学位論文要旨



No 126358
著者(漢字) 児玉,眞美
著者(英字)
著者(カナ) コダマ,マミ
標題(和) 聴覚障害児の早期教育における母親への支援に関する研究
標題(洋)
報告番号 126358
報告番号 甲26358
学位授与日 2010.09.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博工第7336号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福島,智
 東京大学 教授 中邑,賢龍
 東京大学 准教授 巖淵,守
 東京大学 教授 田中,千穂子
 東京大学 客員教授 大沼,直紀
内容要旨 要旨を表示する

<目的>

聴覚障害児とは、人間の聴覚機能になんらかの障害が起こり、音が聞こえにくくなっている幼児、児童を指す。就学前に聴覚障害が起こった場合に、その後のコミュニケーション能力、言語力、学習能力等の発達に大きな影響が予想される。

それ故、聴覚障害児の母親は、わが子の出生後の障害の発見から小学校入学時6歳頃までの早期教育の時期に、言語の習得に中心的な役割を担うという大きな責任を求められることが多い。この時期は、親と子の深い情愛がはぐくまれる時期であり、障害を持った親子が円滑なコミュニケーションを育てながら、子どもの言語を発達させるための支援は大きな意味を持つ。

今日では、ろう学校の幼稚部などの公的な教育機関、民間の支援団体、医療機関などで聴覚口話法、手話中心の指導、人工内耳とこれらの併用など様々な指導が行われている。

これまでの聴覚障害児の早期教育研究では、子どもの聴能の向上や、聴能訓練の研究、また語彙数や文法理解などの指標をもとにした言語発達の検討が中心であった。そこで本研究では、障害発見から小学校就学までの経過を、長期的に検討し得た母子例の分析をもとに、親子関係および障害児のコミュニケーションの成長を促すための母親の支援への提案を検討した。

<方法>

筆者が、発見から就学までの大半の時期を指導にあたった重度の聴覚障害児の母子の教育実践の経過を検討し、特に母親に影響を与えた因子を分析し、早期教育における母親の支援を明らかにする。

まず、2000年前後に、発見時から就学まで、聴覚口話中心に指導した女児と、手話中心に指導した女児の経過を、年齢別に対比しつつ検討し、指導後に母親にインタビューを行い、指導方法に特徴的な母子関係の問題点と、共通な問題点を検討する。

次に、手話中心の指導法が行われるようになって以降のほぼ全経過を追えた、より複雑な2例、兄も重度の聴覚障害を持っていた女児例と、初期に言語獲得が困難であった男児例につき、経過を検討し、母親へのインタビューをもとに、母親の直面する問題点をより詳細に検討した。

<結果>

(1)聴覚障害児の早期教育の比較検討

口話法でも手話中心の指導法でも、円滑で安心感のあるコミュニケーション能力を育てるには、緊張感の少ない言語教育の環境が重要であると思われ、そのためには、次の3点が重要である。

第一に、聴覚口話法での指導例では、重圧感を減らすということに配慮しつつ、「遊び」や「楽しみ」を重視した指導を行い、子どもの言語能力も順調に発達していると指導者側では判断していたにも関わらず、「もうこれ以上はできない」という負担感を年齢とともに強く持つようになっていたことが明らかとなった。

第二に、手話中心の指導の場合は、健聴者の母親は手話への知識は少なく、母親が子どもとの距離を感じてしまうような不安感を持たせない、ていねいな母親への手話の指導とあわせた母子指導、聾者との出会い、聾文化の理解が大切になる。

第三に、言語発達の支援にあたる指導者は、医師、言語聴覚士など聴覚障害の検査と診療、補聴器の使用などについてのサポートがあり、適切な手話教育が受けられ、聾者または聴覚障害者も含めたチームでの指導が可能であること。

