学位論文要旨



No 126333
著者(漢字) 石井,弓
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,ユミ
標題(和) 記憶としての日中戦争 : インタビューによる他者理解の可能性
標題(洋)
報告番号 126333
報告番号 甲26333
学位授与日 2010.07.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1015号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 代田,智明
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 教授 管,豊
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 東京外語大学 教授 岩崎,稔
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、中国人の戦争記憶について論じる試みである。特に、戦後世代の人々が、戦争をあたかも体験したかのように語るとは、如何なる記憶のありようなのか、また、それを如何にして理解することができるかについて検討している。

歴史学をはじめとする学問が、近代化や科学化を推し進めてきた結果、科学的な論理によっては捉えきれない事象が取りこぼされることに、人々は気付きつつある。そうした問題は、C・ランズマンによる映画『ショアー』が、虐殺を生き残った人々に過去を語らせることで、記憶の現在を描いたように、歴史学とは異なる分野から提示されてきた。本研究で焦点化する中国でもまた、「南京事件」の死者数を巡る実証的研究に対して異議が唱えられている。「南京事件」は中国人にとって「感情記憶」(中国社会科学院・孫歌)であるため、実証主義歴史学によっては捉えきれない記憶なのであると、主張されているのである。

日中戦争はこれまで、歴史学的に如何にそれを正確に再現するかに力が注がれてきた。だがそれとは別の次元で、戦争は記憶として保持され、2004年のサッカーアジアカップでの暴動や、2005年の日本製品不買運動、そして2008年の四川大地震での自衛隊派遣問題などにおいて表面化している。この感情的とも思える行動こそが、日中間の現実的問題を左右しているにも拘らず、史料実証を積み重ねる学問的探索のみによっては、この現象を説明することができないのである。一方、記憶を社会的要因によって構築されるものと捉える構築主義的研究によってもまた、この問いに十分な答えを与えることができない。それらは記憶を扱いながらも、その焦点は記憶を形成する社会性にあり、例えば、絵画、銅像、博物館の展示などが分析対象となっている。即ち、記憶や記憶する主体から外在化された事象を取扱っており、人々がなぜそのように記憶したのかについては、論じていないのである。

本研究はこれに対し、記憶する側の条件を理解するため、フィールド・ワークと文献資料の双方の視点から記憶を分析していく。論の構成は、分析対象を国家、地域、村、村の中の出来事へと順に収斂させていく構成をとり、それによって近代的な国民国家の中で抽象的概念によって共有されている過去が、農村という顔の見える実体的なコミュニティーではどのように記憶され、共有されているかを考えていく。これは、抽象性にとらわれない議論のあり方を見出すための構成である。また、記憶する一人ひとりに近づいていくことで、中国人の戦争記憶の実態を、記憶する側の視点から理解することを試みると同時に、「記憶」という捉え難い対象をどのように論じられるのかという方法をも探求している。

各章では次のように論を展開している。

第1章では、記憶をどう捉えるべきか、また、中国の戦争記憶がどのような特徴を持っているかを論じる。ある一定のコミュニティーによって記憶が形成され保持されるとするM・アルヴァックスの「集合的記憶」論や構築主義的視点の導入によって、記憶研究は学問的な広がりを見せてきた。しかし、「感情記憶」が表現した戦争の記憶は、主体性を抜きにしては語り得ないものであり、なおかつその主体性を構築主義的に解体することをも拒むものであった。その一方で、その記憶は個人の直接経験によるものとは限らず、多様な社会的要因によっても形成されると主張される。ここから、中国における戦争記憶の「集合的記憶」を、「感情記憶」に示された複雑な主体性と社会性に留意しつつ、論じる方向性を提示する。

第2章では、戦争記憶を、まずは社会的表象の側面から捉える。史料として主に『人民日報』記事を用い、戦後中国国内で行われた三つの思想政治教育運動である「訴苦」、「四史」、「憶苦思甜」を分析対象として取り上げ、公的戦争表象の記憶化の問題を論じる。『人民日報』記述の変遷より、上から与えられる戦争表象自体も、時間の経過やそれに伴う人々の意識の変化を吸収して変化してきたことが明らかになる。そして、中国において国民国家の勝利の物語として位置付けられてきた戦争が、90年代以降、如何にして被害の記憶に寄り添い、性暴力被害者が「幸存者」(サバイバー)としてカムアウトする土台が形成されてきたのかを論じる。

