学位論文要旨



No 126352
著者(漢字) 田村,順子
著者(英字)
著者(カナ) タムラ,ジュンコ
標題(和) 人工社会モデルを用いた集落形成過程の研究
標題(洋)
報告番号 126352
報告番号 甲26352
学位授与日 2010.09.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7330号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 教授 加藤,道夫
 東京大学 教授 大月,敏雄
 東京大学 准教授 今井,公太郎
 東京大学 准教授 貞廣,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

都市は,個人のミクロな動機が引き起こす行動の流動性に膨張と縮小をうながされ,複雑なリズムを刻みながら常に変化している.こうした人間社会の現象は,その主体である個人のユニークさと,不完全な情報に基づく行動のため,「複雑」な科学とされている.もし,この人間社会で起こる現象の原理を追求しようとすれば,人はなぜ移動するのか,あるいはなぜ集団を形成するのかといったことに自問自答できなければならず,つまり,個人の特異性や不完全性といった特性をも考慮して考えなければその本質に迫ることはできない.しかし,今わかっていることもある.それは都市あるいは集落にはスケール(面積や人口の多少など)に関係なく共通して,1)システムが存在し,2)そのシステムにはルールが組み込まれているということである.つまり,このシステムとそのルールを組み込んだモデルを構築すれば,都市・集落で起きている様々な現象を理解することができるかもしれないのである.

本研究は,人間社会の現象を対象とした際にしばしば利用される「エージェントベースモデル(或いはマルチエージェントシステム)」(以下ABM)を採用した人工社会のコンピュータモデリング技術を用いて,「個」の単純な局所ルールを設け,シミュレーションを行うことで,ボトムアップ的アプローチから巨視的レベルで起きている複雑な社会現象及び社会構造の創発に焦点をあてるものである.

しかし,都市の要素は複雑に絡み合い,その数も膨大で,都市モデルを構築することは極めて困難である.そこで本研究では,まず,人(エージェント)・環境(ランドスケープ)の関係を考えた時に最もプリミティブである状態を想定する.つまり,農民(エージェント)が作物を栽培しながら生き続ける集落スケールの孤立した農地(ランドスケープ)を想定し,そのエージェントとランドスケープに属性を与え,更にエージェントには行動ルールを設け,エージェントの移動と集積をシミュレートすることで集落形成過程を観察する.そして,この過程を通して社会システムとしての都市を理解することが本研究の目的であり,単純なルールから発生する複雑な現象の「発見」に期待する.

本論は,序章と終章を含め,全9章及びAPPENDIXの四部構成になっている.第一部は導入部分で,第二部では接近方法の説明及びモデルを構築し,第三部ではモデルの応用を図り,第四部は結論である.以下に各章の概要を記す.

第一部の序章は導入部分であり,本研究の研究背景及び目的を明示する.

第二部の第1章から第4章では,本研究における接近方法である人工社会とABMのシミュレーション方法に関して概要を説明し,モデルを確立するためにパラメータを徐々に増やしながら,シミュレーションを実行することによって各々の影響を観察する.そのために,エージェントが動き回る環境を規定し,エージェントに属性と行動ルールを与え,シミュレーションを行う.

第1章では,まず,社会システムとしての都市の概念について述べる.本研究は,エージェントと環境との相互作用による人間社会の現象を,「エージェントベース」のコンピュータモデリング技術を用いてシミュレートするために,その基礎理論として用いる人工社会とABMのシミュレーション方法に関して理解を深める.更に,これらのシミュレーション方法を社会科学的に関連づけたシェリングの分居モデルとSugarscapeモデルの説明を行う.

第2章から第4章ではモデルの開発を段階的に説明し,ケーススタディーを実施することによってシミュレーションを行い,その結果を観察する.

第2章では,本研究の分析で用いるSK2-Simulator (Shuraku Keisei Katei Simulator,以下SK2) の基礎的な構成要素を挙げ,モデルの基本的な構造を紹介する.最初に,エージェントが動き回るランドスケープ(環境)を規定し,エージェントに属性と行動ルールを与える.ランドスケープパラメータの設定を変えると異なる環境が生成されるが,エージェントが異なるランドスケープに置かれた時に,その異なる環境がエージェントの集積パターンと貯蔵量(貯蔵量とはエージェントが土地を耕し,栽培した作物の収穫量のことで,これを増やすことを目標としている)にどのような影響を与えるかを観察する.また,共通するランドスケープにエージェントを置き,エージェントの属性である技量と消費量が貯蔵量にどのような影響を与えるかを観察する.

