学位論文要旨



No 126325
著者(漢字) 立石,洋子
著者(英字)
著者(カナ) タテイシ,ヨウコ
標題(和) 国民統合と歴史学 : スターリン期ソ連における『国民史』論争
標題(洋)
報告番号 126325
報告番号 甲26325
学位授与日 2010.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第240号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 教授 水町,勇一郎
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、スターリン期のソ連における国民史像の形成とその変遷を、党・政府指導部の政策と歴史家の議論から検討する。歴史学と政治が密接な関係を持つことは広く知られているが、特に自国史像の解釈は現在も多くの国で政治的論争の対象となっている。これは自国史像がその国家内の個人や集団、また国家自体のアイデンティティと密接に結びつくためであり、ソ連にとってもそれは例外ではなかった。広大なロシア帝国の領土を受け継いだソ連は、100を超える諸民族からなる多民族国家として誕生した。ソ連初期のマルクス主義史学は、ロシア帝国による階級的支配と植民地支配を激しく批判し、皇帝や軍人の歴史に代わって革命運動や労働者の歴史、そしてこれまで歴史研究の対象とみなされなかった非ロシア諸民族の歴史を描かねばならないと考えた。そのため初期のマルクス主義歴史家は、植民地支配を含む革命前ロシアの否定的側面を強調し、それによってソヴェト政権の理念的正統性を示そうとした。

しかし1920年代後半には世界革命への期待が非現実的と見なされるようになり、1930年代には事実上、他国と同じような「国民国家」として国家を成立させることが課題となった。また革命と内戦、それに続く農業集団化と大規模な飢饉、急速な工業化は、犯罪や浮浪児の増加といった社会的混乱を引き起こしていた。これに加えてナチ・ドイツをはじめとする同時代の諸外国の動向は、それとの対抗の必要性を党・政治指導部に意識させ、全国民の統合をより積極的に推進すべきだという見解が次第に優位を占めた。こうした国内外の情勢から、1930年代半ばにはソ連初期に否定された「家族」や「祖国」といった伝統的価値観への注目が高まった。主要新聞・雑誌は「ソヴェト愛国主義」の重要性を訴え始め、歴史家や歴史教師の間では、歴史学はナチ・ドイツの反ソ連的宣伝と対抗し、愛国主義の育成の手段たるべきだという主張が活発化した。

このなかで党・政府指導部は歴史研究・教育に対する関心を強め、国民統合の基盤となりうる「国民史」を要求し始めた。1937年に出版された初の初等教育用ソ連史教科書は、ロシア政府による階級的支配や植民地支配の否定的描写を維持しながらも、国家統合と強化、諸外国との戦いの歴史に限定してロシア史を再評価した。ウクライナとグルジアのロシアへの編入については、両民族がロシアと同じ宗教を持ち、また他国による併合の可能性があったという理由で、「より小さな悪」として限定的に再評価した。また非ロシア諸民族史の描写が重視され、ロシアに対する反乱は民族解放闘争として肯定的に描かれた。つまり1930年代半ばには、ロシア人だけでなく非ロシア人を歴史の主体とする国民史の作成が目指されたといえる。つまり、階級と民族という二つの概念を用いて「ソヴェト愛国主義」の理念を浸透させ、国民を統合することが歴史学と歴史教育の課題と見なされたのであった。

初等教育用ソ連史教科書の出版後、中等・高等教育機関用教科書の作成や、個別テーマの研究を通じて、ソ連史研究の対象は深化・拡大していった。このなかで歴史家は、階級と民族、国民という三つの概念を、個々の史実や歴史上の人物の描写のなかで組み合わせ、調和させようとした。ソ連初期の歴史学は、経済的要素が歴史を動かすと考えたが、1930年代半ば以降には、愛国主義の象徴として国民に訴え得る要素が必要だとみなされ、各民族の歴史上の人物の役割が再評価され始めた。ロシア史上の君主のうち、イワン雷帝やピョートル大帝は国家統合への貢献を理由に再評価され、非ロシア諸民族史上の人物のなかでは、特に19世紀北カフカースの対ロシア反乱を率いたシャミーリが、民族解放運動の象徴として称賛された。ウクライナでは、ロシアとの統合を率いたコサック幹部のフメリニツキーを、ポーランドからウクライナを解放し、ロシアと統合させた英雄とする描写が広まり始めた。このことからも分かるように、この時点では対ロシア反乱を率いた人物も、ロシアとの統合を率いた人物も同様に、各民族の英雄として肯定的に評価された。しかし、歴史家のなかには、ロシアの領土拡大をより肯定的に評価する見解もあり、論争が続いた。

