学位論文要旨



No 126344
著者(漢字) 大谷,弘
著者(英字)
著者(カナ) オオタニ,ヒロシ
標題(和) ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義
標題(洋)
報告番号 126344
報告番号 甲26344
学位授与日 2010.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第772号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 教授 榊原,哲也
 東京大学 准教授 鈴木,泉
 東京大学 教授 野矢,茂樹
 青山学院大学 教授 入不二,基義
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、『哲学探究』を中心とする後期ウィトゲンシュタインの言葉の意味についての見解を検討し、それを通して、後期ウィトゲンシュタインが「哲学」というものをどのような営みとして捉えていたのかということを明らかにする試みである。後期のウィトゲンシュタインは、言葉の「意味」を考えるに当たって、「使用」に注目することを重視する。しかし、ウィトゲンシュタインが「使用」ということで何を考え、また、言葉の意味と使用の関係をどのように考えていたのかは、必ずしも明らかではない。この問題についての従来の解釈は、大きく二つに分かれる。一つは、言葉の意味にとって本質的な使用の特徴を同定し、それに基づく哲学的な「意味の使用説」をウィトゲンシュタインに帰す解釈である。この方向での解釈は、「使用」を証明や検証という概念と同化し、構成主義者としてウィトゲンシュタインを描く者、あるいは決断や決定という概念と「使用」を結び付け、より過激な構成主義や規約主義をウィトゲンシュタインに帰す者、「使用」を「共同体の振る舞いと一致する話者の振る舞い」と捉え、ウィトゲンシュタインが「共同体説」を提示していると考える者、更には、「使用」を話者の振る舞いの自然な傾向性とし、自然主義的な立場をウィトゲンシュタインに帰す者など、実に様々なウィトゲンシュタイン像を生み出してきた。だが、この種の解釈は、大きな問題を抱えている。それは、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』などにおいて、哲学的テーゼに対して否定的なコメントを与えていることと、「使用説」のような哲学的理論、テーゼをウィトゲンシュタインに帰すことは折り合わないという問題である。

この第一の方向での解釈に対し、第二の解釈は、使用概念と意味概念の概念的連関を明らかにするという「連関分析」をウィトゲンシュタインが行っているとする。この第二の解釈は、ウィトゲンシュタインに使用説のような哲学的理論を帰すことを否定し、ウィトゲンシュタインが行っているのは、意味概念と使用概念の結び付きについての概念的主張のみであるとする。

しかし、この第二の解釈にも問題が存在する。それは、言葉の使用の現場を離れた、例えば意味概念と使用概念の結び付きについての概念的主張をウィトゲンシュタインに帰すことはできないという問題である。『哲学探究』において、ウィトゲンシュタインは、概念なるものが言葉から離れて、例えば心の中にあるという描像を厳しく批判している。だが、そうだとすると、「意味概念と使用概念の結び付き」とは、結局のところ、「意味」や「使用」といった言葉を我々が使用する仕方の中にしか存在し得ない。そして、無限に多様でありうる使用の現場を哲学者が先取りして何らかの概念的主張を行えると考えることは、第一の解釈と同様に、ウィトゲンシュタインに独断的なテーゼを帰す結果をもたらすものである。従って、第一の解釈も第二の解釈も同様に受け入れがたい。

これらに対し、本稿の提示する解釈は、ウィトゲンシュタインの言葉の使用への言及は、言葉の使用の現場における言葉の働きに徹底して注目することで特定の哲学的混乱を取り除くといういわば方法論的な方針に基づく、とするものである。それは、哲学的な主張ではなく、いわば後期ウィトゲンシュタイン哲学のライトモチーフなのである。

ここで重要なのは、ウィトゲンシュタインの言葉も例外ではなく、また言語実践の中に適切に位置付けられていなければならないということである。多くの解釈者が認めるように、ウィトゲンシュタインは、哲学者の言葉に使用を持たない、従って、重要な意味でナンセンスである言葉が多くあると考えていた。しかし、ウィトゲンシュタインは、哲学者の言葉に対し、特権的な位置から、それが「ナンセンスだ」と決め付けていたわけではない。もしそのようなことを行っていたのだとしたら、ウィトゲンシュタインは、「有意味」や「ナンセンス」という言葉を、それが使用される現場を離れて発してしまっており、従って、言葉が使用される現場に徹底して注目するという先の方法論的方針を自ら裏切っていたということになる。だが、『哲学探究』のテキストを丁寧に見ると、ウィトゲンシュタインは、哲学者の言葉を独断的に「ナンセンスだ」と宣告してなどいない。ウィトゲンシュタインがそこで行っているのは、哲学者の言葉を明確にするよう、意味の説明を求め、また、自らもありうる意味の説明を与えるという日常的な営みである。ウィトゲンシュタインは、この日常的営みを通して、哲学者の言葉が哲学者の意図していたようなことを意味することに成功していないということを示そうとしているのである。ウィトゲンシュタイン哲学は、この日常的な営みを通していつでも形而上学的幻想を払いのけ、世界の正しい見方を手に入れることを可能とするような指針を与える哲学なのである。