第3章では,エージェントの土地所有のルールと小作人を雇用するルールを設定する.これらのルールを導入することで,エージェントは貯蔵量がある基準に達すれば土地代を支払い,土地を購入して自分の領域を作り,同時に小作人を雇用する.この時,社会には異なるルールに従い行動するエージェントが存在することになるが,そのルールがエージェントの定住・雇用状況にいかなる影響を与えるかを観察する.

第4章では,エージェントにストラテジーを与え,更にモデルを発展させる.ストラテジーとは,エージェントが選択する作物の栽培方法と農法の組合せのことで,6通りのストラテジーのいずれかをエージェントの属性に加える.エージェントは貯蔵量を増やすという目的に向かって行動するが,それぞれのエージェントは同じ目的に向かって異なるストラテジーを取るというルールを導入し,それぞれのストラテジーがエージェントの行動パターン及び集落形成過程にどのような影響を与えるかを観察する.

第二部においてSK2を段階的に発展させ,パラメータを変更しながらシミュレーションを繰り返し行うことで,エージェントが目的に向かって行動するために与えられている属性の中から有効なパラメータとそうでないものが区別できる.また,エージェントの属性や環境パラメータに関して考察する上で,モデルの設計段階で想定されないエージェントの行動パターンや集落形成過程を観察することができる.

第三部では,第二部で構築されたSK2を用いてモデルの応用を3つ行う.

第5章では,SK2を用いながらランドスケープに標高を与える.第4章までは平野の農耕地を前提にシミュレーションが行われるが,作物の収穫量は標高によって大きく左右されるものである.収穫量は標高が高くなれば減少することを踏まえると,エージェントは今までのランドスケープの設定と標高の両方を考慮して行動しなければならない.そこで,標高を掛け合わせた新たなランドスケープを考え,それがエージェントの行動パターン及び集落形成過程に与える影響を観察する.

第6章では,SK2を用いてモデルに気候変動を与える.第5章までは理想的な気候を基準に作物の収穫量が決定されるが,気候条件は作物の生育に影響を与えるためにこれを考慮し,SK2に気候変動を加え,社会に異常災害(カタストロフィー)を発生させる.カタストロフィーには4種類あり,各々には強弱があるとすることで社会には8通りのカタストロフィーが存在することになり,これらに属性を与えることで作物の生育に異変が生じた場合のエージェントの貯蔵量を観察する.

第7章では,SK2を用いたモデルに障害物を設ける.まず,この障害物を河川と想定し,第5章の標高が設定されたランドスケープを用いてシミュレーションを行う.次に,障害物及び標高が設定されたランドスケープに第6章のカタストロフィーを合わせることで社会に洪水が発生した場合のシミュレーションを行う.そして,障害物が与えるエージェントの行動パターンと,洪水によって集落が消滅することがある場合の集落形成過程を観察する.

終章では,本論全体の結論と展望を総括する.本研究で行われたシミュレーションに関して考察し,得られた新しい知見,課題とその対応策を今後の展開で明示し,最後に本研究の意義について述べる.本研究の意義は次の点にある.SK2のシミュレーションで得られた結果からは,世界のどこかに存在するいくつかの集落を連想することができる.これはSK2が集落形成過程をシミュレートするモデルとしては有用であることを意味しており,集落で起きている様々な現象を理解することができるモデルである.よって,同じ手法を用いれば,都市モデルを構築することも可能であることを示唆している.SK2の結果は,パラメータを変えながらシミュレーション実験を繰り返したことで初めて共通するパターンを認識することができたもので,これが社会の原理の発見へと結びつき,こうした方法論を提示することができたことに本研究の独創性を示す.

APPENDIXには,パラメータを変更しながら行われたケーススタディーのシミュレーション結果を掲載する.また、シミュレーションで使用したパラメータ及びルールは,基礎モデルと応用モデルに分けてまとめられてある.

