学位論文要旨



No 126404
著者(漢字) 俵,有央
著者(英字)
著者(カナ) タワラ,アリヒロ
標題(和) 室温溶液中電極間分子架橋系における電子輸送特性に関する理論的研究
標題(洋)
報告番号 126404
報告番号 甲26404
学位授与日 2010.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7367号
研究科 工学系研究科
専攻 マテリアル工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邉,聡
 東京大学 教授 山口,周
 東京大学 教授 近藤,高志
 東京大学 講師 長汐,晃輔
 東京大学 教授 丸山,茂夫
 東京大学 教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

1 緒言

近年、ナノ構造デバイスとして単一分子接合を応用する可能性を探索するために、2電極間に架橋された単一分子の電子輸送特性が実験と理論両面から盛んに研究されている。特に金電極間ベンゼンジチオール(BDT)分子は、その単純な構造から単一分子のコンダクタンスに関する実験および理論研究においてベンチマークとして使われてきた。

実験では、試行毎に接合構造の違いのためにコンダクタンス測定値が変動してしまうので、多数の観測データからヒストグラムを作成してコンダクタンス値を見積もる。また、実験測定の多くは室温溶液中で行われている。これに対して、従来の理論計算では絶対零度かつ真空中を想定していた。室温におけるBDT架橋分子の構造揺らぎや、極性架橋分子に対する水分子による影響等、実験測定環境を考慮した理論解析が最近報告されているものの、非極性かつ疎水性の単純分子であるBDT分子架橋系に対してすら、有限温度における溶媒効果は未だ理解されていない。また、有限温度における架橋分子構造の揺らぎと溶媒分子の存在を同時に考慮し、かつ構造配置と電気伝導に対して第一原理計算で解析した例は皆無であった。

そこで本研究では、Car-Parrinello第一原理分子動力学計算と密度汎関数法に基づく非平衡グリーン関数法とを併用し、室温溶液中単一分子架橋系における構造と電流特性の動的相関を解明し、来るべき単一分子デバイス構築に向けての設計指針を導出することを目的とする。

2 研究方法

本研究では、有限温度での分子構造、電極間分子配置、および分子を取り巻く溶媒分子の配置の揺らぎをCar-Parrinello第一原理分子動力学計算[1]により計算した。この計算にはCPMD [2]というソフトウェアを用いた。また電流値と構造変化の動的相関を検討するために、CPMDによって得られた各ステップにおける構造に対し、密度汎関数理論と非平衡グリーン関数法に基づく第一原理計算[7]を用いて電流値を見積もった。この計算にはATK(Atomistix ToolKit) [8]というソフトウェアを用いた。

本研究では、金(100)表面電極間に単分子を架橋させ、架橋分子周囲に溶媒として水分子を配置させた系を対象とした。また、溶媒分子の影響を明らかにするために、溶媒分子の存在しない真空中の系との比較検討も行った。分子としては、ベンゼンジチオール(BDT)分子およびBDT分子の水素原子1つを水酸基に置換したフェノールジチオール(PDT)を取り上げ、分子の親水性の度合いの違いが及ぼす影響に焦点を当てて比較検討した。

計算の流れは以下の通りである。

I.第一原理分子動力学計算を用いて、溶液中または真空中の系における各時間ステップの構造配置を決定する。この際の温度は300Kに設定した。

II.Iで得られた各時間ステップの構造配置に対して、非平衡グリーン関数法に基づく第一原理計算により零バイアス極限のコンダクタンス値を計算する。

III.IIで得られた各時間ステップのコンダクタンス値からコンダクタンスヒストグラムを作成する。

3 結果・考察

まず、BDT分子架橋系について、BDT分子を固定して計算した。図1は、水溶液中の系における酸素原子のz座標とコンダクタンスの2.5 psの時間変化である。ここでz方向は電極表面に垂直な方向である。この図から、電極間の水分子が層間距離約2.5 Aの3層を形成しており、コンダクタンスが揺らぎながら時間推移していることがわかる。

