学位論文要旨



No 126360
著者(漢字) 神吉,知郁子
著者(英字)
著者(カナ) カンキ,チカコ
標題(和) 法定最低賃金の決定構造 : 日英仏の公的扶助,失業補償,給付つき税額控除制度を含めた比較法的検討
標題(洋)
報告番号 126360
報告番号 甲26360
学位授与日 2010.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第242号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩村,正彦
 東京大学 教授 荒木,尚志
 東京大学 教授 水町,勇一郎
 東京大学 教授 斎藤,誠
 東京大学 教授 浅香,吉幹
内容要旨 要旨を表示する

日本の法定最低賃金制度は,昭和34年に成立した最低賃金法のもと,地域別最低賃金と産業別最低賃金との重層構造を前提として,三者構成の最低賃金審議会が決定する方式を中心に据えていた。そのなかで,地域別最低賃金については,中央最低賃金審議会が提示する「目安額」の引上げ幅が,毎年の主要な関心事となっていた。

近年では,働く貧困層,すなわちワーキング・プアの存在が社会問題化し,最低賃金制度が労働者のセーフティーネットとして関心を集めるようになった。このような状況を背景として,平成19年に,最低賃金法が約40年ぶりに大改正された。

この改正により,最低賃金の考慮要素の一つである「労働者の生計費」の考慮にあたり,「労働者の健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう」,生活保護制度にかかる施策との整合性を確保すべきことが定められた。それまでは,生活保護制度と最低賃金制度は全く異なる制度であると考えられてきたが,平成19年改正により,両者がはじめて法的に関連づけられたのである。

平成19年改正は,最低賃金に関してはじめて絶対額の概念を導入し,また,「社会保障制度との整合性」という新たな考慮要素を取り入れたと同時に,2つの課題を提起した。第一の課題は,最低賃金の決定方法のあり方であり,これは,いかなる正当化原理をもって契約自由の原則を修正するかという問題である。第二の課題は,最低賃金の水準のあり方であり,社会保障制度と関連する問題である。

本稿は,これら2つの課題について,日英仏の制度の比較法的検討を通じて示唆を得ることを目的とする。具体的には,各国の最低賃金制度の歴史的経緯から,基本的な理念や決定方法を分析し,同時に社会保障制度との有機的関係を考察することによって,日本の最低賃金法制の特質を確認し,その課題と解決の方向性を明らかにすることをめざした。

まず,決定方法のあり方を分析するにあたっては,契約自由の原則を国家の介入によって修正するという点に着目して,手続的正当化アプローチ(最低賃金の額自体は直接問題とせず,決定手続における労使当事者の合意を正当化根拠とするアプローチ)と,実体的正当化アプローチ(最低賃金の額それ自体の妥当性を問題にし,そこに一定の内容が実現されていることをもって正当化根拠とするアプローチ)という2つの分析軸を用いる。

また,水準のあり方の分析にあたっても,2つの視点から検討した。まずは,対象や期間の面から,最低賃金制度と社会保障・税制の構造的関係を考察し,次に,最低賃金と社会保障給付の水準の相対的な関係に着目した。

イギリスでは,1909年以降,三者構成の産業委員会と,それを1945年に改組した賃金審議会が最低賃金を決定する方式が採られていた。そこでは,団体交渉の促進によって苦汗労働問題を解決するという考えが基礎となっていた。すなわち,イギリスでは,伝統的には,労使の合意を最も優先し,政府はその決定内容を規制しないという,純粋な手続的正当化アプローチが採用されていた。しかし,1998年には全国最低賃金制度が導入され,三者構成の独立の低賃金委員会が,その出身母体の利害から離れて,客観的な指標や調査結果を重視して最低賃金額を勧告する方式を採用した。これは,最低賃金の額それ自体を問題視するようになったといえ,実体的正当化アプローチへの転換であったと評価できる。

