学位論文要旨



No 126359
著者(漢字) 姜,光文
著者(英字)
著者(カナ) キョウ,コウブン
標題(和) 日本におけるドイツ憲法論の受容に関する一考察 : 「君主主義原理の定式=明治憲法第四条」の解釈とその周辺を手がかりとして
標題(洋)
報告番号 126359
報告番号 甲26359
学位授与日 2010.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第241号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷部,恭男
 東京大学 教授 日比野,勤
 東京大学 准教授 和仁,陽
 東京大学 教授 水町,勇一郎
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

中国のある法学者は、最近、中国の法制度と法学の源流について非常に興味深い視点を提示した。それは、即ち、現代中国の法に関するとりわけ憲法に関する多くの概念や制度は、その源流を遡れば大体二つの媒介つまり旧ソ連の法と法学及び明治日本の法と法学を通じて最終的には十九世紀のドイツに至る、という見通しである。本稿の問題関心は、まずもって、近代以後法と法学における中国と日本の関係の究明から出発した。ただ、本稿は、日本から中国への法と法学の継受過程を全面的に考察するものではなく、そのための不可欠の準備作業として、ドイツの影響の下で明治憲法が如何に制定され日本の憲法学が如何に展開されたかを検討する。こうした作業が、いうまでもなく、憲法制定と憲法学における日本の中国との関係ないし日本を経た中国とドイツとの関係についての今後の研究のための、一つの基盤となるからである。

具体的に本稿は、明治憲法下における日本憲法学とドイツ国家論・国法論との関係を一層明確にすることを、その課題とした。そして、日本の憲法論及びその前身となるドイツ国法学を比較する中で、明治憲法第四条の解釈及びその周辺の議論が各論者の論点が交錯する渦中として浮上した。明治憲法第四条をめぐる日本の憲法論者の議論とそのドイツ的背景を検討することによって、日本とドイツの関係がある程度説明されうると思うようになった。つまり、穂積八束や美濃部達吉など代表的な明治日本の憲法学者の理論及びそれらの関係を整理するには、「明治憲法第四条」を解釈に焦点を当てるのが効果的ではないか、と。

本稿は序論の他、第一部と第二部、及び結論によって構成された。まず、序論では、明治憲法第四条の前身となるいわゆる「君主主義原理の定式」がドイツにおいて具体的に如何なる内容を持っており、それがドイツの諸憲法において如何に定着していたかを整理し、「君主主義原理の定式」に絡む国法学の諸論点をまとめる。それから第一部は、十九世紀のドイツ国家論と国法学に対して、日本の憲法学に影響を与えたとされる人物を中心として彼らの国法論の主要な論点を紹介する。具体的には、シュタール、ブルンチュリそしてシュルツェを中心としていわゆる前期立憲主義の国家論を検討し、それから、ゲルバー、ラーバント及びイェリネクの国法論を取り上げ、日本の憲法学に大きな影響を与えた実証主義国法学の構造を分析する。

シュルツェなどドイツ前期立憲主義の国家論の共通なる特徴を、本稿は、国家と君主の関係を中心として、二重の国家概念及びそれと対応する二重の君主の地位に要約する。つまり、

それに対して、ゲルバー、ラーバント、イェリネクの国法論が属するとされるドイツ実証主義国法学の国法論の構造については、――三人の国法学は、その議論の対象や具体的な論点においてそれぞれ異なるが基本的には同じ国家観に基づいている――、ゲルバー国法論を論じる際に提示した以下の図式をもって説明する。

このように、十九世紀ドイツ国法学には大きく分けて二つの国家論の構図が見られ、それぞれ二つの立憲主義のモデルを基礎付ける。その前期立憲主義から実証主義国法論の変化を図式的にまとめると、まず、国家は有機体など法の超えた存在から(前期立憲主義)、法人格という意思と権利の主体へ(実証主義国法論)変わり、君主は国家有機体内部における分肢から、国家=国家権力の一機関に変わる。それと平行して、臣民=国民は、君主に統合された国家権力の外に位置する国家における分肢から、国家の権力――国家における権力ではない――の客体=対象に、そして、その国民を代表する議会は国民の機関から国家の機関になる。この二つ立憲主義の構造を簡単にまとまると、前期立憲主義の場合、国家権力に対する君主の人格的支配を認めながら国家権力そのものの範囲を限定することによって国民の自由を保障するに対して、国家権力の全面性と絶対性を前提としている実証主義国法学の場合は、国家権力の主体を人格的主体の君主から国家に移転させ、君主の支配的地位を否定することによって立憲主義を保障する。