第3章から第5章にかけては、フィールド・ワークと文献資料によって調査地域における記憶の共有を論じている。山西省盂県の32村及び盂県城と太原市で行った延べ175名に対するインタビューが、3つの章の主な資料となっている。各章は記憶を分析する切り口によって分けられる。第3章では、戦争の視覚イメージから記憶を論じる。聞き取り調査より、村人たちが広い地域で世代を超えて同じ戦争の夢を見ていることが分かった。彼らがなぜ同じ夢を見るようになったのか、その視覚イメージは何によって形成されたものなのかを分析することを通して、記憶の共有過程を明らかにする。夢は露天映画上映に触発されて見られていた。しかし、そのストーリーは、老人たちの話す「無人区」(日本軍が設置した共産党軍との緩衝地帯で、村人はその地域から移住することを強制された)の経験に由来することを、調査より突き止めていく。また、記憶の共有が、集団農業という特殊なコミュニティーのあり方と如何に関係しているのかを論じる。

第4章では、地域で共有される素朴な歌である「順口溜(シュンコウリュウ)」から、村における戦争の語りを分析する。「順口溜」は出来事に託して自らの気持を歌う短い歌で、文字に記録されることは極めて少ない。だが、それらの一部は100年前から伝わり、今も記憶されている。ひとつの「順口溜」が共有されることは、歌い手の気持に人々が共鳴していることを意味し、村の語りとそれによって形成された「集合的記憶」を、この歌の中に捉えることができる。村で起こった戦争中の虐殺事件を歌う「順口溜」には、ひとつの歌の中に、通時的、共時的多様性が歌い込まれ、多様なできごとがひとつの過去を表すのに矛盾なく組み合わさって表現されていた。また、多くの「順口溜」に共通するテーマとして村の秩序の破壊が歌い込まれていることが見えてきた。村人たちにとってひとつの出来事の記憶は、様々な要因によって重層的に構成されており、また、戦争は、単に命や物を奪われるだけでなく、生活の場の秩序を破壊する行為として記憶されていることが、ここから分析される。

第5章では、ひとつの「順口溜」の伝達過程での変化を手がかりに、語りが如何に記憶化されるのかを考察する。歌の変化から、村人たちが過去の被害をむしろ自戒的に記憶していることが分かる。村で過去が語り継がれるのは、村の存在を証明するためであり、村人は村の人間関係の中に自らを位置付けることで、自らの存在を確認する。このため、戦争の過去はひとつの教訓として正確に伝えられなければならない。また、村人たちは世代意識によって過去を認識する。そこでは、自らと過去は地続きのものとして捉えられ、あたかも経験したかのように過去を語ることが、むしろ自然な行為なのである。「順口溜」が伝える過去は、こうして村人たちによって自らの記憶として歌い継がれていることが明らかになっていく。

本研究を通して得られた論点は次の通りである。第一に、記憶の研究手法にインタビューを採用したことで、他者の記憶を取り出して論じるのではなく、自ら他者の文脈に入って考える方向に論が転換した。それによって、第3章で論じた戦争の夢や、第4章及び第5章で論じた「順口溜」が見出され、それらを入口とすることで、語り手と聞き手の関係性を出来る限り離れて、記憶する側の視点から記憶を論じることが可能になったと考えられる。

第二に、過去を時間軸に沿って整理する歴史とは異なる記憶の構造を明らかにした。第2章では思想政治教育運動によって語られた戦争の記憶が、国家の戦争イメージに編みあげられていく過程を論じたが、それらは国の正史として書かれたものであった。しかしながら、村落コミュニティーでは、国家の歴史からは自律した村の戦争の過去が、意識的に語り継がれていた。それは、共時的多様性と通時的多様性が矛盾なく組み合わされたひとつの世界観を形づくっており、村人たちはその世界観の中に自己を位置づけることで、自己の存在を確認するのである。村人にとって、過去は必ずしも時間の流れに規定されない様々な出来事の集積として、立体的に記憶されていることが分かる。