以上の点を受けて、以下では本稿の内容を各章ごとに説明する。まず序論においては、ウィトゲンシュタインの方法論を論じた。ウィトゲンシュタインによると、哲学者たちは自身の口にする言葉にこだわり、その使用の現場の詳細に目をやることなく、それが哲学的理論へと精緻化されるべき真正の洞察や、哲学的理論により答えられるべき現実の問いを発していると考えてしまう。このような哲学者たちに対し、ウィトゲンシュタインの用いる方法は、彼らの口にする言葉がどのような使用の現場に位置付いているのかを明らかにするよう徹底して求めるという方法である。ウィトゲンシュタインは、その際、特権的な位置から哲学者の言葉を「ナンセンスだ」と宣告したりはせず、意味の説明を求め、また与えるという日常的な方法を徹底して用いているのである。

一章では、前期ウィトゲンシュタイン哲学を代表する著作である『論理哲学論考』を後期の先行者という観点から検討した。それによると、『論理哲学論考』は、「言葉は実在の世界について語ることで意味を得る」という実在論的な発想に支配されているという点で、後期の哲学とは決定的に異なる要素を持つものの、言葉の意味や理解、すなわち思考が、言語使用と内的に分離不可能な仕方で結び付いていなければならないという点を認識している点で後期哲学と連続的である。

続く二章と三章では、後期ウィトゲンシュタインの言語哲学を説明する。まず二章では、ウィトゲンシュタインの言葉の使用への注目は、哲学的な「意味の使用説」を提示するといった目的によるのではなく、言葉が使用される現場に徹底して注目するという、いわばウィトゲンシュタインのライトモチーフに基づくと論じ、またそれに関連して、『哲学探究』における言葉の「理解」を巡るウィトゲンシュタインの議論を検討した。そして、三章では、ウィトゲンシュタインの規則の問題についての議論を検討し、ウィトゲンシュタインはそこで適切な言語使用が何物かにより「決定される」という観念についての混乱を扱っている、ということを明らかにする。また、この規則の問題と関連して、言葉の意味の説明についてのウィトゲンシュタインの見解から「使用の分類原理としての意味」という「意味」についての積極的な特徴付けを引き出し、ここに現代の証明論的意味論者の見解との共通性が存在することを指摘する。

四章では、ウィトゲンシュタインの「実在」や「真理」といった観念についての見解を見る。まず、ウィトゲンシュタインに真理のデフレ理論を帰す解釈を否定し、ウィトゲンシュタインが反対しているのは、真理の対応説に見られるような、我々の生活と実在や現実といったものを対比する発想であり、真理概念自体ではないということを明らかにする。ウィトゲンシュタインにとっては、言語使用の現場とは、我々が言葉を用いる生活の現場であり、ここを離れて命題の真偽を問題とすることなどできないのである。

五章では、ここまでの議論を受けて、ウィトゲンシュタインが外界についての懐疑論という具体的な哲学的混乱を扱う仕方を見る。懐疑論という認識論的問題であっても、ウィトゲンシュタインが問題とするのは言葉であり、ウィトゲンシュタインは懐疑論を表現しているように思われる言葉の意味の説明を徹底して求めるという日常的活動を行っている。懐疑論に即して言うと、懐疑論の言葉の意味の説明を求めるとは、懐疑論の言葉が位置付く生活のあり方を思い描くということであり、それを通して、ウィトゲンシュタインはその言葉がいかなる生活の中にも位置付いていないということを我々に対して説得しようとしているのである。

最後に六章では、五章までで描いてきたウィトゲンシュタイン哲学の意義を明らかにするため、世紀末ウィーンを代表する知識人であるカール・クラウスの議論とウィトゲンシュタインの言語哲学を比較し、クラウスの「言葉を選択する責任」という倫理的モチーフをウィトゲンシュタインにおける哲学的営みと重ねることができると論じた。すなわち、ウィトゲンシュタインにとって、言葉の意味の説明を求める哲学の営みは、明晰に語り、真面目に思考するという知的誠実さを求める営みであったと結論付けることができるのである。

