学位論文要旨



No 126384
著者(漢字) 佐藤,一郎
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,イチロウ
標題(和) 構成要素のリスク寄与率に着目したポートフォリオの地震リスク処理手法に関する研究
標題(洋)
報告番号 126384
報告番号 甲26384
学位授与日 2010.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7347号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高田,毅士
 東京大学 教授 久保,哲夫
 東京大学 教授 中埜,良昭
 東京大学 准教授 伊山,潤
 東京大学 准教授 本田,利器
内容要旨 要旨を表示する

不確実性の高い現代社会において,「見える化」が企業経営などのあらゆる分野で重要なキーワードになっている。「見える化」とは,問題を可視化して自律的な問題解決に役立てる活動を指すことが多く,製造業の品質向上や効率化といった実務的な領域だけでなく,企業経営や政策全体にも適用しうる概念である。特に十分なリスク管理が要求される銀行や保険会社といった金融機関においては,企業活動に関わるリスクを定量化し,自己資本と照し合せて安全性を判断することが一般的になってきた。

このようなリスクの見える化の重要性の高まりは,企業などの事業体が有する潜在的なリスクが多様化し,かつ複雑化していく傾向と無縁ではない。企業に大きな影響を与える地震リスクについても,新たなリスク処理手法脚注 の登場により,リスク処理の自由度がより高まる一方,手法の高度化・規模の多様化に伴い,その実体リスク量の適切な把握と透明性の高い説明がさらに重要視されることとなった。リスク移転・共有の過程において情報の非対称性は不可避であり,それが故にリスクプレミアムが存在するが,地震リスクは確率論的にリスクを定量化することが可能であり,リスク評価の実施主体者は,規模の大小や複雑さによらず,可能な限り実態を反映したリスク評価を遂行し,透明性の高い説明を行う責務がある。

さて,地震リスクの最大の特質の一つとして,広域同時被災に至らしめるカタストロフ性が挙げられる。すなわち,大規模地震による地震リスクを内在するのは,単一地点の建物や施設単体だけでなく,ある一定の領域に存在する建物や構造物(ポートフォリオ)であるのは自明であり,当事者が,そのポートフォリオに対してリスク処理を検討することは当然といえる。これらのリスク処理の意思決定に際して,ポートフォリオ地震リスク分析が実施される。ポートフォリオ地震リスク分析は,地震活動域モデルの整備や計算機性能の向上を背景に普及し,現在では,地震発生を発生位置や規模によって細分化したマルチイベントモデルによる大規模ポートフォリオの地震リスク分析が広く行われるようになった。ここで,ポートフォリオの地震による損失は,各構成要素の損失の総和となるが,構成要素の損失が確率変数であることから,近似的にポートフォリオの確率分布を推定しポートフォリオ地震リスクが算出されることが多い。

一方,ポートフォリオリスクに影響を与えるリスクファクターの寄与度についてはこれまで強く意識されることがなかったが,近年,信用リスク管理を主とする金融リスク管理の分野で,統合的なマクロのリスクを個別商品に配分するための適切な手法の研究が行われるようになってきた。ポートフォリオの地震リスクについても,ポートフォリオ全体でのリスク管理・リスク処理だけでなく,それぞれ個別のファクター(各構成要素:地域的に分散された各資産やその属性,地震の震源など)の寄与に応じた合理的かつ透明性の高いリスク管理・リスク処理が今後重要になると考えられるが,本課題に着目した研究は非常に少ない。

以上を背景として,本研究では,3つの具体的な課題設定を行い,それぞれに対して以下の成果を得た。いずれも地震リスク評価におけるインプット(入力項目)とアウトプット(リスク指標)の関係に着目した課題設定となっている。なお,「第1章:序論」では,研究の背景と,各章それぞれの研究テーマの相対的な位置づけを説明している。また,「第5章:結」では,研究全体の成果と課題をまとめている。

第2章:モンテカルロ応答解析に基づく建物フラジリティの一般化

実際的な地震リスクマネジメントで用いられるフラジリティの要件を以下とし,

○現実的に利用可能なパラメータに基づくこと(実用性)

○入力と結果の関係が明確であること(説明性)

○観測された被害率を説明できること(妥当性)

第1・2項に資するフラジリティ構築手法を提案した。これは,実際の被害を説明する妥当性の高いフラジリティの構築は引き続きの課題としつつ,現実的なリスクマネジメントへの展開を念頭に置き,現状で分かっている情報・理論等に基づく説明性と実用性を兼ね備えたフラジリティ構築手法が必要である,という実務的な問題意識によるものである。得られた成果と課題は以下のとおりである。