こうした状況に変化を与える契機となったのは、1941年6月に勃発した独ソ戦であった。ドイツ軍はソ連からの非ロシア諸民族の分離を目的として、特に北カフカースでコルホーズの廃止や宗教活動の自由化などの政策を実施した。これは地域住民に歓迎され、ドイツ軍が同地域から追放された後にも、赤軍に対して戦闘を続ける集団が現れた。ドイツ外務省は、ソ連から亡命した非ロシア人の団体やソ連外のパン・チュルク主義運動、ソ連内の非ロシア人の軍事捕虜の利用を画策した。独ソ戦期にドイツ外務省に招かれた亡命者団体のなかには、19世紀北カフカースで対ロシア反乱を率いたシャミーリの孫にあたる人物も含まれていた。これに対してソ連当局は、ドイツの占領下に置かれた地域で宣伝活動を活発化させただけでなく、対独協力者を多数輩出したとみなした民族を強制移住させるという手段を採った。歴史家の一部からは、シャミーリの反乱を初めとする対ロシア反乱の称賛に対する批判が表明され、北カフカースの不安定化の責任は歴史学にあるという発言も聞かれた。

独ソ戦の終結後、冷戦という新たな国際的緊張が次第に醸成されるなかで、西欧に対する「跪拝」との戦いと、ロシア人を中心とするソ連の諸民族の団結が公的イデオロギーの中心となると、党・政府の出版物では、「より小さな悪」の理論がウクライナ、グルジア以外の地域の併合にも適用され始め、非ロシア諸民族のロシアに対する反乱を称賛することは次第に困難となっていった。冷戦の緊張が頂点に達した1950年には、党の理論誌や主要新聞紙上に、シャミーリの反乱や19世紀カザフスタンにおけるケネサルの反乱を、反動的反乱とする論文が掲載された。これ以降、この二つの反乱を称賛してきた歴史家は自己批判を余儀なくされ、その一部は免職され、逮捕された。1950年以降にも、全ての非ロシア諸民族の反乱の進歩性が否定されたわけではなかった。しかし、ロシアへの併合の肯定的側面が前面に出され、ほぼすべての民族のロシアへの編入を「より小さな悪」とする主張が支配的となり、この新たな国民史像はスターリンが死亡する1953年まで維持された。

ソ連の国民史像は、国際的緊張に対する対応として発展した点で他国と類似性を持つと言える。しかしここには、階級闘争史観や帝国主義批判というソ連の歴史学に固有の特徴も存在した。1930年代半ばから独ソ戦までのソ連の自国史研究・教育の大きな特徴は、階級闘争史観を基盤としながら、ロシアを含む各民族の伝統を再評価し、さらに非ロシア人の対ロシア闘争を称賛したこと、つまり階級と民族という二つの要素を利用して国民史像を構築しようと試みた点にあった。しかし国民史像の中心に置かれたのは最大民族であり、諸民族を統合したロシアの歴史であった。ロシアを中心としながら、同時に非ロシア諸民族の伝統を、対ロシア反乱も含めて称賛するという課題を、個々の史実に適用することは容易ではなかった。このことは、全世界の勤労者の祖国を名乗り、また多民族国家という自己認識を持ったソ連で、全国民が共有するアイデンティティの形成がいかに困難であったかを示していた。

