学位論文要旨



No 126320
著者(漢字) 申,
著者(英字)
著者(カナ) シン,ミンチョン
標題(和) 20世紀韓国における火田・火田民の増加・消滅過程に関する分析 : 江原道の事例を中心に
標題(洋)
報告番号 126320
報告番号 甲26320
学位授与日 2010.07.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3610号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 講師 藤原,辰史
 東京大学 准教授 古井戸,宏道
内容要旨 要旨を表示する

火田とは、朝鮮半島、主にその北部で行われた焼畑の一種である。焼畑には、(1)連作しない、(2)燃やした草木が肥料になる、(3)広大な山林が必要であるという特徴がある。これらの焼畑は古代以来、世界各国において広く分布したと考えられる。インドネシアなど熱帯雨林地帯においては、現在も形態が変容しつつ焼畑が存続している地域もあるが、多くの地域においては、近代以降焼畑は消滅していった。朝鮮(韓国)において、火田は植民地期から解放後の1979年に至るまで、経済的に没落して生計維持が困難になった農民が最後の選択肢として採った手段の一つであった。朝鮮(韓国)の火田とそれを耕作する火田民は、近代以降も長く存続し、高度経済成長期に至って消滅したという点で独特の歴史を有したといえる。火田・火田民の存在は、植民地期及び解放後という長いタイムスパンにおける朝鮮(韓国)の社会経済構造の変化に伴う農業・農村社会の変遷を分析する上で、注目すべき現象であると考えられる。

本論文は、朝鮮(韓国)における火田・火田民に関して、韓国統監部の指示によって制定された「森林法」(1908年)に火田開墾の禁止が明文化されたことを始点として、1)植民地期、2)解放後1960年代半ばまで、3)1960年代半ばから統計上家火田が消滅する1979年まで、という3つの時期に分ける。まず、植民地期においては、朝鮮の農業構造・農村社会の変容過程を分析した上で、地主制下で窮乏化し、さらには小作争議の結果として耕地を喪失した小作農民が火田民化していく経緯を明らかにした。その上で、朝鮮総督府による火田取締政策と火田・火田民の生活状況との相互関係を分析した。解放以後においては、韓国政府による開墾事業の展開とその問題点を分析し、それが火田民戸数の増加をもたらしたことを明らかにした。そして、韓国政府の火田整理事業の展開過程とそれに伴う火田・火田民の実態を、社会経済構造の変化が及ぼした影響と結び付けながら分析した。

こうした分析に際しては、解放の前と後を断絶させずに、一つの長期的なタイムスパンの中で考察した。まず、火田・火田民を、農村における過剰人口の堆積がもたらした現象のひとつとして捉えた上で、植民地期と解放後における農村過剰人口発生の原因について論じた。そして、帝国日本の支配下のもとでの朝鮮総督府の火田取締政策と、解放後の韓国政府の火田整理事業との連続点と相違点の摘出・整理を試みた。最後に、1970年代における急激な経済発展とそれに伴う労働市場の展開によって、農村過剰人口が都市部に就業機会を得て急減し、それにともなって火田・火田民が消滅していった過程を明らかにした。

また、本論文では、特に江原道という一つの地域に焦点をあてる。江原道は、解放以後に韓国における火田整理事業の「模範」となった地域であり、植民地期から1979年に至るまでの長期的な火田の変化を分析することができるというメリットがある。また、江原道は、道総面積の80%を林野面積が占める韓国において代表的な山岳・山間地帯であり、火田が広く分布していたことも特徴的である。

具体的な分析手法としては、各時期に発行された新聞である『東亜日報』と『朝鮮日報』の記事を用いて分析を進めた。この2紙の各時期の火田・火田民に関する新聞記事は、現地記者による詳細な現状報告に基づくものと火田・火田民に対する朝鮮総督府・韓国政府の政策内容の紹介が中心であるため、客観性が保たれていると判断した。