審査要旨 要旨を表示する

大谷弘氏の論文「ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義」は、言葉の「意味とは使用である」という言説や、「言語ゲーム」の概念など、『哲学探究』(『探究』)におけるウィトゲンシュタイン哲学の最重要ポイントに正面から向きあって、現代分析哲学の諸成果を射程に入れながら、あるいはそれらを比較相手として参照しながら、ウィトゲンシュタインにおいてそもそも言葉の意味はどう理解されていたか、そして哲学の営みはどのように位置づけられていたのか、という根本的な問題を論じる真摯な試みである。

大谷氏はまず、序論において、言語の意味というものを、特定の言語使用から独立の、その言葉の典型的な使用の場面を示唆する「像」として理解するという見方を取り上げる。そして、そうした「像」にこだわって、意味とは指示する対象であると解する立場を「哲学的像」と呼び、この立場は、言葉の使用の現場すなわち「言語ゲーム」に則すならば、自己背馳に陥ると論じる。その上で、第1章にて、『探究』の背景をなす『論理哲学論考』(『論考』)に目を向ける。大谷氏は、『論考』で展開されている議論は一見、経験世界から独立の実在世界を想定する形而上学的実在論のように読めるが、「語る/示す」という区分が持ち出されている点で形而上学的実在論とは異なると論じ、さらには『論考』においても、推論を論じる場面で、『探究』で問題となる「規則の問題」がすでに論じられていると分析する。そして、いよいよ第2章から『探究』が検討される。まず「言語ゲーム」という概念が検討されるが、大谷氏のユニークな強調点は、「言語ゲーム」という言葉そのものも、それを使用する「言語ゲーム」のなかでのみ理解されるべきであって、そうした使用の文脈を離れて「言語ゲーム」を精確に定義などできないというように、いわば自己言及的に、あるいはメタ的に、「言語ゲーム」の概念を位置づけるところにある。その上で、ウィトゲンシュタインの議論は、意味理解を心理的プロセスに重ねる心理主義を批判して、意味理解を共同体の言語使用実践に求めているとする解釈、すなわち共同体説を取り上げて、そうした解釈は、ウィトゲンシュタインの議論を何らかの哲学的主張として捉えており、「言語ゲーム」でさえ使用現場依存的であるという重要ポイントを逸していると批判する。

以上のように「言語ゲーム」の概念を動的に押さえた上で、第3章にて「規則の問題」が主題的に検討される。大谷氏のポイントは、「意味」に「規則の問題」が発生したとしても、それは、「意味」という言葉それ自体もその言葉のおのおのの使用現場すなわち「言語ゲーム」に即して理解するしかない、という観点から解明していくべきである、というものである。このように「言語ゲーム」理解の適用を広げる延長線上で、「真理」の概念はどう理解されるか、という問題が第4章にて検討される。ウィトゲンシュタインはしばしば、「真理」概念はなくてもすむ、とする「デフレ理論」の先駆者と目されるが、実はウィトゲンシュタインは真理の対応説を批判すること、そして「命題」と「真理」とはその都度の「言語ゲーム」のもとで理解されるしかないこと、これらのみを提示していたのであって、「デフレ理論」といった特定の主張を展開したのではないと、そう大谷氏は論じる。こうした考察を踏まえて、大谷氏は、第5章において、ウィトゲンシュタインは懐疑論をどう理解していたか、という問題を『確実性の問題』に沿って検討する。大谷氏によれば、懐疑論であれどのような世界理解であれ、根底に確実とみなされる「世界像」があるのであり、そうした「世界像」はやはりその都度の言語使用に沿って明確化していくしかないものであるとされる。そして、最後の第6章において大谷氏は、クラウスの議論を参照しつつ、こうしたウィトゲンシュタインの議論の根底には、私たちは言語使用に際して言語を選択するという道徳的責任を負っている、という論点が流れていると結論づける。

以上の大谷氏の議論は、ウィトゲンシュタイン哲学の多様なトピックを、ウィトゲンシュタイン自身の議論にもメタ的に当てはまる「言語ゲーム」の概念を徹頭徹尾貫徹させることによって統一的に解明しようとするもので、言語選択の責任というモラルの根拠が明らかでないこと、また、結果的に「哲学」の営みが普遍性を失い評価不能になってしまうという自己崩壊的な危うい論点に接してしまうことなど、多少の瑕疵はありつつも、むしろ、哲学的営みに本質的にまとわりつくそうした危うさを露呈させたという点においても、十分に学術論文としての基準をクリアしている。よって、本論文は博士(文学)の学位に値すると判断する。

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