国民史像の中心的要素の一つとなった階級概念に関しては、1930年代半ばに歴史上の人物の役割が再評価され初め、ロシア君主については国家統合と強化への貢献のみを肯定的に評価し、階級的支配や植民地支配については否定的に捉えるという描写が定着した。しかし対ロシア反乱を率いた非ロシア諸民族の指導者の評価については、独ソ戦後まで歴史家の議論が続いた。次に国民史像のもう一つの中心的要素となった民族の概念については、1930年代半ばから独ソ戦期には、各民族の伝統の称揚が国民的アイデンティティの形成に寄与するという見解が、党・政府と歴史家の間である程度共有されていた。特に独ソ戦期には、非ロシア諸民族を戦争に動員するために、各民族の歴史を、対ロシア闘争を含めて英雄的に描写することが歴史学の最重要課題とみなされた。しかし一部の歴史家は、帝政ロシア国家の強化を理由に領土拡大を正当化し、さらに非ロシア諸民族の対ロシア反乱を称賛すべきでないと主張した。このような主張は独ソ戦初期の段階では、歴史家の間で広く共有されることはなかった。しかし、ドイツのプロパガンダの影響に対する危惧や対独協力者の出現は、各民族のアイデンティティにおけるエスニックな要素が、ソ連からの自立化や、諸外国との絆を介して、ソ連と敵対的な外国の手先となる可能性を与えるのではないかという警戒を政治指導部に与えた。その後冷戦の緊張が頂点に達するなかで党・政府指導部は、ロシアに対する反乱を肯定的に描写するこれまでの国民史像を維持することは不可能だと判断し、ロシアの領土拡大をより積極的に肯定する歴史家の説を公式見解として取り入れたのだと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「国民統合と歴史学――スターリン期ソ連における『国民史』論争」は、スターリン期ソ連における自国史像の形成とその変遷を、政治指導部の政策と歴史家たちの議論の両面から検討したものである。歴史学と政治が密接な関わりを持つことは広く知られているところであり、特に自国史像の解釈は今日においても多くの国で政治的論争の対象となっている。本論文の対象であるスターリン期ソ連は、もともと「プロレタリア国際主義」「帝国主義批判」を建国の理念とし、また「多民族国家」としての自意識を強くいだいていたことに示されるように、他の近代国民国家とは顕著に異なる特徴を有していたが、と同時に、国民国家体系において他国と緊張関係の中で生存する一国家として「国民統合」の課題を抱え込まざるを得なかった。本論文はそうした特異性を持つ国家における国民統合と歴史学のあり方を実証的に跡づけることを課題としており、国民国家と国民史論争をめぐるこれまでの研究蓄積に対して新しい事例を呈示しようとするものである。

本論文は、序章、7章からなる本論、終章という構成を取っており、その後に主要人名一覧および文献目録が付されている。以下、論文の要旨を述べる。

先ず序章では、歴史学とりわけ自国史研究が国民統合の機能を担う反面、国民の間に亀裂を生む可能性をも秘めた論争点としての性格をもつことが確認され、そうした一般論がソ連においてはより複雑な形をとったことが指摘されて、本論文の課題が明示されている。続いて、研究史の整理を踏まえて、本論文が特に重視する点が述べられている。中でも、多民族国家ソ連における「国民史」とはソ連邦全体を対象とする歴史と個々の民族地域ごとの歴史の双方からなる以上、その両方を視野に入れること、また歴史学と政治の関係を検討する際に、党・政府の側の政策にとどまらず歴史家たち自身の議論に立ち入った理解を試みること、という2点が強調されている。

第1章は前史であり、ロシア革命から1920年代末までの時期の状況が概観的に論じられている。ソ連初期の歴史学の特徴として、階級闘争および経済的要素を重視して歴史における個人の役割を低く評価したこと、歴史学の政治性を強調し、階級的観点を重視したこと、ロシア帝国の植民地支配を強く非難し、これまで未開拓だった非ロシア諸民族の歴史研究の推進を説いたこと、等が挙げられる。他面、マルクス主義歴史家がまだ少なかったことから、革命前に教育を受けた「ブルジョア歴史家」たちもそれなりの位置を占めていたが、20年代末に「ブルジョア歴史家」批判が高まり、代表的な「ブルジョア歴史家」はその職を追われたり、政治的抑圧をこうむったりした。

第2章では、1930年前後における歴史教育改革の始まりが論じられている。ソ連初期の学校教育では歴史学は「社会科学」という総合的な教科の枠内で教育されてきたが、この時期に歴史学が個別教科として復活した。そのため歴史教科書の作成が重要な課題として浮上した。また、初期の歴史教育においては抽象的な階級闘争論が重視され、個別の出来事や人物の名前があまり記述されなかったが、そうした教育方式は生徒の関心を呼び起こすことができず、具体的な知識を授けることができていないという批判が高まり、個人や出来事を重視する伝統的な歴史教育への部分的復帰が始まった。しかし、そのことは、どのような個人や出来事を取り上げ、それらをどのように描くかという新しい問題を投げかけることになった。