(成果)

○現実的に利用可能なパラメータに基づくこと(実用性)

・階数,Is値,設計年代,構造種別といった基本的な建物属性から任意の被害状態に対応するフラジリティ曲線の算出が可能となった。

○入力と結果の関係が明確であること(説明性)

・モンテカルロ応答解析結果の回帰式により,各属性値とフラジリティパラメータ(速度耐力中央値)との関係が明確化された。

・回帰式により,あるパラメータの変動が耐力中央値に与える影響の把握も容易となった。このことは,実被害や既往評価結果とのキャリブレーションも容易となり,リスク評価結果の相対的な変動に対する説明性の向上に寄与すると考えられる。

(課題)

○現実的に利用可能なパラメータに基づくこと(実用性)

・ピロティや偏心などフラジリティに影響するその他の属性の反映

○観測された被害率を説明できること(妥当性)

・本提案手法で得られたフラジリティパラメータ推測式は,モデル化や入力の条件設定下で得られた結果に基づくものであり,汎用的に利用されるために条件設定の妥当性と,結果の再現性について更なる検証が必要である。

・特に,表層地盤増幅や相互作用による減衰効果の取扱,余剰耐力の評価,Is値と実耐力の関係,といった評価項目は,フラジリティ関数の評価精度に影響を与えると考えられ,精度向上は,今後の課題である。

第3章:ベーシスリスクに着目した地震リスクデリバティブの設計手法の提案

ポートフォリオリスクの処理手法として,マグニチュードや発生位置といった客観的な指標を損失補填の発動条件(トリガー)とする,異常災害債券を代表とする地震リスクデリバティブの合理的な条件設定手法を提案した。

リスク移転先を引受能力が潤沢な市場(投資家)に求める地震リスクデリバティブは,客観性の高い支払トリガー条件を採用する必要があり,実損填補である保険であれば生じ得ないベーシスリスク(実際の損害と補填との差)をその購入者は負うことになるが,本提案手法により,伝統的な支払条件設定(一つの長方形グリッド)よりも,ベーシスリスクの総量(+)を縮減することが可能となった。

すなわち,本提案手法により,地震リスクデリバティブのメリットを保持しつつ,地震リスクデリバティブのデメリットであるベーシスリスクの縮減化を達成し,より保険機能の代替性を向上することが可能となる。

地震動観測記録を用いたトリガー設定方法など,ベーシスリスクのさらなる低減を目的とした手法構築は今後の課題となる。

第4章:地震損失の空間相関を考慮したポートフォリオ地震リスク設計規範式の提案

ある特定の地震によるポートフォリオ損失が各拠点の損失の確率変数(相関をもつ非正規変数)の線形和で表されることに着目し,相関を考慮した一次信頼性解析手法(FORM)を用いて,ある信頼性指標(超過確率)に対応するポートフォリオ損失と,その損失に対する各拠点の最尤点(設計点)の関係を陽にすることを試みた。さらに,荷重耐力係数設計法の分離係数・荷重係数の概念を導入し,地震による各拠点の損失平均値と拠点係数(荷重耐力係数設計法の荷重係数に相当)によりFORMを用いずに最尤点(設計点)を算出する設計規範式を提案した。

同規範式の活用試算例として,保険料の各拠点への按分比の算出例を取り上げ,支払区間に含まれるポートフォリオ損失を生じさせる各拠点の損失組合せの最尤点を提案手法により設計点として算出し,支払区間を条件とする年支払期待値の内訳(各拠点の寄与率)と,支払区間を限定しない全区間の年損失期待値の内訳(各拠点の寄与率)とを比較した結果,差があることが分かった。すなわち,実態リスクに応じて保険料を配分する必要がある場合には,ポートフォリオ損失に対応する各拠点の設計点(最尤点)に基づいた支払期待値の各拠点別の寄与率に基づく必要があることが分った。

提案した設計規範式は,特定イベントに対する各拠点の損失平均・ばらつき,資産ウェイト・相関で記述されることから,地震以外の自然災害にも応用可能と考えられる。より汎用的に適用するには,損失率に異なる確率分布を設定した場合の設計式の導出とその適用限界の検証が今後の課題となる。

以上の各章の成果をポートフォリオの地震リスクマネジメントに活用することにより,保険等の商品購入者や投資家,保険会社といったステークホルダーが,ポートフォリオ地震リスクに特有な複雑性(震源と個別要素などの組合せが多岐に亘ることに起因)に影響されること無く,合理的なリスク対応が可能になると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

