学位論文要旨



No 126331
著者(漢字) 橋,祥子
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,サチコ
標題(和) 『和字正濫鈔』の学問史的意義
標題(洋)
報告番号 126331
報告番号 甲26331
学位授与日 2010.07.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1013号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 齋藤,希史
 東京大学 教授 野村,剛史
 東京大学 講師 徳盛,誠
 東京大学 名誉教授 竹内,信夫
 明治大学 特任教授 神野志,隆光
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、契沖『和字正濫鈔』(五巻。元禄六年(一六九三)序、同八年(一六九五)刊)をまとまった一つのテキストとしてとらえ、その学問史における意義を明らかにするものである。

『和字正濫鈔』は従来、国語学史上において、歴史的仮名遣の出発点として、その実証性を高く評価されてきた。規範としての定家仮名遣と、『万葉集』等の古書の記述とのずれを認識し、典拠を示して古書に基づく仮名遣を提唱したことが、その評価の所以である。しかし、国語学史の中で概説的に取り上げられることはあっても、『和字正濫鈔』自体に即した分析は、満足になされていないと言ってよい。

釘貫亨『近世仮名遣い論の研究』は、難解な『和字正濫鈔』巻一に取り組み、その理論を検討した点で、極めて重要である。しかし、「五十音図」に見られる特異な合成字に触れずに、古代日本語音声の配置図を自覚したものと位置付けるなど、疑問を感じざるを得ない点もある。版本では削除された稿本の記述に基づいて「五十音図」の意義を探ることは、契沖の学説を考える上では有用だとしても、『和字正濫鈔』版本自体を理解することにはならないのではないか。

『和字正濫鈔』版本は、それのみでは理解し難い部分を含む。そのために、契沖の他の著作と合わせて解釈することが、今まで行われてきた。しかし、『和字正濫鈔』は版本の形で、享受されてきたはずである。学問史の中に正当に位置付けるためにも、それ自体として読み解くことが必要である。

本論文では、『和字正濫鈔』版本を一つのまとまった書物としてとらえ、その意義について考えることを目的とする。部分的に取り上げて、そこから日本語学上の問題を拾うのではなく、実証的と言われる『和字正濫鈔』が実際にはどのように構成されているのか、という問題意識に基づいて、その記述を見る。

第一章では、『和字正濫鈔』巻二以降、すなわち具体的に仮名遣を示した部分を検討する。それによって、実証的という評価だけでは済まないことを明らかにする。

『和字正濫鈔』は仮名遣書であるが、仮名遣としてどのような仮名を区別して用いるか、ということは、自明ではない。仮名遣を示しているはずの見出し語にも、いわゆる「変体仮名」は用いられているのである。それらの用法を検討することによって、仮名遣として区別されている仮名とはどのようなものであったのかを確認した。その結果、『和字正濫鈔』で仮名遣として区別すべき仮名は、いろは四十七字であったことが明らかになった。

このような書き分けを行うに当たって、『和字正濫鈔』は古書に根拠を求めたとされる。確かに、「日本紀」「万葉」「和名」等の書名を挙げたり、それらに書かれている語や文を引用したりしている。ただし、それが本当に根拠たり得るかどうかは、引用元の書物に戻って確かめる必要がある。確認作業の結果、いくつかの問題点が浮上してきた。

例えば、「日本紀」として挙げられているものの中には、『日本書紀』の漢字表記にはあらわれてこないものがある。その上、『和字正濫鈔』の見出し語と、それが依拠したと推測される、版本の傍訓の仮名遣とが一致しないものさえある。『日本書紀』版本の傍訓の仮名遣は、同じ語に対しても異なる仮名が用いられているものもあり、仮名遣の根拠とできるようなものではない。また、『和字正濫鈔』に挙げられている万葉仮名が、典拠となる書物とは異なっている例がある。さらに、典拠に「日本紀」と挙げられているのにもかかわらず、『日本書紀』中にその例が見出せないものもある。単純に「古書に基づく合理性」というだけでは済まされないのである。

『和字正濫鈔』における仮名遣の根拠は、古書のみに求められるわけではない。そこで、古書以外の根拠としての、漢字音反切について考察した。『和字正濫鈔』に見られる漢字音反切の中には、『和名類聚鈔』からの引用に付随した、仮名遣とは関係の無いものもあるが、『和名類聚鈔』からの引用でも、仮名遣の根拠となっているものもある。『和名類聚鈔』からの引用以外では、「玉篇」に依拠した、と明記してあるものがある。この「玉篇」は、原本系ではなく、『大広益会玉篇』であることを論証した。出典を明記せずに挙げられている反切も、調査の結果、『大広益会玉篇』によると見てよいことが判明した。