第3章と第4章は、1930年代半ばから独ソ戦開始までの時期を扱っている。この時期には、国際緊張の高まりの中で「ソヴェト愛国主義」が重視され、歴史学および歴史教育も国民の愛国主義涵養への貢献が期待されるようになった。これは初期のマルクス主義歴史家たちの予期していなかった課題であり、そのことと関係して、1920年代末にいったん排除された「ブルジョア歴史家」の多くが公的生活に復帰して、愛国主義的な歴史書執筆に大きな役割を果たすようになった。他方では、「階級闘争重視」「帝国主義批判」というイデオロギーも保持されたが、これらの相異なる要請を歴史叙述に具体的どのように反映させるかをめぐって、様々な論争が生じた。第3章で大きな位置を占めている初等教育用ソ連邦史標準教科書作成の経緯は、その課題の決着が容易でなかったことを如実に示している。1934年以降の教科書準備作業をうけて36年に開催された標準歴史教科書コンクールには多数の草稿が寄せられたが、結局、一等賞は該当なしとされ、二等賞となったモスクワ教育大学作成の草稿を改訂して教科書とすることが決定された。この過程には政治指導部も積極的に関与し、ソ連初期最大の歴史家だったポクロフスキーへの集中的な批判キャンペーンに示されるように、あるべき歴史学・歴史教育に関する政治的な要請が強められた。しかし、そうした政治的要請を実際にどう適用するかについては一定の解釈の幅があり、歴史家間の論争はこの後もやむことがなかった。この時期には、それまで未開拓だった非ロシア諸民族地域の歴史研究が盛んになったが、そのことは、いくつかの新しい論点の浮上を伴った。ウクライナおよびグルジアについては、ロシア帝国への編入が、「(他の列強への編入に比して)より小さな悪」であったという公式見解が示され、これはロシアの領土拡大を一律に「絶対悪」と見なしていた初期の規範的見解からの転換を意味した。だが、この新しい定式が他の非ロシア諸民族地域にも適用されるのかどうかについては、議論が分かれていた。

第4章では、独ソ戦前夜における歴史学の状況が、中等および高等教育機関用教科書作成を中心に論じられている。この時期には、国際情勢が前の時期よりも一層緊迫しており、歴史記述において、「外敵」との戦いの描写がとりわけ重要視されるようになった。歴史上の統治者の再評価も進んだが、「愛国的」観点からの「英雄」称揚と「階級的」観点とをどのように調和させるかには困難な問題が残っていた。ロシア皇帝の中では特にイワン雷帝およびピョートル大帝の評価が大きな論点となったが、国家統合への貢献および「外敵」との戦いにおける肯定的役割を評価すると同時に、「階級的」観点からの否定面にも留意するという描き方が次第に定着した。より困難だったのは、非ロシア諸民族の指導者たちの評価であり、特にその指導者が反ロシア反乱を率いていた場合の評価はなかなか定まらなかった。ここには、歴史上の「英雄」評価において複数の基準が併用され、それらの基準が矛盾する場合の解決法が確定していなかったという事情が反映していた。

第5章では、1941年に始まる独ソ戦の時期が扱われている。ナチ・ドイツは占領地域に住む非ロシア諸民族の一部を反ソ闘争に利用しようと試みたが、そのことは、これへの対抗という課題をソ連の政治指導部にとって深刻なものとした。一方では、非ロシア諸民族の歴史の掘り起こしを通じて、それら民族のナショナリスティックな感情を戦時動員へと誘導することが試みられたが、他方では、対独協力者を一定程度生み出した諸民族への警戒の念が生じた。戦争のもう一つの副産物として、首都にいた多くの歴史家たちが中央アジアその他の地へと疎開し、現地の歴史家と協力してそれぞれの地域の歴史書作成を進めた。中でも大きな位置を占めたのが、1943年初版の『カザフ共和国史』であり、同書は帝政ロシアを「諸民族の牢獄」とする認識に立って、19世紀の反ロシア反乱の指導者ケネサルに高い評価を与えた。しかし、これに対しては、「偏狭な民族主義的偏向」だとする批判が提出されて、論争となった。1944年5-7月開催の大規模な歴史家会議では、この問題を含め、出席者の間で熱心な議論が闘わされた。政治指導部もこの会議に多大の注目を寄せ、その討論を総括する公的な決議の作成が準備されたが、結局、決議は作成されないままに終わった。このことは、その時点での政治指導部が歴史学の細部にまでわたる統一的な公式見解を形成していなかったことを物語ると、筆者は指摘している。

