学位論文要旨



No 126396
著者(漢字) 茂木,克雄
著者(英字)
著者(カナ) モギ,カツオ
標題(和) 細胞機能の環境応用に向けた細胞多段階処理デバイスの開発
標題(洋)
報告番号 126396
報告番号 甲26396
学位授与日 2010.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7359号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,輝夫
 東京大学 准教授 新野,俊樹
 東京大学 准教授 日暮,栄治
 東京大学 教授 酒井,康行
 東京大学 准教授 火原,彰秀
内容要旨 要旨を表示する

本研究では、植物や微細藻類等の細胞の持つ有用機能の環境分野への応用を支える研究基盤に組み込むことのできる、多段階の試薬処理を行うためのマイクロ流体デバイスの開発を行った。

現在、緑地の砂漠化やエネルギー資不足等の環境問題の深刻化に伴い各分野から様々な対策がなされてきている。その中でも生物の細胞の特異的な機能を利用することに期待が注がれている。これは、特定の植物の持つ乾燥耐性、低温耐性、塩耐性等の様々な有用機能の組み合わせを行ったり、別の種に組み込ませることで、環境順応性を高める事を狙ったものであり、果として地球規模で起こる環境変動により発生する緑地減少や砂漠化、それに伴うCO2増加や食糧危機に対する打開策となりうる。また、現在バイオエネルギーの生産資源としてオイル生産を行う微細藻類が注目を集めており、オイル生産を行う細胞内の機能の解明とその利用に関する研究が盛んに行われている。

しかし、環境分野への機能応用が期待される植物や微細藻類等の細胞は、細胞壁を有するため細胞内へのアプローチが困難であり、機能を利用する上で必要となる細胞機能解明のための基礎研究のハードルが非常に高くなっている。細胞内へのアプローチが困難であるということは細胞機能の各種評価を行うための試薬処理における効率が低くなることを意味する。また、環境応用へつながる様な生物は現在も世界中で探索されており、特異環境でサンプリングさるほとんどの種は培養方法が確立されていない。そのため、従来の試験管ベースで行われる試薬評価に必要な大量の細胞サンプルを準備するための負荷が大きくなってしまう。また、細胞に対する多段階の試薬処理は従来の煩雑な処理行程におけるヒューマンエラーも考慮しなければならないため、高効率で試薬反応を行えるとともに煩雑な処理工程の改良が望まれている。

一方で工学の研究は産業貢献のための技術のみならず様々な分野の課題を解決する工学的技術を生みだし続けており、特に生化学分野に浸透してきているマイクロ流体デバイスを用いたマイクロ流体操作の技術は90年代初頭から急速に発展してきている。マイクロ流体デバイスの主な特徴は、数マイクロから数百マイクロメートル径の微細な流路に試薬を流し込むことで、マイクロ流体の特性を活かし試薬反応の高効率化、有毒試薬の危険性低減、外気からの隔離による低コンタミネーション等を狙ったものである。

本研究では、このマイクロ流体デバイスの技術を利用して、環境応用が期待される植物や微細藻類の様な細胞壁を有する細胞への試薬反応を高効率化し、煩雑な処理工程の一元化を狙った。本研究で新たに考案した副尺構造を用いた機構を組み込んだマイクロ流体デバイス:細胞多段階処理デバイスは、従来の多段階で行われる細胞への試薬処理をマイクロ流路内で効率的に行うことを可能にした。細胞多段階処理デバイスに送液された懸濁液中の細胞は少量がサンプリングされ、流路内の副尺構造によりサイズごとに分けて固定される。流路内の副尺構造による細胞固定領域にはバイパスエリアが並行して設置されており、大部分の懸濁液がバイパスエリアを流れて流路の出口に向かうため、本デバイスは従来の細胞固定機構を持つマイクロ流体デバイスと異なり目詰まりを起こすことがない。また、本細胞多段階処理デバイスは懸濁液と溶液の送液コントロールのみで細胞の固定から試薬反応、取り出しまでを行うことができる有用性の高い設計機構となっている。

本研究では、考案したデバイスの流路機構を実現させるために、細胞固定用の副尺構造の形状を変化させない硬質材料としSCR 1016とStycast 1266を新たに取り上げてマイクロ流体デバイスとしての特性の評価を行った。取り上げた2つの材料に対し、流路内観察が行えるかを判断するための光学的観点と扱う生物に対する毒性の観点から評価を行い、マイクロ流体デバイスの材料として広く利用されてきたSilpot 184と比較することで、利用可能性を確認した。

