No | 126365 | |
著者(漢字) | 井手,弘子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | イデ,ヒロコ | |
標題(和) | ニューロポリティクス研究 : 脳(神経)科学の方法を用いた政治行動研究 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 126365 | |
報告番号 | 甲26365 | |
学位授与日 | 2010.09.27 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(法学) | |
学位記番号 | 博法第245号 | |
研究科 | 法学政治学研究科 | |
専攻 | 総合法政 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 現代政治学の歴史においては、心理学や経済学など他分野の方法を積極的に取り入れて政治行動や制度の研究が行われてきているが、今世紀に入って、ここ数十年の間に飛躍的に発展した脳科学(Neuroscience)の方法を用いた政治行動や政治的認知の研究が行われ始めている。アメリカの政治学ではそのような研究を指して「ニューロポリティクス(Neuropolitics)」という新しい名称も用いられているが、脳科学の方法を用いて政治研究を行うことはどれほど有効なのだろうか。 本稿は、今回著者らが行った政治学分野では日本において初めての機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた実験研究を報告しつつ、そのような問いに対する回答を試みるものである。ニューロポリティクス研究は始まったばかりでまだ蓄積が少ないことから、現段階でその有効性を論ずるにあたってはその総体を見通す視点が必要と判断し、本稿は幅広く主要な論点を取り上げることとしているが、全体の主旨を手短にまとめるならば、その回答は以下のようになろう―ヒトが政治的環境をどのように認知し、政治的環境に対してどのように働きかけるか、といったメカニズムを実際の過程に沿って理解するには脳科学の方法は不可欠であり、よって脳科学の方法を政治学において用いることは非常に有効であるが、同時に技術的・倫理的課題に留意しながら研究を進める必要がある。 詳細な回答は、各章における議論を通じて行われる。第1章では、まずニューロポリティクス登場の背景として、政治心理学と実験政治学の2つの潮流について概観する。脳科学の方法を用いた政治的認知や行動の研究は、政治学の歴史において突然に現れた訳ではない。ニューロポリティクスの登場を促した要因としては、fMRIなどの脳機能計測技術の飛躍的向上により脳科学の社会的行動研究への進出が容易になったという画期的展開があるが、政治学内にもその伏線とも言うべき歴史的発展が存在する。その1つが政治心理学であり、政治行動の心理面に注目した研究が行われてきている。もう1つの重要な背景は、近年の政治学における実験という方法の再評価であり、脳科学の方法の導入は、これらの延長線上に捉えることができる。次に脳科学の方法を用いた政治に関する実証研究のレヴューを行うが、政治学者によるニューロポリティクス研究はまだ少なく、政治学者が脳科学者と共同で行った政治行動の脳科学実験が専門誌に論文として掲載されたのは、今回の我々の実験結果の報告が初めてである。よって脳科学者や心理学者が政治的意思決定を取り上げた研究や他の社会科学分野における関連研究など、学際的なものを含め見ておくこととしたい。第1章の最後では、ニューロポリティクス研究の意義について考察を行う。 第2章においては、政治学にとっては馴染みの薄い脳科学の方法について、ニューロポリティクスの研究結果を理解する上で役に立つ範囲で簡略に紹介を行う。まずはじめに、脳の構造と機能について手短に説明した後、脳活動を理解する上で用いられる脳のマッピングがどのようなものか、マッピングのために行われる脳機能計測の方法にはどのようなものがあるか、を見ていく。最後に脳機能計測の方法の1つで1990年代に開発され社会的認知研究に大きく貢献しているfMRIについてより詳しく紹介する。 第3章では、今回著者らが行ったfMRI実験研究を報告するにあたり、その背景を見ておくこととする。今回の実験は選挙キャンペーンテレビ広告の認知を取り上げるものであるが、選挙は政治学において主要な研究対象であり、投票行動を左右すると考えられる選挙キャンペーンは選挙研究の重要なトピックの1つである。