第三に、コミュニティー再生産の動的流れの中に人々の記憶を捉えた。村落コミュニティーにおいて記憶は、同じことの繰り返しである日常と、その中で発生した非日常との循環構造によって維持されている。村の日常は多様なルールによって決められており、そのルールからはみ出した出来事が「順口溜」に歌われることによって、逆にルールが守られる。過去が記憶され続けるのは、そのような循環構造が絶えず動的に成り立っているからこそであり、この意味で、記憶はコミュニティーと繋がっていると考えられる。過去の記憶は村人たちにとって村の存在や自己を規定する繋がりの中にあるものであり、このため、一人ひとりの村人は過去を自らの記憶と感じる。外在的社会的要因によっては語りえないもの、それはこのようなコミュニティーや人間関係の中で感得される過去のありようであろう。そしてこれこそが、孫歌が語ろうとして語り得なかった「感情記憶」の原型であろうと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国におけるある農村の日中戦争の記憶を探ることによって、中国人の日中戦争に対する歴史的感情の実態と継承のモメントを明らかにするとともに、聞き取り調査による他者理解を通して、対象を観察するインタビュアー自身が変化する経緯を、自覚的に描いたものである。このことによって、後に述べる「客観性」をめぐるアカデミズムの規範に対して、スリリングな刺激を与えるという問題提起がなされ、新しい領野を開拓し、学際的たらんとする、いかにも「地域文化研究」の魅力と可能性を感じさせる論文となった。

論文のモチーフは、著者が学部学生時代、中国に留学していた際、中国人学生から日中戦争に対して、日本人として態度表明を強要されたことに端を発している。戦争を実際に体験していない中国人学生が、その体験を自らのもののようにして、これまた戦争を体験していない若い日本人を批判できる心的機制は、どのようにして可能なのか、体験者の記憶はどのように伝達されていくのか。これを論理的に解明したいという素樸な疑問から本論文は出発している。本論はその疑問を、現在の国民国家体制の枠組みのなかで完全に解き明かしたとは言えないが、僻地の農村における聞き取り調査を通して、記憶の継承関係のいくつかの要素を取り出すことに成功し、そのなかに、中国研究からすると衝撃的な事実が発見されている。と同時にその記憶の継承が、中国的な共同体の形成と継承とに深く関わっていることを提示し、従来の中国農村共同体論に対しても、新たな貢献を果たしていると言えよう。また、後に触れる記憶論についても、論壇で提示されたときはいささか曖昧であった「感情記憶」という概念を、より豊富で、概括性のあるものに拡げる可能性を提示しており、中国知識人から提起されたこの概念に対して、日本側として正面から向き合った議論として高く評価できる。以下各章に従って、本論文の概要を示しておきたい。

第1章は「記憶について」と題され、近年の記憶論の概略を整理した。著者はアルヴァックスなどの議論に拠りながら、記憶が歴史とは異なる形で生まれ、継承されるものであることを証明し、とりわけこれらの構造主義的議論が、社会構築主義的な面で有効性をもったこと、モニュメントや国家的イベントによって、事件が集団的記憶として形成されるプロセスを解明した点を評価した。しかし一方でこうした議論が、記憶する主体自身を軽視し、彼ら1人ひとりがどのようにそうした擬似的な過去を記憶していくのか、という点の解明がおろそかにされたとする。ここで少し前に、中国の人文学研究者、孫歌や戴錦華がある座談会で提起し、論壇で話題になった「感情記憶」論が取り出される。「感情記憶」とは、たとえば南京虐殺をめぐる死者数について、「三十万人」という数に疑問をもつことは、歴史的実証性とは別の次元で、中国人としては許容できず、この数を否定することは「肌を切られる」痛みの感覚(これを感情記憶という)をもつと孫と戴は述べた。これに対して、日本側の論者は集団記憶に重点をおいて、あまり理解を示さなかったし、孫や戴自身も、他人の感情的意識や国民あるいは人民の記憶という形でしか提示せず、自分自身の主体としての記憶を回避した結果、より深い議論に入ることができなかったとしている。このため、著者は1人ひとりがどのように記憶を保持したのか、という観点から、この問題にアプローチしようとした。

