学位論文要旨



No 126332
著者(漢字) 三倉,康博
著者(英字)
著者(カナ) ミクラ,ヤスヒロ
標題(和) 初期近代スペインにおけるオスマン帝国の表象 : 16世紀半ばから17世紀半ばにかけて
標題(洋)
報告番号 126332
報告番号 甲26332
学位授与日 2010.07.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1014号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 竹村,文彦
 東京大学 教授 杉田,英明
 東京大学 教授 斎藤,文子
 東京大学 教授 鈴木,董
 筑波大学 准教授 宮,和夫
内容要旨 要旨を表示する

オスマン帝国をスペイン語で記述し,16世紀半ばから17世紀半ばにかけて出版ないし執筆された歴史記述的作品あるいは文学作品のなかから,7編の主要かつ代表的なテクストを取り上げて,歴史背景との関係,同時代の他のヨーロッパ諸国における同種の文献との比較を念頭に置きつつ,それら7編にみられるオスマン帝国の表象を分析することで,初期近代スペインにおけるオスマン帝国の表象の特色を,約1世紀という限定された時間の枠のなかで明らかにするのが,本論文の目的である.

本論文は「序説」「第I部」「第II部」「第III部」「結論」によって構成される.

「序説」においては,初期近代におけるスペインとオスマン帝国の関係に関する文化面からの研究が,スペインとイスラーム世界の関係史を論じるさいも,ヨーロッパにおけるオスマン帝国のイメージを論じるさいも,必ずしも重視されてこなかったこと,その不足を補う必要があることをまず指摘した.そのうえで,本研究にあたっての三つの視点を設定した.第一に,本論文が考察対象とする時間枠である,16世紀半ばから17世紀半ばにかけて,オスマン帝国が内外の各方面で経験した様々な変化が,スペイン作家たちのテクストにどのように反映されているか.第二に,それぞれの書き手とオスマン帝国のあいだの具体的な関係が,彼らの作品にどう反映されているか.第三に,同時代の他のヨーロッパ諸国で著されたオスマン帝国関連文献と比較して,スペイン語文献にどのような独自性がみられるか.

本論文の第I部では,7編のスペイン語テクストを歴史的コンテクストのなかで読み解くための前提となる,歴史背景を概述した.第II部と第III部では,「序説」で提示した三つの視点を意識しつつ,7編のスペイン語テクストを時代別に大きく二つのグループに分けて,それぞれのテクストにおけるオスマン帝国の表象のあり方を分析した.

第I部第1章では,オスマン帝国の発展,ヨーロッパ諸国そしてスペインにおけるオスマン帝国への関心の高まり,オスマン帝国を記述する様々な文献の出現という歴史背景について概観した.

第2章では,第II部・第III部でスペイン語諸テクストを分析するさい重要になる,同時代のヨーロッパ諸国におけるオスマン帝国関連文献の基本的特徴,特にオスマン帝国の表象にみられる,いくつかの定型的パターンを概観した.

第II部では,オスマン帝国においてスレイマン1世(大帝)が在位中であった16世紀中葉にスペイン語で書かれた,3編のテクストについて論じた.それぞれの作品に1章ずつをあてて,伝記的・書誌的事実を概述したあと,オスマン帝国の表象を分析した.

第1章では,印刷業者・作家バスコ・ディアス・タンコによるオスマン王朝史『忌まわしく残忍な民トルコ人に関し語られてきたことの集成』(1547年出版)を分析した.

第2章では,バレンシア人ビセンテ・ロカによるオスマン帝国に関する総合的事情報告『トルコ人の起源と数々の戦争の歴史』(1556年出版)を分析した.

第3章では,作者不詳のジャンル混淆的な対話篇『トルコへの旅』(1555-57年頃執筆)を分析した.

いずれの作品も,他言語(イタリア語など)による,先行するオスマン帝国関連文献に大きく依拠しつつ,過去から同時代にかけてのオスマン帝国を描いている.

バスコ・ディアス・タンコがスレイマン1世の治世前半までを描いているのに対し,ビセンテ・ロカおよび『トルコへの旅』の作者は,オスマン宮廷に混乱も生じていた治世後半にかけての時期も描いているが,オスマン帝国の繁栄と強大さを認め,スルタン専制のもとで効率的に統治される軍事国家と帝国を位置づけている点は,これら3作品に共通する.

いずれの作品も,同時代のヨーロッパに流布していた記述のパターンを踏襲しつつ,好意的な見方と否定的な見方をまじえてオスマン帝国を描いているが,それぞれの作品から浮かび上がるオスマン帝国のイメージには差異がある.特に『トルコへの旅』には,ヨーロッパそしてスペインへの強い批判精神の裏返しとして,オスマン帝国に対し好意的な見方を示している箇所が多い.とりわけ帝国の宗教的多元性に対する肯定的な見方は,ビセンテ・ロカと対照的である.