選挙広告、特に影響力が強いと考えられ近年増加しているネガティブ選挙広告の認知過程について、先行研究では相対立する実証研究結果が示されており、研究手法の限界もあって認知過程メカニズムの解明は困難であった。今回の実験は、脳科学の方法であるfMRIを用いてテレビ広告の認知過程を明らかにしようとするものである。また、選挙広告をめぐる心理過程を検証するには「説得」とそれに伴う「態度変容」について理解しておく必要がある。第3章の後半では、これらについて概念整理を行う。 第4章は、今回の実験結果を報告し既に公表されている英語論文(Kato et al. 2009)を主に翻訳したものとなっている。実験においては、40名の実験参加者がそれぞれ1992年の大統領選挙のテレビ広告と比較のために用いた商品の広告を視聴している間にfMRI撮像が行われた。用いた広告はポジティブな内容とネガティブな内容を区別し、選挙広告を用いたMRI装置内でのタスクは、2人の大統領候補に関するポジティブな広告を見た後にどちらの候補を支持するかを答え、次に支持した候補が攻撃されるネガティブ広告を視聴して再度どちらの候補を支持するかを回答し、最後にもう1度両候補のポジティブ広告を見て支持候補を回答する、というものであった。商品広告に関しても同様のタスクが行われている。撮像の後には「感情温度計」を用いて各候補に対する各広告セッション後の感情温度(選好/態度)を聞くなど質問調査が行われた。質問回答に基づく行動レベルのデータと撮像された脳のデータを用いた分析の結果、選挙のネガティブ広告を見て候補の選択が変わった18名(変化グループ)は、選択が変わらなかった22名(変化なしグループ)に比べ前頭前野(頭部の前方)の外側(背外側部)により強い活動が見られ、変化なしグループは、変化グループに比べ前頭前野の内側により強い活動が見られた。さらにより注目すべきことに、参加者全体において、感情温度の変化とこれらの前頭前野の異なる部位における脳活動との間にそれぞれ統計的に有意な相関が確認され、相関の方向は背外側部と内側部で逆であった。より具体的には、「(変化グループでより強い活動の見られた)背外側部前頭前野におけるネガティブ広告視聴中の脳活動」と「広告で攻撃された候補に対する感情温度の変化(ネガティブ広告視聴後の攻撃された候補に対する感情温度-同広告視聴前の同候補に対する感情温度)」との間に負の相関が見られた。つまり、広告で攻撃された候補に対する感情温度が下がった人ほど、前頭前野の背外側の部位でより強い活動が見られたのである。他方、(変化なしグループでより強い活動の見られた)内側部前頭前野に関しては、この部位におけるネガティブ広告視聴中の脳活動と広告で攻撃された候補に対する感情温度の変化との間に正の相関が示された。すなわち、広告で攻撃された候補に対する感情温度が下がらなかった人ほど、前頭前野の内側の部位でより強い活動が見られたのである。分析において活動の検出された前頭前野は、認知コントロールを行うと考えられている。以上の結果から、実験の参加者が自分の支持する候補者が攻撃される広告を視聴して、広告から得る情報を判断するという認知的な情報処理を行っている可能性、そして、その結果により支持の変化や支持の継続が左右されている可能性が示唆されている。 以上の分析結果を受けて、第5章では、今回の実験研究が政治学研究にとってどのような意味を持つかについて考察を行う。今回の分析においては、感情温度計に基づく行動指標と前頭前野における脳活動の間に相関が見られたが、この結果は、感情温度計が測定した選好変化が認知的過程と関連する可能性を示し、感情温度計という行動指標が何を意味しているのかについての新しい見方を提供している。このような脳活動分析の結果が蓄積されることで、行動の背後にある心理過程が明らかにされ、行動データを解釈する上での指針となる可能性がある。このような観点から、ニューロポリティクス研究の行動研究への貢献を確認するため、今回の実験結果をふまえて行動データ分析を行ったところ、ネガティブ広告視聴後の候補者選択の変化の有無が、ネガティブ広告視聴前後の攻撃された候補に対する感情温度の変化とネガティブ広告視聴前の支持候補に対する相対的選好によってほぼ説明される、といった分析結果も得られた。次に、今回の実験結果が政治学における既存のネガティブ・キャンペーン研究に対して何を意味しているかについても考察を行っている。先に言及したネガティブ・キャンペーン研究における相対立する実証結果は、政治におけるネガティビティをどう捉えるか、についての相対立する規範的見方とも結びついている。