このコンダクタンス値を用いて作成したコンダクタンスヒストグラムを図2に示す。このヒストグラムをガウス関数でフィッティングした結果、水溶液中におけるBDT分子のコンダクタンスのピーク値は0.188 G0(標準偏差は±0.013 G0)であった。これは真空中におけるコンダクタンス値0.201 G0に比べて0.013 G0 小さい。水分子の有無による有効ポテンシャルおよび電荷分布の変化を検討した結果、このコンダクタンス変化が水分子との静電的相互作用に起因することを明らかにした。

次に、BDT架橋分子の構造の時間変化も考慮した計算を行った。溶液中と真空中のコンダクタンスヒストグラム(図3)を比較した結果、溶媒の有無による明らかな違いがみられた。すなわち、ヒストグラムを複数のガウス関数でフィッティングした結果から、溶液中では2つのピーク、真空中では少なくとも3つのピークが存在し、また副次的なピークの位置が溶媒の有無で大きく異なることが明らかとなった。さらに、コンダクタンスヒストグラムにおけるメインピークについて見てみると、溶液中ではコンダクタンスの揺らぎ幅が小さくなることも明らかとなった。このことから、有限温度下での水分子溶媒は明らかに単一分子の伝導特性に影響を与えるといえる。

さらに、コンダクタンスへの溶媒効果をより深く理解するために、原子間距離とコンダクタンスとの相関関係を調べた(図4)。その結果、溶液中と真空中のいずれにおいても、Au-S結合長とC-C間距離はコンダクタンスとほとんど相関を持たないのに対し、C-S結合長とコンダクタンスとの間には明瞭な負の相関があることを見出した。C-S結合長の時間変化とコンダクタンスの時間変化それぞれに対してフーリエ変換を施したところ、両者フーリエ成分の対応が大変良かったことからも、C-S結合長とコンダクタンスが強く相関していることが裏付けられた。

このC-S結合長とコンダクタンスとの間の明瞭な負の相関の理由を明らかにするために、フェルミ準位における局所状態密度(LDOS)を調べたところ(図5)、C-S結合ではLDOSの値がAu-S結合やC-C間よりも大きく、かつ、C-S結合長が短くなるにつれてLDOSの値は大きくなっていくことがわかった。従って、フェルミ準位付近の電子状態はC-S結合長に敏感であると考えられ、このためにコンダクタンスがC-S結合長の影響を受けやすいといえる。さらに、フェルミ準位より約1.3 eV低いエネルギーにBDT分子由来の軌道が存在し、この軌道はC-S部分に振幅が大きく、かつ、C-S結合に関し反結合性の性格を持っていることを見出した。C-S結合が短くなれば、その軌道は不安定化しフェルミ準位に近い位置に移動するため、その軌道を介した電気伝導が促進される。これが、C-S結合長とコンダクタンスとの間に存在する負の相関の原因である。

金電極間フェノールジチオール(PDT)分子架橋系については、PDT分子架橋系のコンダクタンスヒストグラムが主ピークと副次的なピークの2つに分解できる点はBDT分子架橋系の場合と同じであるが、BDT分子架橋系の場合と比べて、一方のピーク位置は高コンダクタンス側に、他方は低コンダクタンス側にシフトしており、またコンダクタンス揺らぎが大きくなっているというコンダクタンスヒストグラムの形状の明らかな違いが見られた。また、原子間距離とコンダクタンスとの相関関係については、BDT分子架橋系の場合と同様に、Au-S結合長とC-C間距離はコンダクタンスとほとんど相関を持たないのに対し、C-S結合長とコンダクタンスとの間には明瞭な負の相関があることを見出した。今後さらなる解析や考察が必要ではあるが、架橋分子の疎水性・親水性の違いによる変化を示唆する結果が得られた。