第2章は「中国における戦争記憶の変遷」と題され、1949年以降、人民共和国の「公的記憶」の変遷を整理し、50年代から70年代にかけて、日中戦争が国家レベルでどのように表象されていったかを『人民日報』のデータベースを使って提示した。公的記憶では、被害の表象はほとんど現れず、「勝利の記録」であったが、80年代になって「性暴力被害」が国際問題になるにつれて、被害のイメージが表出されてくる。一方この間、被害の記憶は公的記憶に抑圧されたかのようであったが、農村では「訴苦」「四史」の編成、「憶苦思甜」(過去の辛さを思い出し、現在の幸せを確認する運動)など繰り返される「政治運動」のなかで、共産党の指導のもとであったが、戦争を含めた過去の体験者の語る場が提供され、それが社会主義的な農業集団化のなか、村落共同体において、むしろ戦争記憶の形成の基礎を作ったとしている。

第3章は「日中戦争の記憶と視覚イメージ」。ここから、著者がある期間滞在し、聞き取り調査を行った山西省盂県における具体的叙述が展開される。この村落の地域は、南に日本軍が拠点をつくるなか、共産党の移動政府を受け入れつつ、山西省に基盤を置く閻錫山軍にも対応するという複雑な地域であった。まずは戦争を体験しない農民が、いかにして体験者の戦争記憶を受け取ったかを映像イメージを通して分析している。60年代に農村では、農業集団化が進められる一方、共産党の宣伝政策として、村むらを巡回する露天映画の上映などが頻繁に行われた。ここで上映された映画の内容は、八路軍がゲリラ戦で日本軍を翻弄し、打ち破るストーリーであったが、戦争未体験の人びとは、映画を見たその晩に、日本軍に追跡される恐怖感に満ちた「夢」を見る点で共通性があることが判明した。これについて、多くの農民は、父祖の語る日中戦争の悲劇的な物語や日本兵の恐さが、それまではイメージとして明確でなかったが、映像によって具象化できたことを共通して語っている。勝利の映像が、父祖の共同体的な語りを受け止めようとする潜在意識によって、恐怖のイメージに転換するいきさつがここに語られている。

第4章は「戦争の語りの分析――「順口溜」から語りの分析の広がりを読む」と題され、農村における記憶伝承のメディアとして、一種の謡いのような物語が伝わっていることに注目した。「順口溜」は、常軌を逸脱した何らか事件が村に発生すると、個個の歌い手によって作成され、事件の衝撃性とできのよさによって、時間的空間的拡がりをもち、百年以上近辺の村むらで歌い継がれたり、新しい事件が挟み込まれたりする。これは現在でも、都市部のネット社会で媒体として使われているが、その場合も風刺性が強いものである。農村では土地革命以来のさまざまな政治的事件に対し、農民の心情をひそかに謡い込んで、当時の共産党の政策にひややかな眼差しを向けたものもある。それを直接的に表現せず、重層化した意味性と音声という非文字の媒体によって、事件の記憶を伝達してきたと著者は指摘する。ここで著者は、日中戦争に関係するものとして、「劉根徳探親」という順口溜をとりあげ、これをかなり完全な形で文字化することに成功した。ここでも時間は歴史のように一方向ではなく、事件は重層的立体的に組み込まれ、娘婿を頼って他村を訪れる旅行譚に、共産党の土地革命への不満とともに、日本軍による虐殺事件が挟み込まれる形になっている。1944年に起きた虐殺事件(趙家荘惨案)は、村のある青年が、日本に協力する中国人部隊とともに日本軍を村に引き入れ、見張り番の村人が居眠りをしていたこともあって、共産党の協力村と思われた村の人びとを片端から水溜に溺死させた事件であった。導き入れた青年については、聞き取りに対して、八路軍の徴用に応じて村から差し出した(共産党に入党させた)もので、厳しい軍隊生活に耐えられず日本軍に寝返ったから、彼が悪いのではないという意向が、村の長老などから聞かれたという。ある意味で村の恥辱というべき事態を、順口溜に謡い込み、かつ漢奸(コラボレ-ター、彼はのちに処刑された)というべき裏切り者を悪く言わないところに、中国農村の共同体的な紐帯が窺われ、かつ村の損害を教訓として伝えようという強い意志が感じとれると指摘する。