(2)より複雑な例の検討

今回の母子の早期教育の支援の検討から、母親の考え方は、初期の医療機関、教育機関の専門家との出会い、他の障害児母子との出会いに大きく影響されることが明らかになった。母親は、専門家にすべての考えを説明するわけではなく、語られにくい母親の思いを理解しようとする態度が重要である。

兄弟も重度の聴覚障害を持ち、手話もよく学んでいた母親が、兄の養育のときに指導者から言われた「しあがっていませんね」という言葉に強い自責の念を持っていたことが指導後のインタビューから明らかになり、障害児の妹の養育にあたっても、強い叱責の言をしばしば発したこととも関連していたと推察された。

指導者と良好な関係をもっていた母親が、ろう学校でなく、普通校でのインテグレーションを強く希望した背景には、他の母子との競争心が背景に強くあると思われた。

こうした語られにくい思いが、実際の母親の判断には大きな影響を与えており、それぞれの母子の経験を理解し、その意思決定に影響を与えている因子を理解しようという努力が指導者に求められる。

<考察>

重度聴覚障害児の母子の支援の検討から、聴覚障害の母親の置かれた状況には、次の3つの観点からの理解が重要と考えられた。

第一に、母親は聴覚障害について特別の理解を持つことなしに、聴覚障害児の言語発達に責任を持たされる。このため不安感と責任感が常に重くのしかかってしまう。出生から小学校入学までの乳幼児期は、親と子の細かな情愛の形成に最も重要な時期であるにも関わらず、そこでのコミュニケーションが自然発生的には行いにくいことが、大きな問題となる。聴覚を用いなくて済む手話は、自然なコミュニケーションを形成できる手段として重要な意味を持ち、手話の使用は基本となっていくべきと思われる。

第二に、聴覚障害の問題は日常的な言語発達に関わる障害のため、本人も母親も失望する経験をせざるをえない場合も多い。こうした場合に、他の聴覚障害児母子との比較をし競争心を持ってしまうことも多い。競争心は、成長の力となる場合もあるが、成長の妨げとなることもあり、特に失望体験があると、嫉妬心になることも多い。

第三に、子どもの言語発達に強い責任感を持つことから、うまくいかないと感じた場合に母親が自責の念を持つことも多い。特に、専門家から非難された場合には、強い自責の念を持つにいたることも多い。

しかし、一般的には、上記の「不安感」「競争心」「自責の念」のようなネガティブな意味合いも内包する感情は、母親は表明しようとしないことが多い。

従来、障害児の母親にとって、「障害の受容」を強調する考え方もあった。しかし、障害児を持つ母親は、慢性の悲しみを基本に持つ場合が多く、長い時間的な過程として理解し、支援することが重要である。

<早期教育支援への提案>

上記の検討と、考察より、聴覚障害児の早期教育にあたる母子の支援につき次の3点を提案する。

第一に、母親が聴覚障害児の養育を行うにあたっては、長期的な視点から、圧迫感の少ない円滑な子どもとのコミュニケーションを育てられる支援が重要である。聴覚に障害を持つ子どもとのコミュニケーションには、一人ひとりの状況に合わせて、手話を中心に聴覚口話も有効に活用していくことが重要である。

第二に、母親は、子どもの障害につき、それぞれの経験から多様な考え方を持っており、支援者にはその多くは明らかにされていない。こうした語られにくい思いを理解しようとする努力がこれからの支援の基礎となる。

第三に、多様化している聴覚障害児の言語発達の支援の実情に鑑み、それぞれの母子の障害と状況を配慮して、医療と教育の両面を理解し、聾者の生活と文化をよく知っていて、母親の支援にあたるコーディネーターを充実させることが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

人間の五感の中で、聴覚は子供の知的な発達とコミュニケーション能力の獲得にもっとも大きく関係している感覚である。それ故、さまざまに存在する障害児の中でも、聴覚障害児は言語発達やコミュニケーション能力の獲得において、もっとも深刻な影響を受けることが多い。