今回の実験結果は、ネガティブ広告が認知的に処理されていることを示唆しており、ネガティビティを肯定的に捉える見方を後押しするものと考えることができる。さらに今回の実験はそれだけにとどまらず、実験参加者が候補者の政党に党派的に傾倒していなかった点に着目すると、ネガティブ情報の処理過程が党派性によって異なる可能性を示す結果となっている。 最終章となる第6章においては、今後のニューロポリティクス研究にどのような可能性があるか、また課題は何か、について考察を行う。まずはじめにニューロポリティクスの研究対象の主なものについて、現状と今後の方向性の検討を行う。さらにニューロポリティクス研究の今後の展開にとって重要と考えられる関連分野の状況を概観し、政治学研究者が脳科学の方法を用いるために必要な共同研究やトレーニングについても言及する。他方、ニューロポリティクスの大きな課題の1つとして倫理の問題が挙げられる。第6章の後半では、ニューロポリティクスの倫理について考えるにあたり、脳科学研究をめぐる倫理の問題についてまず概観し、最後に大学など研究機関における倫理審査委員会のあり方を見ておくこととしたい。 | |
審査要旨 | 脳科学(Neuroscience)の分野では、近年飛躍的発展を遂げた脳機能計測の方法を用い、社会的行動や社会的認知の研究が行われ始めている。その内、特に政治行動に関わる研究はニューロポリティクス(Neuropolitics)と呼ばれ、認知科学者のみならず社会科学者の間でも学際的関心を集めている。本論文は、筆者を研究グループの事実上のリーダーとして研究計画が設計され実施された研究であり、政治学分野では日本において初めての機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて行われた実験研究を報告し、その成果を政治学の立場からも考察することで、この新しい学際的分野の意義を明らかにするものである。本論文は、脳科学の方法を政治行動の分析にも応用する有効性を論じる一方、研究を進める上での技術的・倫理的課題にも十分留意し議論を行うという貴重な特徴も有している。 第1章は、政治学と脳科学の両者において本論文の問題関心を位置づける。ニューロポリティクス登場の背景として、政治学内にもその伏線とも言うべき歴史的発展が存在する。その一つが政治心理学であり、政治行動の心理面に注目した研究が行われてきている。もうひとつの重要な背景は、近年の政治学における実験という方法の再評価であり、脳科学の方法の導入は、これらふたつの研究動向の延長線上にあるものと捉えることができる。本章では、政治行動理論や政治的意思決定・情報処理モデルに関わる研究を総説した上で、これらの蓄積の延長上に、ニューロポリティクス研究が進められることで、政治的認知や政治的意思決定の理解をより深めて行くことが期待されると主張する。脳科学者や心理学者が政治的意思決定を取り上げた研究や、行動経済学など他の社会科学分野における関連研究も総説し、その上で、現実政治現象に精通する政治学者が、現実の状況になるべく近い実験系を復元することは、学際的研究の意義であり方法論的革新であると結論づける。 第2章においては、政治学にとっては馴染みの薄い脳科学の方法について、ニューロポリティクスの研究結果を理解する上で役に立つ範囲で簡略に紹介を行っている。まず初めに、脳の構造と機能について手短かに説明した上で、脳活動を理解する上で用いられる脳のマッピングがどのようなものか、マッピングのために行われる脳機能計測の方法にはどのようなものがあるか、を紹介し、その上でfMRIについてより詳しく説明する。 第3章では、次章で取り上げる実験の背景を、既存の選挙キャンペーン研究と詳細に関連づけ論じる。投票行動を左右すると考えられる選挙キャンペーンは選挙研究の重要なトピックのひとつであり、有権者の心理過程に関する考察を基に様々な実証研究が行われてきた。その一方で、政治学の行動を分析する研究手法の限界から心理過程メカニズムの解明は困難であった。特に、影響力の強いと考えられるネガティブ広告は、有権者の感情に訴えかけているのか、それともネガティブな情報であってもそれを判断するという有権者の認知活動を促すのかに関し、相対立する実証研究結果が示され、議論の進展が難しい状況にある。本論文の実験は、選挙キャンペーンにおけるテレビ広告を実験の素材として取り上げ、この重要な研究課題に取り組むものである。 