続く、本稿は第二部で、以上の枠組みを意識しながらドイツの国法学に全面的に依拠して形成された日本の憲法学について論じる。各憲法学の議論に入る前に、明治憲法の制定過程に対して特にドイツの「君主主義原理の定式」が日本で如何に定着したかを追跡し、第四条の解釈を中心として憲法起草者らの憲法理解を簡単にまとめる。それから、その明治憲法下における日本の代表的な憲法学者を順次に取り上げそれぞれの憲法論について検討する。穂積八束、美濃部達吉、佐々木惣一、市村光恵及び有賀長など日本の憲法論者を、本稿は、大きく三つのグループにわける。即ち、「正統学派」の代表者としての穂積、いわゆる立憲主義学派に属される憲法論者としての美濃部、佐々木と市村、両者とも異なる憲法論を展開した有賀である。その中で、とりわけ、第四条の解釈を中心とした穂積と美濃部の憲法論、両者の対立及びそのドイツとの関係について詳しく論じた。

穂積の憲法論を見るなら、彼は、国家権力は即ち国家の権力であり国家の全領域を網羅しているとしながら、天皇が一切の「国権ヲ総攬スル」云々とする明治憲法第四条の規定に依拠し、天皇をすべての国家権力の担い手として国家の主権者として位置づけた。そして、臣民は国家権力の客体であると同時に天皇権力の客体となり、帝国議会は国家権力の一機関にそれによって天皇権力の一機関となる。要するに、穂積憲法論の場合、国家は即ち国家権力でありながら、――この点では、ドイツの実証主義国法と一致している――、他方において国家権力のすべては君主=天皇によって握られ、国家と君主は国家権力を媒介として同一化される。即ち、国家即ち天皇ということである。

それに対して、穂積以外の三人は、普通、「立憲学派」の憲法論者に分類され、いわゆる「正統学派」の代表者である穂積と対置する。天皇主権論を唱えた穂積に対して、美濃部など三人は同じく国家法人論と君主機関論に立ち天皇主権論を批判して点においては共通している。国家の定義や君主の地位など明治憲法第四条の解釈と関連する美濃部ら三人の憲法論の要点は、こうである。国家は、法人格であり統治権=権利=意思の主体である。国家権力は、国家の権利であって君主など国家における分肢の権利ではない。君主はその国家団体の一機関となり、もはや統治権=権利の主体にはならない。臣民は、まずもって国家の統治権に服従する地位に置かれるが議会を通じて国家権力の行使に参加する。但し、議会は、天皇=君主とともに国家機関であって、国民を法的に代表する国民の機関ではない。ここで、美濃部ら日本立憲主義憲法論者のかかる憲法論がドイツ実証主義国法学に全面的に依拠したことは容易く確認することができる。

以上の分析を経て本稿は、国家権力の主体を人格的主体である天皇に帰属させるか(穂積)それとも国家そのものに帰属させるか(穂積や佐々木や市村)においては日本のいわゆる「立憲学派」と「正統学派」は袂を分っていたが、意思論や国家権力論や臣民論と議会論などにおいては、共に、ドイツ実証主義国法論に頼りその共通の傾向を見せている、と結論づけた。そして、両側の分岐点となる、誰が主権の主体であるかという国家権力の帰属の問題は、まさに明治憲法第四条の解釈と密接に関連する。第四条の解釈は当時の日本の憲法学の争点となり、天皇主権説と天皇機関説などの論争が繰り返されることになる。実証主義憲法論において、国家権力は権利=意思と見なされ、国家は権利と意思の主体である法人格と見されることによって国家権力の全面性と絶対性が強調される。そして、法がその国家権力の所産と位置づけられ国家権力が法秩序を超越することになる。市村の議論に典型的に見られるように、当時の日本憲法論において、国家の統治権は最高の意思とされ、国家は自らの自己制限以外に如何なる制限にも服さない。国家の支配は、まずもって全面的であり、その前提の下で国家権力は憲法などによって初めて制限される。かかる実証主義の影響の下で、当時の日本の憲法学では国家権力ないし意思の主体の問題が主に争われ、国家権力に対する法=理性の制約ないし権力と法の関係などはそれほど重視されなかった。「いかなる意思が」よりも「誰の意思が」常に問題となり、憲法論争における主な争点となった。