4 総括

本研究では、室温溶液中における電極間架橋分子のコンダクタンスに及ぼす溶媒効果を明らかにすべく、第一原理非平衡グリーン関数法とCar-Parrinello第一原理分子動力学法とを組み合わせて作成したコンダクタンスヒスグラムに基づいて解析を行った。金電極間BDT(ベンゼンジチオール)分子架橋系に対する解析では、まず水分子が及ぼす静電的相互作用の効果によってコンダクタンスヒストグラムのピーク値が真空中の値0.201 G0に比べて0.013 G0小さくなることを明らかにした。次に、コンダクタンスヒストグラムが複数のピークに分解でき、水分子の存在によって新たなサブピークの出現または消滅が生じること、コンダクタンスの揺らぎ幅が小さくなることを明らかにした。さらに、コンダクタンスがBDT分子接合のC-S結合長と明確な負の相関をもつことを明らかにした。この負の相関については、フェルミ準位における局所状態密度とフェルミ準位近傍に位置する軌道の性格とから理解できることを明らかにした。

次に、金電極間にBDT分子の水素原子を水酸基に置換したPDT(フェノールジチオール)分子を架橋させた系に対して同様の解析を行った結果から、コンダクタンスヒストグラムの形状がBDT分子の場合とは明らかに異なるが、BDT分子架橋系の場合と同様に、Au-S結合長とC-C間距離はコンダクタンスとほとんど相関を持たないのに対し、C-S結合長とコンダクタンスとの間には明瞭な負の相関があることを見出した。

以上のように、本研究では室温溶液中における電極間分子架橋系において溶媒分子がコンダクタンスおよび架橋分子の構造揺らぎに与える影響と、架橋分子の分子種によるその変化を明らかにした。これらの知見は、今後、電極間分子架橋系の電気伝導特性に関する研究を進めていく上で有用なものと期待される。

[1]R. Car and M. Parrinello, Phys. Rev. Lett. 55, 2471 (1985).[2]CPMD, Copyright IBM Corp 1990-2006, Copyright MPI fur Festkorperforschung Stuttgart 1997-2001. (http://www.cpmd.org/)[3]M. Brandbyge, J.-L. Mozos, P. Ordejon, J. Taylor and K. Stokbro, Phys. Rev. B 65, 165401 (2002).[4]ATK Version 2.0, Atomistix A/S (http://www.quantumwise.com/)

図1:水溶液中のBDT分子架橋系における酸素原子のz座標(左縦軸、細線)とコンダクタンス値(右縦軸、黒点)の時間変化。z軸は金(100)表面に垂直な方向で、z=0, 9.8 Aは金(100)表面の最表面原子位置に一致する。直線は真空中の系におけるBDT架橋分子のコンダクタンス値を示す。

図2:水溶液中の系におけるBDT架橋分子のコンダクタンスヒストグラム(灰色)とそれをガウス関数でフィッティングした曲線(黒線)。BDT分子位置を固定した計算で得られたもの。

図3: (a)水溶液中および(b)真空中のBDT架橋分子のコンダクタンスヒストグラム並びにフィッティングした複数のガウス関数曲線(黒線)とその和(灰色)。BDT分子の構造の時間変化を許した計算で得られたもの。

図4: BDT分子架橋系における(a)水溶液中および(b)真空中のC-S結合長とコンダクタンスとの相関。図中直線は線形回帰によって得られた直線であり、水溶液中と真空中の相関係数はそれぞれ、-0.748と-0.848である。

図5:真空中BDT分子架橋系におけるフェルミレベルの局所状態密度

審査要旨 要旨を表示する

近年、ナノ構造デバイスとして単一分子接合を応用する可能性を探索する一環として、2電極間に架橋された単一分子の電子輸送特性が実験と理論両面から盛んに研究されている。しかしながら、ベンチマーク系として広く研究されている金電極間ベンゼンジチオール(BDT)分子についてさえ、研究グループ間の結果の一致は十分とはいえず、したがってその電子輸送特性の理解も不十分である。特に、実験では多数の観測データからコンダクタンス値のヒストグラムを作成して解析することが多く、測定の多くが室温溶液中で行われているのに対し、従来の理論計算の多くは絶対零度かつ真空中を想定しており、この両者のギャップを埋める研究は少ない。本論文は、有限温度における架橋分子構造の揺らぎと溶媒分子の存在を同時に考慮した第一原理計算により室温溶液中単一分子架橋系における構造と電流特性の動的相関を解明し、単一分子デバイス構築に向けての設計指針を得ようとしたものである。本論文は4章からなる。