製作した細胞多段階処理デバイスはSilpot 184とSCR 1016または、Stycast 1266とを組み合わせた多層構造のデバイスとなっており、デバイスの細胞固定機構と細胞取り出し機構に関して人工粒子の固定と取り出しを行うことで機能評価を行った。結果として、数マイクロから数十マイクロメートルの粒子を分離してそれぞれ所望の副尺構造で固定することに成功した。またそれぞれのサイズごとに固定された粒子を取り出すことにも成功した。

続いて行った細胞を用いた評価では、植物や微細藻類と同様に細胞壁を有する酵母を用いた。酵母細胞に対する遺伝子導入処理を多段階試薬処理のモデルケースとしてデバイスに実装し、従来の操作との違いを比較検討した。その結果として従来の試験管ベースでの実験操作で求められていた煩雑な処理行程の削減、処理の一元化と、高い効率性とそれに伴う使用サンプル、評価試薬の少量化を可能とした。

煩雑な処理行程の削減については、考案した本デバイスの副尺機構により、懸濁液中の不要物や細胞をサイズごとに分離してそれぞれ固定できるためフィルタリング等の前処理行程を必要とせずに培養液を直接デバイスに送液することが可能となった。また、細胞を固定する機構を持つマイクロ流体デバイスでは従来、流路の目詰まりに注意しなければならなかった。本デバイスには大量の細胞を扱う場合でも流路目詰まりを起こさないようにするために、流路内にサンプリングしない過剰粒子を出口ポートへ送るためのバイパスエリアを設けている。そのため、流路目詰まりを回避するための懸濁液中細胞の濃度調整行程も必要としない。処理の一元化については、従来行われてきた細胞に対する多段階の試薬処理において必要となる遠心処理などの段階的な操作行程が、本デバイスでは懸濁液や試薬溶液の送液切り替えのみで行えてしまう。これにより、従来の煩雑な処理工程で必要とされた所要時間や必要機材が不要となり、ヒューマンエラーへの注意が軽減される。特に所要時間に関しては、従来の遺伝子導入処理実験が3時間15分程かかったのに対し、約10分の1の20分で完了している。

高い効率性とそれに伴う使用サンプル、評価試薬の少量化については、酵母と酢酸リチウムの反応実験において従来の反応所要時間が1時間であった処理に対し、本デバイスを用いることにより数分で処理が完了することが示された。これは、流路内に固定した細胞に対し常に新しい試薬を送液することで、細胞の表面に接する試薬の濃度を常に一定に保つことが出来るためである。また、細胞と試薬の反応傾向を蛍光等により経時的に観察し続けることができることも本デバイスの特徴であり、これにより試薬反応の進行を連続的に把握し試薬反応が完了する時間を正確に確認することができる。酵母の遺伝子導入実験の結果、本デバイスを用いたときの遺伝子導入の成功率は使用した細胞数に対する遺伝子導入成功株数で表した場合、従来の方法の580倍となり、必要となる細胞サンプルと反応試薬の少量化に成功した。

以上の成果は、製作した細胞多段階処理デバイスに酵母への遺伝子導入処理を実装して得られたものであるが、環境応用に向けた植物細胞や微細藻類も酵母と同様の多糖類ベースの細胞壁を有する共通点から副尺構造によるフィジカルな固定方法が有効であると考えられる。また、細胞サイズについてはそれぞれの種によって異なるが、オイル生産を行うことで注目を集めているボトリオコッカス等の微細藻類は酵母とほぼ同サイズであるため、適用時に酵母と同様の扱いが可能であると推測できる。製作した細胞多段階処理デバイスは今後、環境応用に向けた植物や微細藻類に対する遺伝子操作や流路内培養、試薬耐性評価とその観察などの多岐にわたる応用が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、細胞機能の環境関連分野への応用を想定して、植物や微細藻類などの機能解明ならびに機能改変を行うための多段階処理を行うマイクロ流体デバイスを実現しようとするものである。環境中での機能応用が期待される植物や微細藻類等については、培養が難しく大量のサンプルを準備することができない種の存在や、特に細胞壁の存在によって、遺伝子導入処理が煩雑で効率が低いことが知られており、これらのことが遺伝子工学的なアプローチによって機能解明ならびに機能改変を行う際のボトルネックとなっている。これに対し、本論文では、マイクロ流体デバイスを用いる実験系を用いれば、遺伝子導入に必要な一連の処理について、工程数の削減、処理効率の向上、人為的ミスの低減等が見込めることに着目し、細胞に対する多段階処理を行うマイクロ流体デバイスを新たに提案するとともに、酵母を対象として、その具体的な性能の評価を行っている。