朝鮮の「火田」は、大きく二つの形態に分けられる。一つには、山間部に居住していた人々が山林で火入れによる耕作と休耕を組み合わせて一定の土地面積内において移動耕作を行なう日本の「焼畑」に近い農法と、もう一つには、山間部において最終的に熟田化することを目的として行なう開墾の一つの類型としての火入れである。前者は、肥料が不要である一方、広い山林面積の利用を前提としており、主に山林居住者によって行なわれていたものである。具体的には、火田民は、普通春季4~5月の頃雪解けを待って森林を伐採し、約2週間後にその土地を乾燥させた後、火を放ち、その焼け跡を牛又は人力によって耕鋤し、農作物を播種した。一度開墾した地は、3~4年間引き続いて農作を行い、その後、放置し他所に移って再び火田を行なった。放置された跡地で数年後に地力が回復すると、再びその地に火田耕作を繰り返した。個別火田民が山林内に散在した火田地を所有しており、耕作と休耕を組み合わせて移動耕作を行なっていた。

後者は、山林・山村部の外部から流入した人口によって行なわれたものである。熟田化を目的としているが、結果として、熟田化に成功する場合と、地力が不十分で熟田化できず、その土地を放棄して、他所へ移動して新たに火入れを行い、開墾を繰り返す場合とがあった。

このような火田形態の二類型は、植民地期にその差異が顕在化することになり、後者の形態の火田が中心となっていく。その発生メカニズムを植民地期における特殊な産業構造と関連づけて説明することができる。植民地朝鮮の経済構造の特徴としては、日本帝国主義の政治・経済的支配下における工業化の制約による労働市場の未展開を指摘することができる。そのために農村部においては、農村過剰人口が滞留して農家の絶対数が増加していった。そのうえ、日本人・朝鮮人大地主を中心とした土地所有の集積が進み、他方では零細な小作農家が増加していった。農地賦存量の制約にもかかわらず人口圧力は増大し、その結果、没落して土地を喪失した農民の一部が生計維持のための最後の手段として山林地帯へ入り火田民となった。

こうして困窮した平地の農民が多数山林へ移動したことによって、従来、前者の形態の火田を行なっていた山林居住者と後者の形態の火田を行なう移入農民との間で山林内の土地利用を巡る競争が生じ、結果として、前者の形態の火田の休耕期間の短縮をもたらした。また、朝鮮総督府による山林利用の規制によって、前者の形態の火田を行なうことが困難になった。それによって、前者の形態の火田は少なくなっていき、部分的(特に、山間奥地)に残存する程度となった。他方、山間部への人口流入に伴って、熟田化を目的とした形態の火田が圧倒的に増加していった。

このような後者の形態の火田の発生は、植民地期以降に固有に見られる現象であった。また、解放後も海外からの引き揚げや国土分断によって越南した人々によって南朝鮮(韓国)において急激に人口が増加した。このような急激な人口増加は、食糧不足及び失業者・貧民の堆積などの問題をもたらした。韓国政府の社会部・農林部・その他政府機関は、食糧増産と失業者・戦災民・避難民救護を目的として開墾事業を実施したが、そこには、様々な問題点があり、開墾地での生活が厳しくなった入植者が山林へ進出する事例が数多くあらわれた。以上のように、植民地期と解放後においては火田民の発生メカニズムは異なるものの、結果としては後者の形態の火田は継続して存在し続けることとなった。すなわち、植民地期及び解放後1979年まで火田耕作は、農村貧民にとって生存維持のための最後の受け皿となっていた。

朝鮮総督府と韓国政府は、山林保護のために、各々「森林令」と「山林法」を制定し、山林利用を規制することに加え、火田民に対しても、火田取締政策と火田整理事業を実施した。両者共に火田民の移住に重点を置いた政策であったこと、財政的支援の不十分さのために移住政策として成果をあげられなかったことが指摘できる。このように植民地期における朝鮮総督府の火田取締政策と解放以後における韓国政府の開墾事業は、政策の不十分さが逆に火田民の増加を招いた側面もあった。

こうした火田・火田民は、1979年を以って消滅していった。これらの消滅過程に関して、先行研究においては、主として火田整理事業の効果であることが強調されてきた。しかし、本論文で論じたように、火田整理事業の実態と火田民に対する対策をみると、必ずしもそうであるとは言い切れない。火田整理事業による効果よりは、むしろ火田民の離村=都市労働者化と高冷地野菜農家への転身を可能とした韓国の社会経済構造の変化こそが火田・火田民の消滅過程において、より重要な前提であったことを強調しなければならない。