一方,フランスは,伝統的に実体的正当化アプローチを採用していた。すなわち,1950年の全職域最低保証賃金(SMIG)制度から1970年の全職域成長最低賃金(SMIC)制度と変遷のなかで,最低賃金制度は一貫して労働者の最低生活保障という目的で制度設計され,最低賃金が物価や平均賃金の伸びと連動するものとされた。そして,労使の意見を反映させる仕組みは最小限にとどまっていた。もっとも,近年,就業構造の変化にともなって,SMICが果たしうる役割の限界が意識されるようになり,2009年にはイギリスの低賃金委員会と類似の役割を担う専門家委員会が設置されるなど,いくつかの改革が行われており,英仏の最低賃金決定に関するアプローチは,次第に接近しつつあるといえる。

次に,両国における社会保障制度・税制との相対的な関係を確認する。

イギリスでは,労働能力者は就労義務を要件とする求職者給付の対象となり,公的扶助である所得補助はそれ以外の者を対象とする。そして,就労しているにも関わらず所得が一定水準を下回る世帯に対しては,給付つき税額控除という,段階的な所得補完制度が存在する。そのため,全国最低賃金制度の決定は,社会保障・税制度の決定とは無関係とされている。すなわち,最低賃金は単価を問題とするのに対し,給付つき税額控除は世帯の所得を問題とする制度であって,より直接的に貧困に対処することができる。これにより,低賃金がそのまま低所得(貧困)につながらない仕組みが構築されている。このため,最低賃金の水準と社会保障給付水準とは,法的にも相互に参照する規定はなく,社会保障給付の引き上げは物価のみを考慮要素とする。また,全国最低賃金の決定に際しては,雇用へ影響を与えない範囲での低賃金の改善が図られ,生活賃金という考え方は明確に排除されている。

一方,フランスでは,最低賃金法制は労働者の生活保障を目的として発展してきたため,共通の目的をもつ社会保障制度との相互関係が重視される。失業者は,保険制度の対象か否かで雇用復帰援助手当(ARE)・連帯特別手当(ASS)または公的扶助である活動連帯所得(RSA)の対象となり,無期限で所得保障を受けることができるが,どちらも積極的な求職活動が要件である。また,社会保障制度と最低賃金制度とは有機的に関連づけられており,労働能力者を対象とする社会保障給付は,雇用への復帰を促すために,必ずフルタイムSMICを下回るように設定されている。もっとも,近年では,非正規雇用の増加とともにSMICの限界が指摘されるようになり,雇用手当(PPE)が創設された。これは,就労インセンティブを損なわずに低所得者への援助を図る,給付つき税額控除である。このように,フランスでは,最低賃金制度と労働能力者に対する社会保障・税制度とが関連づけられ,就労インセンティブを損なわずに最低所得を保障する仕組みが構築されている。

両国の違いは,想定されている法定最低賃金の役割の違いを反映したものといえる。イギリスは,低賃金問題と貧困問題とを完全に区別し,貧困は社会保障制度・税制によって対応することとしている。したがって,イギリスにおける法定最低賃金制度は,あくまでも賃金制度の枠内に位置づけられており,その役割は,経済の秩序を維持するという目的を含む社会における公正さの実現におかれている。

一方,フランスは,最低賃金は労働者の生活保障を一次的な目的としている。そのため,最低賃金と社会保障制度・税制は最低生活保障という目的で共通するものであり,政府がそれら全体を制度設計している。もっとも,フランスにおいても,低賃金問題と貧困問題とは別の問題であると考えられるようになっており,働く低所得層に対して所得を補完するための社会保障・税制度がおかれている。そのうえで,最低賃金は労働の価値を象徴する役割を果たしている。

日本の地域別最低賃金制度はこれまで,三者構成の最低賃金審議会において,当事者の利益のバランスを図ることを重視してきた。そこでは,地域別最低賃金の役割は,労使双方が納得する公正な賃金の実現であったといえる。そして,それ以上の政策的な要素を反映する仕組みは存在せず,その必要性も意識されてこなかった。