第4章は、筆者が携わった実験を紹介し、その結果を報告する。本実験は、政治学研究者が主体的に関わった脳科学実験としては世界で初めて、脳科学の英文専門誌に採録されたものである (Kato et al. 2009)。実験においては、40名の参加者がそれぞれ1992年の米国大統領選挙のテレビ広告と、比較のために用いた商品の広告を視聴している間にfMRI撮像が行われた。被験者は、fMRI装置内で2人の大統領候補に関するポジティブな広告を見た後、どちらの候補を支持するかを答え、次に支持した候補が攻撃されるネガティブ広告を視聴して再度どちらの候補を支持するかを回答し、最後にもう1度両候補のポジティブ広告を見て支持候補を回答した。商品広告に関しても同様のタスクが行われている。fMRI撮像の後には「感情温度計」を用いて、各候補に対する各広告セッション後の好悪のレベルを、50度を中立とし0(嫌い)から100度(好き)までの温度になぞらえ回答するよう質問し、選好のレベルを数値化した回答を得た。 分析の結果、選挙のネガティブ広告を見て候補の選択が変わった18名(変化グループ)は、選択が変わらなかった22名(変化なしグループ)に比べ前頭前野(頭部の前方)の外側(背外側部)により強い活動が見られ、変化なしグループは、変化グループに比べ前頭前野の内側により強い活動が見られた。さらに注目すべきことに、参加者全体において、感情温度の変化とこれらの前頭前野の異なる部位における脳活動との間にそれぞれ統計的に有意な相関が確認された。前頭前野は、認知コントロールを行うと考えられている。 以上の結果から、変化グループでは、参加者が支持する候補者が攻撃される広告を視聴して、広告から得る情報を判断するという認知的な情報処理を行っている可能性、その結果により支持の変化や支持の継続が左右されている可能性が示唆されている。これは、行動の観察による従来の政治学の実証研究の限界を超え、心理過程の理解を進める可能性を示唆する。前頭前野活動を特定した本研究の実験結果は、物に対する選好及び物質的利害得失に関わる脳の部位(報酬系)や感情や情動に関わる部位が、社会的行動の際にも強い活動が見られるという脳科学の既存研究成果に一石を投じるものでもある。さらに、変化グループにより強い活動が観察された前頭前野の部位は、過去の実験において、他者間の意図の齟齬を発見した際に活動が観察された部位であり、非変化グループにより強い活動が観察された部位は、与えられた言語命題の正否を(社会的コンテクストとは全く関係なく)演繹的に判断する際に活動が観察された部位であった。この二つは全く異なる種類の認知判断でありながら、両者とも、他者を判断するのに必要な能力と考えられる。この意味で、実験結果の解釈は、他者を自分と異なる信念や考え方、すなわち心を持つ存在であると理解できるその能力の解明をはかる「心の理論(TOM: Theory of Mind)」にも通じる含意を持つ。 以上の分析結果を受けて、第5章では、本論文の実験研究が政治学研究にとってどのような意義を持つかについて考察を行う。感情温度計は、世論調査において50年以上用いられ、選挙研究のみならず政治文化研究にも大きな影響を与えてきた手法である。候補者などに対する感情温度が結果の説明や推論に経験主義的に有効であることは確認されてきたが、実際には温度が心理活動の何を計測しているのかは明確でなく、また計測値(温度)を個人間で比較することの問題に関しても議論がある。本論文の研究結果は、感情温度として測定された選好変化が脳活動の変化と関係している可能性を示した点で画期的である。 この可能性を追求すべく、ニューロポリティクス実験から得られた被験者の感情温度の変化を、新たに行動変化の観点から分析した。ロジスティック回帰分析の結果、感情温度のレベルとその変化(具体的にはネガティブ広告視聴前後の攻撃された候補に対する感情温度の変化とネガティブ広告視聴前の支持候補に対する相対的選好)が、各被験者が変化・非変化グループのいずれに属するかをほぼ説明することがわかった。すなわち、感情温度の変化は脳活動と相関を示すのみならず、被験者の支持候補の(不)変化という行動も説明しているのである。これは、ニューロポリティクス実験の結果とあわせ、従来経験主義的に使われてきたこの指標の行動分析における意義を新たに付け加える証拠を提供する。 先に言及したネガティブ・キャンペーン研究における相対立する既存の実証研究の結果は、政治におけるネガティビティをどう捉えるか、についての相対立する規範的見方とも結びついている。