「ドイツから日本へ」の継受に対象を限定した本稿の議論は、不十分でありながら、法と法学における中国と日本の関係更に日本を媒介とした中国とドイツとの関係について全面的に考察するための一つの視点ないし理論的前提を提供するように努めた。かかる議論に基づき、「ドイツから日本へ」という限定を外して日本から中国へないしドイツから中国へという法と法学とりわけ憲法と憲法学の継受過程について検討するのが、今後の研究内容となる。それが、ひいては現代中国の法と法学の歴史とりわけその概念史の整理のために有意義であると信ずる。

広い意味における国家(Staat1)=有機体=道徳的人格

(君主は、その国家における分肢=元首)

狭い意味における国家(Staat2)=国家権力

(君主は、その国家権力の主体、主権者)

国家権力の外部に位置する国民、国民代表としての議会

審査要旨 要旨を表示する

本論文「日本におけるドイツ憲法論の受容に関する一考察-『君主主義原理の定式=明治憲法第四条』の解釈とその周辺を手がかりとして-」は、明治憲法第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」をドイツにおける「君主主義原理の定式」を採用したものとして理解したうえで、「君主主義原理の定式」=明治憲法第4条の解釈に焦点を当てつつ、その背後にある国家観および君主・国民・議会の憲法上の地位をめぐる理論構成につき、19世紀ドイツと明治憲法下の日本の主要な学説を比較・考察することを通じて、ドイツの国法学説の日本の憲法学説への継受の歴史を再検討し、明治憲法学説史について新たな見方を呈示しようとするものである。

本論文は、序論、19世紀ドイツの国法学説を分析した第一部(全4章)と明治憲法下の憲法学説を分析した第二部(全5章)からなる本論、結論から構成されている。以下、論文の要旨を述べる。

序論では、明治憲法第4条の前身である「君主主義原理の定式」の成立史が概観され、「君主主義原理」との異同が明らかにされる。第二帝政期の「ドイツ帝国の生命原理」であるとされた君主主義原理は、シュタールによって体系化され、プロイセン憲法争議を経て定着した、国民議会に対する君主の優位を主たる内容とする特殊ドイツ的な政治原理であるが、これに対して、「君主主義原理の定式」は、南ドイツ諸邦(バイエルン・バーデン・ヴュルテンベルク)の憲法典(1818/19年)に現われ、1820年のウィーン最終議定書第57条に取り入れられた、実定憲法上の定式としての統治権総攬条項であり、君主が国家元首として全国家権力を一身に統合するとともに、国家権力の行使において憲法(と等族議会)に制約されることを内容とするもので、両者を区別すべきことが強調されている。

第一部では、ドイツ国法学説の時代区分を行う簡潔な序章につづいて、19世紀ドイツの国家論と国法学において明治憲法下の憲法学に大きな影響を与えた学者を中心に、その学説が分析される。

第一章では、前期立憲主義国家論を代表する学者として、シュタール、ブルンチュリ、シュルツェが取り上げられ、かれらの国家論が、二重の国家概念とそれと対応する二重の君主の地位の捉え方において共通していることが明らかにされる。即ち、シュタールの「人倫の王国」論であれ、ブルンチュリの国家有機体論であれ、シュルツェの道徳的国家人格説であれ、一方で、国家は国家権力=官憲と国民などとを諸分肢として包括する広い概念として用いられ、君主はかかる広い意味における国家の内部に存在し、国家の一分肢=元首としての性格を持つが、他方で、国家は国内における至高の権力としての国家権力そのものを指す狭い概念として用いられ、君主はかかる国家権力の担い手としては主権者であるとされ、国家権力=国家の主体として位置づけられる。著者は、こうした前期立憲主義国家論の所説は「君主主義原理の定式」の内容と調和的であるとする。