平成19年改正により,生存権保障の理念が取り入れられ,地域別最低賃金の役割が,公正な賃金の実現から労働者の最低生活保障へと変化したにもかかわらず,手続的アプローチを中心とした決定方法が以前のまま維持されていることは大きな問題である。日本では,失業保険の受給期間をすぎた長期失業者や,働く貧困者の最低所得を保障する制度がきわめて乏しい。そのなかで,労働者に対する唯一の安全網として,最低賃金の果たす役割に過大な期待が寄せられている。今後は,低賃金問題への対処と,貧困問題への対処との違いを明確にし,最低賃金独自の役割を画することが重要となってくるだろう。

比較法からの示唆としては,まず,イギリスの全国最低賃金制度からは,同じ三者構成の審議会制度をもちつつ,中央での団体交渉とは全く違うプロセスを実行している点に着目した。すなわち,低賃金委員会は,政府からも出身母体からも独立した立場で調査にあたり,客観的な統計データに基づいて,統一的な結論に至ることを重視している。地域別最低賃金の決定方式についても,イギリスを参考に,中央における団体交渉以外のあり方を模索することが考えられる。一方で,一貫して実体的正当化アプローチを採用してきたフランスの全職域成長最低賃金制度からは,日本においても何らかの客観的基準を採用するという選択肢が示唆される。と同時に,フランスでは,自動的な増額を見直す修正が図られたことに留意すべきである。すなわち,賃金水準と所得水準とが乖離しつつあるという認識のもと,最低賃金法制のもつ最低所得保障としての役割が,低賃金労働者や経済全体に悪影響を及ぼさない限度にとどめようとされている。就労構造の変化とともに最低賃金の最低所得保障機能が弱まっているという現実は,日本にも共通する。単に何らかの基準を採用するのではなく,より精緻な仕組みが必要とされているのだといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、これまで本格的に法学的研究が行われたことのない最低賃金制度について比較法研究に取り組み、最低賃金に関する次の二つの基本的課題を解明しようとしたものである。第一の課題は、賃金の最低額を国家が定めるという最低賃金制度が、いかなる正当化原理をもって契約自由の原則を修正するのかという最低賃金の決定方法のあり方の問題である。第二の課題は、社会保障や税制など最低賃金制度以外の生活保障のための諸制度との関連で、最低賃金の額をどのようなレベルに設定すべきかという最低賃金の水準の問題である。本論文は、この課題の検討に当たり、対照的な最低賃金制度を持つイギリスとフランスを取り上げ、制度内容と機能、関連諸制度との関係等を分析し、日本法についても今後の最低賃金制度を考える方向を提示したものである。

本論文は第1章序論、第2章日本、第3章イギリス、第4章フランス、第5章総括からなる。

第1章序論は、最低賃金制度を分析するに当たって、2つの問題意識とそれに対する分析軸を示す。第1に、賃金の最低額を国家が定めるという最低賃金制度が、いかなる正当化原理で契約自由の原則を修正するのかという課題を掲げ、これについては、決定手続において労使当事者の合意があることを根拠とする手続的正当化アプローチと、最低賃金額が最低生活保障など、一定の内容を実現する額であることを根拠とする実体的正当化アプローチという二つの軸で分析すること、第2に、最低賃金額はいかなる水準に設定されるべきかという課題について、社会保障や税制など最低賃金制度以外の制度との関連を視野に入れ、それらの給付の水準と最低賃金の連動性に着目して分析すること、を課題として提示する。そして、かかる課題を検討するために、まず、イギリス、アメリカ、オーストラリア、フランス、ドイツ、オランダの最低賃金制度を検討し、労使が最低賃金決定に深く関与するグループと、労使の関与が限定的で物価指数や協約賃金上昇率など客観的指標によって決定するグループに大別している。そして、最低賃金制度の歴史的展開や社会保障制度との関係から比較法的に有益な示唆を得られる予想される国として、前者のグループからイギリスを、後者のグループからフランスを比較対象国として選定している。