将来の不確定で未知の事象に対する備えの方法として、リスクマネジメントは多くの分野において重要な技術と認識されるようになってきた。リスクマネジメントはリスクの特定、評価、対処から構成される一連のプロセスであり、不確定な現代社会において「見える化」あるいは定量化されたリスクを対象に合理的にリスクを軽減あるいは移転する、新しい技術と認識されている。しかしながら、建築分野においては不確定性が大きく社会に与える損失が多大な地震リスクについては、リスク評価、リスク移転に関する検討が最近始められたばかりである。

このような背景のもと、本論文は、地震に対する複数の建物群(ここでは複数の構成要素あるいはポートフォリオと称する)のリスク評価並びにリスク処理方法のひとつとして期待される地震リスクデリバティブ、およびポートフォリオを構成する要素毎の損失の設計方法について新しい提案内容を含んだものである。本論文は本文5章から構成されている。

第1章は序論であり、一般的なリスクマネジメントの意義、リスクの定義などを述べ、リスクマネジメントにおけるリスク評価、移転等のリスクマネジメントを構成する重要なプロセスについて説明している。次に、地震リスクマネジメントの現状と課題を広範に調査している。地震リスクマネジメントにおいては、依然、多くの課題があることが指摘している。リスク評価手法に関わる課題としては、手法の妥当性、説明性ならびに実用性について更なる検討が必要であることを指摘し、それらの課題を本論文の次に続く各章で論じている。すなわち、第2章ではリスク評価の新しい手法を提案し、第3章では、リスク移転方法については、その方法の仕組み、有効性の検証、等々についてはこれからの重要な検討課題であるとして検討している。また、手法の実用展開という観点においてもいろいろな改良の余地があり、これについては第4章で扱われている。以下、各章の審査結果の概要をまとめる。

第2章は、地震に対する建築物のリスク評価を行う際に必要となる建築物のフラジリティ評価(損傷度評価、脆弱性評価とも呼ぶ)に関する実際的な提案がなされている。大都市圏に存在する建物ポートフォリオを対象にする場合、建設年代も構造形式も異なる多様な建築物を対象にする必要があり、それに対して、これらの多様な建築物の属性(ここでは階数、Is値、設計年代、構造種別を採用)を適切に反映できるフラジリティ評価方法を提案している。具体的には、これらの属性を変えたモンテカルロ手法による応答解析結果を回帰することにより、一般性が高くかつ実用性のあるフラジリティ評価方法を構築している。属性がこれで尽くされているとは言えない面もあるが、ある程度の範囲の建築物を扱うことができることと、提案手法そのものは容易に精度の向上を図ることが可能であり、一般性の高い方法となっていることも特長である。

第3章は、建物ポートフォリオの地震リスク移転の一方法として異常災害債券(Catastrophic Bond)の成立条件について検討したもので、地震工学の分野では数少ない内容の研究である。リスク移転手法としては地震保険が一般的であるが、損失に対する支払いの即時性と客観性の点では、異常災害債券を代表とする地震リスクデリバティブの方法が優位性が高いことはよく知られている。ここでは、従来の方法に比べてベーシスリスク(実際の損害と補填との差)を縮減化可能な新しいトリガー条件を提案している。具体的には関東地方に位置する建物ポートフォリオを対象に検討を行い、本提案手法により、伝統的な支払条件設定(一つの長方形グリッド)よりも,ベーシスリスクの総量を縮減することが可能な条件設定手法を提案している。

第4章では、空間的に分散する建物ポートフォリオの地震時損失に対してリスクの適切な配分方法について新しい実用的な方法を提案している。建物ポートフォリオを対象とする場合には将来の地震に対して地震損失の空間相関が存在するため、ポートフォリオの空間配置によって地震リスク評価結果が変わってくる。そこで、最も発生しやすい空間的な損失分布を一次信頼性解析手法により決定することができ、これに基づいて各拠点に固有のリスク規範式を確立することができることを提案している。提案した設計規範式は、特定イベントに対する各拠点の損失平均・ばらつき、資産ウェイト、相関で記述されることから、地震以外の自然災害にも応用可能と考えられる。

以上、各章で提案された成果は、建物ポートフォリオの地震リスクマネジメント実施のための有効な要素技術であり、保険等の商品購入者や投資家、保険会社といったステークホルダーが、より明確に示されたポートフォリオ地震リスクマネジメント実施の際に、合理的な対応を可能にするものと期待される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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