具体的なデバイスの機能としては、前処理を必要とせずに狙ったサイズの細胞のみをデバイス内部に捕捉し、捕捉した細胞に対して試薬処理を行い、処理後の細胞を取り出すことが想定され、独自に考案した「副尺構造」を用いることによって、細胞懸濁液中からサイズに応じて細胞を捕捉できる。副尺構造を実現するためには、デバイス製作時に上下2つのパーツを精密にアライメントする必要が生じるが、そのために新たに提案するアライメント法と合わせて、従来のマイクロ流体デバイスとは異なる全く新しいデバイス構造を実現するに至っている。

デバイス機能の検証を行うために、蛍光粒子を用いたサイズ毎の粒子捕捉ならびに取り出し機能の評価を行うとともに、細胞壁を有するモデル細胞として酵母を用いた遺伝子導入実験を行い、従来の実験方法と比較して10分の1の時間で一連の処理が実行可能であり、また遺伝子導入効率も数百倍改善されることを示している。これにより、本デバイスを用いれば、培養が困難な希少種や成長速度の遅い種など、大量のサンプルを用意することが難しい対象であっても遺伝子導入操作を行いうることが示唆される。

本論文の第1章では、研究の背景と目的、ならびに論文の構成について述べており、細胞機能の環境応用に関する事例を概観したのちに、当該分野をターゲットとしてマイクロ流体デバイス技術を応用する意義を述べている。

第2章では、提案するマイクロ流体デバイスの概念ならびに構造について、要求される機能を整理した後に、具体的なデバイスのデザインを示している。副尺構造による細胞固定機構の構造とその動作原理を提案するとともに、固定された細胞を取り出す機構と、そのための流体操作方法について述べている。

第3章では、デバイス材料について、特に酵母に対する毒性に着目した検討を行った上で、製作方法と手順について述べている。製作にあたっては、アライメント構造を導入することによって、1ミクロン以下の精度で流路のアライメントが行えることを示している。これによって、細胞捕捉をサイズ毎に行うための副尺構造を正確に製作することが可能となる。

第4章では、蛍光微粒子を用いて実際にデバイス内部で流体操作を行い、直径5ミクロンの解像度で粒子をサイズ毎に捕捉できることを示すとともに、必要なサイズの粒子のみを取り出す操作が可能であることを確認している。

第5章では、細胞壁を有する代表的な細胞として酵母を取り上げ、実際にデバイス内部に捕捉した酵母について、トリプトファンをセレクションマーカーとし、蛍光タンパク質の遺伝子が挿入されたプラスミドを酢酸リチウム法によって導入する処理を試みている。試薬による処理時間等について最適化を行った後の条件であれば、30μL(マイクロリットル)の培養液について、7株ほどの遺伝子導入が可能であり、なおかつ全体の処理時間は20分足らずで十分であることを示している。

第6章においては、本論文で提案したマイクロ流体デバイスについて、試薬反応の効率や操作性、汎用性等について考察した後、第7章において結論と今後の展開について述べている。

以上のように、本論文は、酵母に代表されるような細胞壁を有する細胞への遺伝子導入に必要な多段階処理を一元的に行うことができるマイクロ流体デバイスを提案し、実際に遺伝子導入を行う実験を通して、その有用性を実証したものである。本論文で創出された新しい概念のデバイスは、酵母だけでなく、植物細胞や微細藻類など広い範囲の細胞を対象として、高効率に遺伝子導入処理を行う上で、大変有用なデバイスであり、これらの対象に関する生物学的な理解に貢献するのみならず、近い将来、特に二酸化炭素固定や有用物質生産、沙漠化防止等の環境関連分野における細胞機能応用を進める際の技術的基盤を与えるものであり、工学に資するところがきわめて大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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