今回の実験結果は、ネガティブ広告視聴により与えられた情報を判断する認知的反応が活発化する可能性を示唆する。しかしながら、本論は、ネガティブ広告が感情的反応を引き起こすか、かえって情報の判断を促すかという単純な二分法による議論に甘んじることなく、今回の結果から今後どのように研究を蓄積していけばよいのかという観点から議論を深めている。たとえば、視聴した広告が参加者に直接の政治的意味を持たず、参加者が候補者の政党に党派的に傾倒していなかった点に着目すると、今回の結果はネガティブ情報の処理が党派性によって異なる可能性を示す結果とも解釈できる。この点でも、今回の実験は既存の政治学研究に対しても新たな分析視角を与えるものと考えられる。 最終章となる第6章においては、ニューロポリティクスの研究対象の主なものについて、現状と今後の方向性の検討を行い、さらにニューロポリティクス研究の今後の展開にとって重要と考えられる関連分野の状況を概観する。脳科学研究をめぐる倫理の問題も概観し、さらに具体的に大学など研究機関における倫理審査委員会のあり方を米国の事例を基に検討している。 以上が、本論文の要旨である。本論文の長所としては、次の諸点を挙げることができる。 何よりも賞賛されるべきなのは、世界的にも類例の少ないニューロポリティクス研究を開拓し、その過程を本論文において紹介した点である。筆者は、設計段階から政治学の知見を十分に生かしたのをはじめ、実験の実施やデータ分析に至る、本実験の全過程において主体的な役割を担い、その成果を分かりやすく説明している。脳科学の方法を政治学に応用することにより、例えば従来は自己申告に頼っていた政治的選好の変化をfMRI信号変化という客観的指標として捉えられるなど、政治学研究の方法に画期的な変化をもたらす可能性を本論文は遺憾なく示したものである。 第二の長所は、この新しい分野の成果が従来の政治学研究の更なる発展にも貢献する可能性を提示したことである。本論文の実験結果は、候補者に対する「感情温度」の変化が実は感情や情動よりも高次の認知機能と関わっている可能性を示唆するなど、本論文は政治心理学の通説が拠って立つ枠組自体を揺るがすほどの潜在性を持っている。 第三に、ニューロポリティクスという新しい分野を開拓するものでありながら、厳格な手続を守った研究姿勢が評価できる。fMRI実験は、特に社会的行動を対象とする場合、厳しい倫理規定の遵守とデータ管理が求められる。そこで本論文の実験は、社会科学・脳科学両分野のシニア・リサーチャーとの共同で行われ、fMRI装置が設置されている機関の倫理審査委員会において承認を得るなど、慎重な手続きが踏まれている。それに加えて、今後ニューロポリティクス研究が発展する時に直面する倫理上の問題について、包括的な議論を展開している点も刮目に値する。同時に、東京大学における医学系以外の分野での実験的研究をも対象とする、全学的な倫理審査委員会設置が喫緊の課題となっているとの指摘には滋味掬すべきものがある。 もっとも本論文にも短所がないわけではない。 第一に、本論文では、対立候補が支持候補を攻撃する形でのネガティブ広告の効果のみが取り上げられているが、ネガティブ広告の効果としては、他にも支持候補が対立候補を攻撃することによる態度補強効果や態度未定の有権者に対する説得効果が存在し、これらの効果についても検証されるべきである。 第二に、ネガティブ広告視聴中の脳活動が認知コントロールを行う前頭前野で見られるという結果を報告し、既存の実験に疑義を呈したことは評価できる。しかしながら、実験で用いられた広告が15年以上前のものであり、若年層の被験者にとって直接的な政治的意味をもたないことや、実験で用いられた広告の中に政策論議に関わるものが含まれていたことにより、こうした結果が得られた可能性も否定できない。今後、さらに実験を重ねて知見を深めることが望まれる。 第三に、本論文は脳科学者以外でも論旨を十分フォローできるような記述が心がけられているものの、実験の過程や解釈など、さらに丁寧な説明がなされていれば、より多くの読者にとって理解が容易になっただろう。 しかしながら、これらは問題点というより、新しく切り開いた学際分野において最初に遭遇する問題として、むしろ次なる研究の発展によって明らかにされるべき課題を示したものであり、長所として述べた本論文の極めて高い価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。 | |
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