つづく三つの章は、明治憲法下の憲法学に大きな影響を与えたドイツ実証主義国法学を代表するゲルバー、ラーバント、イェリネクの国法学を取り上げ、その構造を分析する。

第二章ではゲルバーの国法学が考察される。ゲルバーは元来、歴史法学派の私法学者であったが、本論文は、かれの国法学の領域の主著である『公権論』と『ドイツ国法学綱要』を検討したうえで、私法学の諸概念と法学的方法を国法学に導入して国法学を法律学として独立させようとしたゲルバーの試みは、前期立憲主義国家論を含めた、それ以前のドイツ国家学との根本的な断絶を意味しており、その後のドイツ国法学に決定的な影響を与えたこと、もっとも、『公権論』においては、いまだに国家が有機体として捉えられており、君主が国家の一分肢=元首として位置づけられていたのに対して、『ドイツ国法学綱要』では、「君主主義原理の定式」が、国家の機関としての君主の意思じたいを国家の意思とする主旨の規定として理解されるようになったことを指摘する。

第三章ではラーバントの国法学が考察される。ラーバントの主著『ドイツ帝国国法学』はドイツ第二帝政期を代表する体系書として名高いが、著者は、『ドイツ帝国国法学』とともに、近年発見されたラーバントの講義手稿も素材として、かれの国法学説を分析し、ラーバントがゲルバーの国法学のプログラムを踏襲し、当時の私法学の諸概念をより徹底して国法学の世界に転用したこと、ラーバントが、国民の人格性、国民と議会の法律学的関係を明確に否定し、議会を国民の機関(代表機関)としてではなく、国家の機関として位置づけたこと、国家権力と国家機関に加え、新たに「国家権力の担い手」という第三のカテゴリーを導入することにより、国家法人説と「君主主義原理の定式」のあいだで折り合いをつけることが試みられたことを強調する。

第四章ではイェリネクの国法学が考察される。イェリネクによれば、君主は法人としての国家の内部に位置づけられるべきもので、法的には国民および議会と並ぶ国家機関のひとつにすぎず、主権者や「国家権力の担い手」という名辞は君主の法的地位を示すものではなく、「君主主義原理の定式」も単なる政治的表現にほかならない。こうしてイェリネクは、国家機関説によりゲルバーやラーバントの国家法人論を徹底し、実証主義国法学を完成するとともに、「君主主義原理の定式」を国法学の世界から追放するまでに至ったと総括される。

以上の検討に基づき、第一部の「中間まとめ」では、前期立憲主義の国家論が、国家権力の主体としての君主の人格的支配を認めながら、国家権力そのものの範囲を議会などの国家の諸分肢が限定することによって国民の自由を保障しようとしたのに対して、実証主義国法学においては、国家権力の絶対性を前提に、国家権力の主体を人格的主体の君主から国家それじたいに移転させて、君主の支配的地位を否定することによって立憲主義を保障しようとされているとして、19世紀ドイツ国法学における二つの立憲主義モデルの存在が指摘されている。

第二部では、明治憲法の制定史が概観され、つづいて19世紀ドイツの国法学説の受容という観点から明治憲法下の代表的な憲法学説が検討される。

第一章では、明治憲法第4条は意図的に「君主主義原理の定式」を採用したものであり、この定式を含まないプロイセン憲法典に比べてより保守的な性質を帯びていること、伊藤博文など、明治憲法の起草者がモデルとしたのは、南ドイツ諸邦の憲法を含む広い意味におけるドイツの諸憲法であったことが、あらためて確認される。

第二章以下では、穂積八束に代表される「正統学派」、美濃部達吉・市村光恵・佐々木惣一が属する「立憲主義学派」、正統学派とも立憲主義学派とも異なるもうひとつの立憲主義的な憲法学を展開した有賀長雄に分け、明治憲法下の代表的な憲法学者につき、その学説が考察される。なかでも穂積八束と美濃部達吉の憲法学が詳しく論じられている。