以上のように、本論文においては、火田・火田民の消滅過程について、政策のインパクトよりも社会経済構造の変化を重視してきた。植民地期の農村過剰人口の堆積及び解放後の人口移動に伴う過剰人口の形成を背景として、各時期において増加してきた火田民の存在が、1970年代における社会経済構造の変化とともに、都市労働者となり、最終的に消滅していく過程を分析した。また、韓国において火田・火田民が消滅した時点は、1970年代中葉における韓国の労働力市場が「転換点」を通過した時期とも重なっている。

ただし、「転換点」を通過して以降、火田民が消滅したことによって、貧民の存在が消えたわけではないことを強調しておきたい。農村貧民であった彼らが社会経済構造の変化に規定されて、都市下層民として流出していったに過ぎず、貧民の形態が変化したものとして考える必要がある。彼らはその後の都市インフォーマルセクターを構成する人々の一つの源流をなしているのである。

審査要旨 要旨を表示する

火田とは、朝鮮半島、主にその北部地域で行われた焼畑の一種である。朝鮮(韓国)において火田は、植民地期から解放後の1979年に至るまで、経済的に没落した農民が最後に採った生計手段の一つであった。朝鮮(韓国)の火田は、近代以降も長く存続し、高度経済成長期に至って消滅したという点で、他の地域には見られない独特の歴史を有しているといえる。本研究は、「森林法」(1908年)に火田開墾の禁止が明文化されたことを始点として、1)植民地期、2)解放後1960年代半ばまで、3)1960年代半ばから統計上火田が消滅する1979年まで、という3つの時期区分を設定した。そして、江原道という一つの地域に焦点をあてながら、1)朝鮮総督府による火田取締政策と火田形態との相互関係の分析、2)解放以後における韓国政府による開墾事業の展開と火田民戸数の増加との因果関係分析、3)韓国政府の火田整理事業の展開過程および火田・火田民の実態とその消滅過程の分析を行なった。

朝鮮(韓国)の「火田」は、山林において耕作と休耕を組み合わせながら移動耕作を行なう農法と、最終的に熟田化することを目的として行なう火入れとの二つの類型に分けられる。これら二類型のうち、植民地期には後者の形態が支配的になっていった。植民地下での農村過剰人口の堆積、日本人・朝鮮人大地主による土地所有の集積と小作農家の増加により、没落して土地を喪失した農民の一部が山林地帯へ入り後者の形態の火田耕作を行なうようになった。その結果、従来からあった前者の形態の火田と後者の形態の火田との間で山林利用を巡る競合が生じ、前者の形態の火田の休耕期間が短縮した。これらの現象は治水上の問題を引き起こし、朝鮮総督府は山林利用の規制を強化した。それは、前者の形態の火田をいっそう困難にした。

後者の形態の火田は、解放後にも引き続き見られる現象であった。解放後、引き揚げ者や越南者によって南朝鮮(韓国)の人口が急増した。それは、食糧不足及び失業者・貧民の堆積などの問題をもたらした。韓国政府は、その対策の一環として開墾事業を実施したが、開墾地での定着は困難であり、生活が厳しくなった入植者が山林へ進出し後者の形態の火田耕作を行なう事例が数多くあらわれた。

植民地期および解放後において、発生の背景は異なるものの、結果として後者の形態の火田が継続して存続していった。その間、火田は、農村貧民にとって生存維持のための最後の受け皿となっていたのである。

朝鮮総督府と解放後の韓国政府は、山林保護のために火田整理事業を実施した。両者ともに、火田民の移住に重点を置いた政策であったが、財政的支援の不十分さのために成果をあげられなかった点で共通している。また、朝鮮総督府の火田取締政策と解放以後における韓国政府の開墾事業は、政策の不十分さが逆に火田民の増加を招いた側面があった点でも共通している。

こうした火田・火田民は、1979年を以って統計上消滅した。先行研究は、火田整理事業の効果を強調しているが、それは過大評価である。本研究では、それよりは、火田民の離村=都市労働者化と高冷地野菜農家への転身を可能とした韓国の高度経済成長とそれにともなう社会経済構造の変化、すなわち都市における労働市場の拡大、農村-都市間の交通網の整備および勤労者の所得水準向上による野菜消費量の増大にその原因を求めている。

以上、本研究は、おもに新聞や行政文書などの一次史料を綿密に検討・分析しつつ、朝鮮(韓国)の近代以降の火田・火田民の動向を、火田に対する政策の時期ごとの特徴と関連付けつつ、長期的な視点から明らかにしたものである。その分析成果は、学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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