その一方で,スペイン帝国とオスマン帝国を対称的な,しかも宿命的な対立を運命づけられた二つの世界帝国とみなす意識,オスマン帝国と対峙するヨーロッパ・キリスト教世界のなかでスペインに特別な地位を与え,スペイン君主が主導する十字軍によるオスマン帝国打倒を期待する意識が,この三つの作品には共通してみられる.

第III部では,スレイマン1世没後,具体的には16世紀末から17世紀初頭にかけてのオスマン帝国を17世紀の前半に描いた4編のスペイン語テクストを,第II部と同様の方針で分析した.

第1章では,虜囚として,そして自由回復後はイスタンブルのフランス大使の保護を受けてオスマン帝国を実見した,シチリア出身の聖職者オタビオ・サピエンシアによるオスマン帝国事情報告『トルコに関する新論述』(1622年出版)を分析した.

第2章では,オスマン帝国中枢部を実見することのなかった二人の文学者による,イスタンブルを舞台としたフィクション文学作品,すなわちミゲル・デ・セルバンテスの戯曲「偉大なるスルタン妃」(1615年出版)およびロペ・デ・ベガの中編小説「名誉ゆえの不幸」(1624年出版)を分析した.

第3章では,イスタンブルで長期にわたる虜囚生活を送ったディエゴ・ガランによる回想録・事情報告『虜囚生活と苦難』(17世紀前半執筆)を分析した.

サピエンシア,セルバンテス,ロペ,ガランはいずれも,実体験を通して,あるいは二次的に得た情報を通して,様々な面でスレイマン1世の時代とは様相を異にするオスマン帝国の姿に直面した.この時期のオスマン帝国は対外戦争や内乱で疲弊し,スルタンが政治・軍事の第一線から退くなど,権力構造のあり方に変化が生じていた.また,ヨーロッパとの軍事的な関係は膠着状態に入り,スペインとの関係においても,1581年に休戦協定が成立し,対立が緩和されている.

こうしたなか,サピエンシアがオスマン帝国の「弱体化」を強調しているのに対し,他の3人の書き手にとっては,オスマン帝国はいまだ強大で繁栄を続ける帝国である.帝国の国内情勢を熟知していたサピエンシアが過去との比較を通して「弱体化」という結論にいたったのに対し,セルバンテスとロペは,ハレムのスペイン人女性に重要な役割を与えたそれぞれの作品のプロットに帝国の権力構造の変化を取り込んでいるものの,「弱体化」言説は受け入れていない.一方ガランは,イスタンブルに長期間滞在したものの,虜囚生活における様々な制約から,オスマン帝国の制度的な側面に関しては4人のなかで最も情報に乏しかったと思われ,彼のテクストは,大帝国を目撃し驚嘆した少年の素朴な印象をそのまま伝える傾向が強い.

サピエンシアとガランはオスマン帝国を実見した実体験者であるが,帝国やトルコ人,そしてイスラームに否定的な,既存のステレオタイプ的見方から自由ではなかった.そこには彼らの虜囚体験,そして彼らが帰国後直面した,自らのキリスト教的模範性の証明を求められる複雑な状況が影を落としていると考えられる.とりわけサピエンシアの見方は否定的で,オスマン帝国に学ぶべきものを見出そうとする姿勢が希薄である.またオスマン帝国の宗教的多元性については,両者とも否定的な見方を示している.それに対し,セルバンテスとロペはモリスコ追放問題という時代背景のなかで,スペインとの暗黙の対比を通し,オスマン帝国の宗教的多元性を強調している.

また,サピエンシアとガランが,少なくともレトリックのうえで,オスマン帝国をキリスト教世界の敵とみなしているのに対し,セルバンテスとロペの作品では,帝国に対する敵愾心は希薄になっている.ガランのテクストが16世紀中葉の作家たちと同様の敵対的な二大帝国意識をなおも維持しているのに対し,セルバンテスとロペの作品は,西土二大帝国という枠組みは継承しているものの,そこには融和的な姿勢がみられる.オスマン帝国そのもの,そしてヨーロッパおよびスペインとオスマン帝国の関係が変化するなかで,二大帝国意識に多様な意味づけが生じていたことが,そこにうかがえる.