第6章は戦後初期を扱っている(なお、ここで「戦後初期」とは、「戦後」への展望が見え始めた1944年半ばから冷戦の本格化する47年頃までを指している)。この時期には、それまで戦争への動員という観点から容認されていた民族主義感情の鼓吹が政権の統制を外れて自己運動しかねないことへの警戒が強まり、各地で「民族主義的偏向」との闘争が呼びかけられた。この時期にはまた、欧米諸国との対抗が徐々に高まりつつあったことから、「西欧跪拝」批判キャンペーンが始まり、そのことも歴史学に影を落とした。しかし、この時期にはまだいくつかの重要な論争点が未決着なままに残っており、立場の異なる歴史家がそれぞれに発言を続けていた。

第7章では、冷戦初期ないしスターリン時代最末期(1948-53年)が扱われる。この時期には前の時期からのイデオロギー統制が一段と強まった。非ロシア諸民族地域のロシアへの併合を「より小さな悪」と見なす定式は、当初の限定(ウクライナとグルジアのみに適用)を超えてほぼ全面化し、また「悪」というよりもむしろ積極的な「善」としての把握に傾斜するようになった。特に北カフカースに関しては、それまでほぼ一貫して「英雄」と見なされてきたシャミーリがイギリスやトルコの手先と描かれるようになり、評価が逆転した。このことは、それまで論争的だったカザフ共和国史にも波及し、ケネサルへの否定的評価が定着した。しかも、1950年に呈示された新しい評価は、異論を許さない公式見解としての性格を帯び、かつて異なった見解を披瀝していた歴史家は自己批判を迫られたり、職を追われたりした。もっとも、このような政治的統制の最大限の強まりが訪れたのは、1950年というスターリン時代の中でもかなり遅い時期であり、その状況はスターリンの死去する1953年には早くも変化するという点にも、筆者は注意を向けている。

終章では、先ず、スターリンの死去(1953年)およびスターリン批判(1956年)が歴史学にどのような影響を与えたかを簡単に論じ、本論で論じたよりも後の時期への展望を与えている。それに続いて、ソ連における国民史のあり方という本論文の主題について簡潔なまとめを行ない、その上で、この事例が持つ一般的な意味についても考察を行なっている。ソ連歴史学には被支配層の歴史重視および歴史学の政治性強調という特徴があったが、この2点はともに現代歴史学においてもしばしば重要視され、また論争を喚起している論点である。また、ソ連解体後の旧ソ連諸国においては、新たな条件下での再度の国民形成が問題となっており、ここでも国民史と歴史学の関係が論争点となっている。こうして、本論文の主題のもつ現代的な意味が示唆されて、論文は閉じられている。

以上が本論文の要旨である。

本論文の長所としては、次の諸点を挙げることができる。

スターリン期ソ連における政治と歴史学――あるいは、より広くいえば政治と知識人――の関係というテーマについては、これまでも多くの研究者が注目してきたが、その大半は、一次資料に基づいた実証研究の域に達しておらず、政治権力の学問への介入・統制という一般論を漠然と想定したり、その想定を断片的なエピソードで裏付けようとするにとどまっていた。本論文は、近年新たに利用可能となった公文書館資料を含む一次資料を丹念に検討した本格的実証研究であり、スターリン期ソ連研究に新しい頁を切り拓く労作である。筆者はそうした作業の結論として、政治権力の学問への介入・統制という通説的イメージは、ごく大まかな意味では一応維持されるにしても、より立ち入ってみるならばいくつかの修正を要することを指摘している。本論文の対象時期は広い意味で「スターリン期」と括られる一つの時代をなすにしても、その中で小刻みに様々な揺れがみられた。本論文はそれぞれの小時期ごとの特徴や変遷を詳しく明らかにしている。たとえば、政治の歴史学への介入が最強度に達したのは、スターリン最末期の1950-53年という、比較的短い期間であるが、従来の研究はこの時期の状況をスターリン期一般に投影するきらいがあり、それは全体像とするにふさわしくないことが、本論文では明らかにされている。