第2章日本では、日本の最低賃金制度の展開と平成19年の最低賃金法改正の内容、そして最低賃金制度と社会保障制度(雇用保険、生活保護)の関係について詳細な分析を加える。日本の最低賃金制度は、労働者の生活の安定、労働力の質的向上、事業の公正な競争、国民経済の健全な発展を目的としていること、決定方式としては公労使の三者構成による最低賃金審議会によっており、考慮要素としては地域における労働者の生計費(これについて平成19年改正で健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性配慮が新たに規定された)、地域における労働者の賃金、通常の事業の賃金支払い能力が挙げられること、などを明らかにする。他方、社会保障制度との関係については、労働能力のある稼働年齢の者に対しては雇用保険の失業給付が中心で、最長1年までの給付にとどまり、長期失業の場合、十分な生活保障を提供し得ないこと、生活保護制度は、補足性要件の厳格な適用により、労働能力のない者のための制度となっており、稼働年齢にあるワーキング・プアに対する制度が皆無であること、その結果、この問題への対処を最低賃金制度に期待するという状況が生じていることを明らかにする。

第3章イギリスでは、イギリスの最低賃金制度の興味深い展開を丁寧に跡づけている。すなわち、自由放任主義の下で社会問題化した苦汗産業における労働条件改善、そして自発的団体交渉の促進という目的の下に、1909年に最初の最低賃金制度として産業委員会制度が導入された。同制度を1945年に改編した賃金審議会制度では、上記2つの目的のうち団体交渉促進目的が全面に出され、賃金審議会は法定の団体交渉の場となり、労使合意がそのまま政府によって賃金命令として公布され、法的強制力が与えられた。賃金審議会制度は、やがてイギリスの経済成長とともに、その存在意義が疑問視されるようになり、ついに自由主義を標榜する保守党政権下で1993年に廃止される。

しかし、労働党政権になると1998年に全国最低賃金法が制定され、イギリスで初めて全産業の全労働者を対象とする全国一律の最低賃金制度が確立する。ここでは、最低賃金の決定権限は政府にあるものの、実際には政府から独立した三者構成の低賃金委員会の全会一致の勧告で決定されている。低賃金員会は労使交渉の場ではなく、委員は出身母体から独立した個人として参加し、種々の統計データや調査結果に基づき、客観的な根拠を示して、経済に悪影響を及ぼさない範囲で低賃金問題を改善するという政策決定(根拠に基づく政策決定)を担うものと位置づけられている。

イギリスの最低賃金の額の決定では、生活賃金という考え方は明確に排除され、最低賃金額と社会保障・税制度とが相互に参照し合う関係にはない。公的扶助である所得補助制度は就労できない者のみを対象としており、就労しているにもかかわらず所得が一定水準を下回る世帯に対しては、給付つき税額控除により段階的な所得補完制度が用意され、低賃金がそのまま貧困につながらない仕組みが構築されている。つまり最低賃金の水準自体が労働者の最低生活保障に与える影響はそれほど大きくなく、また、就労インセンティブは最低賃金と社会保障給付との間に差をつけることではなく、段階的な給付つき税額控除を設けることで与えるという仕組みが採られている。

第4章フランスは、まず、フランスの最低賃金制度の展開を概観する。初めての本格的最低賃金制度である1950年の全職域最低保証賃金(SMIG)では、三者構成の労働協約高等委員会が最低生存費を具体化した標準生計費を研究・答申し、これを受けて政府が額を決定する制度を採用したが上手く機能しなかった。そこで1952年からは消費者物価指数の上昇により自動的に最低賃金額を改定する物価スライド制が導入された。しかし、SMIGは1960年代の高度成長期の実質平均賃金の伸びに追いついていないとの批判が生じ、1970年に全職域成長最低賃金(SMIC)へと改編される。SMICは、SMIGから引き継いだ低賃金労働者の購買力の保障という目的に加えて、新たに低賃金労働者の国民経済の発展への参加の保障をも目的とした。これにより、最低生活保障という絶対的貧困概念から、社会の他の世帯と比較して著しく異なった状態、平均からの乖離という相対的貧困概念が最低賃金制度の視野に取り込まれることになる。そこでSMICの決定方式も変更され、物価スライドに加え、平均賃金スライドが導入され、これに政府裁量による上積みが加わる制度となった。