第1章は緒言であり、ナノテクノロジー研究の流れの中での単一分子架橋系の研究の意義を簡潔に述べた後、その電子輸送特性に関するこれまでの実験および理論研究を概観している。特に、室温におけるBDT架橋分子の構造揺らぎや、極性架橋分子に対する水分子による影響等、実験測定環境を考慮した理論解析が最近報告されてはいるものの、非極性かつ疎水性の単純分子であるBDT分子架橋系に対してすら、有限温度における溶媒効果が未だ理解されていないことを指摘して、本研究の目的を明確にした。

第2章では、本研究の計算手法であるカー・パリネロ第一原理分子動力学法および非平衡グリーン関数法を述べている。まず両者の基盤となる密度汎関数法の概略を述べた後、密度汎関数法に基づく実際の計算において重要な事項のうち本研究で用いた一般化密度勾配近似および擬ポテンシャルについて説明している。その後、カー・パリネロ第一原理分子動力学法と非平衡グリーン関数法の概略を説明している。

第3章では、計算結果とそれに対する考察を述べている。本研究において溶媒水分子の振舞いが重要であることに鑑み、単分子架橋系の計算に先立ち、まず水のみについて第一原理計算した結果を述べている。交換相関ポテンシャルとして一般化密度勾配近似を用いることで、水分子におけるO-H結合長、HOH結合角、水素結合エネルギー、および室温純水溶液の動径分布関数について実験とよい一致が得られることを示し、本計算の手法の妥当性を確認している。

次に、金電極間BDT分子架橋系について計算した結果を述べている。まずBDT分子を固定した計算の結果において、電極間の水分子が層間距離約2.5Åの3層構造を形成していること、コンダクタンスが揺らぎながら時間推移していることを述べた後、水溶液中におけるBDT分子のコンダクタンスヒストグラムのピーク値が0.188 G0(G0は量子化コンダクタンス)と真空中におけるコンダクタンス値0.201 G0に比べて小さいことを指摘した。そして、この差が水分子によるBDT分子位置での静電ポテンシャル変化に起因することを明らかにした。

次に、BDT架橋分子の構造の時間変化も考慮した計算の結果について、溶液中の場合のコンダクタンスヒストグラムが2個のガウス関数でよく近似できるのに対し、真空中の場合には少なくとも3個のガウス関数を要するという、明らかな形状の差異があることを述べている。また、溶液中ではコンダクタンスの揺らぎ幅が小さくなることを指摘している。さらに、溶液中と真空中のいずれにおいても、Au‐S結合長とC‐C間距離はコンダクタンスとほとんど相関を持たないのに対し、C‐S結合長とコンダクタンスとの間には明瞭な負の相関があることを見出している。そしてこの相関が、フェルミ準位の少し下にあるC‐S結合に関し反結合的な性格の準位の振舞いから理解できることを示した。

最後に、金電極間フェノールジチオール(PDT)分子架橋系について計算した結果を述べている。コンダクタンス揺らぎがBDT分子架橋系より大きいことをはじめとして、コンダクタンスヒストグラムの形状にBDT分子架橋系と大きな違いがあることを見出した。一方、コンダクタンスとC‐S結合長との相関についてはBDT分子架橋系と同様にみられることを指摘している。今後さらなる解析や考察が必要ではあるが、架橋分子種が分子架橋系の電子輸送特性および構造揺らぎに及ぼす影響に関し、新たな知見が得られたといえる。

第4章は総括である。

以上のように、本論文は、単一分子架橋系の電子輸送特性を第一原理計算により解析した。室温溶液中単一分子架橋系における構造と電流特性の動的相関とその分子種による変化を解析し、単分子架橋系に関する測定結果を解析する上で、また単一分子を利用したデバイスを将来設計する上で有用な知見を得た。よって本論文のナノスケール電子物性学、計算マテリアル工学への寄与は大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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