第二章では穂積八束の憲法学が考察される。「天皇即チ国家」などの標語に代表される穂積の特異な憲法論には、とくに憲法第4条の解釈などにおいて、明治憲法の起草者からしても君権主義的にすぎる議論が見られるが、これは、ドイツの実証主義国法学の理論の枠組に、国家と天皇の同一化による天皇の人格的支配の肯定という、穂積に独特な天皇理解を繋ぐことによって形成されたものであることが明らかにされている。

第三章では美濃部達吉の憲法学が考察される。周知のように、美濃部はドイツの実証主義国法学とりわけイェリネクに依拠して明治憲法を解釈したが、とくに憲法第4条については条文の文言から離れるまでにイェリネクの国家法人論と君主機関論を貫徹しており、「無理なる所」を露呈した。しかし、著者は、憲法第4条の解釈の過程においては美濃部が穂積とそれほど差異を見せていないことに注目する。両者は、国家を法主体として把握し、国家権力を国家の権力として位置づけ、法と権利を意思として理解したことにおいて共通している。これは二人がともにドイツの実証主義国法学を継承したことの当然の結果であるが、そのうえで、国家権力の主体について、穂積が天皇の人格的支配を肯定したのに対して、美濃部はあくまで国家という非人格的主体が権力主体であり(国家法人説)、天皇はかかる国家の機関であると主張した。両者は憲法解釈上の多くの論点において対極的な立場に立つが、憲法学の枠組から見るかぎり、両者の差異は国家における人格的主体としての君主の地位の差異にあるにすぎないと結論づけている。

第四章では市村光恵と佐々木惣一の憲法学が考察される。両者の憲法学は基本的には美濃部と変わらないが、佐々木においては、統治権の主体=国家と統治権の総攬者=天皇を区別し、天皇を「統治権の総攬者」として位置づけ、帝国議会などの国家機関と区別することによって天皇の特殊な地位が強調されたことが顕著な特徴であり、市村においては、国家法人論と憲法第4条の不調和が明言されたことに特徴があるとされる。

以上の検討に基づき、第二部の「中間まとめ」では、立憲主義学派と正統学派が概念枠組においてはともにドイツ実証主義国法学に依拠しつつ、誰が主権の主体であるかという国家権力の帰属の問題において袂を分かつこと、それゆえに、明治憲法第4条=「君主主義の定式」の解釈が明治憲法下の憲法学において最大の争点となり、天皇主権説と天皇機関説のあいだで論争がくり返されたが、その結果、日本の憲法学においては国家権力に対する法的制約の問題がほとんど等閑視されることになったと批判されている。

第五章では有賀長雄の憲法学が考察される。有賀の憲法学の特徴は、天皇を主権者ないし統治権の主体として認めながら、憲法を天皇と国民の協約として捉え、協約としての憲法による天皇の権力の制限を肯定するとともに、帝国議会を国民の代表機関として、天皇への完全な従属から解放したところにある。天皇は至高の権力機関であるが、権力行使において他の諸機関の協力を必要とし、とりわけ国民意思を代弁する帝国議会の制限を受ける。著者は、こうした有賀の立憲主義的な憲法学は穂積と美濃部が依拠した実証主義国法学ではなく、前期立憲主義国家論という19世紀ドイツ国法学におけるもうひとつの立憲主義モデルに拠っているとし、明治憲法下の日本においてももうひとつの立憲主義憲法学の可能性の萌芽が存在したことを指摘する。

最後に、結論では、明治憲法下の憲法学においては国家権力の主体の問題に関心が集中し、「いかなる意思が」よりも「誰の意思が」に眼が向けられたが、国民主権かノモス主権かという戦後の主権論争もかかる背景と無関係ではなく、現在の日本憲法学もこうした問題関心の歪みから自由ではないことなどが示唆されて、論文は締めくくられている。