一方、歴史的にみて、どの民族でもおよそ300人から400人に1人の割合で聴覚障害が発生するといわれており、19世紀以来世界的にも聴覚障害への対応が、教育、福祉、医療、科学技術による支援などの各分野でさまざまに試みられてきた。しかし、聴覚障害をめぐる問題はきわめて複雑・多様である。たとえば、言語獲得において、あくまでも通常の音声言語を重視するか手話の使用を認めるか、あるいは、補聴器の問題について、とりわけ最近では人口内耳の埋め込み手術をどう考えるかなど、論争的な問題も多く、世界的にも混乱した状態が続いている。

そこで、本研究では、こうした聴覚障害をめぐる種々の問題を、会話手段や教育方法の選択などの単なる外形的な問題として捉えるのではなく、聴覚障害児を取り巻く人々の感性に潜む軋轢や矛盾として捉えようとした。とりわけ、これまで注目されてこなかった聴覚障害児の母親が抱える葛藤やディレンマに焦点を当て、聴覚障害児をめぐる諸問題の構造を明らかにするための鍵がそこにあると想定したのである。

本研究の特徴は、筆者自身が聴覚障害児の早期教育に指導者として関わってきた経験を踏まえた研究をしている点にある。具体的には、それぞれの聴覚障害児とその母親、そして指導者という三項関係の一翼を担う当事者として筆者自身が位置づけられることによって、複合的な観点で研究資料が得られるという特徴がある。すなわち、第一に、長期にわたって直接指導した当該障害児の事例についての豊富な資料が存在し、第二に、当該障害児やその母親へのインタビューを行うことで、現在の視点からの追加的な資料が得られることとなり、さらに第三に、指導者である筆者自身の姿勢や教育方針の変化自体をも分析の対象にできるという点である。特に第三の点は本研究の独自性を示している。

本研究では、過去10年間において、筆者が指導者として深く関わった重度の聴覚障害児4名とその母親の事例を抽出し、詳細に考察した。特に就学前期において、母親に影響を与えた因子を分析し、早期教育における母親の支援のあり方を検討した。その結果、次の4つの観点を重視した支援の必要性が明らかとなった。

第一は、母親が経験する複雑な感情や心理的葛藤への配慮であり、第二は、乳幼児期の言語発達にとっての意図的でない、自然なコミュニケーションの経験の重要性である。また、第三は、母親によるわが子の「障害の受容」を長いスパンで把握して支援するという点であり、第四は、聴覚障害児の早期教育における専門的な助言という支援の重要性である。

従来、聴覚障害児の早期教育をめぐっては、医療、教育、聴覚・音声言語、手話など、それぞれの分野の専門家が、それぞれの立場からばらばらな支援を行ってきた。それが過去2世紀におよぶ聴覚障害児教育をめぐる世界的な混沌をもたらした基本的な図式である。こうした混沌状態を克服し、聴覚障害児の教育をより豊かに充実させるためには、異なる分野の力を有機的に結びつける取り組みが必要である。すなわち、それぞれの母子の個別の状況に配慮しつつ、医療と教育、福祉と支援技術など、多方面の領域の知見を有し、母親の立場を尊重しながら支援を調整、組織化していく新たなアドバイザリー・コーディネイターの存在が重要である。また、こうした人材が医療機関・教育機関に配置されることが望まれる。

本研究は、従来外形的で要素的に論じられがちであった聴覚障害児の教育をめぐる問題について、当該障害児のみの問題ではなく、むしろ母親を中心とする周囲の人の内面的問題や、人と制度との間に生じる関係性に起因するものであることを明らかにした。現在わが国では、今後の障害児教育のあり方を抜本的に検討する議論が政府内で進められており、そうした現状も踏まえ、審査の結果、本研究は理論・実践の両面で、聴覚障害児教育に対して大きな貢献をもたらす知見であると認められたため、学位授与に相当するという合意がなされた。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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