しかし、1990年代以降、パート労働者等の非典型雇用の増加により、時間額を定めるSMICによっては最低生活を保障しえなくなっていること、高水準のSMICが特に若年者の雇用に悪影響を及ぼしていることが問題化している。そこで、サルコジ政権下では、専門家委員会が設けられ、スライド制を下回る額の提案も可能とされている。

フランスの最低賃金制度は労働者の生活保障のために発展してきた制度であるため、共通目的を持つ社会保障制度との有機的な関連づけがなされている。社会保障制度においては、保険対象者の失業時の所得保障のためには連帯特別手当(ASS)が、それ以外のものには公的扶助である活動連帯所得(RSA)が支給される。これらの社会保障給付は、雇用復帰を促すべく、必ずフルタイムSMICを下回るように設定されている。給付つき税額控除である雇用手当(PPE)も、就労インセンティブを奪わないようにフルタイムSMICを基準に支給率が設定されている。このように、最低賃金と社会保障給付は相互に関連づけられ、最低賃金は労働の価値を体現するものとして、すべての社会保障給付に優越して高い水準に設定され、社会保障給付の決定に当たって参照されている。

第5章総括では、以上の比較法的分析に基づき、英仏の最低賃金制度の特徴をまとめた後、本稿の2つの課題について次のように総括する。第1の最低賃金の決定方法のあり方について、イギリスでは産業委員会制度および賃金審議会制度の下では、決定すべき最低賃金の具体的内容や拠るべき基準、考慮要素などは法定されず、三者構成の産業委員会・賃金審議会における労使合意がすべてに優越するという純粋な手続的正当化アプローチが採用された。しかし、1998年の全国最低賃金制度の下では、最低賃金決定にあたり経済全体およびその競争力に与える影響を考慮すべきことが法定され、三者構成ながら出身母体とは独立した委員による低賃金委員会が、客観的データと根拠を公表して行う勧告に基づいて最低賃金を決定する実体的正当化アプローチに転じた。

これに対してフランスの最低賃金制度は、SMIGからSMICに至まで、労使合意を基礎とするものではなく、最低賃金が最低生存費という実質的内容を確保していることを正当化根拠とする実質的正当化アプローチを一貫して採用している。もっとも2009年の専門家委員会の役割はイギリスの低賃金委員会に近く、英仏のアプローチには一定の接近傾向も見られる。

第2の最低賃金水準のあり方については、イギリスの最低賃金制度と社会保障・税制が相互に関係しない非連続型であるのに対して、フランスの最低賃金は、労働者の生活保障を目的として発展してきたため、共通の目的を持つ社会保障・税制とは相互に参照される連続型であるという好対照をなす。

そして最低賃金の役割として、イギリスは低賃金問題と貧困問題を区別し、前者が最低賃金制度の、後者は社会保障・税制の対処すべき問題とされていること、フランスでは最低賃金が労働者の生活保障を一次的目的とし、低賃金問題と貧困問題を最低賃金と社会保障・税制共通の課題と捉えてきたが、近時、両者の区別が認識されつつあり、最低賃金は労働の価値を象徴する役割を果たすべきものとされている。

以上の比較法分析を踏まえ、本論文は、日本の最低賃金法について、平成19年改正で、生活保護制度との整合性を考慮することとなり、実体的正当化要素を導入したが、最低賃金の決定方法のあり方は、三者構成の最低賃金審議会における労使交渉を中心とする手続的正当化アプローチを維持しており、実体的正当化要素をどのように考慮していくかという課題に直面していること、最低賃金の水準のあり方については、生活保護が実際上、労働能力を持たない者のための制度となっており、長期失業者や働く貧困層に対する施策が乏しい中で、最低賃金制度に労働者の生活保障に対する過大な期待が生じている可能性があること、したがって、最低賃金に社会保障・税制との関係でいかなる役割を与えるのかを、その機能の限界を意識した上で明らかにすべきことを指摘している。