第2に、本論文は当時のソ連の歴史家たちの言動を詳しく跡づけることで、彼らが意外なほど多様な存在だったことを明らかにしている。帝政時代に教育を受けた非マルクス主義的歴史家たち――ソ連の用語で「ブルジョア歴史家」と呼ばれた――は、1920年代末に厳しい批判にさらされ、職を追われたり、刑事的抑圧をこうむったりしたが、その多くが30年代には公的活動に復帰し、当時のソ連歴史学の愛国主義的方向への転換に大きく貢献した。他方、マルクス主義に立脚する歴史家たちも一枚岩ではなく、階級闘争史観と「ソヴェト愛国主義」とをどのように調和させるかをめぐって多様な見解が提出され、活発な論争が交わされた。もちろん、彼らは政治的統制から自由な環境で活動していたわけではないが、かといって従順な政治の道具、あるいは一方的な抑圧の犠牲者ではなく、彼らなりの主体性を発揮して、どのような形で政治に貢献するかをめぐって、種々の議論を交わしていた。また、歴史家たちの主張とその出自や教育歴の関係も直線的ではなく、例えば「愛国主義」強調論が「ブルジョア歴史家」の中でマルクス主義者よりも特に多いとは限らず、また民族史の評価が論者自身の民族帰属と一義的に対応しているわけでもなかった。筆者はそうした機械的な対応関係を安易に前提することを慎重に避け、よりきめ細かい認識を提出している。このような歴史家たちの論争を丹念に跡づける作業を通して、筆者はスターリン体制という特異な政治体制を生きた歴史家たちの群像をヴィヴィッドに描いており、これは本論文の大きなメリットということができる。

第3に、本論文の対象はスターリン期ソ連という特異な事例であるが、それを「国民統合と歴史学」という、より広い視座のもとに位置づけることで、国民国家論や政治と歴史の関係に関する一般論に対しても、一定の理論的貢献をなしている。ソ連という国は、その公的イデオロギーにおいても、また多民族国家性においても、通常の「国民国家」とは異なった特徴をもつ。その一方、他の諸国と並び立つ一つの国として国民統合の課題を抱えた点は他の近代国民国家と共通する点であり、しかも強度の国際緊張が持続する中で、その課題は一層緊要性を帯びた。そのため、ソ連の歴史家は「国民統合」にふさわしい「国民史」をつくりだす必要に迫られたが、同時に、それを「階級闘争史観」や「帝国主義批判」の観点と結びつけねばならないという困難な課題に直面した。本論文は、そうした状況の中におかれた歴史家たちのディレンマや苦難に満ちた運命を浮き彫りにしており、これは、「国民国家」論や政治と歴史をめぐる一般的な議論に対しても、特異な事例の提出という意味で重要な貢献をなしている。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第1点として、各章の冒頭などで、それぞれの時期の大状況に関する説明がなされ、各時期の歴史学の動向がそうした大状況との関連で位置づけられているが、主要テーマに関する叙述の綿密さに比して、大状況に関する叙述はかなり大まかであり、大状況と歴史学の動向の関連についても、やや説明が単線的ではないかという疑問の生じる余地がある。たとえば、戦後の冷戦が本格化する過程で政治の歴史学への介入の度合いが最強度になったという図式は、明快ではあるが、逆に明快すぎて不自然ではないかとの疑問を呼び起こしかねない。関連して、筆者のこの時期に関する指摘は、歴史学に固有な特徴なのか、それとも他の学問・文化領域についても当てはまるのかという問いに対しては、十分な答えが与えられていない。もっとも、冷戦初期(スターリン最末期)という時代はソ連史の中で最も解明困難な時期であり、資料状況も今なお劣悪であることを考えるなら、この欠点はある程度まで無理からぬものともいえよう。

第2点として、本論文の序章および終章においては、本体部分で述べられた事項を離れて、他国や他の時代の例についての記述があるが、この部分はやや論証不足であり、掘り下げが足りないという印象を残す。他国や他の時代の例への言及は、自己の研究を比較の視座のもとに位置づけるための試みとして、狙いは理解できるものの、表面的なものにとどまり、十分な比較とはなりえていない。

第3に、原資料調査に立脚した実証研究にありがちなことだが、資料紹介的な文章において、原文の表現に密着しすぎたために日本語として意味をとりにくい文章になっている個所がある。文体は平明である反面、ややメリハリに乏しく、どこに力点があるのかを読みとりにくいという問題もないわけではない。表現法にもう一段の工夫を凝らすなら、筆者の学問的貢献がより分かりやすいものになったのではないかと惜しまれる。

しかしながら、これらの問題点は、長所として述べた本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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