以上の分析結果に基づき,「結論」にまとめたのは,次のような内容である.初期近代のスペインはヨーロッパにおけるオスマン帝国記述の先進地域ではなかったが,帝国の表象のあり方は複雑であり,そこではオスマン帝国をめぐる歴史的状況,個々の書き手とオスマン帝国の関係,個々の書き手のスペインへの視座が複雑に絡み合っている.本論文で扱った,16世紀半ばから17世紀半ばにかけての約1世紀という時間枠のなかでとりわけ注目すべき点を挙げれば,対称的なスペイン帝国とオスマン帝国という,スペイン作家に特徴的な二大帝国意識が継続しつつも,その意味づけに変化が生じていること,オスマン帝国の宗教的多元性について,16世紀においても17世紀においても,作家たちの見方が大きく分かれており,スペイン社会のあり方に対する個々の書き手の認識がそこに投影されていることである.

審査要旨 要旨を表示する

本論文『初期近代スペインにおけるオスマン帝国の表象――16世紀半ばから17世紀半ばにかけて――』は、副題に示された約一世紀の間にスペイン語で出版ないし執筆されたオスマン帝国をめぐる七つの作品に焦点を当て、スペイン語作家たちが当時のオスマン帝国をどう捉えていたか、またその捉え方が一世紀の間にどのように変化したかを考察したものである。取り上げられた七つの作品には、歴史記述的作品もフィクションの文学作品も含まれる。全体は「序説」と「結論」を別にすれば、「第I部」全二章、「第II部」全三章、「第III部」全三章の三部構成をとる。

問題の所在と研究の目的・方針を示した「序説」に続き、第I部「15―17世紀のヨーロッパおよびスペインにおける、オスマン帝国への関心」では、第II部以降で分析されるスペイン語テクストの比較対照項として、スペイン以外のヨーロッパ地域でオスマン帝国がどのように表象されていたのかが論じられる。オスマン帝国の強大化に伴い、ヨーロッパ諸国ではこの帝国への脅威と関心が高まったが、その情報集積・発信の中心地が当初はイタリアであったこと、16世紀中葉以降ハンガリー、フランス、フランドルなどの出身者の著作が現れるようになること、こうした著述家の中にはオスマン帝国を実際に訪れた者もいれば、帝国を見ることなしにさまざまな先行文献や情報を再編・加工した者もいたことなどが指摘され、さらにヨーロッパの著述家たちは、オスマン帝国とトルコ人について、軍隊の勇猛さ、刑罰の過酷さ、能力優先主義(メリトクラシー)、宗教上の多元性ないし寛容さ、信心深さ、勤勉さ、イスラーム信仰への批判、暴力性・残酷さ、文化・学術上の停滞といった事柄を共通して記述していたことが明らかにされる。

第II部「スレイマン1世(大帝)時代のオスマン帝国とスペイン作家たち――二大帝国の対峙の中で」では、スレイマン1世在位中の16世紀中葉にスペイン語で書かれた三つの作品が、それぞれ一章を費やして分析される。その三作品とはすなわち、バスコ・ディアス・タンコ・デ・フレヘナルのオスマン王朝史『忌まわしく残忍な民トルコ人に関して語られてきたことの集成』(1547)、ビセンテ・ロカのオスマン帝国事情報告『トルコ人の起源と数々の戦争の歴史』(1556)、およびジャンル混淆的な対話篇で作者不詳の『トルコへの旅』(1555-57頃執筆)である。分析の結果、三作品に共通して見られる要素として、いずれの作品もオスマン帝国を描いた先行文献に相当程度依拠していること、スルタンが専制的に支配するオスマン帝国の軍事力やその他いくつかの長所を認めたうえで、トルコ人を文明とは相容れない暴力と破壊の民、ヨーロッパが打ち負かすべき敵と見なしていること、新大陸にまで領土を獲得した当時のスペインとオスマン帝国を世界に並び立つ二大帝国と捉え、オスマン帝国との戦いにおける特別な役割をスペイン国王とその軍隊に与えていること、などが導き出される。一方、三作の間、ことにビセンテ・ロカの『歴史』と『トルコへの旅』の間には顕著な相違点もあることが指摘される。すなわち、『トルコへの旅』ではトルコ人の信仰、倫理、社会生活に関して、ビセンテ・ロカの作よりも好意的な見方が目立ち、宗教上の寛容さが浮き彫りにされる。対して、ビセンテ・ロカの作ではキリスト教を抑圧するイスラーム教徒の姿が徹底的に強調されている、という指摘である。『トルコの旅』でトルコ人が肯定的に評価されている点に、三倉氏はヨーロッパの偏狭なキリスト教社会に対する作者の間接的な批判を読み取り、この批判をエラスムス思想と関連づけている。