以上が本論文の要旨である。

本論文の長所としては次の点が挙げられる。

第1に、格差拡大や平成19年改正等で関心が高まったにもかかわらず、複雑で技術的な要素を多く含み、その全体像がつかみにくく法律学による本格的な検討がなされてこなかった最低賃金制度について、日英仏の最低賃金法制を、社会保障・税制による生活保障のための類似の制度との関係を含めて本格的かつ包括的に検討したものであり、緻密さとスケールの大きさを備えたパイオニア的研究として、学界に対し貴重な貢献をなすものといえる。

第2に、対照的な最低賃金制度を持つイギリスとフランスの制度について、1)契約自由を制約する規制としての最低賃金の決定方法(手続的正当化アプローチ、実体的正当化アプローチ)と、2)社会保障制度や税制における生活保障の制度との関係から見た最低賃金の水準のあり方、という2つの分析軸を立て、統一的視点から、英仏の最低賃金制度を分析し、両国の法制度の特徴を明らかにした点が、高く評価できる。1)については、各国の最低賃金の目的・機能・最低賃金決定における考慮要素の変化などを歴史的にたどることで、両アプローチの特徴や課題を浮き彫りにしている。2)については、社会保障制度(失業補償、公的扶助)や税制(給付付き税額控除)による生活保障のための制度との連続性のないイギリスと、連続性のあるフランスを対比させ、両国の特徴を明らかにしている。本論文は、この二つの分析軸を交差させて両国の制度を分析したことにより、英仏の最低賃金制度の特徴と機能、他の関連制度との関連・位置づけ、両国の制度の展開の意義などを解明することに成功しており、オリジナリティに富む高い水準の比較法研究ということができる。

第3に、比較法的検討から、日本の最低賃金の決定方法、最低賃金水準のあり方という課題について、今後の有益な検討の方向を引き出すことに成功している。すなわち、日本は、最低賃金の決定方法については手続的正当化アプローチ(団体交渉方式)のまま、実体的正当化要素である生活保護との整合性問題に対処させようとしている点が問題であるとする。そして、この問題を克服するには、手続的正当化アプローチから実体的正当化アプローチに転換したイギリスの低賃金委員会の客観的データに基づく決定方式が参考となるとする。また、日本では平成19年改正で、最低賃金と生活保護制度の整合性が問題となったが、この問題についても、両者を切り離して対処してきたイギリスと、連携させて捉えてきたフランスで、それぞれ最低賃金の機能の限界と他制度による補完が論じられていることを指摘し、日本の議論が最低賃金制度と社会保障制度の関係について検討を深めることなく最低賃金を労働者の唯一の安全網と捉えて過大な期待を寄せているとし、社会保障制度と最低賃金制度の位置づけの再検討に基づく大局的対応を検討すべきとする。いずれも包括的な比較法的検討なくしては見えてこない分析であり、今後の日本の最低賃金制度を考える上で貴重な視点を提供するものといえる。

もっとも本論文にもさらに改善すべきと思われる点がないではない。

第一に、英仏の比較法研究については、複雑かつ技術的な諸制度を扱っているにもかかわらず、かなり見通しの良い分析に至っているのではあるが、本論文の設定した分析軸に従ってさらに整理が可能であったのではないかと思われる点も散見される。

第二に、日本法については、現行制度の問題点について有益な検討の方向を提示してはいるが、比較法分析から得られる豊富な示唆を踏まえると、現行法の解釈論や最低賃金決定制度について、より踏み込んだ検討や具体的提言があってもよかったのではないかと惜しまれる。

以上のように改善すべき点がないわけではないが、これらは本論文の価値を大きく損なうものではなく、むしろ本研究の今後の広がりを期待させるものといえる。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者として高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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