仮名遣の説明のために示された反切は、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」に関わる場合は、反切上字が五十音図上の行を決定する役割を果たしている。「中下のう」「中下のふ」すなわち語中・語尾の「う」「ふ」に関わる場合は、反切下字が「う」または「ふ」の仮名遣の根拠となっている。ただし、説明の中でそのように明記されているわけではない。何故これで仮名遣の根拠となり得るのかを知るためには、巻一を見る必要がある。

第二章では、『和字正濫鈔』巻二以降の記述を支える理論としての、巻一の検討を行った。巻一はただの衒学的な前置きではなく、巻二以降を理解するために欠かせない、『和字正濫鈔』の一部なのである。

『和字正濫鈔』の「五十音図」は、日本語のみについての図ではない。「五十音」とは、日本語のみに限定されない、普遍的な音の概念であったことを確認する。この普遍性の認識があったからこそ、「五十音図」は反切や相通の根拠となり得たのである。そこにあったのは「漢字音」や「日本語」の問題ではない。普遍的な音の論理である「五十音図」に基づいて考える、ということであった。

普遍音を表した「五十音図」に対し、「いろは字体」は、日本語の文字であるいろはを定義する役割を果たしている。ここでいろは四十七字が示されたことによって、書き分けるべき仮名が明確にされたのである。

また、いろはの元になった漢字とその音について示されていることに注目する。音は主として漢字音反切によって示されているが、その漢字音反切は、「五十音図」と合わせて理解されるべきものである。漢語音韻学の論理で考えれば、ア・ヤ・ワ三行の区別は、反切下字に関わる。介母音によるものであるが、『和字正濫鈔』においては、そのようにはなっていない。『和字正濫鈔』の漢字音反切は、「五十音図」の縦横の論理によって理解されるべきである。反切上字が「五十音図」の行、下字が段を決定するのである。

このような「五十音図」や「いろは字体」の論は、『和字正濫鈔』巻一の文脈において、どのように位置付けられているかを見る必要がある。我々の感覚では、音と文字の関係という問題ととらえられるが、『和字正濫鈔』巻一全体を検討することによって、これらは形・音・義、あるいは声・字・実相という三者の関係の中で見るべきであることを示した。

第三章では、このような『和字正濫鈔』の論を生み出した学問的基盤について考察した。すなわち、悉曇学の問題である。

契沖が浄厳『悉曇三密鈔』(天和二年(一六八二)刊)を参照し、その説をほぼそのまま取り入れていることは、周知の通りである。『悉曇三密鈔』の優陀那の論はさらに、空海『声字実相義』や、『大日経疏』『大日経義釈』等にさかのぼることができる。

「五十音図」についても、『悉曇三密鈔』に依拠していることを指摘できるが、『悉曇三密鈔』には「五十字」とある点が異なっている。

五十音図の類については、大矢透『音図及手習詞歌考』、山田孝雄『五十音圖の歴史』等の研究の蓄積がある。その起源や目的については、悉曇学、漢字音反切の研究、日本語の音を示したもの、といった説が並立しているが、縦五段・横十行の構造を最初に作ったのは、悉曇学者の明覚と考えられる。明覚は漢字音反切を求めるために音図を利用する一方、悉曇の「相通」を説明するためにも、縦横に配置された音図を掲げたり、日本語の例を持ち出したりした。明覚によって成立した音図のこのような性質が、『和字正濫鈔』の「五十音図」にも受け継がれているのだと考えられる。

このような音図は、梵・漢・和いずれの説明をするためにも用いることができる一方、いずれにも適合しない点を持つ。日本語では区別の無いはずのア行・ヤ行の「い」、ア行・ワ行の「う」に区別を与え、漢字音では韻の区別であるはずのア・ヤ・ワ行の区別を、頭子音の問題としてとらえさせてしまう。問題を抱えつつも、その汎用性の故に、五十音図は日本語の論理として受け入れられ、現在に至るまで用いられているのである。

このような学問的基盤の上に、『和字正濫鈔』は成り立っている。それを支える言語観の源は、空海『声字実相義』等に求められると思われるが、真言・梵語に価値を置く論を、和字の研究の正当化へと転換したのは、空海には見られないことであった。