審査要旨 要旨を表示する

現実の人間社会は極めて複雑で、考慮すべき要因は多い。こうした因果関係の把握が難しい現象を扱うのが複雑系の科学で、さまざまな新たな分析手法が試みられている。そのひとつにマルチエージェントモデルがある。あるルールのもとで多数のエージェントが相互に影響し合いながら行動したときに、どのような巨視的な秩序が生成されるかというモデルである。その応用分野のひとつに人工社会があり、計算機上に設定された環境下で、さまざまな判断基準や属性を持つエージェントが定められたルールに従って行動するとき、どのような社会が出現するかをシミュレートしている。

人工社会の研究の端緒となったのはトマス・シェリングの『分居モデル(1978)』で、それに続くジョシュア・エプシュタインの『Sugarscapeモデル(1996)』で、その有用性が認知されている。本研究は後者を発展させたもので、砂糖の山を農地に、蟻を農民に置き換えて、農民が穀物の貯蔵量を増やすという目的の下に耕作を行った場合に、どのように農業集落が形成されてゆくかをシミュレートするものである。

本論文は、序章、第1章~第7章、および終章の全9章から成る。

序章では、研究の背景と目的、既往研究について述べ、次いで、論文全体の構成を説明している。

第1章では、都市の複雑性について述べ、複雑系の科学のいくつかについて言及している。また、人工社会とエージェントモデルについて説明し、人工社会を扱った代表的なふたつのモデルの特色と、本研究において設定した農地や農民に関する基礎的なルールについて解説している。

第2章では、エージェントが行動する場である農地の特性と地味の設定の仕方について説明し、次いで、農民が有する属性(視力、消費量、技量、初期貯蔵量)と行動ルールを記述している。

第3章では、農民の貯蔵量がある一定の値を超えると土地を購入して地主になり、小作人を雇い、領地の拡張と貯蔵量の増大を計るというルールを導入した場合のシミュレーションを行っている。

第4章では、3種類の農法(原始的、半原始的、近代的)を想定し、これらに2毛作と2期作があるものとして計6種類の栽培方法を設定している。また、作物に関しては7種類を想定し、それぞれに播種期と収穫時期があり、収量が決まっている。農民は農法と栽培作物を選択して耕作に従事する。地主が雇う小作人には2種類(移動型、定住型)あり、それぞれは異なる行動様式を採り、栽培した作物に応じた報酬を受け取る。50年間と300年間に渡るシミュレーションを行っているが、前者では、農民の消費量、技量、農法を変化させた時に貯蔵量にどのような変化が出るかを、後者では、農民が選択した農法と農民の出現時期が変化した時の影響を調べている。結果として、人口には理想的な値があること、農民の出現時期とその属性が最終的な領域形成に大きく影響することがわかっている。

第5章では、農地に標高を導入し、標高によって作物の収穫量が変化すると仮定した場合のシミュレーションを行っている。農民は標高による低減率を考慮した地味を基準に行動するが、標高を導入することにより、地味の分布状況が複雑になり、地主の領域は標高の高低に大きく影響される。

第6章では、モデルに気候変動を導入している。雨、風、雪、霜の4種類の災害がそれぞれ強弱を伴って発生すると仮定し、災害の発生時期や周期を変えたときに、作物のダメージの大きさをシミュレートしている。この条件下では、災害に会うと地主が全滅する場合が生じること、定住型の小作人の出現頻度が地主の貯蔵量に大きく影響することがわかっている。

第7章では、河川や湖水のような障害物を設定し、その周辺で起きる洪水の影響をシミュレートしている。雨と風のカタストロフィが重なると洪水が起き、その程度により氾濫原が決まる。洪水のように、広い範囲に及ぶ災害を想定すると、被災後の農民の行動は地味の回復の仕方に大きく依存していることがわかる。

終章では、本研究で行った様々なシミュレーションを総括し、設定した要因と結果との関係について論究している。また、この様なシミュレーションの意義と今後の展開について述べている。

以上要するに、本論文は、地主と小作人から成る人工社会を想定し、そこにさまざまな条件や属性を付与した場合に、どのように社会が形成されてゆくかをシミュレートし、要因と結果との関係を分析したものである。想定した社会は極めてプリミティブなものであるが、このモデルはさまざまな条件を付加できるように組まれていて、より複雑な条件下での社会の形成をシミュレートすることも可能である。現実の集落や共同体の生成過程は歴史的に遡及して調べることはできないが、こうしたモデルにより、さまざまな条件下での変容過程のシミュレーションが可能になる。これまでの集落論や共同体論が現実の社会からの類推に基づいていたのに対して、より、数理的で、再現可能な手法を提示したといえる。人工社会を用いた分析手法を都市・建築計画学の分野に適用したのは本論文が初めてで、コンピュータを用いた新たな試行実験の可能性を探る試みとして大いに評価できる。本論文の手法は、人工社会一般に対して汎用性があり、その適用範囲は非常に広い。これは都市・建築の計画学の分野に新たな方法論を導入するものとして、その意義は極めて大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク