と農協の間で見られた「JA全利用の構造」は見直しを迫られていた。

本研究におけるこれまでの分析によって得られた結論は、以下の通りである。

(1)最終消費者段階における【低価格志向】への転換と中食・外食消費の拡大=米穀市場の展開の起点

(2)食品小売業及び中食・外食産業における低価格・ロット志向の強まり

(3)米価下落による農家の離農の促進と大規模個別経営の形成=需要構造の変化に対応した生産単位の大規模化

(4)農業経営・JA系統の販売戦略の【ロット確保・安定供給志向】への転換と、確保できるロットに応じた販路の分担

本研究の検討によって得られた示唆は、以下の通りである。

(1)水田農業構造変動は需要構造の変化によって規定される度合いが大きくなったこと

(2)停滞・縮小する日本経済・米穀市場の中で米の原料的生産物的性格が強化されたこと

(3)生産単位大規模化の必要性と、その方向性の多様性

(4)米消費量自体を増やしていくような取組の重要性

審査要旨 要旨を表示する

これまで構造改革が遅れていたわが国の水田農業は近年急激な構造変動局面に入りつつある。そうした構造変動を促す契機としては、(1)農家労働力の高齢化と脆弱化、(2)水田転作の拡大と「本作化」、(3)米価下落に象徴される米消費・流通構造の変化などが指摘できる。本研究はこれまで注目されてはこなかった(3)の視点にとくに着目しつつ、(1)と(2)の視点をも含めた構造変動の全体的な枠組を把握することを課題としている。

その際、(1)米の消費・流通構造の変化が農業生産構造に影響を与える経路として、米価水準の下落と流通ロットの大規模化という現局面に特有の変化を摘出するとともに、(2)かかる特有の変化が生産者とJA系統組織、JA系統組織の内部(単協と全農・全農県本部)の関係に変化をもたらしている様相を明らかにすることを通じて、現局面の構造変動が全機構的な性格をもつことを解明しようとするところに本論文の意義がある。こうした研究課題に接近するために、近年急激な生産構造変動を経験し、コシヒカリを中心とした米の流通構造が生産者からJA・全農県本部レベルまで急激に転換しつつある茨城県筑西市田谷川地区、JA北つくば、全農いばらきを対象とした。

論文はIII部構成の8章と補論からなる大部のものである。

分析の枠組を詳細に検討した第I部では、第1章で上述のような課題設定を行った。第2章では1997年を画期として米価が構造的に下落していることを指摘し、それまでの消費者の「良食味米=高付加価値米志向」に対応した生産者側の「良食味米作付拡大・高価格販売」路線が破綻したことを示した。続く第3章ではこれまでの研究が検討され、1997年までは有効であった従来の「需要構造視角」が消費者の所得水準の傾向的な上昇を前提とした「良食味米志向」が強化される局面での議論に止まった問題性を指摘し、米価水準の下落と流通ロット大規模化という新たな視点を導入した「需要構造視角」を提起した。

本論文の骨格をなす第II部の分析編は5つの章からなる。第4章では1997年以降の構造的米価下落期の需要構造が解明される。大局的にみれば最終消費者における低価格志向の強まりは、一方では雇用調整にともなう低所得層の大量発生と購買力の低下に帰因し、他方では食品小売業や中食・外食産業の大規模化とチェーン展開を通じた低価格化路線の展開に結果した。とくに後者においては、チェーン企業の本部一括仕入れを通じた取引ロットの大規模化と低価格要求が鋭い形で現れたところにこの新局面の特徴が現れている。

第5章は構造的米価下落期のJA共販の性格を検討した。JA系統組織はロットの確保を梃子として、米流通の入口(生産者)と出口(最終需要者)をコントロール下におこうとした。入口でのコントロールは単協が独自販売を強める中で、市場の要求に対応するために販売戦略と営農指導を連動させる形で実現されたが、それは系統内部のマーケティング主体が多様化することをも意味したから、全農レベルでの統一化が進んだとはいえないことになった。

以上の需要・流通構造の変化の検討を踏まえ、続く3つの章では農業生産構造の変化が分析されている。第6章では米価下落が世代交代期に差しかかった小規模農家の離農を促し、急速に作業委託から農地貸付に向かわせる一方、従来の担い手層が法人経営・規模拡大家族経営・現状維持(ないし縮小)経営へ鋭い分化を遂げている実態を詳細に明らかにした。通年賃貸借を通じた規模拡大は販売ロットの確保と生産者直販の可能性拡大を通じて、大規模経営とJAとの関係を大きく変更しつつある。

第7章では集落営農を検討した。品目横断的経営安定対策へ対応した、大規模経営の展開が弱い地区での集落営農設立は、他地区からの多数の担い手参入による集落内農地の分断的利用を恐れた集落リーダーのイニシアティブと、米マーケティングに対応した生産者管理を実現できる集落営農の設立に安定した農産物集荷・農業資材購買事業の拠点確保の利益を求めたJA北つくばの利害の一致点で実現したものであった。

第8章では大規模経営の販売戦略について検討した。そこでは従来しばしば指摘されてきたように、規模拡大にともなってJA離れが進行するといった単純な図式では現実の生産者の対応は理解できないこと、水稲作付30ha層までの規模拡大途上経営はむしろJAへの出荷を強め、これを超える規模に至ると独自販売を強化するといった階層・地域・事業に応じた多様なJA利用構造が形成されていることが指摘された。

以上のように本研究によって、近年の水田農業における急激な構造変動が、一方で、最終消費段階における低価格志向の強まりと食品小売業や中食・外食産業における低価格・ロット志向の高まりを起点としつつ、他方で、米価下落による離農促進を通じた規模拡大条件の創出とロット確保による有利販売を通じた規模の経済の発現条件の誕生といった実態との交点で生まれていることが明らかにされ、水田農業の経済学的研究に新たな地平を切り拓いたことは学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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