第III部「変容するオスマン帝国とスペイン作家たち」では、スレイマン1世以降の時代、16世紀末から17世紀前半にかけてスペイン語で著された四つのオスマン帝国関連作品が検討される。スレイマン1世の治世が終わるとオスマン帝国の政治的実権は、スルタンから軍人政治家やハレムの女性たちの手に移り、この帝国はペルシアとの戦争や国内の反乱に疲弊し、ヨーロッパに対する軍事的脅威ではなくなってゆく。こうした帝国の変容が、取り上げられた四つの作品に相異なる形で反映していることを三倉氏は示す。具体的には、オタビオ・サピエンシアの事情報告『トルコに関する新論述』(1622)では、軍隊の衰退ぶりや官僚の腐敗が描かれ、帝国の「弱体化」が強調されていること、ミゲル・デ・セルバンテスの戯曲「偉大なるスルタン妃」(1616)とロペ・デ・ベガの中編小説「名誉ゆえの不幸」(1624)では、オスマン帝国は強大さと繁栄を維持しているものの、スルタンを意のままに操る寵妃が登場し、帝国の権力構造における変化が示唆されること、そして、無学な少年の率直な印象を伝えるディエゴ・ガラン・エスコバルの回想録『虜囚生活と苦難』(1626-48頃執筆)では、オスマン帝国とスルタンは16世紀と同様の権勢と威力を誇っていること、このような点が明らかにされる。異教に対するこの帝国の態度に関しては、オタビオ・サピエンシアとディエゴ・ガランが不寛容や抑圧を強調するのに対し、セルバンテスとロペ・デ・ベガはキリスト教徒を受け入れる開放的な社会を描き、モリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)を追放した当時の閉鎖的なスペインと対比している、という主張がなされる。また、スペインとオスマン帝国を世界の二大帝国と捉える発想については、シチリア出身のサピエンシアを除く三者がこれを共有したが、セルバンテスとロペ・デ・ベガには融和的な姿勢が窺われて、もはや敵愾心が失せていることが論じられ、16世紀の著述家たちとの違いが明確にされる。

ここまでの議論を踏まえつつ、「結論」では以下の点が確認される。すなわち、オスマン帝国の変容をスペイン語作家たちがさまざまな形で映し出していること、個々の書き手のオスマン帝国との関係や価値観が、この帝国の諸相に評価を下すうえで大きくかかわっていること、スペイン作家に特徴的な要素として、スペインとオスマン帝国を二大帝国と捉える意識があること、である。

本論文の意義は、次の三点にまとめられる。

第一に、本論文が、本格的な研究が始まってからまだ日の浅い領域に踏み込み、従来の研究の欠落を補っている点である。初期近代のスペインとオスマン帝国の関係は、政治面・軍事面に関してはそれなりに重要な研究対象となってきたものの、オスマン帝国が当時のスペイン人にどのように認識され、文書の中に表象されていたのかといった問題は、等閑に付されてきた。これまでになされた少数の研究はいずれも、オスマン帝国について記述したスペイン語文献を網羅的に列挙しただけのものであり、いくつかの作品を厳選したうえでその構造や細部を綿密に分析するという三倉氏の手法とは違う行き方を採っている。その意味で、本論文は国際的な観点からも、この研究領域の最先端に位置していると評価できる。

第二に、本論文がスペイン語で執筆されたオスマン帝国関連作品のみならず、同じ時代に他のヨーロッパ諸語で書かれた同種の作品にまで分析の対象を広げ、これらとの比較においてスペイン語作品の特色を明らかにし得た点である。こうした達成は、多言語にわたる卓抜した語学力をもって初めて可能となるが、実際本論文では、16世紀の大部で難解なイタリア語文献、フランス語文献をはじめ、現地の図書館や書店で蒐集された膨大な写本資料、刊本資料が丹念に読み込まれ、存分に活用されている。原文の引用が、達意で正確な日本語に訳されているのは言うまでもない。

第三に、本論文が文学研究に歴史研究を接続する意欲的な試みであるという点である。本論文ではセルバンテスやロペ・デ・ベガといったスペインの文豪のフィクション的な作品が何点か扱われ、文学的な読解が施されているが、その一方でブローデルなどの歴史研究の成果が随所に取り入れられ、そうした読解の支えとなっている。本論文で得られた知見は、歴史研究への貴重な貢献ともなるものである。

一方、審査の席上ではいくつかの問題点も指摘された。第一に、「結論」部分が各章で述べられた事柄のまとめに終始しており、それらを改めて整理・統合し、より高い次元の結論に導く努力が不足していたこと。第二に、引用されたテクストに対する執筆者の注解や評価が必ずしも充分ではないこと。第三に、ヨーロッパ世界対オスマン帝国という国際関係の中にスペインの事例を位置づける巨視的な観点が欲しかったこと、である。しかしこれらの問題点は、本論文の画期的な価値を損なうものではない。

したがって、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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