第5章「記憶される語り」は、第4章でまとめられた資料をもとに、地方政府や公的記録と比較対照することで、順口溜の複雑な位置を確認し、語りの伝承と記録される歴史との架橋される地点を探っている。「県誌」のような公的歴史と、それ以前に収集された地方政府による口述記録などを調査し、それがインタビューの語りなどとどの程度距離をもっているかを、共同体の内在的視点のありかたとして分析した。また外の村に嫁した村の女性が、外部の者にも理解できる形で事件を反省的に語る場合があるところに、事件を対象的に取り出し、客体化する「歴史」的視点の萌芽があるとしている。さらに「劉根徳探親」が地域や時代によって変化してきたことを指摘し、「憶苦思甜」などの政府からの政策と、それに対応利用した村落の記憶保持との絡まった関係を分析している。この順口溜が、裏切り者であるはずの青年の鎮魂の(祟りを鎮める)意味と、村の記憶を伝承することで、村に属していることをつねに確認しようというアイデンティティ確認の意識があると指摘している。

終章では、記憶を研究する意味とその方法が述べられ、他者理解とりわけ記憶の理解には、外在的な観察者としてではなく、村人1人ひとりの記憶に接する内在的な視点が必要であり、そのことはこの研究過程で、論者自身の体験として語られてくる。そうすることで、初めて村落共同体における記憶を、あたかも対象として材料のように取り出すのではなく、共同体内部に包摂された「個」の記憶として、感情記憶に類したものとして考えることが可能になるという。それは近代的な「個」という概念をもう一度考え直すことにも繋がるだろうと締めくくっている。

審査委員会においては、この論文が発見したいくつかの事象および課題と分析を高く評価しつつ、しかし検討すべきいくつかの問題もあることを確認した。第1に、記憶論ではアルバックス以降に、社会構築主義的な議論だけでない展開もある点が見逃されていること。第2に、記憶を扱う上で「夢」に関する理論的枠組みが提示されていないこと。第3に、記憶にアプローチする意味で、第3章(映像)と第4章以降(順口溜)のふたつのアプローチの関連性が論理構成上はっきりしていないこと。また大きな問題として、著者自身が聞き取りの過程で、自らの立ち位置を変化させており、村人の記憶とともに著者の体験記にもなっていること。そのため学問的客観性に欠ける面があり、したがって対象化して批評することが不可能な部分を産み出してしまったこと。さらには、盂県という1地域に限定された事象を、中国という地域に無前提に拡大するのは危険ではないか、という指摘もあった。最後の2点は、大きな課題として残るが、フィールドによる研究の長所と短所でもあり、また審査委員会内部でも、著者自身の個人史的叙述がもつ「説得力」に、むしろ評価を与える意見もあった。本論文の成果そのものが、歴史学やオーラル・ヒストリー、記憶論に対する問題提起であると受け止め、著者はもとより審査委員も含めて、今後考察すべき論点を、本論文が析出したことは、逆にその画期的価値を証明しているとも言えるだろう。また記憶論に対する貢献として、「感情記憶」というややジャーナリスティックな概念に、学問的に正面から取り組んだ点で大きな価値が認められる。さらに中国研究としては、コラボレ-ター(漢奸)に対して共同体的な立場から擁護する発言を記述するなど、共産党支配下における民衆の赤裸々な意識と記憶を提示したことは、十分に衝撃的であり、この部分だけでも成果としては高く評価されるべきである。

もとより叙述にはやや稚拙な面があり、論理的枠組みもこれから補充すべき点が多々あると言えるけれども、審査委員会としては、以上の欠点あるいは問題点が、本論文に博士号を与えるのに支障があるとは判断できず、むしろ新たな領野を開く可能性を秘めたものとして高く評価し、全員一致で、博士号(学術)を与えるに値すると結論した。(代田記)

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