以上が本論文の要旨である。

本論文の評価は以下のとおりである。

本論文の長所として、とくにつぎの四点を挙げることができる。

第一に、19世紀ドイツ国法学と明治憲法下の日本憲法学の学説史について、「君主主義原理の定式」という視点から照明を当て、それぞれを代表する学者の言説の重層的構造を浮き彫りにするとともに、両者の照応関係を明らかにすることにより、ドイツ国法学説史と明治憲法学説史を包括する、ひとつの透徹した見通しを呈示したことである。

「君主主義原理の定式」と「君主主義原理」の異同じたいについてはすでにドイツにおいて議論がなされているが、「君主主義原理の定式」という視点に徹底して19世紀ドイツ国法学説史を展望したものはほとんど例がない。また、明治憲法下の憲法学説をドイツの国法学説における国家観の変化との対応という観点から分析して、その構造を明らかにするという仕事は、日本でも憲法の研究者はほとんど手をつけてこなかったもので、今後の日本憲法学説史の研究にひとつの礎石を与えたものと言うことができる。

第二に、本論文で取り上げられた憲法学者には、とくにドイツの国法学者については、すでに優れた個別研究が公表されているものもあるが、著者はいたずらに二次文献に頼ることなく、それぞれの一次テキストを正面から取り上げて、丹念に読み込んでいる。こうした著者の研究者としての姿勢とそれを支える思索力は、高い評価に値する。また、引用された二次文献はやや限定されている憾みはあるが、選択は適切であり、研究史上転轍点となったものが消化利用されており、著者の研究者としての力量を示している。

第三に、個々の学者の学説研究としても、本論文は、ややもすれば実定法の解釈に傾斜して国家論的基礎への目配りを欠いていた従来の日本の憲法学者の研究に、多くの新しい知見を提供している。とくに、本論文で中心的に論究された穂積八束と美濃部達吉、とりわけ穂積憲法学がドイツ実証主義国法学の枠組のうえに前期立憲主義に類似する特殊日本的イデオロギーを繋ぎ合わせているという分析は、これまでややもすれば分かりにくいとして遠ざけられてきたきらいのある穂積八束の憲法学の全体像の解明に向けて大きな手がかりを与えるものである。また、佐々木惣一と有賀長雄の憲法学の分析は秀逸であり、日本憲法学説史研究に大きな刺戟を与えるものである。

第四に、本論文は、「君主主義原理の定式」という視点から日本憲法学説史を分析することにより、明治憲法下の学説において、なぜ権力の所在が第一次な論点とされ、権力に対する制約のあり方が二次的なものとみなされたかという問題について、ひとつの説得力のある見方を呈示したが、こうした明治憲法学の問題点は今日の日本の憲法学にもなお見られるところであり、著者が示した二つの立憲主義のモデルは、日本国憲法の解釈学にも反省を迫る現代的意義を含んでいる。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、視点を「君主主義原理の定式」に限定することによって、透徹した見通しが得られたことの反面として、個々の憲法学説が持っていた内容の豊かさと憲法学説相互の関係の複雑さが見失われた憾みがある。たとえば、「君主主義原理の定式」を欠くプロイセンにおいて「君主主義原理」の文脈で論じられた「欠缺理論」がプロイセン憲法争議を契機に触発した国法学の議論についても見通しを立てて、それを補助線として引いていれば、ドイツ国法学説史の重層的構造をより鮮明に明らかにすることができたであろう。

第二に、19世紀ドイツ国法学説史を分析した第一部に比して、明治憲法学説史を分析した第二部の叙述がややバランスを失しているように思われる。当時の日本の憲法学説がドイツの国法学説にほとんど全面的に依存していたという事情の下では、ある程度、致し方ないことではあるが、たとえば穂積八束の独特の天皇論について、また、もうひとつの立憲主義の可能性を示唆した有賀長雄について、より立ち入った考察がなされていたら、日本憲法学説史研究としての価値が一段と増したであろう。

第三に、日本語表記のミスが散見される。行論に影響を与える性質のものではないにせよ、著者の日本語による学問的表現力が高い水準にあり、文体も明晰であるだけに、瑕瑾が惜しまれる。

しかし、以上は望蜀の嘆というべきものであり、本論文の価値を大きく損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が独立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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