本論文は以上のように、『和字正濫鈔』版本を対象としてとらえ、分析することによって、巻一も含めた全体として構成されていることを示した。非合理的に見える中世の学問の伝統を受け継ぎつつ、近世の新たな学問を拓いたところに、『和字正濫鈔』の意義はあったと言える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「『和字正濫抄』の学問史的意義」は、契沖『和字正濫抄』(五巻、元禄八年〈一六九五年〉刊)を、ひとつのテキストとして解析するものである。『和字正濫抄』は、歴史的仮名遣の基礎をつくったものとして国語学史のうえでの位置づけをあたえられている。とくに、古書に典拠をもとめ、仮名遣の規準をしめしたという実証性が高く評価され、仮名遣の書として扱われるのが通説であった。しかし、そうした評価にもかかわらず、この書自体に即して分析することは、いまだ十分なされているとはいえない。本論文は、『和字正濫抄』というテキストに対して、あらためて正面から立ち向かい、その正当なテキスト理解と学問史的位置づけをめざしたものである。

本論文は、序章、第一章「仮名遣の根拠――巻二~巻五の記述から」、第二章「『和字正濫抄』の方法――巻一の位置づけ」、第三章「『和字正濫抄』の学問的基盤」、「おわりに」から成る。その構成にしたがって概括すれば、序章で、研究史批判とともにみずからの立場をしめし、第一章では、巻二~巻五において、古書を根拠として仮名遣を定めたといわれるところを検証し、その問題点を掘り起こす。そして、仮名遣の根拠が古書のみでなく、理論にささえられるものでもあったことを明らかにし、第二章は、その理論としての巻一の検討をおこなう。主として、「五十音図」と「いろは字体」について検討するのであるが、それがどのような基盤から出るものであるかを問うとき、悉曇学を考えねばならないことにいたる。第三章は、基盤としての悉曇学を見、「おわりに」はまとめとなる。

本論文の特色は、『和字正濫抄』そのものを、全体として考察したことにある。従来、巻一をふくめて全体として考察することはなく、仮名遣を典拠にもとづいて実証的に定めたと評価してきたが、その典拠についても一々に検証したものはなかった。方法的検証もなく、全体理解はなされてこなかったといってよい。

本論文第一章は、すべての例について典拠を検討し、たとえば、「日本紀」としてあげられる中には傍訓にしかあらわれないものがあったり、その傍訓の仮名遣と見出し語が一致しないものさえあったりすることを明らかにした。さらに、漢字音反切を根拠とするものがあることを取り上げ、これも逐一検討して、その反切が『大広益会玉篇』であることをあきらかにした。そうした徹底的な具体的作業(方法的検証)にたって、契沖の「実証性」の本質にせまるのである。

すなわち、第二章は、漢字音反切が仮名遣の根拠となるのは、巻一の「五十音図」と結びつけてのことだという、『和字正濫抄』の方法を明確にした。反切の上字が「五十音図」上の行を決める役割をすることになるというやりかたなのであった。そして、そのようなやりかたを可能にする「五十音図」なるものが、日本語の音をあらわしたものではありえないことを明らかにする。最近の釘貫亨の研究でも古代日本語音声の復元をめざす日本語音声学という点で契沖を位置づけるが、「五十音図」は日本語のみならずすべての音、つまり、普遍的な音をあらわしたものと見るべきだというのである。「普遍的な音図」ということは、はやく馬淵和夫の指摘があるが、本論文は、挙例の一々の検討を経たうえで、『和字正濫抄』の方法の根幹としての「五十音図」を析出したのであった。これによって、問題の本質が、具体的に、かつ、クリアに示し出されたということができる。その普遍音の「五十音図」に対して、日本語の文字を「いろは字体」として定義するのであったととらえ、この理論の枠組みにたって仮名を書き分けるべきことが導かれたのだと論じる。

そして、第三章は、「五十音図」のもとにあるのは、悉曇学であり、縦五段・横十行の構造を最初につくった、天台僧の悉曇学者明覚の『悉曇要决』の音図の性格をうけついでいることを確認する。本論文は、こうして悉曇学という基盤にまで分け入ることとなった。契沖の学問基盤として、悉曇学のなかに分け入って、明覚の音図とのかかわりを明確にしたのは本論文の重要な成果と評価される。大学院入学後に、サンスクリット語を刻苦して学習した本論文筆者にしてはじめてなされえたこととして特記したい。

以上、序章に述べられたように、『和字正濫抄』の研究史においては巻一を含めた全体を理解し、その意義を考えることが欠けていたが、その批判にたって、この書の正当なテキスト理解を果たしたものとして本論文は高く評価される。

ただ、叙述においてより丁寧な説明が望まれるところがあり、第三章には踏み込みの点でやや物足りなさがのこるという指摘もあった。しかし、それらは本論文の価値を損なうものではないというのが審査委員の一致した評価であった。

したがって、審査委員会は全員一致して、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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